京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その3)

京都大学の中で話題になっている「国際高等教育院」構想について、特にこの構想へ反対する側の議論を批判的に検討することを念頭に、今回は、いわゆる総長メールに添付された参考資料1から参考資料4について、その内容を把握し検討してみようと思う。また、総人・人環有志がこれらの参考資料に対して行ったコメントの内容についても検討したい。

前回は参考資料1と参考資料2の内容を概観し、それらへの反対側のコメントについて検討した。今回は参考資料3および参考資料4の内容を概観し、それらへの反対側のコメントを検討したいと思う。

参考資料3の内容概観

「全学共通教育システム検討小委員会議論のまとめ」と題された参考資料3は、(1)節での要旨に引き続いて、小委員会での意見交換の概要をまとめた(2)節、大学設置基準と教養科目の関係について議論している(3)節、改善案の(4)節からなっている。

 まず小委員会での議論をまとめた(2)節を見てみる。
 ほぼ時系列順に整理されているが、ここでは、全学共通科目についての問題点の指摘に関する部分を箇条書きで拾ってみたい。
 まず第1回会合に関する部分では大きく4つの指摘がある。
 一つ目の指摘は、大学入学時までの履修状況や習得レベルに関するものである。

現在の初等中等教育の学習指導要領は、本学の授業担当教員の学生時代のものとは大きく異なっており、一般的な教養にかかる知識の修得に関して質的にも量的にも大きく変化しているが、この点に対する授業担当教員の配慮が不十分ではないかとの指摘があった。例えば「理科」およびいわゆる「社会科」について、現在の学習指導要領では、科目レベルで必修化されているものは、理科は11科目中2科目、社会は9科目中3〜4科目であり、本学全学共通科目の現在の枠組みを議論した平成5年頃のものと比較しても、質的にも量的にも極めて薄くなっている。これは他の教科・科目についても同様の傾向といえる。さらに18歳人口の減少から学部入学試験の競争が緩和されたこととも相俟って、近年の本学入学者の基礎学力の変化および一般教養修得に関する水準の偏差は大きくなっており、これらは看過できないものとなっている。

 二つ目の指摘は、理系生に対する文系教養科目のレベル、文系生に対する理系教養科目のレベルに関するものである。

約7割の理科系出身学生の中には、特に近年、本学の理系入試科目に特化した受験勉強を高等学校で行なっていたためか、いわゆる人文・社会科学に関する一般的知識・教養が著しく欠如する例が散見され、本学入学者を「高校4年生」とも位置づけた一般教養の修得の必要を説く声も聞かれる。すなわち、この約7割を占める理科系出身学生に対する教養教育としては、現行の「高度一般教育としてのA群科目」の水準が高度に過ぎるとの懸念があり、これらの科目に先立つ基礎的な内容の科目の充実がむしろ喫緊の課題との指摘がある。一方、約3割の文科系出身学生を対象とした理系学術の基礎・教養科目が不十分との指摘は従前からあるものの、その改善がいっこうに果たされないまま現在に至っていることも大きな問題である。

 三つ目の指摘は外国語科目に関するものである。

外国語の問題も深刻で、「卒業単位のための外国語」という極めて消極的な態度で履修する学生がいる一方で、将来のキャリア形成を考えて学外の専門学校等に自費で通って外国語の学習に取り組んでいる学生もいる。昨今本学で進められている「英語による科目」の導入を考慮した場合、(1)全学生に対する英語能力の向上とスキルアップ、(2)熱意ある学生に対する第二(あるいは第三)外国語学習の充実という2本立てで外国語教育の一層の充実を図ることも一つの方向であり、学部ごとのカリキュラム・ポリシーに沿ってこれまでとは異なる視点での議論が必要と考えられる。

 四つ目の指摘は、複数群科目問題と「楽勝科目」との関係である。

複数群科目問題は全学共通教育システム委員会においても既に議論されている通りである。複数群への科目分類は、本来は学際的な学域の科目を複数群に分類するという学術的な意義であった。しかし現実の学生の科目選択行動では、各学部の卒業要件との絡みの中で、既修得の知識で単位を取り易い科目を選択して履修する傾向があり、不適切な事態を生んでいる。現在のA・B・C・D群による科目分類は、20年以上前の旧大学設置基準の分類を踏襲したものであり、この複数群科目の問題を論じる際には、現行の科目群の枠組み自体を抜本的に論じることが合理的との見方もある。またその中で、ポケット・ゼミの位置づけについても再検討することが必要と考えられる。

 第2回会合でも

開講科目数が多すぎて履修に際して学生が迷ってしまうこと、クラス規模に極端な大小の差があること、非常勤講師による代替講義が固定化されていること、専門性が過度に高度な一部科目について教養・共通教育としての意義が不明瞭であること等が指摘された。また全学共通科目の開講に関し、一部の科目部会の審査が十分に機能していないことも指摘された。さらに現在のA群科目については、(B群科目における)科目部会に相当する議論の場がなく、透明な議論の場で、当該学術の特性も考慮しつつ、履修学生を抱える各学部の事情を考慮して個々の科目の開講の適切性等を詳細に審議する体制になっていない

といった問題点が指摘されている。

 第3回会合では、さらに踏み込んで具体的な点に関する問題点が議論されたようだ。

第2回小委員会よりさらに具体的な個々の問題についての意見交換があった。例えば、ある文系学部では、専門分野とは異なる分野について、基礎的・俯瞰的な科目の履修を学生に推奨したいが、現状ではA群科目としてひとくくりの科目群であるために履修指導を行なう上での困難がある。もう少し細かな科目のグループ分けと、専門性の程度・水準についてのラベリングをして欲しいとの要請が出された。また、実施責任部局の科目提供は、「必要に応じて」と規定されているものの、個々の提供科目の必要性に関する検証が十分に行なわれていない。さらに深刻な問題は、いわゆる34人問題に起因する協力部局による提供義務科目の問題で、自部局の得意な分野の科目を提供する傾向が強いため、結果として、開講科目全体で内容の著しい重複が生じる反面、共通・教養科目として当然開講されるべき内容の科目が手薄になるという問題が生じている。教養教育においても共通教育においても、必要な科目は時代とともに変化しており、各学部は全学共通教育システム委員会を通じてその要望を実施責任部局と協力部局に明示すべきであり、それをもとにした開講科目の審査・調整が必要である。

さらに具体的な問題としては、「基礎ゼミナール」の中には専門性が過度に高く、いわゆる学部専門科目相当の内容のものも見受けられることが指摘された。全学共通教育実施責任部局は、10学部に対する共通・教養教育において必要な科目の提供として、内容の高度なゼミナール科目ではなく、各学部のニーズに沿って、もっと基礎的な内容の講義科目の提供に力を注ぐべきではないか。しかしその一方で、人間・環境学研究科では、全共、総人、大学院の三者に係るミッションを全て果たす教員人事を行う必要のため、最善の努力を行なってはいるものの、場合によっては必要な全学共通科目を担当できる教員を直ちに取れない場合もあり、運営において非常に苦労しているという実情も報告された。

また学部の事情に起因する問題として、理系学部の一部で、コース分属あるいは進級時の要件としてB群・C群科目の成績しか考慮しない事例が有り、そのため学生がA群科目を軽視し、結果として安易な単位目的の履修が根強く行なわれているとの指摘があった。またクラス配当時間割が過度にタイトな学部では、この時間割の制約のために、学生の適切なA群科目の選択・履修が損なわれているとの指摘もあった。現状では、クラス配当科目と一般選択科目の重なりの問題は深刻で、時間割の見直しや、A群科目をどの曜時限に開講すべきかを具体的に検証する必要があるとの指摘もあった。

 外国語教育に関しては既に触れていた。 再掲しておく。

外国語教育については、英語部会はリーディング/ライティングを中心とする学術目的の英語教育を重視しているが、学生はオーラル・コミュニケーション等のより実践的能力の向上も求めており、学生の希望と科目提供の間に齟齬があるのではないかとの指摘がある一方、大学は海外旅行に必要な程度の英会話を教える場ではないとの意見も出された。また今や「地球語」ともいわれる英語の能力の向上を第一義とするべきとの意見も出される一方、英語以外の外国語を教養として学ぶことは多文化理解の観点からの意義があるとの指摘もあった。いずれにせよ、この問題は、求められる学士力の観点から各学部が検討する事項であり、学部は外国語教育の在り方を抜本的に再検討すべきである。「卒業単位だけのための外国語履修」といった無意味な履修行動を根絶するための対応は早急に行われるべきものである。

 (3)節は組織論に関することなので、詳細は省略する。次の一節を引用するだけにとどめよう。

現行の大学設置基準の枠内で、自由な発想によって、時代の要請に応える適切な教育課程をデザインすることが重要と考えられる。すなわちどの程度の教養の涵養を要求するのか、卒業要件における外国語は幾つの言語を何単位要求するのか、情報教育はどのような位置づけとするのか、専門教育はどのように展開するのか等、現在の本学入学者の学力水準を考慮した教育課程のデザインを行なうことが必要で、その際にはカリキュラム・ポリシーに則った体系性と順次性を明確にすることが求められている。その上で、各学部のニーズに合った共通・教養教育にかかる科目提供の在り方やその実施を、10学部と全学共通教育実施責任部局および協力部局が対等に議論することが、本学の共通・教養教育の改善に向けた全うな道筋であろう。

 (4)節は改善案だが、まず(1)節の要約にある次の記述から大枠が理解できる。

  • 「複数群科目」という科目分類は廃止し、現在複数群に跨っている科目は何れかの科目群へ適切に振り分ける。
  • 現在の科目群を変更し、新たに次の5群を提案する。

i . 人文・社会科学系科目群(概ね現在のA群のコアとなる部分相当)
ii. 自然・応用科学系科目群(概ね現在のB群相当)
iii. 外国語科目群(概ね現在のC群相当)
iv. 生活・環境科目群(仮称):現代の社会生活と直接関連する学術・技能に係る科目を集めて新たな科目群とする。
v. 拡大科目群(仮称)
:上記の4群にとらわれず、内容・水準共にバラエティーに富んだ科目を集めて新たな科目群とする。 ・ 人文・社会科学に関する群科目(現行ではA群科目)を幾つかの系に分け、個々の開講科目の必要性や適切性を履修学生の属する学部からの委員も交えた委員会等で検討する体制を導入する。必要に応じて生活・環境科目群(仮称)も同様とする。

  • 科目提供に際し、開講科目のレベル(内容の専門性の程度)による分類も導入し、順次性を考慮した体系的なカリキュラム設計による指導が可能となるようにする。この他、種々の教育評価への対応や求められる学士力の養成を考慮しつつ、開講科目の整理やいわゆるキャップ制の導入等の問題について、各学部は共通教育システム委員会等において議論を深め、協力して早急に対応する必要がある。

この改善案の後に付された補足的な説明の中からいくつか拾ってみる。

  • 現在の全学共通教育の実施責任部局および協力部局から(主として、いわゆるデューティー科目として)提供される科目を整理して、上記の意味でのラベリングを行ない、それをもとに各学部が当該学部の教養教育の実施を考える方が現実的と思われる。
  • このような授業科目の整理・分類・ラベリングは、各学部が教養教育を含めた体系的かつ順次性を持った教育課程を構築し、それに沿った学生指導を行ない、また履修する学生に適切な科目選択を行なうための判断基準を明示することがその目的である。従って、すべての科目にラベリングを行うのは当然であるが、上記の3つのラベリングにこだわる必要はない。ただし、ラベリングの目的を無視して安易な議論に基づき形式的な対応をすると、本学の教養教育に一層の問題を生じさせる可能性がある。
  • 注意すべきは、教養教育あるいは教養科目を狭義に捉えることは、本学の目指す「全人教育」の観点からも好ましいとは言えないことである。本学入学者の約7割が高等学校では理科系出身者であり、いわゆる「社会科」の選択性ならびに理系入学試験科目対策のために古典文学、地理・歴史等に関する一般常識・一般教養に欠如が見られる学生が入学していることは事実である。同様に、約3割の文科系出身学生の一部には、理科に関する一般常識・一般教養が大きく欠如している事例も見受けられる。従ってこれらの事実を前提とした一般教養・一般常識に関する授業科目を用意することは必要であり、現実に数学や物理ではそういうケアをしている。一方で、例えば、経済学に関する標準的あるいはやや高度な内容の共通科目が法学部の学生にとっては教養的な役割を果たすこともあるであろうし、生物の先端的な話題の解説が工学部の機械系の学生にとっての教養教育となる場合もある。本学の目指す「全人教育」の基盤となるような教養教育は多様かつ層の厚いものであらねばならず、この視点は本学がこれまで積み重ねてきた教養教育の伝統であると考えられる。
  • しかし繰り返すことになるが、社会人の一般常識とも結び付くような基礎的な内容にかかる幾つかの学域については、「i.初修教養科目」の開講要請が高いことは事実であり、その具体化については早期に調整を図るべきである。ただし、この「i.初修教養科目」の導入の際に、既修得の知識だけでこの初修的科目ばかりを安易に履修し、結果として何らの教養の涵養にもならないような事態は容易に想像されるので、各学部は「i.初修教養科目」の開講に際してはこれまで以上にきめ細かな学生指導あるいは卒業要件の設定が必要である。その際に、求められる学士力の観点から、テーマ性あるいはストーリー性を持つ教養教育を全学共通科目を利用してデザインするという、これまでとは違った方法も考えられる。現在の本学の全学共通教育の根元的な問題点の一つに、全学共通科目という授業科目のマーケットに対し、ややもすれば、学生は卒業要件を容易に満すという観点のみから単位消費行動として科目履修を行なっているという事情が考えられる。どのように科目を整理・ラベリング等を行なっても、適切な履修指導あるいは卒業要件の設定がなければ結果は同じであり、それなしでは「i.初修教養科目」の導入によって学生の資質を一層下げることにもなりかねない。
  • 理系学部では、クラス配当時間割が表面的にはタイトなあまり、理念論としての履修指導が行なわれても、現実に学生が選択できる科目の幅が限られているという事態があり、これも早急な改善が必要である。クラス配当授業は、本来は当該クラスの殆んど全員が履修するという前提で配置されるものである。クラス配当時間割の中で、実習・実験科目のように履修制限の都合から記載されているものは別扱い表示をするなどの工夫を行ない、学生が適切に教養科目の選択ができるような最大限の配慮を行なうべきである。

参考資料4の内容概観

 参考資料4は「平成25年度以降の全学共通科目の科目設計等について(報告)」と題された文書である。報告の概要については、I節から骨子を引用するだけにとどめよう。

(1)「議論のまとめ」に従い、平成25年度からは現行の(A,B,C,D,EXの5つの)科目群を廃止し、新たに「人文・社会科学系科目群」、「自然・応用科学系科目群」、「外国語科目群」、「現代社会適応科目群」、「拡大科目群」の5つの科目群を導入する。
(2)全学共通科目の設計においては、本学入学者が受けた高等学校卒業までの教育の内容・水準、および本学で課す入学試験の教科・科目等を十分勘案すること。特に教養教育に関しては、本学の目指す卓越した知の継承に必要な基礎的(ファンダメンタル)な内容の授業展開に配慮する。
(3)人文・社会科学系科目群の科目設計に際しては、人文科学と社会科学の根幹および基礎(ファンダメンタル)に係る内容の科目の開講に重点をおき、現行のA群科目の7つの系のうち「複合」を除く6つの系(哲学・思想系、歴史・文明系、芸術・言語文化系、行動科学系、地域・文化系、社会科学系)を科目群の下部において系毎に具体的な科目設計の議論を行う。各系の議論では、過去の開講科目の内容や名称に捕われず、上記(2)に従って科目設計の議論を行うこととする。
(4)人文・社会科学系科目群および自然・応用科学系科目群では、基礎的あるいは重要な内容の科目について、過度な細分化を避けて可能な限り大括りの科目名で開講する。
(5)科目設計(特に人文・社会科学系科目群および自然・応用科学系科目群)に際しては、上記(4)の“科目の大括り化”とともに、各科目間の階層性や順次性を明らかにすること。また知の体系性、あるいは科目の階層性・順次性にそぐわない科目については、拡大科目群での開講とする。
(6)現代社会適応科目群および拡大科目群では適切な科目のグルーピングを導入し、各学部の履修指導の便宜に配慮する。具体的には、現代社会適応科目群は情報系科目、健康科学系科目、環境系科目、法・倫理コンプライアンス系科目等に分けて科目設計の議論を行う。同様に拡大科目群については、スポーツ実習科目、少人数教育科目、カルチャー一般科目、キャリア支援科目、国際交流科目、単位互換科目等のグルーピングを導入する。
(7)各学部に対しては、新たな群科目等に対応すべく、関係規程等の改訂などの適切な対応を早急にとることを要請する。その際に、卒業要件における全学共通科目の必要単位数の再検討を行い、必要に応じて、単位数の削減・変更の検討を要請する。
(8)平成25年度からの導入が既に決定している全学共通科目の履修登録コマ数の制限について、その具体的内容および方法を早期に決定すること。

 まずII節の「全学共通科目の設計について」の中で指摘されている点をいくつか拾ってみる。

  • 平成20年度の議論においては「各論」に分類された科目の一部は2回生以上の配当としての若干の順次性が見られたが、平成24年度では殆どの科目が「全学向全回生」対象となり、各科目の履修者数の確保を優先した近年の議論が誤った方向をもたらしたとも考えられる
  • A群科目について、平成25年度以降の科目設計においては、現在開講されている科目の一つ一つを個別に精査し、基礎的(ファンダメンタル)な内容の科目の充実が強く求められる。実際、いわゆる「ゆとり教育」の定着によって大学生の一般教養の水準が過去と比較しても低下していることは一般的に指摘される周知のことであるが、それに加え、高等学校での必履修科目の減少、また入学試験における教科・科目の選択の増加から、本学入学者の一般教養の知識水準は大きく多様化している。ゆとり教育によって大学入学以前の学習量が減少したことを考慮すれば、大学での授業を通した基本事項の理解の徹底の必要性は過去と比べても増加しており、いわゆる「基礎論」的科目の提供増加が強く望まれる
  • しかしここで注意すべきことは、人文・社会科学の学術は厳格な知識の積み上げを要する数学や物理学等とは異なり、学習段階における積み上げ的な知識の必要性は明確ではない。すなわち基礎的(ファンダメンタル)な内容の理解の徹底のために「基礎論」を経て「各論」に至るという科目構成を形式的に厳守する必然性は数学や物理等よりも低く、授業展開の方法によっては「各論」の理解を通して「基礎論」的事項の理解に至る場合もしばしば見られることである。また社会科学に関する学術の多くは、高等学校レベルでの学習は過去も現在も極めて少なく、大学入学後に初めて接する学生も多い。従って人文・社会科学系科目群の科目設計の際に、「基礎論」「各論」の位置づけをすべての科目について一律に要求することが合理的とは考えにくい。さらに履修学生の教養の涵養に繋がる優れた講義は、当該講義の教員の教育的熱意に負うところも多く、形式的な科目分類を外的に過度に強制した場合、熱意ある個性的な授業展開を損なう可能性も危惧される。
  • 4年一貫の学士課程教育によって各学部が目指す人材像に向けた履修指導を行おうとする場合、現在のような極めて多様なA群科目の開講の中では、きめ細かな履修指導を行うことは殆ど不可能である。このため、学部は卒業要件としてのA群科目の単位数を指定するに留まり、結果として、多くの学生は卒業要件のためだけのA群科目履修という行動に至り、卓越した知の継承にとって必要な教養の涵養を各科目の履修を通して目指すという理想からはほど遠い実情となっている。さらに現在の全学共通科目は、開講科目をA群、B群、C群、D群の何れかに分類するため、教養教育の観点からも、あるいは(複数の学部にまたがる)共通科目の観点からも重要とは考えられないような科目が、A群あるいはB群で開講されてしまっているという事情がある。またそのような科目の幾つかがいわゆる楽勝科目化している場合も見受けられ、事態を一層悪化させている。このような事態を廃して教育の質の向上を目指した改善を行うため、学部側の希望としては、制度としての開講科目分類は別として、当該学部の教育において必要な教養的・基本的内容に係る基礎的(ファンダメンタル)な内容の科目を、履修指導等を通して学生に提示しやすくすることが強く望まれる。具体的には、基礎的(ファンダメンタル)な内容の科目では、同一科目名による複数クラス開講を前提に、履修指導あるいは卒業要件規定により、必要な学術の全学共通科目の履修を通しての定着が可能となる体制の整備が強く望まれる。
  • 教養科目としての開講科目、特に文系学部の学生を対象とした自然・応用科学に関する教養科目は極めて貧弱であり、その充実は急務な課題である。文系学部からは、高度に技術化されている現代社会の基盤技術、最先端の科学・医療等の内容の平易な解説、および文系学生を対象とした共通教育としての統計学等の講義の充実が、開講科目の希望として挙げられている。ここでも高等学校での理科の必履修科目の減少による基本的な知識の未修は大きな問題であり、特に知識の積み上げが必要な数学や物理学等の内容をかいつまんで講述しながら先端的な話題を平易に解説することは容易ではない。しかしこれは、理系学部が人文・社会科学の教養のエッセンスを半期の講義でコンパクトに講述して欲しいと希望していることと双対の関係にあるようにも考えられ、理系の学術に携わる教員各位は授業展開の一層の工夫により、文系学部からの希望に対応するような努力をお願いしたい。科目設計の際に、15回の授業回数分のテーマを羅列するだけのリレー講義の設計は無責任な内容になりかねないが、例えばテーマを明確にして異なる学術の3人程度の教員がリレーによって一つのテーマを多角的に扱ったり、前例は少ないが、複数の科目部会で協力して1つの講義を設計するなども今後は考えられる。新たな自然・応用科学系科目群の下で、自然・応用科学系に係る教養科目の新たな科目設計が望まれる。なお、自然・応用科学系に係る教養的な科目は文系学生のみを対象とするといった固定的な考えから離れ、理系学生を対象とする自然・応用科学系に関する教養的な科目の設計にも配慮が必要である。

III節は卒業要件に関する部分である。

  • 今回の全学共通科目の科目群分類の変更に伴う卒業要件変更の検討に際し、各学部は教養科目と専門科目、全学共通科目と学部科目、ならびに外国語教育の位置づけについて、学士課程の目的と本学の教育を取り巻く諸事情を総合的に勘案した抜本的な検討をお願いしたい。現在の全学共通科目、特にA群科目と外国語に見られる諸問題には、全学共通科目を卒業要件の構成要素としてしか考えない学生の履修行動に起因する部分も考えられ、この機会に「卒業要件のために全学共通科目を履修する」という悪弊の一掃に対する有効な施策の検討が強く望まれる。
  • 近未来に導入されるであろういわゆるキャップ制も視野に入れた場合、卒業要件に必要な全学共通科目の必要単位数をある程度圧縮する必要があると考えられる。すなわち、卒業要件に占める全学共通科目の単位認定上限は別にして、下限については必要に応じて削減すべきと考えられる。
  • 学生の「自学自習」を本学の基本理念に掲げていること自体には意味が認められるが、これを論拠に学生を無責任に放置しているのではないかとの危惧が小委員会では指摘された。大学を取り巻く諸事情を考慮した場合、「本学は入学者に対してしっかりとした学力をつける」ことを教員自身が自覚すべきではなかろうか。これは本学の掲げる「自学自習」を妨げるものでは決してないはずである。現在のように個性も学力も多様化した本学入学者の実情を十分考慮し、また教員目線だけではなく学生目線にも立ち、「目的をもった学士課程教育」の充実のための卒業要件の在り方についての議論をお願いしたい。

参考資料3および参考資料4への反対側のコメントについて

参考資料3および参考資料4は、かなり具体的で詳細な内容に踏み込んだものになっており、かなり制度的に複雑な部分もある。
 しかし、そうは言っても、「総人・人環有志のコメント」にあるような

以上の2報告(参考資料3と資料4)に提案された教養・共通教育科目の群編成の再編と改善は現に(2012年度に)変更作業が進んでおり、全学組織である高等教育研究開発推進機構の全学共通教育システム委員会が正常に機能していることを示す資料である。

という切り取り方にはいささか疑問がある。かなり多くの問題点が指摘され、設計の改善を求められている。どのように改善されようとしているのかについて何も記述がなければ、外部からは検証しようがない。「総人・人環有志コメント」は、その後、組織論の詳細についてコメントしているだけである。

次回は、反対側が提案している基幹ユニット構想や文系科目についての考え方などを検討してみたい。

京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その2)

京都大学の中で話題になっている「国際高等教育院」構想について、特にこの構想へ反対する側の議論を批判的に検討することを念頭に、今回は、いわゆる総長メールに添付された参考資料1から参考資料4について、その内容を把握し検討してみようと思う。また、総人・人環有志がこれらの参考資料に対して行ったコメントの内容についても検討したい。

参考資料1の内容概観

京都大学の学士課程における教養・共通教育の理念について」と題されたこの文章は、教養・共通教育に関する理念的整理を試みた2節および3節と、そのための具体的な方策について言及している4節が特徴的であると考える。

《教養とは何か》という問題

 具体的な記述を見てみる。まず2節で、「教養」というものに対するさしあたっての定義が述べられている。まず2つの大枠が示されている。

教養教育(liberal education)は、「もともと『人間が人間らしく在る』とは何かに思いを致し、人間固有の価値や尊厳について理念的に掘り下げるとともに、それらを実践的に高揚・促進する心の姿勢ないし態度(humanistic attitude)を涵養するのを、本来の目的としてきた教育」とされる。そして、「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」といえよう。

「教養とは、個人が社会とかかわり、経験を積み、体系的な知識や知恵を獲得する過程で身に付ける、ものの見方、考え方、価値観の総体ということができる。教養は、人類の歴史の中で、それぞれの文化的な背景を色濃く反映させながら積み重ねられ、後世へと伝えられてきた。人には、その成長段階ごとに身に付けなければならない教養がある。それらを、社会での様々な経験、自己との対話等を通じて一つ一つ身に付け、それぞれの内面に自分の生きる座標軸、すなわち行動の基準とそれを支える価値観を構築していかなければならない。教養は、知的な側面のみならず、規範意識と倫理性、感性と美意識、主体的に行動する力、バランス感覚、体力や精神力などを含めた総体的な概念としてとらえるべきものである。」

これ以外にも、次のような記述がある。

  • 人間を人間たらしめているロゴス(言語、思考)に関わる訓練であり、知識欲、ものに気づき探求へと向かう能力や共感する力を涵養することにある
  • 教養・共通教育の重要性が再認識されるに至った背景には、学問研究の高度化・精緻化に伴い、専門教育の細分化が進展する一方で、環境や生命をはじめ、現代社会が直面する重要な課題が、より複合的で深刻な価値観の対立を含むものになって来ている状況がある。このような課題に対応するためには、多様な専門分野間での共同が必要であり、異なる価値観や視点の共存を図るとともに、現在の世代だけではなく、将来の世代に対する配慮をも欠くことができない。
  • 我が国や国際社会において指導的な役割を果たす人材を輩出していくためには、自らが専攻する分野について高度な専門的知識・能力を確実に修得させるとともに、共時的にも通時的にも多元的な視点で考察することができる知識や能力を身につけさせることを通じて、開かれた知的姿勢をもって、自ら課題を設定し探求していく創造的な能力を育成していく必要がある。もちろん、各人が専攻する分野における専門的知識・能力の修得が、これからも大学教育の最も重要な目的であることは言うまでもない。しかし、これからの社会において、そうした専門的知識・能力が十全に発揮されていくためには、自らの専門性を全体の中に的確に位置づけるとともに、異なる分野や異なる見方・考え方と対話し、多元的な視点で考察する能力が益々重要になるであろう。
  • 本学の卒業生は、研究者あるいは高度専門職業人として、様々な領域で知識基盤型社会を牽引していくことが期待されるだけではなく、健全な良識と深い人間的洞察力、そして高い責任感・倫理感をもって、自由で公正な民主社会の担い手となることも求められている。それゆえ、そのために必要な基本的知識・資質を身につけさせることも求められる。この点、青年期後期にある学生の人間形成の観点からは、「未知なるもの」あるいは「自分とは異なるもの」と接触し対話を図ることによって、より広い世界の中で、自己とは何かを考え、自らの現在の位置を見極めると同時に、新たな自己の可能性を切り拓いていくことが、重要であると考えられる。こうした経験を積み重ねることにより、異なる考え方や価値観を有する人々との共生を図りつつ、社会における自らの役割と責任を自覚し、より高い次元において自己を実現していくことが可能となる。

これだけ書いてあれば十分であろうと感じる。もちろん、単なる美辞麗句を並べただけだとの批判は可能であるが、それだけでは建設的ではないと考える。もしここに述べられていることに本質的な異論があるというのであれば、まずそのことを明示して議論するべきであろう。このような文章がある以上、賛成側が「教養とは何かを提示していない」などという批判はあたらない。また反対する側がもしこのような記述に異論があるのならば、これに応答する形で「教養とはなにか」ということについて述べるべきだと考える。

次に、3節では、まず、4年あるいは6年一貫の学士教育の中で、教養・共通教育をどのように位置づけるかが、各学部において十分に検討されていない、あるいは明確化されていないことを指摘した上で、そのような明確化のための指針となるべき考え方について議論している。その中では、

検討すべき問題は、教養・共通教育の目的・理念に照らして、より具体的に、どのような内容の科目を提供することが適切であり、どのような教育方法を用いることが効果的か、また各科目をどのような観点から体系的に編成し、学生に対してどのような履修を求めるかといった点にある。

と述べ、代表的な3つの考え方の利点と欠点・改善点などについて分析する形をとっている。

《多様性への警鐘》

特に、第2の考え方についての議論が大切なので引用しておこう。

様々な領域から多種多様な授業科目を提供し、その中から学生が自由に履修を選択し学ぶことによって、自ずから教養が身に付くとする考え方がある。これは、教養・共通教育の目的として、主体的・自発的に学ぶ意欲・態度の育成を重視し、授業をそのような主体的・自発的な学びの契機と位置づけるものであり、学生の多様な知的関心を触発するためには、できるだけ多様な科目の展開が望ましいと考えるものである。

この考え方は、「国際高等教育院」構想に反対している側が、現在の共通教養教育の利点として再三強調している点である。しかしこの参考資料1の中で、このような考え方に対する危機感は明確に表明されているといってよい。もちろん危機感の表明は考え方の否定ではないことに注意しつつ、参考資料1でどのような観点が述べられているのか拾ってみよう。

まず第一に科目数の多さが、学問領域に十分な見通しを持っていない学生にとって、選択の困難さを助長しているのではないかという指摘がある。

こうした「『自由な学風』に根ざした教育は、必然的に、学生個々人の学術研究、勉学への強い興味、意欲を前提としている。しかし、自主的・積極的な勉学意欲が常にすべての学生に自然に備わっているわけではない。課題探求への主体的な意欲をより一層惹起するために、それを可能にする学習環境をカリキュラムと結びつけて構築することが必要である」。また、学生は、入学時点において、必ずしも各学問領域について、それなりの見通しをもっているわけではないことから、約800科目・2500コマを超える授業の中から、自らの判断で体系的な履修計画を立てることが困難になっており、選択の自由を拡大するために、多くの選択肢を提供した結果、却って有意義な選択を困難にする状況を招いているといってよい。

 第二に、「楽勝科目」の増大に拍車をかけているのではないかという指摘がある。

さらに、教養・共通教育に対する学生の目的意識を欠いた受動的でお座なりな態度の増長により、定期試験の難易度を基準として、いわゆる楽勝科目に履修が集中する傾向などの問題を顕在化させている。

 第三に、高校における学習内容の削減により、早い段階から専門基礎科目を重点的に履修させねばならない事情から、教養・共通科目にかかる時間数が減少し、その履修において、体系性への考慮が弱まっているのではないかという指摘がある。

これは、学生の意識や履修態度の問題だけではなく、カリキュラム上の問題に起因する面があることも否定できない。高校段階における科目履修の多様化と学習内容の削減等により、かつては高校段階で習得していた知識を、大学入学後において習得させる必要性も高まっている。特に、理系学部においては、初年次より相当数の専門基礎科目が必修とされ、他の教養・共通科目を履修することができる時間が著しく限定される状況になっている。このことが、自らの興味・関心とは別に、また体系性をなんら考慮することなく、A群又はB群科目を履修するという風潮に拍車をかけている。

こうした問題点の指摘になんら具体的な応答をすることなく、ただ「自由の学風」や「多様な科目群」だけを称揚するだけであってはならないと考える。反対する側にはそうした問題点に対して積極的に応答しようという気配が残念ながら見受けられない。

なお、第3の考え方について「副専攻」制度について議論している。副専攻制そのものを本格的に行おうとすると、専門科目の単位数を圧迫する可能性があることが指摘され、そのためには教養・共通教育のみならず、学士課程・大学院全体に関わる見直しが必要になると述べている。これについては各学部の検討を待ちつつ、その一方で、「副専攻制」の考え方を次のように活かせないかと提案している。

現在の教養・共通教育の基本的な枠組みを前提としながらも、例えば、各学問領域や一定のテーマについて科目群を設定し、一定の観点から個々の授業科目を体系的に位置付けて、学生にはこのような複数の科目群から一定の単位数の授業科目を履修することが可能となる仕組みを構築することが有用ではないか。

《具体的方策について》

4節は「具体的方策」と題され、2節・3節で述べてきた理念的な議論を、より具体的な教養・共通教育の設計において実現するための方策について述べている。

(1)では科目群の設定と履修方法について述べられている。

 学生が一定の目的を持って体系的な科目履修を行わない場合には、様々な分野の雑多な知識を断片的に習得することになり、ある学問領域等について、それなりにまとまった知識や見方・考え方を身につけるには至らず、また他方で、論理的思考力や表現力等の能力を十分に身につけることもできないままに終わってしまうことになる。

という懸念が表明されたのち、

こうした状況に陥ることなく、教養・共通教育の本来の目的を実現するためには、各授業科目の内容・方法だけではなく、授業科目相互の連携を重視し、教育課程全体における各授業科目の目的あるいは役割を明確にしたうえで、そうした授業科目を一定の方針にしたがって体系的に履修することにより、全体として期待される学習成果・到達目標を実現することが可能な教育課程の編成を行うことが重要であると考えられる。

と述べ、教養・共通教育の中に一定の「科目群」を設定することを提案している。その中では、ある学問領域あるいはテーマについて、「基礎的な知識や基本的な見方・考え方の習得」という観点から科目群を設定しつつ、「論理的思考能力や表現力などの一般的な能力の習得」に関わる科目をその中に適正に配当されることが望ましい、と述べている。

 次に、科目履修の方法として、

1.各学部が指定した科目群の中から、定められた単位数の授業科目を必ず選択し、履修することを求める方法
2.学生が自由に選択した科目群の中から、定められた単位数の授業科目を選択し、履修することを求める方法
3.履修モデルを設定し、科目群から一定の単位数の授業科目を選択し履修することを推奨するに止め、それにとらわれない履修をも認める方法

という3つの方法を掲げ、これらを組み合わせるなどの多様な方法が考えられるとしつつ、3節で述べたような学生の状況から、「履修モデルの設定は必要であろう」と結論している。

 (2)では、「初年次における履修環境の整備─科目履修の順次性と科目区分の整理─」と題して、教養・共通教育、専門基礎科目、専門科目の順次性を取り上げている。
 問題意識は次のように表明されている。大学入学時の習得内容に変化が生じているため、十分専門的な教育を行うためには、早い段階で専門基礎科目としてケアしなければならに状況が生まれており、それによって教養・共通教育の履修が圧迫されているということである。

現在の初年次教育を見た場合、既に触れたように、高校における履修状況の多様化と教育内容の削減等によって、これまで専門教育において前提とされていた知識・能力を未だ習得していない学生が増えてきていることから、専門基礎教育として、これらの学習を行わせる必要性が生じてきている。その結果、とりわけ、理系の学部を中心に、これらの専門基礎教育を行う授業科目が、必修科目あるいは選択必修科目として、初年次に多数配当されており、これが、教養・共通科目を体系的に履修させるために必要な授業時間割の可塑性を失わせる要因となっている。

理系における積み上げ式の専門教育に理解を示しつつ、「専門教育の充実とともに、教養・共通教育の充実もまた、学士課程教育にとって重要であり、そのためには、人文科学、社会科学、自然科学の枠を超えて、それぞれが専攻する学問分野以外の授業科目を適切に履修させることが望ましい」とした上で、次のように述べて検討を促している。

今後、高校の教育課程及び科目履修の状況を踏まえて、どのような授業科目を専門基礎科目として開講する必要があるか、またどのような順次性で専門科目と接続していくことが適切かについて検討を行ったうえで、初年次とりわけ前期において教養・共通科目の履修を円滑に行うことができるよう、専門基礎科目の配当をできる限り控える等の制度的な工夫を講ずることが必要である。 なお、これに関連して、専門基礎教育によって教養・共通教育が置き換えられていくことを防ぐために、専門基礎科目を全学共通科目として位置づけるか、あるいは専門科目として位置づけるかなど、科目の区分を適切に整理して、バランスのとれた教育課程を編成することが必要である。

 (3)では「ポケットゼミ」科目について触れられている。教員・学生両者の満足度は高いものの、教員の負担が大きいことが指摘され、正規科目に格上げする方向が望ましいが、現状では困難もあることが述べられている。

 (4)では外国語教育が取り上げられている。
まず、学士課程の外国語学習の目的について

1.各学問領域の専門書を原語で精読することで、テキストを正確に理解し、論理的に思考する能力を訓練すること
2.グローバル化が進展する中で、国際的な情報の発受信を行い、様々な人々とコミュニケーションを行うための基礎となる語学力を高めること
3.言語は思考・文化の結晶であることから、母国語と異なる言語を学ぶことによって、異なる見方・考え方あるいは価値観を学び、多文化理解を図ること

という3つの例を挙げる一方、

学士課程教育を構造化し、その中における教養・共通教育の意義・目的を明確化していく際には、外国語教育についても、いかなる目的のために、どのような内容の教育を、どの段階で、いかなる方法で実施するかを検討する必要がある。
という問題意識を表明している。

そのための考え方として次のような点が挙げられている。

  • 各学問領域の専門書を英語や他の原語で精読することによって専門的能力を高める教育は専門科目において行われることが適切であり、また、その導入となる専門基礎教育としての英語教育については、各学部が「文学部英語」、「科学英語(医学)」などの専門英語を全学共通科目として提供する方向が適切である。
  • それ以外の教養・共通教育としての英語についても、大学教育においてふさわしい内容の教育という意味において、「一般学術目的の英語」という位置づけを維持することが、今後も適切であろう。
  • しかし、第一に、どのような書物・文献が、上述の教養・共通教育の基本理念に照らして、本学の学術的教養としてふさわしいかについては、今後、さらに検討を行う必要があろう。また、第二に、グローバル化の進展の中で、様々な分野で指導的な役割を果たす人材は、人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できることが期待される。そこで、「一般学術目的の英語」においては、ディスカッションやライティングなどの、言語技能的な側面をより重視する教育を行う方向性で検討する必要がある。この際、大学の限られた授業時間でバランスある外国語学習を行うには本来的に無理があることから、学生による能動的な自学自習を促し、授業科目と補完しあう教育へと質的な転換を図ることが必要である。

 この後「初習外国語教育」についても、その目的を明確化するべく検討が必要であることも述べられている。

 (5)では、「科目履修における規律の確保と成績評価の在り方」と題されており、冒頭から、次のような危機感の表明を行っている。

 これまで本学は、自由の学風あるいは自学自習を重視する観点から、できる限り、学生の自主性を尊重した科目履修を可能とするように努めてきた。それは、学生が高い学習意欲と明確な目的意識を持って、科目履修において自己規律を行うことに期待をしてきたということでもある。 しかし、近年、安易な科目履修の態度を示す学生が顕著になり、それを放置することによって、教養・共通教育における学生の学習意欲・目的意識をより一層損なうとともに、教育課程の編成や教育内容・方法に悪影響を及ぼすことが懸念される事態になっているといわざるを得ない。自由な精神をもって学問と向かい合い、自ら主体的に学ぶということと、学問あるいは学びに対して真摯な姿勢を求めるということは、本来、両立するだけでなく、後者は前者を可能にするための前提条件でもある。それゆえ、教養・共通教育の早い段階において、学問あるいは学びに対して真摯な姿勢を身につけさせるために必要な規律を行うことは、その後の専門教育を含め、本学の自由な学風が大きな学問的実りをもたらすために必要であると考えられる。

その上で、「単位制度の実質化」を図る必要性を指摘し、次のような項目を挙げている。

  • 単位制度の実質化とは、授業時間外に準備学習や発展学習を行う自学自習の時間を十分に確保することを目指すものであり、学生が自学自習を行う動機づけを行うとともに、学びの方法を学ぶ時間として授業を適切に位置づけるということである。
  • 各学期における履修登録の上限についても適切な在り方が検討される必要がある。
  • 本学の自由の学風を今後も維持するためには、自学自習の動機づけを図ると言っても、いわゆる詰め込み式の課題を出すことによって、準備学習や発展学習を強制するのは適切ではない。あくまで授業を契機として、学生が自らの興味・関心を広げ、意欲的に自学自習を行うことが重要なのであり、そのために適切な課題の設定や必要な学習方法のアドバイス、あるいはその成果を示す場の確保など、授業の在り方やシラバスの内容の改善について検討を行うことが求められる。その際、学生にとって指針となる「京大生のための100冊」、あるいは「見る1000冊、読む100冊、身につける10冊」といった書籍の選定、「自学自習のために必要な学ぶ技法」に関するテキストの開発、さらには、わからない問題を、わからないからといって敬遠するのではなく、わからないことを抱え込み、それを多角的に見ることを大切にする姿勢を学ぶために有用と思われる課題の開発といった作業が組織的に行われる必要がある。

その上で「成績評価」の基準づくりの必要性について述べている。

 このようにして学生の科目履修の規律を確保する工夫を行った場合には、そのような学習に対する意欲を高め、またその成果を適正に評価するために、成績評価の在り方についても検討を加え、適切な改善を行う必要がある。教養・共通教育の目標及び期待される学習成果・到達目標を明確化し、それを基礎とする成績評価基準を策定したうえで、その周知・徹底を図るなどの工夫が必要であろう。成績評価が過度に厳し過ぎたり、緩やか過ぎる科目が顕著である場合には、学生の履修が特定の科目に集中したり、また逆に履修者が著しく少ない科目が多数生まれたりするほか、学生が不必要に多くの科目を履修登録するなど、教育課程の編成の上でも、また授業の内容・方法の上でも問題を生じさせ、学生の学習意欲・目的意識を低下させることになる。

参考資料1に対する反対側のコメントについて

 私は、参考資料1の中で、教養・共通教育に関する様々な考え方の比較検討や、具体的な問題意識、それに対する一定の方向性の提案などがなされていると考える。そうであるにも関わらず、「総人・人環有志によるコメント」では、それらに対する実質的な応答はないと言ってよいと思う。具体的に検討してみよう。

メンバーに、全学共通教育の主たる担当部局の人間・環境学研究科長を入れずに行われた検討作業である。本来この種の検討は、共通教育について2003年に設置された全学組織である「高等教育研究開発推進機構」で行われるべきものである。

冒頭から手続きや組織論である。検討する組織が変わったとして、上記の報告書にある内容的な部分がどう変化するのかはっきりしなければ、そのような批判は、あまり建設的ではないと考える。
 次に内容的な指摘がようやく現れる。

この報告には、機構が10年にわたって行ってきた共通教育改善の経緯を参照したと思しき箇所が見当たらない。

どのような経緯やどのような改善の試みがなされてきたのであろうか。もう少し読み進めてみよう。

総じて、各学部が4年乃至は6年一貫の学士教育課程について、教養・共通教育も含めた全体の過程に主体的に向き合うことを相互確認した上で、教養・共通教育の改善の方策を議論した報告であるが、専門科目についての課題は当然検討の範囲に入っていない。そこで登場する問題点は、教養・共通教育の科目編成に係わる問題もあるが、各学部の学生への教科選択のガイダンスの密度の過疎によっているものが散見する。

 繰り返すが、参考資料1では、教養・共通教育に関する問題意識から始めて、改善のための提案などを幅広く報告している。その中には、専門教育や専門基礎教育との関係についてもコメントがあった。にも関わらず、「専門科目についての課題は当然検討の範囲に入っていない」のように議論の趣旨を把握しきれていないのではないかと疑わせる記述や、「教養・共通教育の科目編成に係わる問題もあるが、各学部の学生への教科選択のガイダンスの密度の過疎によっているものが散見する。」というような具体性を伴わない記述しか見られない。

 自分たちの取り組みについて次に述べられているのだが、これは、参考資料1で述べられている問題意識そのものとは合致しないばかりか、むしろ逆のことを言っているのではないかとさえ思えてならないものである。

この検討会に加わっていない人間・環境学研究科・総合人間学部(5学系からなる)では、すでに、学部4年一貫の学士課程教育の設計を、以下の方策で10年来試みていたことをここで確認しておこう。すなわち、
1.副専攻制度によって、主題がなく拡散しやすい教養教育と専門科目履修を結合し、専攻主題の複合化を図る(学生の希望による)
2.共通教育科目を専門科目に算入する改善
3.各学系毎に、共通教育科目と専門科目の履修モデルの提示
4.学部学生用に単位なしの自由課題の少人数ゼミ(学部専用)の提供
5.初年次のクラス担任制度による履修相談
6.2回生以のアドバイザー制度(学生の希望する教員でゼミ履修教員以外も可能)
というものである。これらの方策は、参考資料2が冒頭で挙げている教養・共通教育の改善策の4課題に当たるもので、総合人間学部ではこれらの改善にすでに取り組んでいる。それらに共通する根本理念は、全学共通科目と専門科目を厳密に区別せずに4年一貫で連結して履修指導することである。また、「検討会」が課題として取り上げながら、検討できなかった「副専攻制度」を総合人間学部は創設時から実施している。同学部卒業生が体現する自由で個性と幅のある教養に対しては、社会的評価が高い。

 この文章の中には、教養・共通教育と専門科目との関係について、参考資料1で述べられていることと、逆とは言わないまでもかなり方向性の異なる見解が表明されているように見える。

  • 「副専攻制度によって、主題がなく拡散しやすい教養教育と専門科目履修を結合し、専攻主題の複合化を測る」
  • 「共通教育科目を専門科目に参入する」
  • 「全学共通科目と専門科目を厳密に区別せずに4年一貫で連結して履修指導する」

などというのは、そもそも参考資料1が述べていた「専門基礎科目」の「低学年化」が「教養・共通科目」の履修を圧迫しているという問題意識とは逆になってしまっている。そして「専門基礎科目」を教養・共通教育に配置することは抑制的に考えるべきだという方向性とも乖離している。

 そもそも教養・共通教育は、「学問研究の高度化・精緻化に伴い、専門教育の細分化が進展する一方で、環境や生命をはじめ、現代社会が直面する重要な課題が、より複合的で深刻な価値観の対立を含むものになって来ている状況」の中で、「自らの専門性を全体の中に的確に位置づけるとともに、異なる分野や異なる見方・考え方と対話し、多元的な視点で考察する能力」を身につけてもらうことにあると述べられていた。「各人が専攻する分野における専門的知識・能力の修得が、これからも大学教育の最も重要な目的であることは言うまでもない」と断った上でである。教養・共通教育は、もちろん専門教育の位置づけの把握や専門教育を見る視点を広げることもあるだろうが、さしあたっては、専門教育とは独立した、あるいは専門教育をうける以前の、人間形成に関わる教育だと位置づけられているのである。「専攻主題の複合化」や「専門科目への参入」や「専門科目と厳密に区別しない」とか「連結して履修指導」とか、そういった把握の仕方は、参考資料1で述べられている方向性とは明らかに乖離している。
 もちろんこの点に異論があるのなら、まずそのことから述べ始めるべきだろう。

 あえて言うなら「主題がなく拡散しやすい教養教育」などという文言は、そもそも「教養教育を提供する部局としては、天に唾するようなものではなかろうか。「社会的評価が高い」も根拠が不明だといわざるを得ない。

教養教育の改善について、 「総合人間学部」がむしろ先行していると述べたいのであろうが、既にこの時点で問題意識に乖離が生じているし、自分たちが提供している全学共通科目に対して、参考資料1の中で指摘された様々な懸念や危機感、問題意識などについての回答が全くないというのも理解に苦しむ。

参考資料2の内容概観

参考資料2は、「学士課程における教養・共通教育検討会検討報告書」である。この参考資料2では、参考資料1よりもさらに踏み込んで、教養・共通教育の科目編成に関して提言している。I節で、「教養・共通教育の基礎となる科目について」と題し、入学後早い段階で学生に自覚を促し、自主的な学習の精神や手法を体得させるための科目を3つの観点で提案している。中心的な節はII節とIII節で、「教養・共通教育における科目群に関する考え方について」と題されており、人文・社会学、自然科学、学際の4つの科目群について述べ、III節で語学科目について述べられている。

《科目群の設定と階層化》

まず大枠として次の2つの点が述べられている。ひとつは科目間の連携、そうしてもうひとつは、体系化と履修モデルであろう。

  • とりわけ初年次の学生は、必ずしも各学問領域について十分な見通しをもっていないことから、自らの判断で体系的な履修計画を立てることが困難な状況に置かれている。また、学問領域の概要を把握し、基本的な見方・考え方を学び、同時に思考力・表現力を身に付け、人格の陶冶を図るなど、教養・共通教育に期待される教育目標のすべてを、半期2単位を標準とする各授業科目において達成することは困難であるため、教養・共通教育全体の中で各授業科目の目標を明確にしたうえで、それらを有機的に関連付けることが必要である。
  • 現在の教養・共通教育の基本的な枠組みを前提としつつも、既存の各学問領域や、例えば「生命」、「心と意識」、「都市と生活」など、学問領域を横断する一定のテーマについて科目群を設定し、それぞれの領域における基本的な見方・考え方を習得できるように各授業科目を体系的に位置付け、学生が、このような複数の科目群から一定の単位数の授業科目を履修する仕組みを構築することが適切である。その際には、各科目群の中において、基礎的な知識や基本的な見方・考え方の習得を図る授業科目を中心として、論理的思考能力あるいは表現力等の習得を重視する授業科目や専門科目とはいえないまでも発展的な内容の習得を目指す科目なども、適正に配置される必要がある

その上で、まず人文・社会科学系科目を次のようにグループ化することが提案されている。ここでも、少なくとも人文・社会科学系科目における「教養・共通教育」は「専門予備教育」ではないことが明示されていることに注意したい。

教養・共通教育は、専門予備教育ではなく、専門教育の土壌となるproto-disciplineを提示するものであることから、教養・共通教育の目標に照らして、全体のバランスを図る形で科目群の編成を行う必要がある。 以上の観点から、人文・社会学系科目群については、以下のようにすることが考えられる。 ( )内は主な関連学問領域
「真・善・美と人間形成」(哲学、西洋哲学史、日本思想史、東洋思想史、倫理学、宗教学、美学、芸術学、教育学)
「歴史と文化」(歴史学日本史学西洋史学、東洋史学、考古学、西南アジア史学、 南アジア史学、東南アジア史学)
「文学と言葉」(言語学、文学、日本文学、中国文学、西洋文学、西洋古典学、東洋古典学)
「人間の行動と社会」(心理学、社会学、地理学、人類学、教育学)
「法と政治」(法学、政治学
「経済と社会」(経済理論(近代経済学)、経済理論(社会経済学)、現代経済事情、経済史、経営学
なお、各科目群の設定は排他的なものでないことから、例えば、「歴史と文化」「法と政治」「経済と社会」などを横断する形で、「国際社会の歴史と現状」といった科目群ないし履修コースを更に設定することも考えられる。

その上で、各グループに配置される授業科目を3つの階層に区分するとしている。

第1階層は、各科目群を学ぶことの意義や各科目群に関わる見方・考え方の基礎を習得することを目的とするものである。この第1階層においては、当該科目群の全体を俯瞰するとともに、当該領域への学生の知的関心を高めることが求められることから、第1階層の授業科目については、授業内容・方法に関して格別の工夫が求められるとともに、その担当者の選定に当たっても十分な配慮が必要である。
第2階層は、各科目群に関する基本的な内容及び思考・表現の方法を学ぶことを目的とするものである。
第3階層は、各科目群に関する応用的・発展的な内容を学ぶことを目的とする科目であり、主として、3年次以降において履修することが想定される。

その上で各階層で提供される科目数の目安について

教養・共通教育の目標に鑑みると、専門領域に特化した科目を多数展開するよりも、できる限り基本的な内容を取り扱う科目を精選し、同一科目について多数のクラスを設けることが適切であると考える。

と説明し、具体的な科目数の目安を提示している。

 自然科学系科目については、まず編成の基本的な方針として、

自然科学系科目群の設定に当たっては、研究の流行を反映したトピックス的なものではなく、通時的な価値観の変化にも耐えうるような基本的、基盤的なテーマを設定し、長い学問的営為から自然に生じた分野により科目群を編成する。すなわち、基本科目群は「数学、物理学、地球科学、化学、生物学、情報」の6科目群で、6科目群のいずれにも分類できない科目については適切な科目群を設定する。

と踏み込んだ上で、階層化のポイントとして、

自然科学系の階層は、人文・社会学系の階層と同様、第1階層、第2階層、第3階層からなるが、自然科学系科目は「積上げ」を基本としており、自然科学系教養人に求められる基本知識体系と一般的教養人が学ぶべき知識体系には相違があるため、人文・社会学系科目群の階層とは違った考え方をする。大きな相違点は、第2階層を自然科学系教養人としての「積上げ」の最下層として明確に位置付ける点である。
第1階層は、文理いずれも受講可能なレベルの自然科学の一般的な教養・啓蒙科目からなり、文系対象の科目、文理融合的視点が有効な科目、高校未履修者のための科目はこの層に属する。
第2階層は、自然科学を基礎とする諸分野に共通した基盤的、基礎的科目から構成される。特定の学問分野を専攻するための科目ではなく、1・2回生を対象とした自然科学を学んで行くための必要最低限の知識・スキルとなる科目である。
第3階層は、より専門に分化した専門基礎科目からなり、単一学部のみを対象としている科目及び学部から全学に提供されている専門基礎科目はこの層に属する。

と述べている。さらに、「人文・社会学系科目群と同様に、できる限り基本的な内容を取り扱う科目を精選し、同一科目について多数のクラスを設けることが適切であると考える」とした上で科目数の目安について記述している。

 次に学際科目について 報告書では、学際科目の重要性について指摘しつつ、

学際的な分野について、これを単独の授業科目として開講すると、当該科目の教育課程全体における位置付けが必ずしも明確ではなく、また、リレー形式で授業担当が行われ、個別のトピックが組み合わされただけの内容になってしまうと、学問領域間の関係を考えるに至らないどころか、そもそも各学問分野の内容すら理解できないおそれもある。 それゆえ、学際的な科目を提供する場合には、現代社会の抱える包括的課題や新しい研究分野等の中から、京都大学における教育にふさわしい一定のテーマを精選し、学際的な科目群を設定した上で、授業科目を適切に編成して、学生に履修をさせることが望ましいと考えられる。 どのような科目群が適切かは、今後の検討が必要であるが、例えば、「生命」、「心と意識」、「都市と生活」、「科学史・科学哲学」などが考えられ、人文学系、社会科学系、自然科学系の教員が共通のテーマの下に集まり、リレー講義やワークショップ形式の講義を行うことも考えられる。

というように、学際科目が単なる個別の寄せ集めとなることに懸念を表明し、いくつかの具体的な科目の提案をおこなっている。

《語学科目》

  報告書のIII節はすべて語学教育にあてられている。そのうちおよそ3/4が英語教育に関するものである。

 まず、英語学習の目的について、

  • 「学術研究に資する」英語力の涵養を本学の英語教育に係る理念・目的の中心に据えて、大学の英語科目としてふさわしい内容とレベルを考慮しながら、学術的教養の涵養と学術的言語技能を養う
  • 英語I(1回生対象)においては、一般学術目的の英語という視点から、リーディングとライティングの基礎的技能を養成し、更に英語?(2回生以上対象)において、学術論文の読解や執筆に必要な技能、リスニングを中心とした高度な学術的言語技能、ゼミ、講義、学会等で求められる発表や質疑応答などのオーラル・プレゼンテーション技能、国外の大学院に進学する場合の各種試験をも想定した読解力・聴解力などの総合的な技能を養成すること

というこれまでの議論の結果を妥当と評価している。
 その上で、次のような問題点を指摘する。

  • 各教員の見識と関心を尊重すると指摘するのみであり、特段の方向性を示していない
  • どのような教材、素材、指導法が、本学の教養・共通教育の基本理念に照らしてふさわしいかについては、全学的な見地からも検討を行う必要がある。
  • 担当教員相互が切磋琢磨して教育の質を向上させるためにも、科目としての具体的な到達目標や水準を明確に設定する必要があるし、教材選定を含む具体的な方法論に関しても全体的な検討をしておく必要がある。
  • 本学における英語教育の主たる目標が、学術研究に資する英語であることは「新カリキュラム報告」が指摘するとおりであるが、プレゼンテーションやディベートといった場面でのより実践的な英語力に対するニーズが、社会的にも、また、学生の側からも指摘されているところである。今後、このようなニーズの更なる高まりが予想されるところであり、このような点にも配慮して教育内容の充実を図る必要がある。

これらに加えて、より具体的に英語I、英語IIの教育内容について踏み込んだ指摘を行っている。

 まず英語Iに関して、

  • クラス指定制度がとられている一方で、教材、素材、指導法が、各教員の裁量に委ねられている状況において、学生に選択肢が一切ないこと、成績評価の在り方に基準がない点については、速やかに改善が求められる
  • 英語?の教材、素材、指導法が、各教員の裁量にほぼ全面的に委ねられている現状のままでは、統一的な評価基準を設けることは極めて困難であるし、仮にそのような基準の設定が可能になったとしても、授業内容が個々別々で教員ごとに異なっている限り、クラス指定のもつ問題を解消するものとはなり得ないだろう。
  • 教材、素材、指導法のいずれについてもある程度共通化したうえで、ガイドライン(標準的なモデル)を作成し、成績評価の基準を設定するような方途が検討されるべきである。
  • 教材の選定については、1講義あたり1ページや2ページ程度ずつ進めるような熟読型の教材を使用するのではなく、広く教養の全般に関わる総合的な読解力や速読能力を身に付けるなど、基礎的・基本的技能の向上の効果を期待できるような教材を用いるべきである
  • 英語?を担当する専任教員が中心となって、教育方法や教育内容の具体的なモデルやマニュアルを作成し、授業を担当する非常勤講師等も含め、英語?のすべての科目を通じて一定の水準と内容が提供・維持されるようにすべきである。そのうえで、公平な成績評価が実施される必要がある。

という具体的な問題点が列挙された上で、

1.英語Iの教材としては、1)西洋知識人の教養の基盤を形成している古典や名著の現代英語訳(聖書やギリシア神話など)、2)人文学、社会科学、自然科学の諸分野の基本的・総合的な入門書、3)現代の問題を優れた英語で論述した論説文や評論文、これら3つのジャンルに絞って、教材を選定する。
 また、1講義あたり1ページや2ページ程度ずつ進めるような熟読型の教材を使用するのではなく、広く教養の全般に関わる総合的な読解力や速読能力を身に付けるなど、基礎的・基本的技能の向上の効果を期待できるような教材を用いるとともに、1)の教材を用いる場合は、古文やスラングが多用されているものは対象とすべきではなく、現代英語訳されたものに限定すべきである。 なお、原文による古典を教材とした科目については、学生のニーズに応じて受講することが適切であり、英語?において、あるいは異文化理解科目として、A群科目との関連の中で開設することが考えられる。
2.専任教員を中心に、教材、教育内容、教育方法に関する具体的なモデルやマニュアル(ガイドライン)を作成し、全体の授業計画を立案し、更に成績評価の基準などについても一定の決定権をもつ「責任ある実施体制」を整備する。
3.シラバスを整備し、科目ごとの授業計画、授業内容、教材名、成績評価の方法を統一して記載するようにし、学生に対してその科目としての意味(教員の個人的な意図ではなく)を明示的に示すようにする。

というかなり具体的で踏み込んだ提案がなされている。

 次に英語IIについては、

  • グローバル化の進展の中で、様々な分野で指導的な役割を果たす人材には、人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できることが期待される。このため、「一般学術目的の英語」においては、実践的な英語運用能力を高める教育を行うことが必要であり、そのための科目を増加させることが喫緊の課題である。
  • このため、特に英語?において、「新カリキュラム報告」が示すとおり、「学術論文の読解や執筆に必要な技能、リスニングを中心とした高度な学術的言語技能、ゼミ、講義、学会等で求められる発表や質疑応答などのオーラル・プレゼンテーション技能、国外の大学院に進学する場合の各種試験をも想定した読解力・聴解力などの総合的な技能を養成する」という観点から、どのような内容の科目を提供することが適切であり、どのような教育方法を用いることが効果的かを改めて検討し、適切な科目を充実していくべきである。
  • それら実践的な科目の充実に加えて、学生による能動的な自学自習を促し、授業科目を補完するような各種の教育プログラムの導入、あるいは採用が必要である。

という問題点が指摘された上で、

1.英語IIにおいては、上記のような実践的な英語運用能力やコミュニケーション能力を高めるという点をより一層重視し、そのために必要かつ適切な科目を充実させる。
2. 実践的な英語運用能力やコミュニケーション能力を高めるための方策として、1回生から選択可能なCALLシステム科目を設ける、各学部・学科において留学生をTAとして雇用してネイティブ英語による会話やプレゼンテーション等を行う機会を増加させる、外国人教師を招いて講義内容を全て英語で実施する国際コースを設けるなど、CALL 教材、外国人教師、留学生を活用した効果的な取組について検討することが必要である。
3.また、特に高度の素養と学習意欲を有する者等を対象として、現在2回生以上を対象としている英語IIの科目を1回生時に受講できるようなカリキュラム編成や上級のコースの設定、国際交流センターで実施されているKUINEPの活用、さらには、学外の優れた語学教育のプログラムを自学自習の対象として学習成果を評価する仕組みの構築など、素養や意欲ある学生の能力を伸ばし、実践的な言語技能を高めるための方策を、総合的に検討・実施していくことが必要である。
4.これらを実施するために、必要な教員の確保や施設の整備、及び英語教育の責任ある実施を可能とする組織的・制度的仕組みについて更に検討を進める必要がある。

という具体的な提案がなされている。

 また専門科目との接続について、次のように指摘している。

各学問領域の専門書を英語や他の原語で精読することによって専門的能力を高める教育は専門科目において行われることが適切であり、また、その導入となる専門基礎教育としての英語教育については、各学部が「文学部英語」、「科学英語(医学)」、「経済英語」などの専門英語を全学共通科目として提供する方向が適切である。

 残りの1/4の中で、初習外国語教育については、その必要性について強調する一方で、

  • 限られた時間での初修外国語教育の効果を考えたとき、そこで獲得された知識が多文化理解に十分活かされているとは言えない場合もあることから、それぞれの学士課程教育の中において、多文化理解を目的とするA群科目を初修外国語と関連付けたり、あるいは、それに代えるなどの方策も考え得る
  • 初修外国語の入門レベルでは、従来のように、文学研究者あるいは言語学者として学位を取得した(又は相当の能力をもつ)教員を配置することは必ずしも必要ではなく、当該言語における語学教育の経験と能力を備えていれば、外国人を含め幅広い人材の登用が望ましい。

といった踏み込んだ提言を行っている。

参考資料2に対する反対側のコメントについて

 この参考資料2では、科目群の編成の方向性について、グループ化や階層化という仕組みの導入にとどまらず、その内容や在り方について、かなり踏み込んだ内容の報告がなされていることが目を引く。これらの内容について疑義や異論があるのであれば、そのことを表明し、説明するべきだし、参考資料2はそのための非常に重要な文書であると私は考える。しかもこの参考資料2には、付録として、人文・社会学系科目群と自然科学系科目群のそれぞれについて、グループ化と階層化の2つの軸で具体的にどのような内容にし、どのような科目を設定するかという例示が具体的に示されている。
人文・社会科学系はこのpdfである。
自然科学系はこのpdfである。
これらは反対側が作成しているページの「学内資料一覧」では取り上げられてさえいない。
そして、「総人・人環有志によるコメント」では、主として外国語教育に関する部分だけを取り上げている。これはまったく理解に苦しむと言わざるを得ない。

 少し記述を拾ってみる。

総じて、教養・共通教育を構成する諸分野の科目編成の改善に対する提言である。第III部の外国語教育、特に英語教育に対するコメントが特別に紙幅を占める。そこでは、「『学術研究に資する英語教育』京都大学における英語新カリキュラム」(2006年1月京都大学大学院人間・環境学研究科英語部会、京都大学高等教育研究開発推進機)に対抗して実践的な英語力(発表・議論能力)育成のニーズを強調して、初年次英語の履修を語学能力の獲得に単純化し、次年次英語の履修を、専門によって、語学として履修するか、或いは教養科目として履修するかを各学部が決定することを提言している。この種の技術的な英語教育の扱いについては、後掲の参考資料3の高等教育研究開発推進機構第3回全学共通教育システム検討小委員会(2011年5月26日)でも、関係部局の教員に様々な意見があることは確認できても、意見の統一をみていない。学内の統一見解とはなっていない。

英語以外の科目に関することと英語科目などに関することの比率はせいぜい1:1だ。特別に多いなどというのはあまり適切な比較とは思えない。また「対抗して」というような表現からは、報告書が「新カリキュラム」と対立関係にあるかのように錯覚させるような印象操作が行われているように見える。この報告書では、「新カリキュラム」で提示された目標については肯定していたはずである。また、「統一見解」ではないことはわかっても、どのような相違があるのかについて、参考資料3を読まなければ分からないなど不親切な記述になっている。おそらく参考資料3の次のような記述

外国語教育については、英語部会はリーディング/ライティングを中心とする学術目的の英語教育を重視しているが、学生はオーラル・コミュニケーション等のより実践的能力の向上も求めており、学生の希望と科目提供の間に齟齬があるのではないかとの指摘がある一方、大学は海外旅行に必要な程度の英会話を教える場ではないとの意見も出された。また今や「地球語」ともいわれる英語の能力の向上を第一義とするべきとの意見も出される一方、英語以外の外国語を教養として学ぶことは多文化理解の観点からの意義があるとの指摘もあった。いずれにせよ、この問題は、求められる学士力の観点から各学部が検討する事項であり、学部は外国語教育の在り方を抜本的に再検討すべきである。「卒業単位だけのための外国語履修」といった無意味な履修行動を根絶するための対応は早急に行われるべきものである。

を意図しているのだろうが、参考資料3(10ページの資料)の中のわずか9行余りの箇所を探させるのではなく、端的に相違点を記述するなどの方法がなぜ取れないのか疑問である。しかもその反論は、「大学は海外旅行に必要な程度の英会話を教える場ではない」などという明らかに問題意識の低下した反論に過ぎない。
「人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できることが期待される。」という目標は、「海外旅行に必要な程度の英会話」とはレベルが違う。教養・共通教育では、速読・読解、あるいは発表や議論の能力などについても意識を向けるべきだと主張しているにすぎない。それは「海外旅行で必要な程度の英会話」とするのは、いささか一方的である。中身のある英文を速読し、英語で議論するという科目の重要性を指摘しているのだ。

 参考資料2の英語教育に関する部分は、「初年次英語の履修を語学能力の獲得に単純化」しているというのも一方的すぎる。「1)西洋知識人の教養の基盤を形成している古典や名著の現代英語訳(聖書やギリシア神話など)、2)人文学、社会科学、自然科学の諸分野の基本的・総合的な入門書、3)現代の問題を優れた英語で論述した論説文や評論文」のように、「広く教養の全般に関わる総合的な読解力や速読能力を身に付けるなど、基礎的・基本的技能の向上の効果を期待できるような教材を用いる」のである。これは単なる語学能力の獲得だけを目的としているわけではないし、そもそも「海外旅行に必要な程度の英会話」でもないし、ましてや駅前留学英会話学校で行われていることとも違うだろう。
次の記述に進む。

部局長らの外国語教育観は、初修外国語(英語以外の外国語)に対しさらに極端化し、「学位を得た文学研究者あるいは言語学研究者は外国語教育に必要なく、当該言語についての語学教育の経験と能力を備えていれば、外国人を始め幅広い人材の登用が望ましい」とまで結論している。本報告における、これら非母語言語科目履修に対する技術的に対応すればよいとする理解は、他の人文・社会学系科目群や自然科学系科目群の基礎的科目の階層的履修についても想定されているものだが、その細かなそして持続すべき議論こそ、共通教育を担当している主要部局を交え、全学組織である高等教育研究開発推進機構のなかで行われるべきものである。

というコメントも、どの箇所に憤りを持っているのかは理解できるが、内容的な反論にはなっていない。英語のように高校段階からの積み重ねがある科目と(言語構造などの点で英語との類似性がある言語もあるとはいえ)初習外国語とでは自ずから違いがあるのは当然であって、中学1年で英語をはじめて学ぶ際、学位を得た文学研究者あるいは言語学研究者を教師とするべきだというのが一般的な考え方であるとも思えない。もしそう考えるならもっとはっきりした根拠を述べるべきだ。反対なのはわかるが根拠は不明だとしか思えない。

また、「多文化理解を目的とするA群科目を初修外国語と関連付けたり、あるいは、それに代えるなどの方策」という報告書の文章からは、第二外国語を一からはじめて二年間やらせてもその言語を読み書きできるレベルに到達するのはなかなか難しいことを意識しているように見える。ドイツ語やフランス語を1回生・2回生で学ぶ人が多いだろうが、ではそれが英語と同じ程度まで読み書きできるようになるわけではない人がほとんどなのではないかという問題意識だ。むしろ他の人文・社会科学系科目の中で関連付けることも検討してみてはどうかという意図もうかがえる。そのこと自体は一考の余地はあると思う。これについてもう少し踏み込んだ議論はあとで私自身の意見を述べるときに付言したい。

「非母語言語科目履修に対する技術的に対応すればよいとする理解は、他の人文・社会学系科目群や自然科学系科目群の基礎的科目の階層的履修についても想定されているものだ」という文章も意図がわからない。そもそも「技術的に対応すればよい」というのがどういう意味なのかわからない。この報告書が提示している「階層的履修」は、「技術的に対応すればよい」ということを言っているようには見えないし、そもそも「非母語言語科目履修」と比較するのには無理があるとしか言いようがない。

京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その1)

1.はじめに─私の感じた反対側への違和感(1)─

京都大学において、いわゆる「全学共通科目」と呼ばれている教養・共通教育の見直しのために、新しい組織として構想されている「国際高等教育院」がある。この「国際高等教育院」構想についての賛否両論が交錯しているという話を聞き、youtubeなどで配信されている反対側の教員の演説や「京都大学の自由の学風のために」と題された総人・人環有志による反対派のウェブに掲載されている反対意見を見てみた。

確かに、この構想そのものには問題点もいろいろあるのであろうことは理解できる。しかし、今回のこの構想に対する反対意見は、「国際高等教育院」構想の目的のひとつである『「全学共通科目」という教養・共通教育の再編と一元的企画・管理』というテーマに関して驚くほどわずかなことしか述べられておらず、しかもそれは、改善が進行しており、問題の大半は解決へ向かっているなどというようなおおよそ具体的な取り組みの不明確な断言に終始しているように見えた。さらに言えば、反対している側の議論は、主としてこれまでの経緯や手続きに瑕疵があること、総長のトップダウンで議論が進むことへの警戒感、人事権に代表される「学部の自治」を奪われるといったことへの反発のみが語られ、それを「自由の学風」とか「京大教養教育の伝統」とか「学部の自治を守れ」といった、驚くほど前時代的な表現でしか語れていないと感じられた。私はそのことに強い違和感を持った。

私はこの「国際高等教育院」構想そのものについて、この文章の中で賛否を表明するつもりはない。推進側も反対側もその議論の中に種々のまずさを抱えていると感じる。しかし、ここでは、反対側が主要な論点であると考えているであろう「これまでの経緯や手続きに瑕疵があること」、「総長のトップダウンで議論が進むことへの警戒感」、「人事権に代表される『学部の自治』を奪われることへの反発」といった点について検討するつもりはない。というのも、私には、京都大学内部でどんな議論が積み重ねられてきたかとか、総長がどのような目論見でこの構想を始め、そしてそれがどう変質していったかなどについて全くうかがい知ることが出来ないし、そうである以上、それらのことを検証することは不可能だからだ。

むしろ私は、いわゆる9月12日付け総長メールに添付された参考資料1から参考資料4までの内容を検討し、具体的にどのような問題意識が提示され、改善策としてどのような提案がなされているのかについて把握しようと努めた。その内容が構想そのものや構想に反対する議論との間でかみ合ったものになっているのかを知りたかったからである。私がこの文章で行いたいことは、主として反対側の議論を批判的に検討することを念頭に、

(i) いわゆる「9/12付総長メール」に添付されていた参考資料のうち、特に1から4を検討し、その中身を把握すること。
(ii) 参考資料に対する反対側のコメントについて検討すること。また、「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」と題された文章を検討すること。
(iii) 「国際高等教育院」構想に関するいくつかの期待といくつかの危惧を述べること。

の3点である。これは、「国際高等教育院」構想そのものについて考えることにも役立つであろうが、むしろ広く「教養教育」とはどうあるべきなのかを議論する手がかりになると思うからである。

2.議論の概要─私の感じた反対側への違和感(2)─

9月12日付総長メールに添付されている7つの参考資料は、その全文を見ることが出来る。私が検討しようとしている参考資料1〜4は全学共通科目あるいは教養・共通教育についての意見を整理し報告する検討会の報告資料である。それぞれの検討会の位置づけは様々あるようだが、各参考資料の中身の詳細な検討は次回以降に譲るとして、今回は、これらの報告の中身を大雑把に要約しつつ、私の持った違和感の中身をもう少し具体的に示しておきたい。

 まず参考資料1から参考資料4までを通じて私が持った印象の第一は、参考資料の報告書を作成した委員会のメンバーの間では、「教養・共通教育における学生の履修状況・習得状況に対する危機意識が共有されている」ということである。
 その危機意識には様々なレベルのものがあるが、例えば次のように要約することができるのではないかと思う。

《問題意識》

 高等学校での履修状況の多様化や教育内容の削減によって、大学入学時に学生が習得している内容やその幅が減少している。理系学生の人文的教養や文系学生の自然科学的教養について大学入学段階での習得状況があまり期待できない実態がある。そうした背景から,次のような状況が起きている。

(ア)ある学問分野について、多様な科目群の中から見通しを持った履修計画が立てにくくなり、主体性や目的意識を欠いたまま試験の難易度と単位習得の容易性だけに着目していわゆる「楽勝科目」に履修者が集中するような状況が起きている。

(イ)将来各学部で専門分野を修めるために必要な基礎的内容を低学年時から履修させる必要性が増大し、必修の専門基礎科目の履修時間が増加したために、教養科目に当てられる時間の自由度が減少し、教養科目の履修状況が体系性を失う傾向に拍車をかけている。

 また語学学習とくに教養科目の英語科目については、京都大学の英語教育の目標が「学術研究に資する英語」であるのは妥当だが、その一方で、社会を取り巻く人文的・自然科学的問題について「英語で議論できること」といった「実践的英語運用能力」を高めるべきだとの社会的要請が高まっている。そうした観点からは

(ウ)具体的な科目の内容が各担当教員の裁量にゆだねられており、しかもクラス指定で学生の側に内容に応じた選択の自由度が少なく、しかも、1講義で1,2ページ程度ずつ進めるような「熟読型」の教材が選ばれがちである。また、到達目標や成績評価の基準に統一性がない。

という問題点が指摘されている。

《改善案》

 こうした危機意識に対して、参考資料1から参考資料4の中では、次のようないくつかの改善の方向性が示されていると感じた。それは非常に荒っぽく言うと、学士課程修了者の習得内容についての「出口管理」をある程度正確に行いたいということだと思う。

(一)科目群・テーマの設定。
 これはおそらく多岐にわたっているA群科目を整理し、一定のテーマごとに再編成して履修科目を体系化するために導入するべきひとつの方法として構想されているようである。「人文・社会科学系科目群」とし、「真・善・美と人間形成」 「歴史と文化」 「文学と言葉」「人間の行動と社会」 「法と政治」 「経済と社会」のようなテーマの設定が例示されている。それに伴い一部の科目を「現代社会適応科目群」や「拡大科目群」に移してそれらの中でも一定のグループ化を行う。

(二)階層化。
 これはおそらく現状「全学・全回生向け」という表示であまりにも多岐にわたる科目が設定され、内容的にもやや専門的なものがかなり含まれている状況を踏まえ、学生の習得段階に合わせて内容を設定し、科目群を再編成するための方法として構想されているようである。内容レベルに応じて3つの段階にラベリングすることが提案されている。人文・社会科学系では、各テーマの俯瞰やそのテーマを学ぶ上での見方・考え方の基礎を学ぶ第一段階、各科目群に関する基礎的な思考・表現の方法を学ぶ第二段階、3年次以降で学ぶ応用的・発展的内容の第三段階と区分することが提案されている。自然科学系では、文系科目や高校未履修者のための科目を中心とした第一段階、自然科学を学ぶために共通して必要とされる知識やスキルを学ぶ第二段階、各学部によって提供される専門基礎科目からなる第三段階と区分することが提案されている。

(三)履修モデルの提示。
 これはおそらく学生がある一定の学問的内容を体系的に習得できるような履修計画を立てられるようにするために構想されたものだろう。

(四)科目間連携の強化。
 これは、教養科目の履修にあてられる時間は限られていることなどを考慮すると、内容と駅に重複のある科目が複数開講されているという状況より、各科目が互いに連携し、教育課程全体における目的や役割を明確にする必要があるとの問題意識から構想されているようである。一方で、単なる個別のトピックの寄せ集めようなオムニバス講義には警鐘を鳴らしていることにも注目しておきたい。

(五)履修登録のキャップ性の導入、各学部の単位認定方法の変更、成績評価の厳格化。
 語学科目を含め教養科目における到達目標を明確化した上で、その成果を適正に評価するための成績評価基準を策定することが提案されている。学生の無計画な履修登録を防止し、各学部が設定している卒業認定基準を上記のような科目群やテーマ、レベルに合わせて変更することなども提案されている。

《反対側への違和感》

 もちろんこれらの問題意識や改善案に対して異論がある向きもあるだろう。私自身もそれらすべてに諸手をあげて賛成というわけではない部分もある。また、これらの議論と「国際高等教育院」構想との関連性は必ずしも明確であるとは言いがたい。しかし、ここで強調したいことは、ある程度共有できる問題意識が表明され、そのための一定の改善方法が提案されているという点である。反対する側はこれらの点について、そもそも問題意識が共有できるのかできないのか、改善案について大筋でその方向性を認めるのか認めないのか、そして具体的な各論の部分で改善案について異論のある箇所があるのか、あるとすればその根拠や代替案はあるかといった点について、見解を明示するべきだと私は考える。

 しかしながら、「京都大学の自由の学風のために」の「問題点の整理」と題されたページでは、参考資料1から参考資料4について、

「教育院の中身とは関係ない資料(総長参考資料1,2,3,4)を示して、中身を十分議論したと偽装」

と述べてて、端から参考資料1から参考資料4が「国際高等教育院」構想と無関係だと断定している。「国際高等教育院」構想の出自がどうであれ、現在「全学共通科目」の整理や再編を目的として提案されている以上、参考資料1から参考資料4は、「国際高等教育院」構想を考える上でのむしろ前提であるはずだ。これらの参考資料で示された問題意識や改善案に同意しないのか、同意するが「国際高等教育院」では実行できないと主張するのか、「国際高等教育院」でも可能だが今のままでも可能だと主張するのか。
 反対側の提案する「基幹ユニット構想」の説明の中では、全学共通科目の検討及び再編について、

「全学共通教育システム委員会共通・教養教育企画・改善小委員会の平成24年6月8日付方向「平成25年度以降の全学教育科目の科目設計等について」(引用者注=参考資料4)に沿って、全学的に調整が進められており、これによって基本的な問題の大半が解決の方向に向かうと考えられている。」

などという非常に曖昧な表現が使われている。「基本的な問題」とは何か不明確だし、「解決の方向」といっても、どういう取り組みがなされているのか何もわからない。
 反対側のページの学内資料のページには、「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」と題された文章が掲げられている。これは確かに全学共通科目の中でも特にA群科目の内容について議論したものだが、そもそも2004年8月の段階でのものであり、参考資料1がまとめられた2010年3月よりも圧倒的に古い。仮に当時から意見が変わっていないのだとしても、2010年初めの段階での問題意識や改善案に対する応答としては不十分極まりない。(この文章についてもあとで検討したいと思う。)
 現状、反対側の議論は、自らが提供している「全学共通科目」について、参考資料1から参考資料4で示されたさまざまな問題意識や改善案に対しての見解は、ほとんど表明せずに、経緯や手続き論、組織論、個人的な感情などに立脚して、「国際高等教育院」構想を潰すという「学内政治的運動」をしているようにしか見えない。仮にそれが一定の成果を得たとしても、それはこの参考資料の中で表明されている具体的な論点や改善策についてなんら建設的な成果をもたらすものではないと私は思う。

 次回から具体的な資料の中身についての検討を行いたい。

日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その15)─新井紀子氏による日経ビジネス Associe」誌の記事について

思わず目を疑うような記事を見た。日経ビジネス Associe」誌2012年10月号に掲載された、新井紀子氏による「サバイバル力を試す数学問題」なる記事である。4ページにわたって日本数学会による大学生数学基本調査の問題のうち、問1-1,問1-2,問2-1,問3の4題を取り上げている。

あえて最初に公平を期して言えば、この記事単独で見れば、それなりに説明を尽くそうとしている部分も見受けられるし、報告書概要版や報告書抜粋、「世界」掲載の新井-尾崎論文などと比べれば、いくらかマシに見える部分もある。

しかし、逆に言えば、報告書概要版や報告書抜粋、「世界」掲載の新井-尾崎論文、あるいは前回まで取り上げていた「数学文化」掲載の竹山論文などと、記述の仕方があまりに違いすぎる。率直に言って、この「サバイバル力を試す数学問題」の書きぶりは、上であげた論文と同じ価値観を共有している人が書いているとは信じがたいような記述がある。このようなやりかたは、極めて不誠実だと言わざるを得ない。社会的な事柄との関連付けがあまりに安直な点は相変わらずだし、さらにいくつかの点では問題のある記述が新たに出現している。

最初に少しだけ注意しておきたいことがある。今回の記事の全文を新井氏自身が記述したかどうかはわからないし、おそらく書きぶりを見る限り、そうではないのだろう。新井氏はたとえば談話としてコメントを述べ、編集部はそれを適宜編集するという形で行われている可能性が高いように見える。しかし、それは、新井氏を経歴+写真入りで紹介する形で記事が構成されている以上、この記事の内容に関する文責は、第一義には新井氏にあると私は思う。もし内容的に問題がある、あるいは自分の考え方と合致しない、あるいは日本数学会の考え方と合致しないのなら、原稿段階で変更を加えることも可能であったはずだという点からもそうである。

以下、いくつかの項目を取り上げて具体的に指摘したいと思う。

「偶数と奇数の和が常に奇数となること」(問2-1)に関する記述(1)─「珍答」と「例え話」─

記事で、「問題3では、「偶数と奇数を足したら必ず奇数になる」と答えるところで間違う人はまずいない。難しいのは、その理由の説明だ。」と述べた上で、次のように続ける。

大学生の間では「三角と四角を足しても四角にならない」といった珍答が続出した。こういう誰が読んでも「ピント外れ」な説明の共通点は「例え話でごまかすこと」(新井さん)。ここでは奇数とは何かを明確に示したい。

よく思い出して欲しい。報告書概要版には、「重篤な誤答=論理的コミュニケーションの前提が崩壊している答案」の具体例として次のように書かれていた。

重篤な誤答には、1.いくつかの例を示すことで論証したと考えるタイプ、2.奇数や偶数の定義が間違っているタイプ、3.トートロジーを繰り返す、4.あいまいな言説への逃避や無関係な事柄からの類推、などがある。以下が実際の答案の例。
「2+1=3、4+1=5だから」(タイプ1)
「思いつく奇数と偶数を足してみたらすべて奇数になったから」(タイプ1)
「偶数を2x、奇数を1とおくと、その和は2x+1」(タイプ2)
「割り切れないから」(タイプ3)
「奇数は奇数をたさないと偶数にはならないから。」(タイプ3)
「偶数は2で割り切れて、奇数は2で割ると1余るということから」(タイプ3)
「どんなに数が大きくなろうとも、1の位は同じ循環をし続けるから」(タイプ4)
「偶数をたすことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから」(タイプ3,4)
「三角と三角を足したら四角になるのと同じで、四角と三角では四角にならないから」(タイプ4)

報告書抜粋には、「深刻な誤答」として、次のような説明があった。

[C-2](具体例を示して証明終了としている答案)
「定義に基づく演繹的な議論により現象を説明できることが数学の良さであるとの観点から、この群の答案も深刻な誤答とした。なお、具体例の個数が極度に少ない答案はC-5群に含めた。」
[C-5](論理的に説明するための前提に立っていない答案)
「極度に説明不足の答案や、論理的に大きな誤りがある答案など。時間切れで中途半端になった答案を含む。」
例1:1+2=3だから。
例2:偶数と奇数が「偶数、奇数、偶数、奇数、偶数、奇数、・・・」と交互に並んでいるから。
例3:偶数を奇数にするためには偶数を足しても駄目だが、奇数を足せばよい
例4:偶数同士を足すか奇数同士を足さない限り、整数の和は偶数にはならない。したがって、偶数と奇数の和は奇数である。
例5:学校で習ったのだから「偶数+奇数=奇数」が間違っているはずがない。

あるいは、「典型的な誤答」として次のような説明があった。

[C-1]隣り合う偶数と奇数に対してのみ証明している答案
[C-3]C-1,C-2,C-4群以外で、論理的には大きな誤りがない答案
例1:偶数(ないしは奇数)を2個以上足す場合を考察している。(問題文を誤読している答案)
例2:正答例の冒頭や末尾の「整数」部分が「実数」となっている。(数学用語を誤用している答案)
例3:正当例の冒頭の「整数m,nを用いて」に対応する部分がない。
[C-4]論理的な誤りはないが何を証明すべきかが理解できていない答案や、厳密な証明ではなく大雑把な説明になっている答案
以下に答案の例を具体的に示す。
例1:「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
例2:「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
例3:「偶数と奇数は、『偶数、奇数、偶数、奇数、偶数、奇数、・・・』と交互に並んでいる。したがって、奇数を偶数の分だけずらしても奇数のままである。」

ここで取り上げられている例には様々なものがある。しかし、「三角と三角を足したら四角になるのと同じで、四角と三角では四角にならないから」という答案例以外に、「例え話」などと呼べる答案例がどこにあるというのだろうか?「学校で習ったのだから「偶数+奇数=奇数」が間違っているはずがない。」は、単なる文献提示に過ぎないが、「例え話」ではない。「どんなに数が大きくなろうとも、1の位は同じ循環をし続けるから」は、適切な説明ではないのは明らかだが、偶奇性が1の位で判定できるということを使おうとしているように見える。これを「例え話」というのは言いすぎだと思う。はっきり言って、ここで取り上げられている他の例のどれをとっても「例え話」ではないことは明白だ。新井氏の記述は、概要版や抜粋で取り上げられた答案例とは乖離していて根拠不明だ。

そして、そもそも「三角と三角を足したら四角になるのと同じで、四角と三角では四角にならないから」という答案例を書いた人が一体どれだけいたのだろう?以前にも書いたが、この答案例は、本問の答案として適切ではない「例え話」だろうが、かなりユニークな説明のように見える。まさかこういう答案を書いた人が一人だけなどということはよもやないと思うが、このような特異的であるとしか思えない例を使って「珍答が続出」などと断定することに疑問を感じる。

「偶数と奇数の和が常に奇数となること」(問2-1)に関する記述(2)─具体例をあげること─

記事はさらに続けて次のように述べている。

説明に困った時には、具体例を手がかりにするといい。「2+1=3、4+1=5だから、偶数と奇数を足せば奇数になる」と考えるのは、筋としては悪くない。ただ、具体例をいくつ並べても、一般的な証明にはならない。例えば、健康食品のセールスで「これを食べたら、Aさんも痩せたし、BさんもCさんも痩せた。だからあなたも痩せますよ」と言われても、確実に痩せる保証にはならない。都合のいい事例だけを並べているのではないか、との疑いが残る。
万人を納得させるには、具体例を一般論に変換する必要がある。この問題は、偶数を「2x」、奇数を「2y+1」など、文字や記号で表現するのがポイントだ。

記事の中の図解には、
Level1全然ダメ「例え話でごまかす」
の次に、

Level2ここからスタート!「具体例だけを示す」
「思いつく偶数と奇数を足してみたらすべて奇数になったから」
「2+1=3,4+1=5だから」
「偶数とは何か」「奇数とは何か」を「具体例」で捉えている点で、一歩前進。「具体例」を「イtパン論」に落とし込めれば、正解にたどり着く。

という説明がある。さらにその下にも説明で

白紙は別として、誤答の中で、最も正答に遠いのは、曖昧な例え話でごまかしてしまうケース。実際に偶数と奇数を足して、奇数になることを確認した人は、それよりも一段、レベルが上。

と書いている。そもそもこの問題を扱っている節のタイトルは「具体例を手がかりに・・・」だ。問題3のポイントとしてでかでかと

「具体例」だけでは根拠が弱い

と書かれている。これはかなり常識的な書きぶりになっている。(セールスの話はあとでコメントする。)

しかし、よく思い出して欲しい。報告書概要版で、具体例のみで論証終了とした答案を、「重篤な誤答」と評価し、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」と判断していたのではなかったのか。あるいは、報告書抜粋や新井-尾崎論文では、「論理的に説明するための前提に立っていない」と判断し、「深刻な誤答」としていたのではなかったのか。「一歩前進」とか「筋としては悪くない」とか「一段、レベルが上」とか「根拠が弱い」とか「具体例をてがかりに」といった記述と、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」という評価とが、同じ内容の答案に対する評価として整合的であるなどとは到底思えない。この落差には率直に言って呆れてしまう。

どうしてこういう明らかに異なった記述が出来るのか、私は理解に苦しむ。
日経ビジネスの読者層を考えて表現を弱めたのか、はたまた、大学生に求める「論理的コミュニケーションの前提」と日経ビジネスの主要な読者層である「社会人」に求める「論理的コミュニケーションの前提」に違いがあると考えているのか。いずれにしても、そうした理由を明示しないまま、媒体によって評価の質的な内容が全く違う趣になるような記述をする態度は不誠実だと私は考える。

思い出してみると、日本数学会のシンポジウムの中で、問1-1の平均の問題に関して、有効数字の取り扱いについて説明した大学教員に対し、統計的には問題が無いという答えと同時に、この問題は大学新入生を対象としたもので大学で統計学を教えている教員を対象としたものではないという発言をしていた。問1-1は、「確実に正しいと言えること」を選ばせる問題であった。対象が誰であるかによって「確実に正しいと言える」ことが変わってもよいとするのなら、もはやそれは「数学」ですらなくなってしまっていると思う。誰が対象となっているかによって、説明の丁寧さや内容的な深みや強調する側面が変化することはあってよいと思う。しかし、「確実に正しいと言えること」が変化したり、「論理的コミュニケーションの前提」を満たしているか否かに対する評価が変化してしまうことは、やはりあってはならないことだと思う。

「偶数と奇数の和が常に奇数となること」(問2-1)に関する記述(3)─その他─

記事の中の図解に

Level3惜しい!「一般化の詰めが甘い」
「偶数を2x、奇数を2x+1とすると、その和は4x+1だから」
とても惜しい回答。一般化に挑戦しているが、「2x」と「2x+1」では、「2と3」「4と5」など、連続する2つの数しか表現できず、例えば「2と5を足した時に奇数になる」ことは証明できない。

という説明がついている。上でも書いたが、Level2の「具体例だけを示す」の説明に

「偶数とは何か」「奇数とは何か」を「具体例」でとらえている

という一節があった。

これは竹山氏の論文について検討した際にも指摘したが、「偶数を2x、奇数を2x+1とおく」から始まるという答案は、形式的には文字式を使っていても、内容的には「連続する2整数」という「具体的」な場合しか証明できていない。それは確かに無限個の偶数と奇数の組について照明を与えているが、やはり「すべて」を証明したとは言えない。それを「とても惜しい」と形容することに私は疑問を抱く。
「偶数を2x、奇数を2x+1とおく」から始まる答案と同様に「典型的な誤答」とされた「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」という答案例は、文字式こそ使っていないが、「例え話」でもないし、「具体例」でしか論証できないないわけでもない*1。一般の偶数と奇数の組について証明しているのである。
やはり「典型的な誤答」とされた「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」や
重篤な誤答=深刻な誤答」とされた「偶数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから。」についても同じことが言える。
出題側は、文字式を使えることを相当程度重要視して、「とても惜しい」と言っているのだろうが、一般的な/抽象的な/高度な道具を使ってみるという姿勢があっても、肝心の答案の内容に問題があるのでは意味がない。道具に振り回されて肝心の証明の内容が不十分であるこのような答案を「とても惜しい」と評価することに私は反対である。

「奇数とは何かを明確に示したい」とか、「「偶数とは何か」「奇数とは何か」を「具体例」でとらえている」という表現にも問題がある。この問題で問われていることの中には、(馬鹿馬鹿しいことだけれど)偶数と奇数の定義は確かに含まれている。しかし、「偶数と奇数の和は常に奇数」ということを示す問題で、「具体例」をあげた人が、「偶数は2の倍数」「奇数は2の倍数に1を足したもの」という定義を理解していないと断定するのは無理があるし、「偶数」「奇数」というもの、「-2,0,2,4,6」とか「-1,1,3,5,7」のように具体例だけでしか理解していないかどうかはわからない。はっきり言って「当たり前」すぎるのでよく聞いてみればちゃんと定義を言える人は決して少なくないと思う。もちろんそうではない人もいるだろうけれど。答案だけを見て、回答者の能力や理解のレベルをあまり断定的に述べるべきではないと思う。しかも、本問では、「偶数を2x,奇数を2x+1とおいて」とやってしまった人は、「奇数とは何か」「偶数とは何か」ということははっきりわかっている。問題はその先の部分にあって、「任意の偶数と奇数の組」をどう表現するかという部分にあるわけだから、何か「定義」が明確にできれば、本問で文字式を用いた説明が書けるというわけではないということが、「偶数を2x、奇数を2x+1とおく」と始まる答案例に表れている。記事では、「偶数とは何か」「奇数とは何か」を明確にするという点に焦点が合わせられすぎているように見えた。

問題文にある「理由を説明せよ」という書き方に関連して、問3を「ロジカルな説明力を試す」とタイトル付けしたり「難しいのは、その理由の説明だ」は問題文にそった記述だが、図解の中では、「難しいのは、その証明だ」という表現があったり、「一般的な証明にはならない」という記述があるように、「説明」と「証明」が混在しているのは相変わらずである。こういう用語法に意図があったとはいえ、適切ではないと思う。

社会的有用性の観点(1)─「具体例」を挙げることとセールスの例について─

上で出てきた健康食品のセールスと具体例の関係について、もう一度本文を抜き出しておこう。

ただ、具体例をいくつ並べても、一般的な証明にはならない。例えば、健康食品のセールスで「これを食べたら、Aさんも痩せたし、BさんもCさんも痩せた。だからあなたも痩せますよ」と言われても、確実に痩せる保証にはならない。都合のいい事例だけを並べているのではないか、との疑いが残る。
万人を納得させるには、具体例を一般論に変換する必要がある

この例は、社会的な観点で「具体例」と「一般論」の難しさを実は端的に示しているのではないだろうか。
もしこの健康食品が「確実に痩せる保証」を「一般論」で証明しようとしたらどうすればいいだろうかと考えてみよう。無論「どんな人でも痩せる」ことを証明すればよい。
そのためのひとつの方法は、この食品が痩せるという効果をもたらす機序を解明することかもしれない。それは人間に共通した系を使って説明できたとすると、かなり「一般論」的な証明であろうが、現実にはなかなか難しい。そもそも医療用の薬剤でさえ、必ずしも効果をもたらす「機序」が解明されているとは言えないものが多くある。また、機序が変わっても、体質のような個人差の壁はある。文字通りの意味での「すべての人」が痩せられるということを証明できるわけではない。
だとすれば、痩せた人を3人ではなく、例えば1万人持ってくればよいだろうか?これはかなり数が多いという意味で、3人の例よりもずっと説得力があるように見える。だが一般論ではない。具体例に過ぎない。
あるいはもう少し自然科学的な立場から言うと、対照群を設定しなければいけない、ということになるだろう。その健康食品を摂取するという点だけを変え、他の生活習慣や食事の内容などはなるべく統一した2つの集団を用意して、実際に痩せるかどうかを比較するというわけだ。これで有意な差が出れば、かなり説得力があるかもしれない。しかし、これさえも「全ての人」が「確実に痩せられることを保証」できるわけではない、という意味で「具体例」による説得ということになる。

文字式を使ってすべての偶数と奇数の組について論証できるということは、確かに数学という営みにおいては重要なテーマであるが、しかし、そのことと社会的な問題における説得の方法との間には、一筋縄ではいかない乖離があることが、この例でも容易に理解できるのではないだろうか。この健康食品のセールスの例も、「数学における論証」と「社会における説得」とが直接的に結びつくことをイメージさせようという意図のもとに選ばれているのだろうけれど、この例ですらそういうことを示すには無理がありすぎると思う。

平均についての問題(問1-1)に関する記述

1つのデータの裏に複数の可能性がある

という見出しで、平均に関する正誤判定問題である問1-1が取り上げられている。身長の分布が正規分布であるとは限らないことを図解で説明している。そのこと自体に問題があるわけではない。
しかし、社会性との関連という点で言うのなら、もう少し具体的な事例を引きながら述べるべきなのではなかろうか。
100人の中学生の身長のデータをとったとき、平均値の生徒がほとんどいないような2こぶの分布を示したり、ある一人の生徒だけ身長が2倍もあるかのような分布だけを載せるというのもいかがなものかと思う。
たしかに極端な事例で考えてみることは大切だ。それによって物事の見通しが立つことはありえるだろう。
しかしもう少し現実的にも起こりうることを述べて欲しい。
例えば、政府統計の窓口から平均身長のデータが取れる。
14歳男子165.58cm、14歳女子156.78cm
15歳男子168.34cm 15歳女子157.03cm
このデータから中学三年生の年齢では、すでに男女に10cm近く平均身長の差が出来ていることがわかる。
仮に男子だけでみたら正規分布、女子だけで見たら正規分布という状況でも、同数の男女を合わせてみるだけでも、2つのこぶができて、平均値=最頻値ではなくなる。
また、やや男子の方が多いクラスを想定すれば、平均値=中央値も成り立たなくなる。
正規分布でなくなるという事情が、かなり極端な状況でしか起こりえないのことではなく、むしろ現実的な状況で容易におきること、平均身長のような一見正規分布しそうな統計でも容易に起こりうること、
そこまで強調してこそ、ビジネス誌に載せる文章になるのではないか。

「1つのデータの背後に複数の可能性がある」ことを見破れるかが鍵だ

などという抽象的なことを言うのもいいが、それだけではなく生身のデータを持ってきて論じるべきだろう。

平均に関する問題についてはこのぐらいで十分かと思っていたら、よくよく見るとどうもおかしな記述が他にもあった。選択肢(2)に関する記述が囲み記事の形で書かれている。

操作手順を逆算できる?
(2)は「思考のプロセスを逆行できるか」を試す問題。「生徒100人の身長の平均が163.5cm」というデータは「生徒100人の身長の合計÷100=163.5」という計算から導かれる。とすれば、「生徒100人の身長の合計=163.5×100」という関係が成り立つはず。自分の思考プロセスに誤りがないかをチェックする「見直し」に不可欠の考え方だ。

単に、x/100=163.5という一次方程式を解くだけなのに、「思考のプロセスを逆行できるか」などというのはいかにも大げさだと思う。そもそもこれは何を逆にしたというのだろう?
「100人の身長の合計は16350cmでした。平均は何cmですか?」という問題を解いて答を出したとき、その答えを100倍してもとの16350になるかどうか確認するというのは、割り算よりも掛け算の方が間違えにくいかもしれないという点で有効かもしれないが、
それは何かを「逆」にしたものだろうか。どこで「思考のプロセスが逆行」しているのだろう?
この文章の言い方では、x/a=bという一次方程式を解くことは、何らかの思考のプロセスを逆行できるかどうかを見ることができる問題だということになってしまうのだろうか?
率直に言って、言葉が踊っているだけで意味するところが不明だ。

より問題なのはむしろ後半である。
「自分の思考プロセスに誤りがないかをチェックする「見直し」に不可欠の考え方だ。」という文章では、一体どのような考え方が、「自分の思考プロセスに誤りがないかをチェックする「見直し」に不可欠」だと主張しているのだろうか?
具体例をばっさり切り落とせば、「思考のプロセスを逆行できること」と読むしかない。
ある仮定から出発して、ステップ1、ステップ2、ステップ3と議論を積み重ねて結論を得たとしよう。自分の思考プロセスに誤りがないかどうか確認したければ、ステップ1で誤りがないか、ステップ2で誤りがないか、ステップ3で誤りがないか、と順番に見直していくというのはごく自然なことだと思う。さてそのような場合、どこで「思考のプロセスを逆行」させたのだろうか。「不可欠」というからには、「自分の思考プロセスに誤りがないかをチェックする」ときにはほとんどいつも使うということなのだろう。しかし、どう贔屓目に見ても、この具体例はせいぜい割り算の検算程度の意味しか持ち合わせておらず、とても一般的に何かを主張できるようなものになっていない。
やはりこれも言葉だけが踊っていて、意味するところが不明瞭なままだ。

社会的有用性の観点(2)─命題論理と詐欺、契約書、社会学など─

命題論理を扱っている問1-2は

条件文には落とし穴がある

というリード文を用いて紹介されている。ここでは、「逆・裏・対偶」という命題論理で使う概念を、例と問1-2に即しながら説明している。その説明は比較的丁寧に行われているように思う。
しかし社会とのかかわりに関する記述には問題があると思う。3つの文章を取り上げる。

ビジネスに頻出する「逆・裏・対偶」で検証しよう。

条件文の読み替えは意外に間違いやすく、詐欺にもよく使われる。高校数学で習う「逆・裏・対偶」で整理すると分かりやすいが、試験ではあまり出題されないので、忘れている人が多い。ただ、契約書をはじめ、ビジネス文書では頻出で、社会学系の骨太な本を読む解く時にも不可欠。左の「巨人軍の選手とプロ野球選手」のような分かりやすい事例で覚えておけば、思い出しやすい。

「条件文の読み替えは、古代から人間が最も間違えやすいロジックとして知られ、詐欺にも良く使われる『逆・裏・対偶』は、いわばサバイバルのための概念だ」と新井さんは話す。条件文はビジネスでも契約書をはじめ頻出なので、覚えておく価値は高い。

例がない。この部分で取り上げられているのは、「巨人軍の選手であるならば、その人はプロ野球選手である」という命題の「逆・裏・対偶」と今回の調査問題の問1-2だけである。この2つの命題は、確かに条件文とその読み替えかもしれない。しかし、詐欺、ビジネス、契約にはおそらく関係ない。はっきり言って同じことを三回も書くくらいなら、一体どういう条件文が詐欺で使われているのか、そしてそれに「逆・裏・対偶」という概念がどう有効なのか、あるいはビジネスや契約書で使われている条件文とは具体的にどのようなもので、それに「逆・裏・対偶」という概念がどう有効なのか、ひとつでもふたつでも例を書いて欲しいものだ。こんな文章からでは、本当に条件文の読み替えが詐欺でよく使われているのかとか、ビジネス文書や契約書で使われているのかとか、そういったことを全く諒解できない。

詐欺といってもいろいろある。オレオレ詐欺のような声色を用いた手法もあれば、あとで返すといって返さない寸借詐欺のようなものもある。いかさまや食い逃げだって詐欺だ。そういう種類の詐欺には、条件文の読み替えも何もない。
いったい詐欺でも良く使われる手口としての「条件文の読み替え」とはどのようなものなのか全くわからない。

そもそものところ、「条件文」とは何か。その定義がはっきりしない。一体どのような条件文が「ビジネス」「契約書」に頻出なのか全くわからないし、「社会学系の骨太な本を読む解く時」に不可欠なのかまるでわからない。ましてや、「逆・裏・対偶」がどう有効なのかもはっきりしない。

「『逆・裏・対偶』は、いわばサバイバルのための概念だ」というのも理解に苦しむ。「逆・裏・対偶」が理解できてないと本当に生きていくことができないのだろうか?「サバイバル」って一体どういうレベルで使っているのかまったく理解できない。残念ながら詐欺にひっかかってしまう人がいる。しかし、それは「逆・裏・対偶」を理解していないからなのか。日々契約書の作成を行っている人、あるいは社会学徒は、本当に「逆・裏・対偶」がわかっているのだろうか。あるいはわかっていないと仕事ができないのだろうか。

既に何回も指摘してきたことだが、現実の社会的な場面では、具体的な例を十分に掲げることが、相手を説得するための有効な方法の大きな柱になっている。新井氏はそのことにもっと注意を向けるべきだ。「偶数と奇数の和が常に奇数であることの理由説明」で例示だけにとどめた答案を「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」などと断定する前に、もっと適切な例を使って自分の抽象的な主張を裏付けようとする努力を試みるべきだ。そういう基本的な手法が身についていないのではないかと疑わせるような文章を書くべきではない。

作図の問題(問3)について

作図の問題は「オマケの難問」として扱われているが、そのリード文は

「新しい基準」を導入できるか?

である。与えられた線分上にはない点をひとつとることを「新しい基準」を導入することと言っているようである。
この問題について、

クリエイティブな発想力を試す
ある種のクリエイティビティーが問われる。
「新しい基準を導入する発想が必要なので、難しい」
(新井さん)

というコメントがついている。

まず第一に、実施側の一人である竹山美宏氏が、「数学文化」の記事の中で、次のように述べていることを忘れるべきではない。

この問題は数学的な発想力を試すものではない。なぜなら、相似を利用して線分を三等分するというテーマは、ほとんどすべての中学校の教科書に例題として掲載されているからだ。

これは一体どういうことだろうか。この2つの記述に整合性があるとは到底思えない。もちろん竹山氏は自身の記事の内容をあくまで私見であって日本数学会の見解ではないと述べている。しかし、新井氏も竹山氏も実際に調査を実施した側なのである。かたや一方が、全ての教科書に取り上げられているのだから「数学的な発想力を試すものではない」といい、もう片方が「新しい基準を導入する発想が必要なので、難しい」という。

新井氏自身の記述に戻ってみると、新井-尾崎論文の中には、次のような記述があった。

問題は、小学校から高校一年の教科書に掲載されるもっとも基礎的・基本的内容のうち、数学固有の知識や計算力をなるべく問わないものから選んだ。

本調査の内容は先に例を挙げたように、どの子も等しくできなければ、それ以降の学びが困難になる等、彼ら自身が困ることがらばかりである。小中学校でつまずいたなら、それを修正する機会が十分に与えられるべき内容なのである。その正答率が入学しうる大学の偏差値に直結し、しかも全体の正答率が低いレベルに留まったということは、初等・中等教育の設計に何らかの欠陥があるといわざるを得ない。

アソシエの記事の中には、

「オマケの難問」は、ほとんどの中学校の教科書にある基本的な作図問題。

という記述もある。
「もっとも基礎的・基本的内容」なのに「発想が必要なので、難しい」のか。「どの子も等しく出来なければ、それ以降の学びが困難になる等、彼ら自身が困る事柄」であるにもかかわらず、「発想が必要なので、難しい」のか。「基本的な作図問題」なのに、「発想が必要なので、難しい」のか。

これらの記述には整合性がない。「難しくないですが、難しいです」と言っているようにしか見えない。こういう整合性が崩壊したような記述は、媒体が異なるからとか、実施側の個人が異なるからといった理由で正当化できるものではないと思う。その問題を十分に時間をかけて検討したのかとか、出題側がその問題をどう見るかという点についてコンセンサスを取る努力が行われているのか、といった点にさえ、もはや疑義を抱かざるを得ないのである。

全体的な問題点について

全体に関わる問題点についていくつか指摘したいと思う。

まず今回の記事で取り上げられている4つの問題全体に関するコメントとして

問題作成に関わった国立情報学研究所新井紀子さんによれば、「数学を解答例の暗記でごまかしてきた人は正解できないように作ってあるので、意外に手強い」。

という記述がある点だ。
3つ問題があると思う。

第一の問題点は、「数学を解答例の暗記でごまかしてきた」という言い方が曖昧過ぎる点である。一体どういう人が「解答例の暗記でごまかしてきた」というのだろう。本当に「解答例」しか「暗記」していないのだとしたら、全く同じ問題が出ないと解けないことになる。しかし、どんな受験生でもそんなに馬鹿ではないはずだ。いろいろな問題にあたってみて、理屈は良く分からないけどこういう手法もあるんだなという経験を積み上げて、なんとか目の前の目新しい問題に取り組み合格してきた人の方が多いと思う。「解答例の暗記」というのは単なるステレオタイプであって、「数学の苦手な人」について論評する常套句のようになっているが、実態はそういう簡単に割り切れるような話ではない。物事を単純化して見すぎているのではないか。

第二の問題点は、仮に「解答例の暗記でごまかしてきた人」がいたとして、その人はこういう問題が解けないのかどうかは論証されていないということだ。今回の大学生数学基本調査では、どのようなタイプの数学の試験を受けてきたかについては一定のデータを取った。しかし、そもそも数学の試験を受けずに大学に入った人が、「解答例の暗記でごまかしてきた」かどうかはわからない。それはマークシート式試験だけで入ってきた人も同様だ。試験の方式だけで、「数学」の理解の仕方を把握できるわけではない。検証できないことをあたかも真実であるかのように語る記述には問題がある。それは単なる新井氏の独断に過ぎない。

第三の問題点は、上の新井氏の発言を、「数学を解答例の暗記でごまかす⇒正解できない」という「条件文」として読むと、その対偶、「正解できた⇒数学を解答例の暗記でごまかしていない」ということになる。本当にそうなのか私は大いに疑問だ。高校生の数学においては、理屈は厳密には正当化できないが、とりあえずこうやれば解けるというふうにしか教えようが無い部分は少なからずあるし、逆に言うと数学の理解の仕方の決定版があるわけでもないから、ある程度経験知で乗り切らなければならない側面もある。今回の調査の問題が出来た人が、そういう「数学」のやり方をしていない人だけだというのはやはり無理がありすぎると思う。そもそも、新井氏は、「問題は、小学校から高校一年の教科書に掲載されるもっとも基礎的・基本的内容」とか「どの子も等しくできなければ、それ以降の学びが困難になる」といっているのである。それらの出来だけで、もう少し高度な内容が問われている高校数学全般の理解の仕方について評価できるというのは言いすぎだ。

今回の日経ビジネスAssocie誌の記事では、

  • 社会との繋がりに関する部分で根本的に事例が不足しすぎている。
  • 問題内容の評価の点で、他の媒体との整合性が破綻している。
  • 抽象的な内容の言葉が踊っているばかりで、その具体的意味内容が不明確な部分が散見される。また言葉の選び方に一貫性が乏しい部分がある。
  • 新井氏独自の見解、あるいは独断とおも思える断定的記述がある。
  • そもそも「主観と客観の区別」という重要な論点であったはずの「放物線の重要な特徴」を述べる問題が割愛されている。

などの問題点があると思う。

また、日本数学会とその中の教育委員会なる組織が実施した調査の結果について、例えば、日本数学会教育委員会からの報告(pdf)の項目8
「最終結果については,報道発表,シンポジウム,一般書籍などでの情報発信を予定.」
とあることは以前にも紹介したが、ここで言う一般書籍が「日経ビジネスAssocie」を含むのだとしたら、ここに述べられている見解は、やはり新井氏個人のものなのか、それとも日本数学会としての見解なのかが不明確になる。
私には、もはや今回の記事では新井氏独自の見解が相当程度ミックスされてしまって、教育委員会の中や日本数学会の中で個々で述べられているような評価がどれだけコンセンサスを得られているのか多いに疑問であるし、それはあえて悪く言うと新井氏による調査結果の「私物化」とさえ言えなくもない。

*1:強いて言えば「=」をどういう意味で使っているかが曖昧なのだが、それがダメだという指摘はまだどこにも書かれていない。

日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その14)─雑誌「数学文化」第18号の竹山論文をめぐってV─

雑誌「数学文化」第18号に、『問題提起としての「大学生数学基本調査」』と題する竹山美宏氏の論説についての検討を行っていた。

「欲望論的アプローチ」との関係について

「4.おわりに」の中で竹山氏は次のように述べている。

 いかなる調査であれ設計者の眼差しを前提とせざるを得ない以上、本調査のような実証的手法による結果をいくら積み重ねても、それだけからすべての人が了解できる当為を取り出すことは難しい。なぜなら、異なる眼差しから設計された調査を実施すれば全く別の世界像を語れるだろう、という可能性の直観を消し去ることはできないからだ。それは社会のありようを真に客観的に捉えるのは原理的に不可能であることの帰結である。そして、複数の世界像が対立するとき、当為の正当性を支える規範を互いに主張しあうだけでは、その対立を解消することはできない。そのような規範にも一定の説得力があるからだ。互いの世界像の優位を主張しあうことにも意義はあるだろう。しかし、大人が繰り広げる相対主義的な批判の応酬が、ニヒリズムを社会に招いているのだとしたら、少し立ち止まってみる必要がある。「何とでもいえる」「権力ゲームに強い者の言い分が通るだけ」というニヒリズムは、言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲を殺してしまう。それが数学を学ぶ意欲をも殺してしまうことは、本誌の読者であれば容易に想像がつくはずだ。
 相対主義的な混乱はいかに克服できるか。ひとつのアイデアとして苫野一徳が提唱する欲望論的アプローチがある。私達が「教育はかくあるべし」と主張したくなるとき、その背後には自分の経験の中で抱いた「この教育はよいものだ」という確信がある。その確信が訪れたこと自体は本人にも疑うことができない。そして、この場面だけが共通了解を組み上げるための基盤となりうる。

“さて、とすれば私達は、教育とは何か、そしてそれはどうあれば「よい」といいうるか、という(略)問いについても、今やその根本的な問い方を手にしたことになる。すなわち、私はこのような欲望・関心のゆえに、教育の本質と正当性を次のようなものとして捉えているが、果たしてこの欲望・関心は、普遍的に了解されうるものであろうか。そしてまた、この欲望・関心から導出された教育の本質および正当性論は、十分共通了解の得られるものとなっているだろうか。これが私たちの問い方となる。
 換言すれば次のようになる。私達はいったいどのような教育を欲するのか。そしてそれは、普遍的に了解されうる欲望、およびそこから導出された、普遍的に了解されうる教育のあり方と言えるのだろうか。(苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』)”

 本稿の後半は、私なりの欲望論的アプローチの試みである。

この部分をどう批評するべきか、私には正直よくわからない。あえて率直に感想を述べるなら、「大学生数学基本調査」と何らかの意味での「相対主義的な混乱」との間の関係が不明だ、ということである。いま、「大学生数学基本調査」というものに関連して何か「相対主義的な混乱」があるというのだろうか。この最後の節と苫野氏の議論の引用は、私にはいささか唐突なものと映る。竹山氏の問題意識はいろいろあるのだろうが、少なくとも「大学生数学基本調査」に関する報告/私見という観点からは、ピントがぼやけてしまっていると感じる。

苫野氏の議論には、現実にはもっと大きな問題があると私は考えている。それについては次の「補論」を参照して欲しい。

(補論)苫野氏の「欲望論的アプローチ」について

私は苫野氏の著書を一読してみた。私が苫野氏の議論を十全に理解しているとは限らないということを前提に、誤解を恐れず要約してみると、次のようになる。

苫野氏は、教育学の立場に見られる「理想・当為主義」と「相対主義」を批判的に検討している。「理想・当為」を語る立場は異なる「理想・当為」の間で深刻な対立を招きそれを調停することが困難になる。その一方で、ポストモダン思想を中心に、「理想・当為主義」の暴力性や政治性に対する批判を糧として、絶対的に正しい理想・当為などというものは存在しないのだという相対主義が唱えられてきた。しかしそれは、逆に「どのような教育を構想していけばよいか」という問いに教育学が全く答えられなくなってしまうという事態を引き起こしてしまった。苫野氏はこうした認識の上で、次のような「欲望論的アプローチ」を提示する。すなわち、理想・当為を直接的に語るのではなく、その理想・当為に至った自身がどのような教育を欲しているのかという「欲望」に立ち返ってみるのだ。理想や当為といった「教育論」を支える自身の「欲望」が他者にとって十分に了解できるものかを互いに問い合うことが共通了解を構築することの原動力になる、というのである。竹山氏はおそらく苫野氏のこうした議論を念頭に、欲望論的アプローチにコミットしているのだと考えられる。



私は、苫野氏の議論全体をここで詳細に考察するだけの用意はない。しかし、「欲望論的アプローチ」を取ることによって何らかの「共通了解」に至れるはずだという苫野氏の「確信」には必ずしも同意できないし、そこには強い違和感があるということだけを述べておきたいと思う。



それ以上にここで指摘しておきたいのは、苫野氏が述べている点が、単に上ような「欲望を問い合うことによる共通了解の構築(可能性)」に留まらないということである。苫野氏は、確かに、その欲望が他者に了解されるものであるかどうかを問い合うことから始めようと述べている。しかし苫野氏は、その欲望が他者に了解されるものであるかどうかの基準を続けて述べているのである。苫野氏は教育の「本質」を、

「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」(p.28)

と述べている。この実質化が十全に達せられているときのみ、その公教育は「正当化」されるのであり、教育政策の正当性はこの点から担保されるのだと述べている。



私は、苫野氏の議論の有効性や書物の中で提示されているいくつかの実践例について評価していないわけではない。しかし、「自由」と「自由の相互承認」を重要視すると表明したとしても、そのことだけでは、現実の具体的な問題についての処方箋を提示することはできないと思う。現代は、多種多様な「自由」が互いにせめぎ合い、到底「相互承認」など望むべくもない状況に見えるからだ。その上で、少なくとも、学習カリキュラムという点に関して、苫野氏が次のように述べていることを見落とすべきではないと思う。少し長くなるが、苫野氏の見解をなるべく誤解なく引用するためにご容赦を請いたい。

 特に義務教育段階において育成獲得が保障されるべき<教養=力能>を、私は「共通基礎教養」と呼ぶことにしたい。

 ここでいう「共通」には、二つの意味が込められている。

 一つは、すべての子どもたちに共通に獲得を保障すべき基礎教養という意味である。この意味での共通教養がなければ、知識習得に著しい不平等が生じてしまう。また社会全体から見ても、この共通教養がなければコミュニケーションは著しく滞るだろう。
「共通」のもうひとつの意味は、将来どのような学業や職業に就いても、一定程度共通に必要とされる教養ろいう意味である。この意味での共通教養を保障しなければ、各人のその後の進路選択の自由は著しく狭められてしまうことになるだろう。

 この「共通基礎教養」の本質を、私は三つ取り出したいと思う。一つは、重要な「諸基礎知識」、二つは「学び(探究)の方法」、そして三つは、「相互承認の感度」である。

(中略)
 「諸基礎知識」についてから論じよう。

 思い切っていえば、私の考えでは、この諸基礎知識の量については、それほど膨大かつ細かなものではないし、むしろそうであってはならないものである。教育を最大の関心事の一つとして、数学者であり哲学者でもあったホワイトヘッドは、教育の原則は「多くのことを教えすぎるな」、そして「教えるべきことは徹底的に教えよ」であるといっているが、私もまた、共通基礎教養についてはこの原則が当てはまるといいたいと思う。

 なぜか。それは、そのことこそが、まさに各人の<自由>を最も十全に実質化しうる「学力観」であるはずだからである。

 何のためにこれを勉強するのか、と子どもたちを悩ませ学習意欲を喪失させる最大の理由は、細かで膨大な知識、つまりホワイトヘッドのいう「生気のない諸概念」を学習しなければならないという感覚にある。そのことは、探究心、そしてこの探究心を持った「学びの方法」の育成もまた妨げることになり、結果として、子どもたちを<自由>の獲得から遠ざけてしまうことになるだろう。数学者ホワイトヘッドでさえ、「二次方程式の代数的解法が数学専攻者のためだけでなく、多様なタイプの少年たちに課されるというのはどうなのか」といっているが、これは多くの人たちの実感でもあるのだろう。

 それゆえ私は、学力の本質は、重要な「諸基礎知識」と、探究心を失わせることなく育むべき「学び(探究)の方法」にある、といいたいと思う。

 もちろん、「教えるべきことは徹底的に教えよ」というホワイトヘッドの原則は重要である。それゆえ、重要な「諸基礎知識」については徹底的にその獲得を保障する必要がある。しかしそれと同時に、その過程において「学び(探究)の方法」を十分に身につけることができれば、子どもたちは自ら探究したいと思う事柄について、学校が教えるより効果的に、また深く、自ら学ぶことができるようになるだろう。

 それゆえに私の考えでは、子どもたちが獲得すべき「諸基礎知識」の量は膨大である必要はない、というからといって、社会全体の学力低下や国際競争力の低下などを心配する必要はない。ほんとうに重要な「諸基礎知識」とその系統性を見きわめ、その獲得を必ず保障すると同時に「学び(探究)の方法」を育成することに力を注げば、それはむしろ、各人にとっても、そして社会的にいっても有為な力能を、長い目で見ればより引き上げることを意味するはずであるからだ。

 教育は長い目で見ることが重要だ。私たちが考えるべきは、義務教育段階においてどれだけ高い知識到達度に達することができたかではなく、どれだけ「諸基礎知識」と「学び(探究)の方法」を確実に育成獲得することができたか、ということにある。もちろん、より高い到達度を目指したい、あるいは目指しうる子どもたちの学力向上については、その機会は十分保障される必要がある。しかし義務教育段階において決定的に重要なことは、「諸基礎知識」の「分かる」「できる」を徹底すること、そして「分かる」「できる」をより充実させていくための「学び(探究)の方法」を、徹底的に育んでいくことなのである。
もちろんこれまでの日本では、学習内容や時数を削減した「ゆとり教育」のために、学力低下が問題化されてきた経緯がある。しかし、ただ学習内容を削減するだけでは不十分どころかむしろ弊害があるのは当然のことで、私の考えでは、私たちは「諸基礎知識」の系統性の徹底と「学び(探究)の方法」をどう育むかという教育方法の拡充や教師の熟練を、必ずセットにして教育(カリキュラム)を計画しなければならないのである。

 それだけではない。私たちは、後述するように、義務教育終了後における、多様な教育機会の充実、あるいは学び直しを可能にする社会・教育のあり方をつくるという課題もまた、同時に探究していく必要がある。「諸基礎知識」と「学び(探究)の方法」を土台として、後に論じる「自らの教養」を、多様にかつより深く育んでいくことのできる、十分な教育機会が必要なのである。
したがって、義務教育段階における「学力」の本質を「諸基礎知識」と「学び(探究)の方法」として明確化し、これを現実のものとしていくためには、私たちは、学習内容の精選から教員養成・研修のあり方、教育方法の充実、そして生涯学習社会の充実に至るまで、広く長期的な視野を持って着実に計画を進めていく必要がある。そして繰り返し述べておくが、私は右のような「学力」論を、前章で明らかにした教育の本質論に基づいて導出している。まさに私たちは、学力論も教師論も教育方法論も生涯学習論も、すべて、教育の本質(原理)を達成するための実践理論として考えていく必要があるのである。(p.151-154)

私が苫野氏の議論に違和感を覚える大きな理由の一つは、議論の中身がともすれば抽象的なものに終始し、具体的な事例に即して対立を調停するという場面を回避しているように見える点である。もう少しフェアに言えば、もちろん苫野氏は、支援組織としての教育委員会というあり方などの実践事例は提示しているから、具体的事例が全くないというわけではない。しかし、学習カリキュラムに関する限り、上で引用した部分に対する具体的な事例は、「二次方程式」に関する部分以外にないように私には見受けられた。


あえて誤解を恐れず率直に言えば、苫野氏がここで述べているようなことは、こと義務教育における学習カリキュラムについて、おおよそ合意の取れる共通了解であろう。しかし、具体的な対立の生じている場面はそこではないと思う。例えば、義務教育段階で「二次方程式の解法」を教えるべきだと考える立場は根強くある。しかし苫野氏は、逆の立場に立っている。しかも、それがあたかも「教育の本質論から導出」されるかのようにさえ読める。つまり具体的対立が生じているのは、義務教育段階での獲得保障は、「諸基礎知識」と「学びの方法」と「相互承認の感度」であるべきか否かではなく、「諸基礎知識」、「学びの方法」「相互承認の感度」を獲得させるための具体的な内容に関する場面でなのではないか。苫野氏の議論はそこが極めて抽象的であるにも関わらず、なぜか「二次方程式の解法」についてはホワイトヘッドの議論と「多くの人たちの実感」だけを頼りに断定している。


このことから苫野氏のいう「共通基礎教養」に関する危うさを指摘することもできる。苫野氏は上で引用したように、「共通」の意味を「すべての子どもに獲得を保障するべき基礎教養」と「どのような学業、職業に就いても一定程度必要とされる基礎教養」の2つの側面から述べていた。


この議論の第一の問題点は上で指摘したように、「共通基礎教養」の枠内に何を入れ、何を除くかという具体的事例の判断基準を何も提供していないという点である。率直に言って、苫野氏の「欲望論的アプローチ」だけで具体的対立を調停する判断基準を構築することは現状困難であると感じられた。


第二の問題点は、そもそも「どのような学業、職業に就いても一定程度必要とされる基礎教養」ということの射程の曖昧さにある。例えば、「二次方程式の解法」が「どのような学業、職業に就いても一定程度必要とされる」かどうかは疑問である。少なくとも、実際に「二次方程式」を解くことが職業的に要請されている人は稀だろう。しかし、その人が就いている職業の基盤をなす仕組みや知識、理解といったものが、「二次方程式の解法」に立脚しているということは起こりうる。普段意識していなくても、「二次方程式の解法」のような数学的背景を持っている場合である。何か問題が起きたとき、より前提に近いところまで戻ろうとしたら、そうした数学的背景にぶち当たるかもしれない。そういう観点では自然科学の内容の方が分かりやすい。原発事故が起きなければ、セシウムストロンチウムなどという元素や、それらの放射性崩壊およびその半減期などについて何も知らなくても生活できた人は決して少なくないと思う。しかし今回の3.11のような原発事故が起こった場合に、放射性元素の崩壊半減期といった基礎概念に全く触れたことがないということは、苫野氏流に言うと、その人の<自由>を狭める危険性があるかもしれない。あえて付け加えるなら、放射性元素の崩壊半減期には、簡単な微分方程式の解法という「二次方程式の解法」どころではなく高度な数学的背景があることも指摘できるだろう。これらは、苫野氏の言う共通基礎教養に含まれるだろうか。「諸基礎知識」に含まれるだろうか。それとも「学びの方法」があれば、「諸基礎知識」から外しておいても必要に応じて学べるだろうか。


つまり、「どのような学業、職業に就いても一定程度必要とされる」という意味が曖昧なのである。必ずしも起こるとは限らないが、起こってしまうことがありうる事態というものを考えると、直接的には職業上必要とされる教養ではないとしても、持っておかないとその人の<自由>を狭めてしまう基礎概念というものはあり得る。それはもちろんそうした事態が起きなければ、その人の日常生活を送る場面では全く必要とされないかもしれない。数学的思考力や自然科学的手法というようなものは、むしろそちらに近いのではないかという意見の方が根強いくらいかもしれないのである。


苫野氏の議論は竹山氏の引用している「欲望論的アプローチ」や「どのような教育を欲するのかという欲求のレベルに戻り、その欲求が普遍的に了解されるものであるかどうかを問い合いましょう」というようなレベルに留まっていない。苫野氏は、さらに先に進んで、「普遍的に了解」される教育の本質/正当性とは、「自由とその相互承認を実質化」に資するかどうかであると結論しているのである。またその点から、「共通基礎教養」の内容についてかなり踏み込んだ断定を行っている。しかしその議論はかなり抽象的で、必ずしも具体的対立を調停するだけのものにはなっていないと私は考える。

こうした観点から、私は苫野氏の上で引用した議論には違和感がある。竹山氏は、苫野氏の「欲望論的アプローチ」の部分のみを引用してコミットしているやに見えるが、今回の「大学生数学基本調査」において問題になっていることは、「欲望論的アプローチ」の部分よりもむしろ、苫野氏の提示している「教育論の本質」や上で引用した「共通基礎教養」の「諸基礎知識」や「学びの方法」に深く関わっているはずだ。私はそもそも今回の竹山氏の文章に苫野氏の文章を引用する必要はないと考える。それは、第一に引用することでかえって竹山氏の議論の趣旨がぼやけてしまっているように見えること、第二に苫野氏の議論には、「欲望論的アプローチ」以上に今回の調査に関連した重大視するべき議論が含まれているにも関わらず、その観点に触れない竹山氏の引用は、結果としてバランスを失してしまっていると考えるからである。

再び「欲望論的アプローチ」との関連について

竹山氏の「4.おわりに」の議論に戻る。この節の内容が唐突に映ることはすでに述べた。上の「補論」を参考にしつつ、竹山氏の記述の内容にもう少し踏み込んでみたい。

まず、そもそも「何とでも言える」「権力ゲームに強い者の言い分が通るだけ」というニヒリズムを「相対主義的な混乱」とか「相対主義的な批判の応酬が、ニヒリズムを社会に招いている」と要約しようとする姿勢に疑問を感じる。(これは、苫野氏が「理想・当為主義」や「相対主義」を批判し、「欲望論的アプローチ」を提唱していることに対する疑問でもある。)


確かに、相対主義は、絶対的に正しいことは存在しないと主張する点で、「何でもあり」だとか「考え方は人それぞれなんだから優劣はつけられない」という結論に向かいがちであるし、またそこから、結局強いものの言い分が通るだけというところへ堕する危険性を持っている。あるいは、自らの正当性を声高に言い募るだけに終始するという危険性もあるだろう。


しかし、それはあくまでも「相対主義」の一面に過ぎないと私は考える。「あらゆる局面で常に正しい絶対的な規範があるわけではない」ということは、例えば、個別の具体的な問題においていくつかの規範が優劣を競い合うことを否定していない。絶対的に正しい判断基準がないからこそ、個々の問題で、複数の規範に立脚する人々が、議論し対話することで、妥当な判断基準を探っていくこと、相対主義はその営みを決して否定しないし、むしろ個別の様々な局面において、複数の規範が自らを試すべく互いに議論するのが相対主義の健全なあり方なのだと私は考える。「相対主義」から何らかの意味の思考停止を導くことが誤っているのではなかろうか。だから、「相対主義」は「ニヒリズム」を肯定しているわけではないし、ニヒリズムを必然的に導くわけではない。


複数の規範に立脚する人々が議論し対話することで、妥当な判断基準を探ろうとする営みにおいて、「言葉を正確に使う意欲」「論理的コミュニケーションを実現する意欲」「自分の中に「正しさ」の根拠を作る意欲」は決して放棄されない。むしろ、そういう営みにおいてこそ、相手の言葉を理解し、自分の言葉を相手に伝える中で、対立する人々と「論理的コミュニケーション」を実現することが重要なのであり、それは同時に、自らの依って立つ立場の「正しさ」の根拠を言語化することが必要になるのである。相対主義は決して自分の中に「正しさ」の根拠を作る意欲を否定していない。むしろ、相対主義を採るからこそ、個別の具体的な局面において、相手の立場に対して自らの立場の妥当性を示す根拠を形作ることが必要なのではないか。


だから私は、「相対主義的な批判の応酬」が「言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲を殺してしまう。」と断定することに疑問を感じるのである。議論や対話と「批判の応酬」とを区別することは難しい。しかし、相対主義がそうした意欲を殺してしまうとするのは、むしろ相対主義批判に名を借りた「議論の放棄」を容認してしまっているとさえ見えるのである。


しかも、そうした「相対主義」の一面と、「数学を学ぶ意欲」とを結び付けようとすることには無理があると感じられる。この部分で竹山氏は、「本誌の読者であれば容易に想像がつくはずだ。」と、読者との間の共通理解を前提に論証を省略している。しかし、それには無理があるのではないか。

第一に、「数学を学ぶ意欲」と「言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲」とは、必ずしも同一のものではない。数学を学ぶ意欲を持った人が、言葉を正確に使いたいとか論理的にコミュニケーションしたいとか、自分の中に「正さ」の根拠を作りたいと考えているとは限らない。むしろ、「役に立つから数学を学ぶ」もあり得るし、そういう人の方が多いぐらいかもしれない。数学は事実として、様々なレベルで役に立っている。それを動機付けとして学ぶ意欲を持つこと、それは相対主義云々以前にお勧めできることであろうし、また事実そういう人もたくさんいるだろう。だから、仮に「言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲」が減退しても、「数学を学ぶ意欲」は減退しないかもしれない。相対主義的な混乱が「数学を学ぶ意欲」を殺しているという見方は一面的に過ぎると考える。


第二に、「言葉を正確に使う意欲」や「論理的コミュニケーションを実現する意欲」や「自分の中に「正しさ」の根拠を作る意欲」と「数学を学ぶ意欲」との間に直接的な関係があるとすることに疑問がある。「言葉を正確に使う」とか「論理的コミュニケーション」とか「自分の中に「正しさ」の根拠を作る」ということは、必ずしも数学に限った話ではない。むしろ数学はある意味でそれらの観点が極端化されくっきりと見えているという部分が強い。それをどの程度まで咀嚼して学習してもらうかという問題は、どのような観点から数学を学ぶかという点と関係しているはずで、すべての大学生が同じ程度の論理的厳密さを要求されるべきであると一概に言い切れるわけではない。


第三に、仮に「数学を学ぶ意欲」が減退しているとしても、そのことは直ちに「言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲」が減退しているということにもならない。枠組みが極端化することによって内容的に明確化されたり論理的厳密性が担保されたりするかもしれないが、具体的な問題関心からは離れるということが起こりうる。「言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲」をもっていても、必ずしもそれを「数学を学ぶ意欲」に結び付けようと思うわけではないだろう。


この三つのいずれの観点で見ても、「言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲」と「数学を学ぶ意欲」を並べて論じる部分に飛躍があるように感じられるのである。



今回で全5回にわった竹山氏の記事に関する記事は終わりである。

最後に、新井紀子氏の次のコメントを取り上げておこう。

「問題提起としての『大学生数学基本調査』」竹山美宏さんはぜひ読んで欲しい@数学文化18号。「ゆとり叩き」なんかじゃない、ってわかるから。分断されている時価的余裕なんてない。私たちは同じ船に乗ってる。

調査側の真意は率直に言ってなんともいえないし部外者からは窺い知れない。

しかし、竹山氏の記事を読んで、これによって今回の調査側の真意は「ゆとり叩き」ではないんですと得心できるか、といえばそういうわけではない。竹山氏の記事では確かに今まで説明されてこなかった点に言及があった。しかし、「ゆとり叩き」としか受け取られないような言葉遣いの問題について自己反省が述べられたわけではなく、なお一層数学あるいは数学教育を通じて育まれる論理性と社会のかかわりについて十分に記述していないことや十分に検討されたとは思えない断定が際立っているように思えてならない。

「分断されている」というのが何のことを意味しているのかも不明瞭だ。何によって何が分断されようとしているのだろう。今回の調査結果の分析で、強烈な言葉を選択して大学生の能力を論難した調査側は、むしろかえって数学者側と調査される大学生あるいは社会の側との溝を深めてしまった、あるいは数学者側の信頼性を損なってしまったのではないか。分断しているのは誰なのか、とあえて皮肉のひとつも言いたくなる。

「私たちは同じ船に乗ってる」というのも「私たち」とか「同じ船」といった言葉が何を指しているのかわからないし、「時間的余裕がない」という言葉もよくわからない。

結局のところ教育とは、個々の教育に携わる人々が前人格を賭けて自分の正しいと思う価値観にコミットし、その根拠を明示的に語るという以外に道はないのではないか、と私は思う。調査側に何らかの価値観がおおざっぱに共有されていることはわかるが、そのことの社会的意味/意義を語る言葉があまりにナイーブで説得力に欠けているのではないか、というのが私の総論的感想である。

日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その13)─雑誌「数学文化」第18号の竹山論文をめぐってIV─

雑誌「数学文化」第18号に、『問題提起としての「大学生数学基本調査」』と題する竹山美宏氏の論説についての検討を行っていた。今回は、竹山氏がこの調査で測ることを意図した学力のうち第3のものについて検討したい。

学習指導要領が設定する「数学のよさ」について

竹山氏は、まず学習指導要領の次の記述に着目する。

「数量、図形などに関する基礎的な概念や原理・法則の理解を深め、数学的な表現や処理の仕方を習得し、事象を数理的に考察する能力を高めるとともに、数学的活動の楽しさ、数学的な見方や考え方のよさを知り、それらを進んで活用する態度を育てる。

特にここで言う「数学のよさ」ということに焦点をあてて問2-1と問3を具体例として議論が進められる。

問2-1について検討する部分の冒頭は次のように始められている。

問2-1は、偶数と奇数をたすと奇数になる理由を説明する問題である。いくつかの値に対して実際に計算してみれば、この事実が正しいことを確認できる。

これは言葉の使い方が悪いのではないか。「事実が正しいことを確認できる」のではなく、「この主張が成り立ちそうであることが実験で確かめられる」程度にするべきであろう。このような細かい表現にこだわるのは理由がある。竹山氏を含め、今回の調査を実施した側は、例示と論証が違うことをことあるごとに強調してきたのではなかったのか。だとすれば、例示によって何が確かめられるのかという部分の記述をいい加減なものにするべきではない。また、報告書抜粋で、「教科書に書いてあるから間違っているはずがない」という答えを「論理的説明の前提に立っていない」と評価していたはずだ。「偶数と奇数を足すと常に奇数であること」は、すべての偶数と奇数について示してこそ「正しい事実」と確かめられるのであって、それ以外の方法(例えば例示や文献提示)では決して認めないという立場だったはずだ。このような表現の選択の杜撰さが総じて今回の調査側の文章に散見されるは決して看過されるべきではないと思う。

竹山氏の文章は次のように続く。

しかし、具体的な値でいくら試したところで、偶数と奇数は無限にあるのだから、すべての場合を尽くすことは不可能である。十分にたくさんの例を示しても、数学の世界では証明とは認められない。では、どうすれば良いか。そこで文字を使うことになる。2m、2n+1という文字式を使えば、任意の偶数と奇数を表現できる。そして、文字式の計算を実行すれば、どんな偶数と奇数であっても、それらの和は奇数であることを証明できる。具体的な数字を使っている限り有限個の場合にしか確かめられないが、文字式を使うことで無限の場合を尽くし、整数の普遍的な性質として把握できる。これは文字式を使うことの「よさ」であろう。このような「よさ」を「進んで活用する態度を育てる」ことだと思われる。

「文字式」を使うことの「よさ」ということは、数学教育の中で十分に強調されるべきである、ということを否定するつもりはないし、それは、例えば和算文化にはなかったという意味で現代の数学の獲得した強力さを裏打ちするものであろう。しかし、そのことと、「偶数と奇数の和はいつでも奇数になる」ということの「説明」にどの程度の厳密さで答えるかということは別の問題である。例えば、
「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
という答案を、典型的な誤答として退けてよいのか、という問題である。これは文字式を使っているわけではないが、いくつかの具体例に留まらずすべての場合を尽くそうとしているのではないか。重篤な誤答=論理的コミュニケーションの前提が崩壊している答案と断定された
「偶数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから」
という答えも具体例に留まらずすべての場合を尽くそうとしているのではないか。
そして逆の見方をすれば、「偶数を2m、奇数を2m+1とおくと・・・」で始まる答案は、仮に文字式という道具を使おうとしていたとしても、結果として連続する2つの整数という限定された場合にしか証明されていないという意味で、特別な具体例に対してしか証明できていない、ということもできるのである。これを典型的な誤答と分類するのは妥当なのか。あるいは、正答例の冒頭が「m,nを整数とすると、2mは偶数、2n+1は奇数になる」となっている答案も、すべての偶数と奇数の組に対して証明するという観点から見れば、記述の仕方に明らかな瑕がある。これを準正答と分類することは妥当なのか。


あえて率直に言ってしまうと、このような易しい問題で文字式を使うことの「よさ」が理解されると考えること自体に無理がある。本問のようなほとんど「当たり前」の内容を持ってきて、その証明に「文字式」を使えない答案をすべて「深刻な誤答/典型的な誤答」と切り捨てることに疑問があるのだ。文字式を使うことへの教条的な拘りが、何を正答とするかという判断の目を曇らせているように見えるのである。文字式を使うことのよさは、もっと複雑な問題でこそ活きるのであり、せめて「3で割った余りが2の数を2つ足すと」くらいの設定にしておくべきだ。

竹山氏は、さらに「説明してください」という問題文の書きぶりについて次のように説明している。

問2-1の問題文が、いかにも数学のテストらしい「証明しなさい」という表現ではなく、「理由を説明してください」という表現であるのは、文字式を使って証明するという考え方が「進んで活用する態度」にまで浸透しているかどうかを見ようという意図もある。

「進んで活用する態度」を見たいといっても、率直に言って、このレベルの内容なら、「文字式」など持ち出すまでもなく「説明」できてしまうのである。こういう記述は調査側の独りよがりであると見られても仕方ないと考える。

竹山氏は、「証明しなさい」という文言と「理由を説明してください」という文言が等価であると主張したいのか。それによって要求される厳密さに違いが生じうるということはないと断定するのだろうか。「理由を説明してください」という書きぶりなら、
「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
「偶数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから」
といったある意味で少しゆるい答え方でも良いと考える人がいるかもしれない。このような答案を書いた人が、「文字式」を利用した証明を書けないかどうかはわからない。「証明しなさい」と書くことで、これが数学的に厳密な証明を求めているのだと回答者に了解させることができる。またそうした要求に応じた答え方をすることができるのではないのだろうか。
前回も書いたが、竹山氏は

議論を行う場面において、それぞれの参加者が定義を自己流の意味で使っていては、話がすれ違うばかりなはずである。言葉の意味を共有することはニュートラルな議論の出発点となる。数学が定義から始まる論理体系であることは、そのような「対話の知」を体現しているはずだ。

と述べていたのではなかったのか。調査側がどのような能力を見ようとしているのかということを明示する言葉遣いがなければ、回答者がどのレベルの厳密性で回答すればよいかわからなくなる。こうした記述には看過しがたいダブルスタンダードがあるように見えてしまうのである。

続けて竹山氏は次のように述べる。

大人どうしの日常会話では例示だけを根拠として「正しさ」を共有することもあるのだから、「6+1=7,4+5=9などとなるから」という説明で、この問題の解答としては十分だと考えることもできよう。しかし社会全体がそれでよしとするのであれば、義務教育の学習指導要領の意義そのものを考え直さなければならないはずだ。

この記述にも相当複数の問題がある。

竹山氏が私が書いている一連の記事を読んでいるというわけではないと思うが、少なくとも私は、
「大人どうしの日常会話では例示だけを根拠として「正しさ」を共有することもあるのだから、「6+1=7,4+5=9などとなるから」という説明で、この問題の解答としては十分だ」
と主張しているわけではない。数学的論証の観点からは例示だけでは証明と言えないのは当然である。そこを問題にしているのではない。(日常会話どころではない)社会的にきわめて重要な問題を論じている場合であっても、数学以外の自然科学の話題に関する学問的議論であっても、すべての場合を尽くすことによる証明は難しく、そもそもそのようなことが不可能な場合がある、というよりそういう場合の方が圧倒的に多数である。であるからこそ、具体的な例示を用いて他者を説得するという行為は、「論理的コミュニケーション」の重要な手段であると認識するべきである。また数学自身も含め自然科学においても社会科学においても具体例を用いて定理や事実の確認を行うことがその定理や事実をよりよく理解することにもつながるのである。にも関わらず、「偶数と奇数の和は常に奇数になること」の「説明」に具体例を提出した答案を、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している答案」という論評を加えることが不当であり節度を欠いていると主張したいのである。

どうも言っていることが当たり前すぎてどう説明すればよいのかよくわからない、文字式を使って説明することは思いつかない・できない人が、とりあえず成り立つことを具体的な例で確かめたという場合、それはむしろ社会的にせよ自然科学にせよ様々な問題を考える上では推奨されるべき態度であろう。文字式を使うということを知らない/忘れたというのなら、もし必要ならその方法を学べばいい。しかし、具体例を使って自分の主張を説得的に述べるという態度の方がよほど重要であるように思えるのである。もちろんそれは、数学においてそれが証明と同等のことであると主張しているわけでは全くない。論評の仕方が不当だといっているのである。

「しかし社会全体がそれでよしとするのであれば、義務教育の学習指導要領の意義そのものを考え直さなければならないはずだ。」
という記述も趣旨が不明確だ。この節全体を通じてそうなのだか、義務教育の学習指導要領というものに自分たちの主張の正しさの根拠を「外注」することに疑問を感じるのである。竹山氏を含め、今回の調査をした側、日本数学会の提言などはすべて、数学教育で育まれる論理性が数学以外の自然科学や社会的問題を考える上で重要だということだったのではないか。なぜその重要性の根拠を自らの言葉を尽くして語ろうとしないのか。学指導要領などというものに拠った形でしか論じられないのか。むしろそこの論を鍛えることが先決なのだと私は考える。

次に問3に関する記述を見てみよう。

問3は相似を利用した作図問題である。この問題は数学的な発想力を試すものではない。なぜなら、相似を利用して線分を三等分するというテーマは、ほとんどすべての中学校の教科書に例題として掲載されているからだ。

いったいどういう意味だろう?これは教科書に載っていたという知識を問うているのだという宣言に過ぎないのではないか。これも完全な開き直りの記述である。今回の調査側の一人である新井紀子氏・尾崎幸謙氏は、雑誌「世界」の記事の中で

小学校から高校一年の教科書に掲載されるもっとも基礎的・基本的内容のうち、数学固有の知識や計算力をなるべく問わないものから選んだ。

と述べていた。すべての数学の教科書に載っていることは、「数学固有の知識」をなるべく問わないものと同義ではない。すべての教科書に載っていることは、まさに数学固有の知識なのかもしれない。上の竹山氏の発言は、すべての教科書載っているのだから、数学的な発想などはなくても解くことができるべきだということを安直に表明したに過ぎない。そのことは自明ではないし、使っていなければ忘れてしまうということも無視する暴論だ。

なぜこのテーマが広く扱われているのか。その理由は、問3の作図法が「数学のよさ」を伝えるのに適しているという認識が、教科書作成者の間で共有されているからであろう。この作図法は線分の長さによらず適用できるという意味で、とても良いものである。そして平行線を通じて線分の長さの比を別の場所に実現するという相似の考え方の良い応用例でもある(相似の導入としてよく語られる「木の高さを測る話」もその一例だ)。数学を現実的な問題に応用する好例として、このテーマをあげても不自然ではないだろう。

「作図法が線分の長さによらず適用できる」ということと「現実的な問題に応用する好例」であるかどうかとは別の問題である。現実に線分を三等分すること、特にメモリのない定規とコンパスだけで作図するということがどれだけ「現実的」なのだろうか。例えば「正答例」では省かれてしまった平行線の作図は、目盛りのない定規1個とコンパスだけでやろうとすると手数が必要だが、定規を2つ使って平行に滑らせてよいのならすぐにできる。「目盛りのない定規1個とコンパスのみの作図」というテーマ自体、「現実的」とはかなりかけ離れているように見える。もちろん建築を専門とする人たちにとっては製図の際に重要な役割を果たすことは考えられる。しかし、それが義務教育における「数学のよさ」の一例として強調されるべきかどうか、少なくとも私は懐疑的である。

他方、この問題では「相似」という考え方も問うているし、それもまた「現実的な問題に応用する好例」だという見方はある。相似の考え方が重要であることは否定しないし、「目盛りのない定規1個とコンパスのみを用いた作図」に比べれば、よほど重要だと私は考える。しかし、この問題の出来が悪いことを根拠に、学生が「相似」という考え方を「作図」という「現実的な問題」に応用することができないのだと結論するのは間違っていると思う。この問題が解けないことの最も大きな要因は「相似」という考え方の使い方ではなく、「目盛りのない定規1個とコンパスのみを用いた作図」という昔やったが忘れてしまった(あるいは習わなかった)内容が扱われているからである、と考えて間違いはないと思う。相似の使い方を見たいなら、もっと別の問題を使うべきだ。

この結果からは、「数学のよさ」を教科書で表現しても、それが学生に伝わるとは限らない現状が窺える。「作図問題は入試に出ないのだから、できなくて当然だ」と割り切ることもできよう。しかし、それならば、入試制度や学習指導要領の意義は何なのか、やはり考え直さねばならないだろう。

作図問題は高校入試に出題されているということは、新井-尾崎論文に対する批判の中で既に説明した。「入試にでないのだから、できなくても当然だ」という議論はすでに前提が間違っている。単に高校時代に一度も思い出す機会がなかったので忘れてしまったのだろう。

そしてここでも、判断の基準を学習指導要領に投げてしまっている。ここで竹山氏がした説明では、「目盛りのない定規1個とコンパスを用いた作図」というものが、「数学のよさ」特に「現実的な問題に応用する好例」であるとの説明にはなっていないと思う。「目盛りのない定規1個とコンパスを用いた作図」というのは、もちろん数学史の中で果たしてきた歴史的な役割や価値はあるし、相似の応用例としての価値もあるだろう。しかし、率直に言って、数学と社会のかかわりで見ても、義務教育から高校教育までで行われている数学教育の中身からいっても、相当辺境の内容に属しており、もっと身に付けておくべき基本的な内容はたくさんあるのではないかと思う。今回の調査で正面切って取り上げるほどの重要性を私は感じない。

ここまでで竹山氏が今回の調査について具体的な設問を用いて述べた部分は終わりである。


今回の調査について書かれた報告書概要版や報告書抜粋、新井-尾崎論文、そして今回の竹山氏の記事の中で散見されるのは、「○○ということを見るために、あえてゆるい表現を使った」というような記述である。学生は試されているといえば聞こえは良いが、学生にとって相当に当たり前な事実をどこ程度厳密に書けばよいかはっきりしない言葉遣いで問うたり、あるいはどのようなレベルで書けばよいかはっきりしない「重要な特徴」問うという姿勢からは、学生たちと「論理的コミュニケーション」を取ろうとする意図は感じられないばかりか、初めから底意を隠して“モルモット”である学生たちを試し、自分たちの設定した価値基準にあわない答案を口を極めて論難するという不適切極まりない態度に見えしまう。しかも、数学教育の育む論理性と社会の関わりについて述べる主張はあまりに概括的・断定的で説得力に欠けるばかりか、今回の調査問題とどのような関係にあるのかが十分には語られていない。それでいて相当に強い言葉で学生たちの能力を否定的に記述してしまっている。そういう態度やダブルスタンダードを私は問題視している。


次回は第4節「おわりに」の中で述べられている「欲望論的アプローチ」について検討したい。

日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その12)─雑誌「数学文化」第18号の竹山論文をめぐってIII─

雑誌「数学文化」第18号に、『問題提起としての「大学生数学基本調査」』と題する竹山美宏氏の論説についての検討を行っていた。今回は、竹山氏がこの調査で測ることを意図した学力のうち第2のものについて検討したい。

「わかる」と「できる」の違いについて

竹山氏はまず次のように述べている。

「数学がわかる」とは、どのような状態なのか。本稿では、数学的な概念が頭の中でイメージ化されている状態と規定しよう。ただしイメージといっても、想像力豊かに拡大解釈したものではなく、言語化された定義に裏打ちされていなければならない。特に、イメージ化された概念の限界を明確に把握していることを必要条件とする

率直に言って何を言っているのか相当に不明瞭である。「言語化された定義に裏打ちされた、数学的概念のイメージ」とはなんであろうか。「イメージ」という単語の意味するところが不明確だ。「規定」という単語も果たして「定義」とどう違うのかはっきりしない。だから竹山氏は問1-1や他の例をあげて説明していくことになるのだ。抽象的な概念を具体例でもっと根拠付け、それによって相手を納得させようと試みること、それは「論理的コミュニケーション」において当然の手法の一つだ。数学において「例示と論証」が異なることを殊更強調しても、あるいは「例示のみ」の答案を「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している答案」と批判しようとも、われわれが他者を説得しようとする局面で、抽象論を具体例によって根拠付けることは竹山氏自身が用いているように、全く当然の手法なのである。このことを想起するだけでも、「数学教育における論理性」と一般的に様々な話題に関して行われる「論理的コミュニケーション」との間にギャップがあることは明らかなのではないか。例示と論証の区別が厳格に行われるのは、まさに数学特有の事情である。にもかかわらず、その一方で「数学教育の育む論理性」が社会的に有用であることを何のためらいもなく主張し、例示と論証の区別のつかなかった答案を「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している答案」と論難する。こういう態度は、今回の竹山氏の記事を加味してもなお、調査側の落ち度であるといわざるを得ない。その点を明確に説明できないなら、それは単なるダブルスタンダードということにもなりかねないのだ。

ともあれ、竹山氏の記事に戻ろう。

日常生活において「平均」という言葉を聴くとき、まず思い浮かぶイメージは「真ん中」とか「普通の状態」というものであろう。それは、私たちが接するデータの多くは正規分布しているという暗黙の共通了解、ないしは経験知があるからかも知れない。しかし、数学における「平均」の定義は、標本の観測値の合計をその大きさ(データの個数)で割ったものだ。この定義からは、平均が真ん中であることも普通の状態であることも論理的には帰結しない(それらには対応して「中央値」「最頻値」という別の概念が与えられている)。したがって「真ん中」「普通の状態」という「平均のイメージ」は、数学的には間違っている。言語化された定義からは論理的に帰結しないという制限によって、「平均」のイメージには限界が設けられているのだ。そこまで理解していて初めて、「平均」という概念を理解していると言えよう

ここで書かれていることは一般論としては間違っているわけではないと思う。しかし、今回の調査の分析という点では、まず冒頭からしてあまり適切ではないと思う。というのも、今回の調査結果では、問1-1は75%の人が3つの選択肢のすべての正誤を正しく判定できているからだ。国立S群や私立S群では、94.8%、83.0%の人が正答なのである。私立C群でさえ51.2%の人が正答なのである。この結果を見て、私たちが接するデータの多くは正規分布しているという経験知があるから、日常生活において「平均」と聞いてまず思い浮かぶイメージは「真ん中」とか「普通の状態」だというのは、今回の分析結果から導けない主張なのではなかろうか。どうしても不正解だった25%の方に焦点があたって、「大学生の4分の1が平均の意味を理解していない」と報じられているが、これは逆に言えば4分の3は平均の意味を正しく理解しているということに他ならないし、だとするならば、上で竹山氏が述べているような「日常生活において「平均」という言葉を聴くとき、まず思い浮かぶイメージ」と「言語化された定義から論理的に帰結」することとが区別できていないという指摘は、今回の調査対象になった大学生たちには当てはまらないということだ。

そもそも、日常生活において私たちが接するデータの多くが本当に「正規分布」なのだろうか。そういう経験知があるのだろうか。この問1-1で扱われている身長の分布は確かに正規分布にかなり近い分布を示すことで有名な例であるから、(3)で平均値=最頻値と思ってしまった学生にはそういう思い込みがあったのかもしれない。しかし、模試の成績分布を見ると、2つのこぶができているような分布や、上位層に比べて下位層が非常に大きい分布というものもよく見かける。むしろ日常的に見られる分布の中にも、正規分布ではないものがかなり含まれているのではなかろうか。だからこそ、75%の人は、今回の3つの選択肢を正しく正誤判定できたのかもしれないのだ。

竹山氏のこの文章は、「平均」というものの理解の仕方についての私見は述べているが、その一方で、今回の調査の分析という点とは必ずしもマッチしているとは言えないように見えるのである。

実際には、この問題で75%の人が正答したからとって、その人たちが「平均値」と「中央値」「最頻値」の違いを(言語的定義に裏打ちされた形で)理解しているかどうかはよくわからない面もある。再三指摘してきたことだが、この問題では反例を構成することは求められていないからだ。たとえばいろいろな分布のグラフを用意しておいて、(1)「平均値=中央値」(3)「平均値=最頻値」が間違いであることを示している分布はどれなのかを選ばせてみるといった手法も取れたかもしれない。

この記述の後半にはもうひとつ問題がある。それはやはり「数学的な概念が頭の中でイメージ化されている状態」の意味が明確になっていないのではないかということだ。竹山氏の文章の中で、「平均」という概念の「イメージ」として肯定形で描かれているのは、その言語的定義「標本の観測値の合計をその大きさ(データの個数)で割ったもの」だけに過ぎない。あとの2つは否定形『「真ん中」「普通の状態」とは違うもの』としか述べられていない。「平均のイメージ」とは何かという答えに対して用意されているのは単なる「定義」のみであり、それだけをもとに『「平均」のイメージには限界が設けられているのだ。そこまで理解していて初めて、「平均」という概念を理解していると言えよう。』と言われても、「平均のイメージ」が何かはわからないままだ。

ここは報告書抜粋が丁寧に記述していると思う。

突出して背の高い生徒がいると平均が押し上げられること(小問(1)の反例)や、女子と男子では平均にかなりの差があり、クラス全体をグラフにまとめると「ふたこぶ」になり得ること(小問(3)の反例)など、日常で接するデータから小問(1)や小問(3)の反例を思い浮かべられることが望ましい。そのためには、基礎的な論理力のみならず、問題文に書かれた内容を情景として思い浮かべられる国語力も必要となる。これらの力は数学に限らず人文科学も含め広く科学を学ぶう上での前提となるものであろう。

私はこの文章の後段で「基礎的な論理力」とか「問題文に書かれた内容を情景として思い浮かべられる国語力」という言い方には違和感がある*1。こうした反例を構成できることを「論理力」とか「国語力」というキーワードで理解してよいのかどうか。むしろ私は、いろいろなデータを見せて理解してもらうという「経験知」こそ重要なのではないかという気がする。国会でも、所得階層の分布と所得の平均値との乖離がよく議論になるではないか。

ともあれ、この報告書抜粋の前段は、「平均値」ということに対するイメージとして、極端な値に対して影響されやすいこと、分布全体の様子を反映しているとは限らないこと、という2つの点が述べられている。私は「そこまで理解していて初めて、「平均」という概念を理解している」というべきだと思う。竹山氏の議論は、「言語的定義から論理的に帰結すること」に拘りすぎている印象がある。もっと理解しておくべき「平均のイメージ」はあるのではなかろうか。「平均値」が「極端な値に対して影響されやすいこと」「分布全体の様子を反映しているとは限らないこと」を理解しているかどうかまで問いたければ、問1-1はもう少し違った設計も可能だったのではないかと思うのだ。

竹山氏の記述をさらに見ていこう。

やや話は脱線するが、上のように言語化によって概念のイメージを制限することの意味について、少し述べておきたい。正規分布の場合には、「平均値」「中央値」「最頻値」の3つの値は一致するため、私たちはぼんやりした平均のイメージと、数学的な「平均値」の指し示すものが合致してしまう。しかし一般には、「真ん中」や「普通の状態」というイメージと、数学的に定義された「平均」との間にはギャップがある。このとき、数学の定義などジャーゴンに過ぎないと一蹴してしまうのも一つの方法ではある。しかし、実際のデータを扱う場面で「平均」という言葉の意味が人々の間で揺れていれば、生産的な議論にはつながらないだろう。これは「平均」に限ったことではない。議論を行う場面において、それぞれの参加者が定義を自己流の意味で使っていては、話がすれ違うばかりなはずである。言葉の意味を共有することはニュートラルな議論の出発点となる。数学が定義から始まる論理体系であることは、そのような「対話の知」を体現しているはずだ。

もし日常生活でわれわれの目に触れるデータの多くが正規分布であるという経験知があるのなら、実際のデータを扱う場面で「平均」という言葉の意味が人々の間で揺れていても、多くのデータでは問題が起きないのではないだろうか。むしろ、「平均値」「中央値」「最頻値」というものの違いが、時として議論をすれ違わせたり、あるいは意図的かどうかはともかくとして「統計でウソをつく」ことになるのは、われわれが日常で接する多くのデータが正規分布ではないからだろう。先ほどの文章とここでの記述に乖離を感じる。そして同時に、そのような場面で、誰も「数学の定義などジャーゴンに過ぎないと一蹴」などしていないだろう。このあたりも何を念頭において書いているのかがよく分からないのである。

「これは「平均」に限ったことではない。」から始まる部分は、やはり数学と社会の関係性についてナイーブな議論をしているように見える。「議論を行う場面において、それぞれの参加者が定義を自己流の意味で使っていては、話がすれ違うばかりなはずである。言葉の意味を共有することはニュートラルな議論の出発点となる。」という文でも、「定義」と「意味」の違いがはっきりしない。そもそも社会的に論じられる話題の中で、「定義」が明確に確定することが難しい話題も多い。率直に言って、「数学がわかる」ということの定義さえ曖昧なままだし、それは今回の調査の報告書概要版でも抜粋でも明確には述べられていなかった。にも関わらず、『数学が定義から始まる論理体系であることは、そのような「対話の知」を体現しているはずだ。』などと言ってみたところで説得力に乏しいように見えるのである。数学において厳密な議論ができることと、われわれの社会において問題になっていることを論じる場面でどう議論するかということとの間には相当大きな乖離があり、『「対話の知」を体現』などという安易な結びつけは適切とはいえないと思う。

さて、「数学がわかる」という状態を仮に上のように規定しておいて、これと「数学ができる」という状態を比較したい。「数学ができる」と言う場合、特に教育の現場では、数学の問題が解けて良い成績を上げられることを意味するだろう。したがって、「数学ができる」かどうかの判定は、どのような問題によってそれが測られるのかに依存する。たとえば、本調査の問1-1と同じく「平均」をテーマとする出題として、いくつかの観測値を具体的に与えて、その平均を計算する問題が考えられる。この問題であれば、
1.平均の計算法を記憶している。
2.足し算・割り算の計算が実行できる。
の二つの条件を満たせば正答できる。これを敷衍すれば、「数学ができる」ということの内容として
1.数学的な対象の計算アルゴリズムを記憶している。
2.そのアルゴリズムを誤りなく実行できる。
という二つの条件を抽出することができるだろう。これらの条件をみたすためだけなら、数学的な概念をそのイメージまで含めて理解している必要はない。

この「数学的な概念をそのイメージまで含めて理解している」=「数学がわかる」ことと「計算アルゴリズムの習得と実行」=「数学ができる」ことを分けて論じているのが、竹山氏の記事のひとつの大きな着目点であると言って良いと思う。この2つの観点で「数学の内容に対する理解」のレベルを観察すること自体に異議はない。しかし、そこには少なくとも2つの問題点があると思う。
第一に、この2つのレベルをどのような問題で判定するか、どのような現象から判定するかということだ。
第二に、この2つのレベルを比較したとき、「数学がわかる」ということを最大限重要視するべきかどうかは問題のテーマに依存しており、一概には決めきれない部分も多いのではないか、ということである。

第一の点について、今回の問1-1で「平均」ということの理解を問うている。この問題で3つの選択肢すべての正誤判定が正しく出来た人は、「平均の意味がわかる」層であり、残りは全て「平均の計算はできるが意味は理解していない」と断定してよいかどうかという問題がある。報告書概要版では、別の調査との比較がでているがそれはあくまで参考例に過ぎない。今回の調査結果だけを根拠に。今回の問題で間違えた人が4分の1いることこそが、「わかる」と「できる」の乖離を証明していると即断するべきではないと思う。そもそも「平均値」の計算をすべての人ができているかどうかはわからないからだ。たとえば国公立S群では、確かにそういう層が6%くらいいるのかもしれない。しかし私立C群でもそうだと断定する根拠はない。そもそも平均の計算が出来ない人もいるかもしれないのだから、この問1-1でそうした点が裏付けられていると見るのは拙速だと思う。

第二の点について、こちらはやや社会的な側面もある。平均という話題に絞れば、もちろん具体的な計算も出来たほうがいいし、社会的な問題の中に平均値・中央値・最頻値が問題になる場面が多いことを考えれば、平均の定義から論理的に帰結されることとして理解しておいたほうが良いという結論になるだろう。しかし、たとえば、高校生は微分積分の授業で、いろいろな関数の微分法や積分法を習うが、極限操作ということの定義それ自体やそこから論理的に帰結されることを理解しているかどうかはカリキュラム的に言っても難しいだろう。それを問題だと考えるかどうかはかなり分かれるところではなかろうか。連立一次方程式の解法もそうだろう。それらを解くアルゴリズムを知っておくことは大切だが、そういう人でも線形写像の言葉で理解できている人ばかりではないはずだ。「数学的概念のイメージまで含めた理解」というのがどのレベルのことを指しているのか、ということも本来は問題になる。微積分法の「イメージまで含めた理解」とは一体どこまで理解すればよいということなのだろうか。

こうしたことを念頭に次の記述に進みたい。

たとえば、接線の公式と、多項式微分の計算アルゴリズム(xnをnxn-1に置き換える)を知っていて、計算さえ間違えなければ、3次関数のグラフの接線の式を求めることはできる。その答えを求めるのに「導関数とは関数の局所的な変化率を記述する関数である」という理解は必要ない。

「関数のある点での微分係数とは、その点でも接線の傾きだ」というのは、竹山氏の言う、「計算のアルゴリズムを理解している」だけなのだろうか。上の記述の前半では、「関数のある点での微分係数とは、その点でも接線の傾きだ」という事実を利用している。それは「数学的概念のイメージまで含めた理解」とは違うのだろうか。導関数とは、各点でその点での微分係数、つまり接線の傾きを対応させる関数なのである。それはそれでひとつの「数学的概念のイメージまで含めた理解」のはずだ。それは、「導関数とは関数の局所的な変化率を記述する関数である」という理解と、少なくとも高校生にとってはほとんど等価なものではないか。これは例が悪いと言う以外にない。むしろ、では多項式微分の計算アルゴリズム(xnをnxn-1に置き換える)の証明や根拠を問うとできなくなる学生はいるだろう。それは確かにアルゴリズムだけを理解していて、数学的概念を理解していないのかもしれない。しかしその場合、本質的には極限とはないかという点まで戻ることも可能になってくる。どこまでが「数学的概念の理解」なのかが問題になる。竹山氏の議論の中にも、「できる」と「わかる」の違いをあまり十分に捉えきれていない部分があるように見えるのである。

つまり、概念を理解していなくても、公式を覚えて計算アルゴリズムさえ身につけてしまえば「数学ができる」。難しい問題であっても、いくつかの公式と計算アルゴリズムを上手く組み合わせれば、正解らしい数値はとにかく出せる。この意味で「数学ができる」ことが、設定されている目標(たとえば志望校合格)に対して十分なものであれば、「数学がわかる」必要はない。冒頭で紹介した「大学基礎教育アンケート」の回答にあった「型にはまった問題はできるが、それから外れると急にできなくなる」「解法パターンを欲しがる」という指摘は、数学がわかることよりも問題が解けることを重視する姿勢が、学生の間で広く見られることを述べたものであろう。そして、この傾向が学力低下として捉えられたということは、「数学がわかる」と「数学ができる」との間に大きな乖離があることを示している。

このあたりは、むしろイメージが先行しすぎているのではないかという疑念がある。たとえば大学入試の問題が「概念を理解していなくても、公式を覚えて計算アルゴリズムさえ身につけてしまえば」解けるのだろうか。「難しい問題」がどういうものを想定しているかはわからないけれど、たとえば国立S群に属するような大学の入試問題が、「いくつかの公式と計算アルゴリズムを上手く組み合わせれば、正解らしい数値はとにかく出せる」のだろうか。今回の調査では、作図の問題を除けば、国公立S群の成績はそんなに悪くはなかったはずである。それでもなお「難しい問題」を解いているこうした大学群で「計算アルゴリズム」の理解だけを徹底し、「数学的概念の理解」がおろそかにされているというのだろうか。今回の調査結果を見る際には、いろいろな要因を見る必要がある。単にある設問の出来が悪かったからといって、これは「計算アルゴリズムの理解」だけが先行し、「数学的概念の理解」がおろそかになっているのだと断定するべきではない。たとえば、私立の中には数学を使わずに入ってきている学生がたくさん入っている可能性がある。使わないものを忘れてしまっているのだとしたら、数学的概念の理解どころか計算アルゴリズムまで忘れているかもしれない。数学を使用しなかった学生が、計算アルゴリズムを理解し実行できる保証はどこにもない。

「型にはまった問題はできるが、それから外れると急にできなくなる」「解法パターンを欲しがる」といった傾向が問題視されているようだが、思えば、われわれは身の回りの様々な機器の使用法は知っていても、その仕組みを知らないということはままあることだ。そしていつもと違うことがおきると上手く対処できなくなることもある。数学に限らず多くの場面で、「アルゴリズムの理解・実行」はできていても、「概念のイメージまで含めた理解」は十分ではないということが起こりうるし、そのすべてが問題だと言っていたら、概念を理解するだけで時間を費やしてしまうことになるだろう。それはそれで問題になるかもしれないのだ。概念を理解するには時間がかかる。少なくともアルゴリズムは理解して計算できるようになろう。その仕組みはもし興味が出てきたら後で補えばいい。というような立場もありえる。すべての概念の理解を達成することはできないからだ。数学も他の様々な概念とのトレードオフアルゴリズムの理解と計算遂行に重点が置かれているという可能性はあり、しかもしれが一概に問題視されるべきだとは思わない。

どうも今回の調査側は「数学がわかっていない」ことを殊更強調したいという意図を持っているように見える。しかし、全ての大学生が高校までの数学について「イメージまで含めた理解」をしていなければならないと主張するなら、やはりそのことに対する十全な説明が必要なはずである。少なくとも今回の調査問題に関しては説明しなければならないはずだ。私は平均の問1-1と論証の問1-2はそれなりに意義を評価したいが、残りの設問とその採点方法については懐疑的である。

問2-2は、以上で述べた乖離を意識して作問された。この問題は、仮に大学入試で出題されたなら悪問と見なされるだろう。たとえば「重要な特徴」という言葉に、数学的な定義はない。何を重要な特徴と見なすのかは文脈に依存するし、文脈が無いのだとしたら、人によって異なるのが当たり前だ。少し数学的に考えて、「放物線を一意的に特徴付ける条件」を尋ねているのだと理解しても、それならば特徴を3つも挙げなくてよい。たとえば、頂点の座標と、他に通る一点の座標を決めれば、放物線としては一意に決まってしまう。しかし、放物線が通る三点の座標を挙げることが「重要な特徴」とは言い難い気もする。かくして「この問題は解答者を迷わせる悪問だ。採点基準にも数学的に完璧な正当性などない」と断罪したくなる。私自身も含め、自由な発想と確固たる論理性に数学の本質を見る人ならば、そのような感想を抱くだろうと思う。

上で竹山氏自身が

議論を行う場面において、それぞれの参加者が定義を自己流の意味で使っていては、話がすれ違うばかりなはずである。言葉の意味を共有することはニュートラルな議論の出発点となる。数学が定義から始まる論理体系であることは、そのような「対話の知」を体現しているはずだ。

だと言っていたことを忘れてしまったかのような開き直りの記述である。「重要な特徴」という表現に定義はなく、文脈や人に依存するのだとしたら、竹山氏が述べていた「議論の出発点」である「言葉の意味を共有すること」などできていないし、まさにそのような「対話」などできようはずもない。ましてやこれは一つの調査であるから、回答者が如何様にも意味を解釈できるような言葉を使っておいて、それを「論理的コミュニケーション」云々と関連付けること自体まったくのダブルスタンダードだ。もし定義を明確に、そこから導かれる論理的帰結を問うことを、数学におけるひとつの美徳とみるのならなおのこと、出題側自身がその原則を踏み外すような行動をすることは絶対に避けるべきだった。こういう独りよがりな態度は看過できない。

竹山氏は上のような記述のあとで、この問題の効果を次のように説明する。

しかし、「解法パターンの丸暗記」と「数学がわかっている状態」が、数学的に隙の無い問題では判別できなくなってしまったのだとしたら、少し別の方向性を探ってみてもよい。問2-2は、このような意図も込めて設計された。問2-2のような問題を実際の大学入試で出題するには、採点の公平性をいかに保つかなど、多くの課題を解決せねばならないだろう。ただ、本調査の実務に参加した私個人としては、このような曖昧な内容を持つ問題で、かつ多少の価値判断を含む採点基準であっても、「数学がわかる」という状態がある程度測れるという、新たな可能性を垣間見られたように思う。

『「解法パターンの丸暗記」と「数学がわかっている状態」が、数学的に隙の無い問題では判別できなくなってしまった』という根拠は一体何であろうか。こういう記述には複数の問題点がある。

そもそも、大学入試の問題は、「解法パターンの丸暗記」と「数学がわかっている状態」とを峻別して、「わかっている状態」の学生だけを取ろうとして設計されているのだろうか。そうではない。まず「解法パターンの丸暗記」あるいは「計算アルゴリズム」の理解ができているかどうかを試す問題を出題して、それが出来ない人は数学ではあまり評価しないことにしましょう。その上で、今度は、「数学がわかっている状態」の人にはより高得点が出せるように「型にはまらない問題」も出しておきましょう。それがごく一般的な入試問題の設計方針のはずだ。そして同時に、数学が少しできていなくても、たとえば「解法パターンの丸暗記」までにとどまっていても、他の科目で相応のよい評価が得られるような得点を出せば、総点を見ることで合格にしましょう。これが複数の科目を試験科目として課す入試制度のシステムだ。「解法パターンの丸暗記」のレベルにとどまっている学生がそれなりにいるということと、『「解法パターンの丸暗記」と「数学がわかっている状態」が、数学的に隙の無い問題では判別できなくなってしまった』ということとは全く話が違う。

第二に、今回の調査問題の出来をみると、偏差値と正答率の間に明らかな相関があることになり、これは大学入試問題で判定されている学力と何も違いが無いのである。もし、大学入試問題が『「解法パターンの丸暗記」と「数学がわかっている状態」が、数学的に隙の無い問題では判別できなくなってしまった』のだとしたら、今回の試験によって新たな判別法が得られたわけでは決して無い。同じ分類しか提供できていないのだから。

第三に、今回の調査問題では、『「解法パターンの丸暗記」と「数学がわかっている状態」』を判別できているかどうか不明である。なぜなら、「解法パターンを丸暗記」しているかどうかを確かめる設問がないからである。問2-2で不正解だった人が「解法パターンの丸暗記」ができているなどと断定する根拠はどこにもない。理工系と文学系で正答+準正答率が63.9%と20.8%と大きく開いていることからもわかるように、そもそも数学を試験科目で使っていない学生が、放物線のことなんて完全に忘れていて、「解法パターン」すら何も覚えていない可能性も高いのである。

そうであるにも関わらず、「このような曖昧な内容を持つ問題で、かつ多少の価値判断を含む採点基準であっても、「数学がわかる」という状態がある程度測れるという、新たな可能性を垣間見られた」と断定するのは一体どういう根拠によるものなのか全く不明である。

次回、学習指導要領が設定する「数学のよさ」についての部分を検討しようと思う。

*1:そもそも「問題文に書かれた内容を情景として思い浮かべる」ことは「国語力」なのか、など。