京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その6)

 前回まで、いわゆる総長メールに添付された参考資料1から参考資料4の内容を具体的に概観し、「国際高等教育院」構想に反対する側がこれらの資料についてどのようなコメントを行っているか批判的に検討するとともに、反対側が公開している具体的な文書として、「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」と題された文書と、「基幹ユニット構想」についての文書を批判的に検討してきた。さらに、「国際高等教育院」構想に反対する側の具体的な発言として

なども検討してきた。

 12月になって、京都大学新聞が「教養教育 私の視点」と題する連載企画を開始した。今回は、この連載企画の記事を検討したいと思う。2012年12月28日時点では、第1回と第2回が掲載されているので、この2つの記事を扱うこととし、以後、さらに連載記事が追加された場合には順次加筆していきたいと思う。

第1回 阪上雅昭教授の記事について

 あえて、この記事の最後を引用することから始めたい。

「国際高等教育院」構想に信念をもって反対したい。

こう述べる以上、この文章には、この反対の根拠あるいは信念が述べられているのだと私は考える。実際そうなのかということを検討したい。
 まず冒頭で

私は物理学が専門である。基礎教育としての物理学に比べると教養教育としての物理学というのはかなりイメージすることが難しい。幸運にもいわゆつ文系学生を対象とする“物理学概論”を担当しているのでそれを手がかりにしてみることにしたい。すると浅はかではあるが“自然の見かた”を教えることではないかと思えてくる。

と述べている。
 次に、研究を始めた頃から振り返りつつ、阪上氏の「宇宙観」というようなものが語られる。
 しかし私は、ここから特に教養教育について引用するべきなにかを見つけることはできなかった。
 話題が変わり、東日本大震災原子力発電所の事故に関する記述が続く。これらの記述からも教養教育に関連して何か引用しなければならないと思われる記述を見出せなかった。
 最後に次のように述べている。

 大学の教育について話を戻したい。物理学概論について言えば、講義の内容が直接彼らの進路で役立つことはないだろう。でも稀にでも彼らの琴線に触れ自然観を変えることがあるならとても幸せなことである。素晴らしい教育をしているなどと主張する気はさらさらないが、一人の教員の中での連携する営みとして、教養、学部、大学院教育、そして研究がゆるやかに統一されていることが、私の教育そして研究を豊穣なものにしてくれていることは確かである。この実感により、「国際高等教育院」構想に信念をもって反対したい。

あえて私は率直に述べたい。

この文章の中で、冒頭と最後の部分以外は完全な枝葉であり、教養教育や「国際高等教育院」構想を考える上でほとんどなんらの関連性を持っていないとさえ言えると思う。というのも、阪上氏の宇宙観と原子力発電所の事故に関する分析を読んだとしても、「一人の教員の中での連携する営みとして、教養、学部、大学院教育、そして研究がゆるやかに統一されていることが、私の教育そして研究を豊穣なものにしてくれている」という阪上氏の「実感」を根拠付けるものとは見えないからだ。

より具体的に指摘しよう。

阪上氏は、博士課程の途中で素粒子論から宇宙論へ研究テーマを変えたと述べており、

視点を変えることで宇宙や時空そのものを対象化し一体として捉えることができたこと、特にその進化を俯瞰できたことは何物にも代え難い貴重なものであった。

と述べている。しかし、それと教養教育はどのような関係を持っているのか全く分からない。この記述は、単に阪上氏が博士課程でどのような指導を受けたか、どのような見方を獲得したかということに過ぎず、教養教育の中身と直接関係していないのだ。

また原子力発電所の事故については

原子力発電あるいは原子力政策を全体として理解している者が当事者の中に誰一人として存在しなかったと思われる

と述べ、これを致命的な問題点と指摘しているが、しかしこれは教養教育とどのような関係を持つ話題なのか全く分からない。たとえば、「原子力発電あるいは原子力政策を全体として理解している者が当事者の中に誰一人としていない」という致命的な問題点が教養教育によって改善されるとでも言うのだろうか。

これらの具体的な話題の中から、「一人の教員の中での連携する営みとして、教養、学部、大学院教育、そして研究がゆるやかに統一されていることが、私の教育そして研究を豊穣なものにしてくれていることは確かである」ということの根拠記述を読み取ることは残念ながら私にはできなかったと言う以外にない。「信念をもって反対する」といわれても、このような記述では何も応答しようがない。

 それでもあえていくつかの記述について考えてみたい。

 一つ目は、文系学生にとっての物理学概論が、「講義の内容が直接彼らの進路で役立つことはないだろう。」という断定である。「進路」という言い方は非常に微妙だ。それを「職業」という意味で考えたとすると、例えば、原子力行政に携わる官僚機構がすべて理系の人間だけで構成されているとは思えない。文系出身の人でも、物理学や自然科学の基本的な考え方が「職業」上全く役に立たないなどという断定はするべきではない。しかも、「進路」という言葉を「学生の人生」という意味で捉えるならば、様々な社会的問題と物理学や自然科学の見方というものが密接に関係しているということを忘れるべきではない。たとえ自分の職業上で物理学の基礎的な内容を直接利用したりする必要がなくても、例えば今回の原子力発電所の事故についての報道の中で、放射線セシウム半減期などといった物理学の基本的な内容と直接関係する事柄が登場している。それらについて、文系出身の人々が何も知らないという状況で良い、とは私には思えない。これは、文系学生にとって物理学や自然科学の基本的な見方が役立つ側面はありうることの証左だ。もちろん今回のような事故が起こらなければ、文系出身の学生は、放射線とかセシウム半減期などという事柄に触れずに済んだかもしれない。しかし、それは役に立たないまま終わることがあるかもしれないが、役に立つ場合もありうる内容なのである。「進路で役立つことはないだろう」などという安易な断定は問題だ。

 そして二つ目は、そもそも「国際高等教育院」構想自体は、文系学生に「進路で役立つ」ということを基準として履修科目を選択させようという試みではないということだ。すでに検証してきた参考資料1から参考資料4には、そのような「進路で役立つか」という視点はない。何度も引用しているが、参考資料1の冒頭で述べられていた教養教育の中核となる内容についての記述

「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」

には、「進路に役立つ」などという視点はない。文系であろうと理系であろうと、どのような職業を選択しようとも、学ぶ価値のある内容について述べているのだ。語学教育を別にすれば、教養教育の中身について、社会に出て役立つなどという視点を前面に押し出すような安易な議論はなされていないのである。

 三つ目として、「稀にでも彼らの琴線に触れ自然観を変えることがあるならとても幸せなことである。」という表現にもいささか違和感がある。「自然観を変える」とはどういう意味だろう。何か文系学生は正しくない自然観を持っていて、それを正しい自然観に変えるという意味だろうか。上の記述にあるように、教養教育においても理解科目では、「数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論」を学んでもらうことが主眼であり、それはどちらかといえば「理解し使えるようになる」ことであり「変える」こととは違うように思う。

 四つ目として、「一人の教員の中での連携する営みとして、教養、学部、大学院教育、そして研究がゆるやかに統一されていることが、私の教育そして研究を豊穣なものにしてくれている」という記述に対する違和感である。
 問題点はいろいろあると思う。
 まず、「教養、学部、大学院教育」をすると、自身の「研究」が豊穣なものになるのかという点である。研究活動をしていることが、教養、学部、大学院教育を豊穣なものにすることには同意できる。しかし、逆向きすなわち、研究するために教育、とりあわけ教養教育をすることは必須の条件だろうか。私は賛同できない。研究に教育は、しかも特に教養教育は必須の条件であるとは思えない。例えば文系学生に物理学概論を教えることが、自身の研究の豊穣さにつながるとでもいうのだろうか。私にはにわかには信じられない。
 次に、教養教育を豊穣なものとするために、学部や大学院の教育は必要かという点である。繰り返すが、私は研究活動をしていることが教養教育を豊穣なものにすることには同意する。しかし、研究活動は、学部や大学院教育とは別物である。学部や大学院の教育をしていることが、豊穣な教養教育を提供するための必須な条件であるとは思えない。
 「ゆるやかに統一」というナイーブな言葉で、どのような活動が何を豊穣なものにするのかという分析が放棄されてしまっていることを私は問題視したいし、そのことについての十分な分析なくして、「国際高等教育院」構想の是非を議論することなどできるはずがない。あえて率直に言えば、阪上氏が最後の一文の主張を述べたいのであれば、自身の宇宙観はともかく、原子力発電所の事故の話などをする前に、もっとこれらの点について精緻に述べるべきではないのだろうか。

第2回 菅原和孝教授の記事について

「知と青春と権力 真の教養とは批判の力だ」と見出しがつけられた記事である。冒頭を引用することから始めたい。

「国際高等教育院」構想に対する人環教員有志の反対運動が始まってから、私がもっとも胸を突かれたのは、学部学生からの次のような批判だった。「ことの本質は、人事権をめぐる総長と人環との権力闘争でしょう。『教養教育を守れ』という美辞麗句を隠れ蓑に使ってほしくない」。小論では、「学部自治」破壊に対する抵抗と、「教養教育を守る」こととが不可分の課題であることを主張したい。

こう述べる以上、この文章の中に、『「学部自治」破壊に対する抵抗と、「教養教育を守る」こととが不可分の課題であること』の根拠が述べられるべきなのは当然であろう。その根拠を読み取るべく、具体的な記述を見ていきたい。

 菅原氏の記述は、まず青春時代の記憶から始まる。
 1969年、東大入試が中止された年に理学部に入学した菅原氏が、教養教育でのような衝撃を受けたかを3つの事例で述べている。

  • 英語の竹森は「自分を問われない生活」に埋没することへの不安をかきたてた。
  • 芸術学の新田の講義では、西欧絵画こそ最高だと思い込んでいた自身の偏見が打ち砕かれた。

という2つの事例に続き、数学の例が述べられている。

もっとも衝撃的だったのが数学の西野(理学部から出向していた)との対決だった。実は授業開始後の一週間以上、機動隊に守られた秩序への復帰を納得できない仲間たちと共に、私は、多くの授業で教官をやりこめ開講を阻止した。だが、西野はこう反問した。「君は何のために大学に来たの?」私は少しためらった。「自分のしたい学問に必要な知識を身につけるため」。彼は「ふむまあいいだろう」とか呟いたあと、こう断言した。「どんな闘いをするにせよ、君たちの武器は論理しかない。論理的に思考することをこの授業で教える。文句あるか?」私たちは震撼し一言も反論できなかった。翌日から授業を受けることを決めた。今も講義で論理的に話そうと努めているとき、この数学者との出会いが私の半生に影を落としてきたことに気づく。京大の教養教育とはそのようなものであった。私が「認識の徒」として生きる決心をした理由はいろいろあるが、畏敬に値する学識をもって真剣勝負を挑んでくる教養部教官から受けた衝撃もその一つであった。

京大の教養教育とは「そのようなもの」だったという「そのようなもの」とは何か。例を省けば、結局のところ、「畏敬に値する学識をもって真剣勝負を挑んでくる」ということに尽きるだろう。だとすれば、私の疑問はこうだ。「畏敬に値する学識をもって真剣勝負を挑む」ことが、なぜ「国際高等教育院」構想のもとでは困難なのか。担当する科目が教養教育の科目だけであったとしても、自らの学識が試される以上、それは自身が研究者として畏敬に値する学識を持っているかどうかだけが問題の本質のはずだ。組織がどうとか、学部や大学院の教育を担当しているかどうかとか、ましてや人事権があるかどうかなど二義的な問題に過ぎないのではないか。

もうひとつ、少し瑣末なことだが、あえて3つ付言しておきたいことがある。
 まず、青春の思い出を語るのはいい。しかし、菅原氏が語った思い出の中に、「多くの授業で教官をやりこめ開講を阻止した。」という記述がある。講義を受けたいと考えていた多くの学生にとって、こうした行動が迷惑千万であったことは間違いがなく、そうしたことへの痛烈な反省を含まぬ議論は、単なる青春の思い出語りや武勇伝語りに過ぎない*1
 次に、「自分のしたい学問に必要な知識を身につけるため」という青春時代の目的意識と、教養教育の中身とが結び付けられていない記述に違和感があるということだ。率直に言って、この目的意識と教養教育の関係について議論することの方が、青春の思い出語りよりもよほど「国際高等教育院」構想を考える上で有益だと私は考える。
 そしてもうひとつ、西野氏が行っていた数学の授業が「論理的に思考すること」だけを教えていたのかどうかという点もポイントだ。これは、数学に限らず理系科目の教養科目を教える場合の目標設定と密接に関係した論点である。この部分も、教養科目における理系科目の位置づけを議論する上で欠かせない論点のはずだ。当時に比べて、現在ははるかに科学技術が社会の隅々に浸透している。そのような中で、文理を問わず理系科目の教養教育における役割はどうあるべきかを考えることが、「国際高等教育院」構想を考える上で重要だと私は考える。


 菅原氏の記述は、引き続いて、教養部から総人・人環への移行期、文部省の「大綱化」への対応についての記述に移る。

全教員の悲願は、語学教育(基礎教育)センターへの配置といった差別的な分断化をせず、一丸となって学部・大学院に移行することだった。新しい部局の設立が全学の合意を得るためには、全学共通科目の責任を担うことが必須だった。それだけが教員全員が相互に対等な研究者として切磋琢磨しながら、青春時代の私に衝撃を与えたのと同質な、若者と研究者との対峙の場を確保し続ける唯一の途だった。

人環が主要部分を支えてきた教養教育には、20年近い歴史がある。旧態然とした「教養部」風の授業が最良だといっているわけではない。高等教育研究開発推進機構(通称「機構」)が共通教育をシステム化したことにより、カリキュラムやシラバスはすこぶる整備された。人文社会系科目については2004年に当時の副機構長が起草した文書によって、多様性に飛んだ授業科目、制約のない履修方式、といった「自由の学風」を体現する特質が明晰に理論化された。教養教育の改革を構想するのであれば、こうした歴史的蓄積の検討と、学生諸君の意見を包摂した評価を経ることが大前提だ。それをすっとばして総長直轄の人員プールに人環構成員の7割を配置換えを強行するなどということは、身を粉にして教育研究に携わってきた私たちの生に対する侮辱である。

前段の人環設置時の経緯については、私では検証できないことである。私は総合人間学部や人間環境学研究科がどのような組織として構想され、そしてそれが実をあげているといえるかどうかについて、意見したいこともたくさんあるが、ここではそれは控えたいと思う。ここで議論したいのは後段の記述である。

まず、「旧態然とした「教養部」風の授業が最良だといっているわけではない」という記述の射程が曖昧であることを問題にしたい。

これは、単に、「教養部」風の方法にも問題があり、その代表的な問題であったカリキュラムやシラバスの問題を改善したし、「多様性に飛んだ授業科目、制約のない履修方式、といった「自由の学風」を体現する特質」というものが理論化されていなかったので、それを行ったという意味なのだろうか。つまりこの記述は、現在提供されている全学共通科目においては、旧態然とした教養部風の授業の悪い点は改善されて、現状は最良のものが提供されているのだという意思表示なのであろうか。それとも、現状ではまだ改善するべき本質的な問題が他にもあるということを言っているのだろうか。私が「国際高等教育院」構想に反対する側の主張に関して指摘してきたことは、そもそも現状の全学共通科目に対して、問題点があると思っているのかそれとも問題点はないと思っているのかはっきり述べるべきだし、少なくとも参考資料1から参考資料4で述べられてきた種々の問題意識に同意するのかしないのかくらいは明確にするべきだということである。問題点はあらかた解決されたという立場を表明するなら、そのことの具体的な根拠を参考資料1から参考資料4で掲げられた具体的な問題意識ごとに述べるべきであるし、もし問題があるとか参考資料1から参考資料4で提示された一部の問題意識に同意するというのなら、その問題点を明示し、それがどのような方法で今の組織でも改善されるのかという改善案くらいは示すべきだろう。そういう具体的な表明なしに、今の全学共通科目にもいろいろ問題があるがそれは今の組織で改善できるというような趣旨の発言をしたり、旧態然とした教養部風の授業が最良だというわけではないが、様々な問題点が解決されてきたというような議論だけを述べるのは全くバランスを失しているとしか言いようがない。菅原氏のこの記述でも、いったい菅原氏がどのような立場に立っているのか全く明らかになっていないし、射程のはっきりしない記述に終始するべきではない。

次に、「教養教育の改革を構想するのであれば、こうした歴史的蓄積の検討と、学生諸君の意見を包摂した評価を経ることが大前提」という記述について検討したい。

そもそも、参考資料1から参考資料4は、教養部以来の歴史的蓄積を無視して行われたわけではなく、それらを背景として十分に踏まえているし、学生の現状という問題意識と提案している改善案とをかなり絶妙なバランスで記述しているという印象を、少なくとも私は持っている。その意味で、教養教育の改革を構想するための第一段階の文書として十分に価値があると考える。菅原氏の記述は、やはり参考資料1から参考資料4を十分に踏まえたものとはなっていないと感じる。

他方、私は、「学生諸君の意見を包摂した評価を経る」という点については、かなり懐疑的である。もちろん大学といえども講義を受ける学生のニーズを完全に無視した形で行われるべきではない。しかし、そうはいっても教育とはやはり一定の強制力でもって学生に何らかの事柄を習得させることを大きな目標とせざるをえない。その際、受ける学生のニーズや評価というものは決して第一義的に考慮されるべきものであるとは、私は思わない。学生が、語学科目では熟読よりも「海外旅行で必要なスキル」を教えてほしいと望めばその通りの科目を提供しなければならないわけではないし、理系の学生が文系科目を学ぶ意義が理解できないから必修単位から外すべきだと主張したとしてもその通りにしなければならないわけではない。何よりも、まず教員の側がかくかくしかじかの理念のもと、こういう形の科目群を提供することでその理念を達成したいのだという青写真を示すことから始めるしかないと考える。学生からのニーズがそれに見合っていない場合には、もちろん学生のニーズには耳を貸すべきだが、ニーズに反していたとしても、自らの理念や実施案が正しいと思うならばそう主張しなければならないだろう。残念なことに完全に正しい教育内容やその方法というものが存在するわけではない以上、教育とは未完の試行錯誤にならざるを得ない。教養教育を提示する側がその責任でもって学生たちを説得し、また学生たちの意に沿わないとしても正しいと信じることはやっていく、年月を経てその実があがったかどうかの評価を受けるしかないのが教育というものではないのだろうか。

3つ目として「生に対する侮辱」という言葉の選び方にもあえて注文をつけておきたい。自らの意に沿わない配置転換に納得できないことは理解できるし、それを批判することは構わない。しかし、「生への侮辱」という言葉は非常に強いものだ。少なくとも私には、この表現はそうとう強いものだと感じられる。任期付きで先の保証や見通しがないまま研究活動をしていたり、非常勤を続けながら研究しているポスドクの人たちがいる。そういう人たちに比べて、自分たちの生の方がより侮辱されているというのだろうか。学術分野以外へ目を向けてみれば分かるように、非正規雇用の労働者の問題というのは現在でも大きな社会的問題のひとつだろう。そういう人たちよりも「生」が「侮辱」されているというのだろうか。任期もなく十分に身分保証がなされている状況にある大学教授がの「生」が「侮辱」されているなどというのは、学術分野の状況だけみても、あるいは社会全体の状況に視点を広げればなおさらのこと、大げさに過ぎると私は考える。このような言い方をするからこそ、「ことの本質は、人事権をめぐる総長と人環との権力闘争でしょう。」という批判が出てくるのではないだろうか。この構想に反対する側は、もっと徹底的に詰めて論点を整理しなければならないことがたくさんあるにも関わらず、それを放置して、自らの意にそまない配置転換を「生に対する侮辱」などという強い言葉を選んで記述してしまっているように見える。

菅原氏の記述は、教養教育の理念への言及へと続く。

私が専攻する社会人類学の大きな使命は、<近代>社会に張り巡らされた権力作用を批判することである。だがそれは人類学に限ったことではない。どんな学問分野においても思考の最も根源的な潜勢力は批判である。批判とは、「自分のことば」を用いて「てめえのアタマ」で世界の謎を考え抜くことである。かつて吉本隆明は、「日常性を織り込めない思想はダメだ」と言って連合赤軍を批判した。若者たちの批判的知性を励起すべく奮闘することは紛れもなく私の日常性の一部なのだから、日常への暴力的な権力の侵入に対しては、研究を貫くのと同じ水準の論理で対抗するしかない。

1995年、高度な科学的知識を具えたオウム真理教信者たちがハルマゲドンの教義に傾倒して残虐なテロに走ったことへの衝撃から、主体的な判断力と高い倫理観とを具えた人格を涵養する教養教育の必要性が叫ばれた。「学力の底上げ」を金科玉条とする人たちは、この現代史の苦い教訓を忘れたのだろうか。マニュアル的知識を頭に詰め込んだだけの順応主義は他律的な回心や誘惑によって容易に狂信やファシズムに転化する。利己的な順応主義者がテクノクラートとして君臨した果てに、この国の惨状がある。かけがえのない暮らしと風景を無惨に破壊したことを恥じず、解決不能な汚染物質を何万年も先の子孫に押し付ける。被災者の塗炭の苦しみを嘲笑うかのように自らの属する省庁の利益獲得に狂奔する。どんな教育がそのような想像力の欠如したエリートを生み出したのだろう。私たちが担っている教養教育は不条理な権力作用の最深部を撃つ強靭な知を育てるはずのものだ。その点において、私たちの力が十分でなかったことを謙虚に認めなければならない。

松本総長が「国際高等教育院」なる構想を思いついたのは、京大生の基礎学力の低下と英語力のなさを憂えてのことだという。だが、若者の知性を衰弱させたもっとも大きな力は、半世紀にわたって少年少女から批判力を周到に刈り取ってきた保守政権の文教政策にほかならない。ウェブ上で入手できる知識への過度の依存も知的好奇心を痩せ細らせる。生の謎を鮮明に照らす古今の傑作文学を耽読する大学生はもはや絶滅危惧種である。しかし、人類史上はじめて起きているサイバースペースへの過適応とそこから帰結するヒトの認知能力の微視的進化(退化?)の趨勢を管理教育の強化によって変更しうると思い込むことこそ、この時代が直面している黙示録的な危機に対する恐るべき無理解を暴露している。

これらの記述への印象を一言で言うなら、権力作用に対する批判的知性などという位置づけ/問題意識自体が前時代的なものなのではないかということだ。権力とは、確かに我々を拘束するものであるが、同時にそれは我々自身が作り上げるものでもある。そのことを忘れて、自らを拘束する障害としての権力をただ批判することだけに堕してはならない。少なくとも可能な範囲で、現実的な改善案を提示しながらそれを練磨していく営みを怠ってはならないはずだ。具体的に教養教育の枠組みについて、毎年入学してくる3000人余りの新入生に、どのような理念でどのような科目を提供し、何を身につけてもらうのか、その点を整理して議論することが必要なのである。

単に「批判的知性を励起する」とか「不条理な権力作用の最深部を撃つ強靭な知を育てる」というのでは、私には釈然としないものが残る。参考資料1の冒頭では

  • 本学の卒業生は、研究者あるいは高度専門職業人として、様々な領域で知識基盤型社会を牽引していくことが期待されるだけではなく、健全な良識と深い人間的洞察力、そして高い責任感・倫理感をもって、自由で公正な民主社会の担い手となることも求められている。

という記述がなされていた。京都大学の卒業生は、単に権力作用を監視し、撃つ批判的知性の持ち主であればよいというだけではない。むしろ、彼ら/彼女らこそ権力作用を作り上げていく一翼を担う人材になる可能性がかなり高いのである。そういう人材にとっての教養教育は、「不条理な権力作用の最深部を撃つ強靭な知」というよりもむしろ、「自由で公正な民主社会」において「権力」をどのように形作り、その行使をいかにおこなうかということを思考し、またそれらに必要となってくる基礎的素養を身につけることではないだろうか。「自分のことば」を用いて「てめえのアタマ」で考え抜くことは大切だが、それは権力作用とは完全に独立した形でその権力作用を撃てばよいというわけではない。例えば、「ハーバード白熱教室」で「正義」というキーワードをもとに、功利主義自由主義というものの文献を参照しつつそれらを再考する営みが行われているのは、単に権力作用を撃つためなのではなく、自らの参画する「権力形成」や「権力行使」の場面で、いかに「正義」ということを、自由や公正や民主的であることを担保していくかというこを思考させる目的に資するものだからだと私は考える。権力作用を批判するということだけに限定した教養教育の位置づけ自体がもはや古い問題意識であると改めて述べておきたいのである。

個々の記述を具体的に検討してみよう。

  • 「私が専攻する社会人類学の大きな使命は、<近代>社会に張り巡らされた権力作用を批判することである。」

少し細かいことなのだが、人間環境学研究科の菅原氏の紹介ページには、「権力作用」という言葉が見当たらない。研究のキーワードにも含まれていないようだ。<近代>ということ、あるいは<近代>を相対化することは、確かに社会人類学のみならず多くの学問の中心テーマであろうが、しかしそれと「権力作用」ということを結びつけてよいものか、ここでは疑問を呈するだけにとどめたい。

  • 「どんな学問分野においても思考の最も根源的な潜勢力は批判である。批判とは、「自分のことば」を用いて「てめえのアタマ」で世界の謎を考え抜くことである。」

私は「批判」という言葉の選び方に疑問がある。「自分のことば」をもちいて「てめえのアタマ」で世界の謎を考え抜く」というのならば、数学や物理学や生物学でも通用するだろうが、「批判」という言葉は上手く合致しているようには見えにくい。ましてや「<近代>社会に張り巡らされた権力作用を批判すること」というのは、少なくとも数学や物理学や生物学といった自然科学の様々な分野では第一義的な目的とは言えないのではなかろうか。言葉の選び方の適切性に疑問を感じる。

  • 「若者たちの批判的知性を励起すべく奮闘することは紛れもなく私の日常性の一部なのだから、日常への暴力的な権力の侵入に対しては、研究を貫くのと同じ水準の論理で対抗するしかない。」

「若者たちの批判的知性を励起」することだけが教養教育の目的とは言えないのではないかということは上で述べた。この記述に対するもうひとつの疑問は、「国際高等教育院」なる新しい組織では、「若者たちの批判的知性を励起すべく奮闘すること」がなぜできないのかということである。例えば、学生たちが教養科目を履修する際に、一定の体系性を考慮した履修モデルを基本とすることと、個々の教員が「若者たちの批判的知性を励起すべく奮闘すること」とが矛盾しているということの根拠がわからないのである。あるいは、「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」と規定するとき、なぜ個々の教員が「若者たちの批判的知性を励起すべく奮闘すること」と矛盾していのか、その根拠がわからないのである。

  • 「1995年、高度な科学的知識を具えたオウム真理教信者たちがハルマゲドンの教義に傾倒して残虐なテロに走ったことへの衝撃から、主体的な判断力と高い倫理観とを具えた人格を涵養する教養教育の必要性が叫ばれた。」

私は、このような議論の方法は乱暴だと考える。主体的な判断力や高い倫理観が、残虐さを内包する宗教的集団への帰属に抗するものになるとは一概に言い切れないからである。

そもそも主体や倫理ほど危うい概念はない。主体的な判断力や高い倫理観は、ある意味では宗教、狂信、ファシズムといったものと常に対抗するものであるとは限らないし、むしろそれを積極的に擁護し強化してしまうこともありえる。オウム真理教に参加してしまった多くの人々が、主体的な判断力や高い倫理観を持っていなかったのか、あるいはそれらによってこの現代史の経験が変えられたのか、私はそれを安易に確言などできない。ましてやファシズムをやである。むしろそうした現代史の悲しい経験を分析し、それに抗する概念をどう打ち立て、どう正当化するかを思考し続けることこそ、以後の学問に課せられた重要な課題であり、私はそのことへの答えは未だに到底見出されていないと考える。それは単なる「不条理な権力作用の最深部を撃つ強靭な知」などという権力作用から完全に独立した第三者的視点に立つことだけでは到底解決できない課題だと思うのだ。

そして同時に、それらに抗する概念を「教える」ことなど到底教養教育では提供しきれないといわざるを得ない。教養教育は、「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得すること」を通じて、多くの先人たちの知的営為を学生たちに提供し、そして学生たち自身に思考することを促すことだけしかできないのではなかろうか。

  • 「「学力の底上げ」を金科玉条とする人たちは、この現代史の苦い教訓を忘れたのだろうか。マニュアル的知識を頭に詰め込んだだけの順応主義は他律的な回心や誘惑によって容易に狂信やファシズムに転化する。」

「学力」や「マニュアル的知識」とか「順応主義」といったことだけを根拠に、狂信やファシズムを語る語り口はナイーブ過ぎるということは既に上で指摘したことと同様である。むしろここで指摘したいのは、「国際高等教育院」構想は、単に「学力の底上げ」とか「マニュアル的知識を詰め込む」ことを目的になどしていないということである。何度でも引用するが、「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得すること」のどこが「学力の底上げを金科玉条している」というのだろうか。「マニュアル的知識を詰め込む」ことを目的としているのだろうか。菅原氏のこのような議論は適切とは言えないと考える。

  • 「利己的な順応主義者がテクノクラートとして君臨した果てに、この国の惨状がある。かけがえのない暮らしと風景を無惨に破壊したことを恥じず、解決不能な汚染物質を何万年も先の子孫に押し付ける。被災者の塗炭の苦しみを嘲笑うかのように自らの属する省庁の利益獲得に狂奔する。どんな教育がそのような想像力の欠如したエリートを生み出したのだろう。私たちが担っている教養教育は不条理な権力作用の最深部を撃つ強靭な知を育てるはずのものだ。その点において、私たちの力が十分でなかったことを謙虚に認めなければならない。」

これらの記述もナイーブだとしか言い様がない。われわれの国は、戦後の復興の中で、いわば「擬似的社会主義」とでもいうべき徹底した官僚的制度を打ち立てることで、むしろ豊かな暮らしを実現してきたのではなかったのか。その緻密な設計は、確かに、今の時代にあってさまざまなほころびを見せ始めている。しかし、この到達点を何か全く酷いものであるかのように記述することは一面的だ。残念ながらわれわれは利益を得るために失ってしまったものも数多くある。逆に言えば確かに様々な欠陥はあるが、その欠陥はわれわれが日常享受している様々な便益の裏返しなのである。そうしたことを無視して「教養教育は不条理な権力作用の最深部を撃つ強靭な知を育てる」などと述べること自体、私には空々しく聞こえる。問題はそういう単純なものではないのではないか。

  • 「松本総長が「国際高等教育院」なる構想を思いついたのは、京大生の基礎学力の低下と英語力のなさを憂えてのことだという。」

上の記述でもそうだったのだが、「学力」という言葉を安易に使うのは慎重であってほしいと思う。私は、参考資料1から参考資料4においては「基礎学力の低下」という言い回しを意図的に避けているように見える。高校修了段階の習得内容が多様化しているという指摘は、教養教育が単なる「学力」ベースで語られてしまうことへの警戒感から慎重に言葉を選んでいるように見えるのだ。「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」という規定は、単なる「基礎学力の強化」に留まるものではないと私は考える。

  • 「若者の知性を衰弱させたもっとも大きな力は、半世紀にわたって少年少女から批判力を周到に刈り取ってきた保守政権の文教政策にほかならない。」

この記述には具体性が乏しい。こういう前時代的な批判に私は疑問を禁じえない。

  • 「ウェブ上で入手できる知識への過度の依存も知的好奇心を痩せ細らせる。」

これは本当にそうだろうか。ウェブの普及は、むしろ複数の知識データベースへの接続をより容易にし、我々の判断力の向上に資するように思えてならない。知的好奇心を痩せ細らせるというのは一面的だと感じる。

  • 「生の謎を鮮明に照らす古今の傑作文学を耽読する大学生はもはや絶滅危惧種である。しかし、人類史上はじめて起きているサイバースペースへの過適応とそこから帰結するヒトの認知能力の微視的進化(退化?)の趨勢を管理教育の強化によって変更しうると思い込むことこそ、この時代が直面している黙示録的な危機に対する恐るべき無理解を暴露している。」

「管理教育」などという言葉遣いも前時代的であると感じる。何度でも何度でも引用するが、「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」という規定のどこが「管理教育」なのだろうか。学生たちに体系的な履修を促すためのグループ化と階層化、履修モデルの提示のどこか「管理教育」なのであろうか。問題意識の水準が古いのではないかと私が感じるのはこうした言葉遣いにも現れている。「この時代が直面している黙示録的な危機」というのも内容が不明確で私にはどう意味なのか了解できなかった。あえて率直に言えば「恐るべき無理解」に陥っているのは誰なのか、と皮肉の一つも言いたいところなのである。


続いて菅原氏は英語教育について述べている。

英語は他の言語より優れているから<帝国>の公用語になったわけではない。その覇権は戦後の国家間の力関係がもたらした歴史的な偶発事である。そのことへの苦々しさを含まぬ英語崇拝は世界秩序への過剰順応に過ぎない。知の植民地状況の中で疲弊している極東の知識人は、<帝国>の支配を内側から食い破るためにこそ<帝国>の公用語を操るのだ。だから私は山のように英語の論文を書いてきたし、国際学会の討論の場で沈黙を決め込む日本人研究者たちにもどかしさを感じてきた。「ネイティブと同じように」といった被植民者の卑屈な夢は捨てて、下手くそな英語で自らの思考を表現しようとする「身もだえ」のなかにこそ対等なコミュニケーションの可能性を見なければならない。

「英語は他の言語より優れているから<帝国>の公用語になったわけではない。その覇権は戦後の国家間の力関係がもたらした歴史的な偶発事である。」などということは、非母語として英語を学ぶ者ならば誰でも知っていることであり今更強調するまでもない。むしろそのことに「苦々しさ」を持たなければ「過剰順応」なのかということに議論の余地があると思う。「<帝国>の支配を内側から食い破るためにこそ<帝国>の公用語を操る」などというのもいかにもレトリカルである。自然科学を志望する学生の教養教育でこうしたレトリックを用いて本当に支持が得られるのか、私は疑問である。しかし、それらはすべて脇へのけておいて、一番問題だと感じるのは最後の文章だ。

「国際高等教育院」構想は、あるいは参考資料1から参考資料4で述べられていた語学教育に関する記述は、何も学生たちが「ネイティブと同じように」英語を操れるようになるべきだということではない。そのようなことは述べられていない。仮に、「国際高等教育院」構想の初期に、ネイティブ教員を雇用するというような構想があったとしても、ネイティブ教員に習うことと「ネイティブと同じように」英語と操ることも全く別の話だ。

  • グローバル化の進展の中で、様々な分野で指導的な役割を果たす人材は、人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できることが期待される。そこで、「一般学術目的の英語」においては、ディスカッションやライティングなどの、言語技能的な側面をより重視する教育を行う方向性で検討する必要がある。

という参考資料1の提言は、何も学生が「ネイティブと同じように」英語を操れるようになれなどといっているわけではない。むしろ「下手くそな英語で自らの思考を表現しようとする「身もだえ」のなかにこそ対等なコミュニケーションの可能性を見」ることと何も矛盾しないし、方向性はむしろかなり類似のものであるとさえ見えるのである。書物を読むことに重点が置かれすぎているのではないかという現状認識のもと、「表現」にも重点を置くことを提言しているからだ。「身もだえ」することを促しているのだ。

最後に菅原氏は、「私がもっとも誇りとする全学共通科目の成果」を紹介している。菅原氏が担当している「社会人類学調査演習」での多くの傑作レポートが書物に結実したこと、特に、工学部3回生の傑出したレポートを紹介している。その上で

京大生のこのような知性と行動力に出会うことこそが、私の日常を輝かせる意味の一部なのだ。その輝きを破壊しようとする力に粘り強く抗わなければならない。

とまとめている。
私は、「国際高等教育院」構想や参考資料1から参考資料4が示している教養教育の改善案というものが、京大生の知性や行動力に出会うという「私の日常を輝かせる意味」を本当に破壊するものなのかという点について、懐疑的である。
確かに、より基礎的な内容の充実とグループ化・階層化、履修モデルの提示という観点からすると、基礎ゼミナールやフィールド実習的な科目が「拡大科目群」に分類されることは想定できる。私も、こうした基礎ゼミナールやフィールド実習が1回生の初めから履修できるようにしておくべきかどうかについては懐疑的だ。しかし、こうした科目は、3000人の入学者すべてが履修しなければならない科目というより、むしろ学生の興味と関心によって駆動される科目であると考えられる。そうであれば、例えば履修年次を3回生以上に設定するなどの方法を取りつつ、学生の興味と関心に応じて少数のそうした科目群を履修することのできる余地を残し、単位認定でも少数の単位ならば認定できるようなシステムにすることは可能だろう。少人数の学生の興味と関心によって運営する科目ならばむしろ弾力的な運用が可能なのではないかと私は考える。あえて言えば、理系の学生に、文系科目に関係した基礎ゼミナールやフィールド実習の中から最低一つを、文系学生には理系科目の実験や実習科目の中から最低一つを履修するように単位認定制度を設定することも、参考資料1から参考資料4で提示された観点を踏まえた形で容認できるのではないかとさえ思うのだ。

菅原氏の文章を検討する最後に2つのことを付言したい。

一つは「私の過剰」である。「私の日常を輝かせる意味」とか「その輝きを破壊しようとする力に、粘り強く抗わなければならない」といった記述には、菅原氏という「私」があまりに過剰に露出されすぎていると感じる。あえて言いたい。教養教育は、菅原氏という「私」の日常を輝かせるためのものではないと。教養教育は、学生に考えてもらうことが最大の目的だと考えるからだ。学生にとって何が有意味であるかが優先されるべきで、教員の日常の輝きは二義的な問題なのではないか、とあえて述べてみたいのである。だからこそ、学生にとって有意味であることとはどういうことなのかを明確に整理することが「教養教育」を語る上での前提になると思うのだ。菅原氏の議論はどうしてもその部分がナイーブな記述に留まっているという印象を禁じえない。にも関わらず「私の日常の輝き」を守るのだという意思だけが表明されているように見える。そのアンバランスに違和感があるのである。

少し論点を広げると、これはおそらくA群科目に顕著なことだと思うのだが、教養科目で提供されている科目の中で、教員が「自分の考えたこと」「自分の興味関心」「自分の研究の根本動機」「自分の研究の最先端」といったことをどうしても語りたがる傾向があるように思う。しかし、学生に考えてもらうという点では、むしろ教員は自分の考え方をあまり前面に出さないほうが良いこともありえる。「ハーバード白熱教室」のマイケル・サンデルは自身のコミットする政治的な立場をかなり棚上げして、問題を典型的に浮き彫りにする具体的な事例を手がかりにしながら、古今の様々な著作を紐解き、諸概念の再考を促していくスタイルを取っていた。そういうあり方が、教養教育のひとつのモデルケースとして適切なものであると私は考えている。

付言したいことの二つ目は、菅原氏の冒頭の記述の検証である。

小論では、「学部自治」破壊に対する抵抗と、「教養教育を守る」こととが不可分の課題であることを主張したい。

と、菅原氏は述べていた。一体この記事がこの「主張」を根拠付けるものであるといいうるのだろうか。「ことの本質は、人事権をめぐる総長と人環との権力闘争でしょう。『教養教育を守れ』という美辞麗句を隠れ蓑に使ってほしくない」と批判した学部学生に、この文章は受け入れられるのだろうか。残念ながら私は否と言わざるを得ない。この文章で述べられていることは、どうしても「私の日常を輝かせる意味を奪うな」ということでしかない。「国際高等教育院」構想が実現して「学部自治」が失われると、「私の日常の輝き」が失われる。そうすると「私が教養教育を提供する誇りをもてない」と言っているようにしか見えないのである。

率直に言って、私には、「国際高等教育院」構想によって、京大生の知性や行動力に出会えなくなるという議論は理解できないし、したがって「日常の輝きの一部が破壊される」という議論にもついていけない。菅原氏が教養教育を提供する誇りを失うかどうかにも興味はない。私は、参考資料1から参考資料4で提示された問題意識と改善案を実現する組織としての「国際高等教育院」なるものが、研究者としての教員の誇りや輝きを失わせることなく、学生にとって有意味な教養教育を提供することは可能であるように見える。あるいは、そのような方向で運営することが可能であるように現時点では見えるというべきかもしれない。

*1:これは菅原氏の文章の後半に出てくる英語教育に関する記述「そのことへの苦々しさを含まぬ英語崇拝は世界秩序への過剰順応に過ぎない。」とパラレルになることを意識した皮肉である。