白熱教室JAPAN大阪大学小林傳司教授への疑問(その2)─第1回「BSE事件が問いかけるもの」要約

白熱教室JAPAN大阪大学小林傳司教授の第1回は、「BSE事件が問いかけるもの」と題して放映された。

率直に言って、私は、この講義は、問題の立て方自体はともかくとしても、情報提供の仕方や発問の仕方・教員側の発言・学生側の議論などの多くの部分において、手の施しようがないほど酷い構成になっていると考えている。

それらを述べる前に、第1回の様子を大雑把にまとめてみたいと思う。
このまとめは私の主観が反映されている可能性があり、興味がある方はオリジナルの映像を確認されたほうが良いかもしれない。
発言の内容にも漏れがあると思われるし、少し乱暴に要約している箇所もある。
また、顔出しされている学生を正面から批判しようというつもりではないので*1、ここでは議論の展開が追える程度に紹介する。

最初のナレーション。

「科学や技術を社会的な視点で見つめなおし、専門知識を持つ者と持たない者とのコミュニケーションの困難さを学生たちに実感させます。そして何をすべきかを考えることが目的です。講義には専門の違う大学院生が参加しています。問題解決に向けそれぞれの研究分野に立って議論する双方向型のコミュニケーションを通して社会と科学技術の関係を考えます。」

まず小林が建物をバックに登場し、次のように述べる。

「講義というよりもワークショップ形式といったほうが良いでしょう。そして複数の教員が参加して行っています。科学技術は社会に大きな恩恵をもたらしてくれますが、社会に思わぬやっかいな問題を引き起こしたりもします。例えばかつてはBSE問題がありました。今年はどうしても3.11の問題が思い浮かびます。ともすれば中学高校時代の学習の経験から、理科あるいは科学技術の問題には確実な正解があって、国語や社会とはこの点で違うというイメージを持ちがちです。しかし、現実には科学技術も不確実な答えした持っていないという場合があるのです。この授業では科学技術が正解の出せない問題で、しかも社会に対して大きな災厄をもたらした問題を取り上げ、専門家はどのような責任を負い、社会はどのように科学技術を利用していけばいいのかについて考えてもらいたいと思っています。もちろん、これも正解のない問いなのですが。さて、今回は1990年代にイギリスで大きな社会問題になったBSEを事例として取り上げます。」

ここで講義室の風景に切り替わる。

八木絵香特任准教授が、参加者すべてが自分の専門性においてコミットできるはずなので積極的に発言するよう促す。

次に小林が、今回の講義のテーマが「科学技術の不確実性と社会的意思決定(1)」だと述べる。その上で、

  • 科学技術が社会や経済のあり方を決定付けていること
  • 他方で思わぬ問題が起きてくること
  • そのような状況で、科学技術をどう使うかを誰がどうやって決めるかということが重い問題であること

を指摘し、今回は、BSEを事例として取り上げると宣言する。

BSEが何であるかということに関する予備知識の提供が行われる。

  • 牛海綿状脳症が伝達性を持つこと
  • 他にも羊やミンク、シカ、ヒト、ネコに見られる伝達性海綿状脳症の一例であること
  • 有力学説として、プリオンたんぱく質が形態異常(ヒトの体内にも存在している正常型プリオンの構造が変わる)を起こして代謝不能になり、細胞内に異常蓄積された結果、脳細胞の破壊をもたらすというプリオン学説を紹介
  • 結論を先取りしているんですが、と前置きして、牛肉からヒトに感染したとされているが、ヒトでも似た病気としてクロイツフェルト・ヤコブ病CJDがあること。しかし、発症年齢などの点で違いがあることから牛からヒトに感染した場合は、変異型クロイツフェルト・ヤコブ病vCJDと呼ばれていること
  • 治療法がないこと
  • 潜伏期間が長い(2〜8,10年)こと
  • 診断方法がないこと。異常プリオンを血液検査で見ることはできず、脳髄の組織を直接調べるしかないこと。

などが小林により説明される。

他方、プリオン学説になお異論があることが紹介される。

  • この学説が、コッホの原則を満たしているかどうかが疑問視されていることこの原則は、「ある病気の原因と成っている微生物を特定するために必要な4条件である」と紹介し、この原則をプリオンが満たしているかどうかを検討してみると、2番目の条件である「病原体の単離」から怪しくなってきて、他の個体に感染させると同じ病気が見つかるという3番目の条件までいったというような話もあるがよくわからない、2011年の今でもそういう状態だ
  • また、たんぱく質が経口摂取でどのようにして脳に蓄積するのかというメカニズムが不明であること。通常たんぱく質は胃液で消化されアミノ酸として吸収されてしまうはずで、たんぱく質のまま入ったら免疫反応を起こしてしまう。
  • 「かなり多くのというか一定数の科学者は、プリオンはほんとの原因ではなく、ほんとの原因の産物ではないか、やはりほんとの原因は、うつるんだから、核酸をもった物質であって、ウィルスではないか、というふうに主張している研究者もいます。」

小林は、有力学説はプリオンだが、ウィルス説を唱えている学者も多いということだとまとめた上で、科学においてはこのような状況であることは意外に多いと述べる。
続けて、これは理系の学生には当然でも、文系の学生には、なじみがない。
なぜなら中学高校の理科でかならず正解があったというイメージが現代の科学技術にも投影されているからだと指摘。これが科学コミュニケーションでもわりと大きな問題だと指摘する。

続いてBSE問題の年表が出る。

  • 1986.11に初めて牛のBSEが見つかったこと
  • 1988.7に反芻動物由来タンパクの反芻動物への供与を禁止したこと

を述べ、1920年代から本格化した、牛の飼料に肉骨粉が使われていたことを指摘する。
ここで専門家委員会として、「サウスウッド委員会」が設立されたことを紹介し、
この委員会の報告書では、牛の発症予想を、最大2万頭で1996年には終結するとし、人間へのリスクは極めて小さいだろうと予測したことを指摘する。実際には2010.7時点でイギリス国内で18万頭が発症したことも指摘する。

他方で

  • イギリスでは、一番汚染されている危険部位を食用から排除するという規制もかけられていったこと
  • しかし、当時、イギリスの奇病だと思われていたこと
  • 1991.5にフランスで発症が確認され問題化したこと
  • その後イギリス政府は大丈夫だと言い続けたが、1996.4に人間に感染したと認めざるを得なくなり、その後171人の感染が確認されたこと

を紹介する。

少し脱線して、日本でも献血規制が行われていることに触れる。
日本の規制は、各国の規制の中で一番厳しいものにあわせているだけだと指摘し、
日本でこの問題をちゃんと考える人が余りいないこと、血液検査の専門はいるのに、それをつかって社会でどういう規制をかけるべきかと考える専門家が少ないといった点を述べる。

次に、牛とヒトのBSE感染数のグラフを示す。

  • 牛とヒトとの間に発症期間9-10年にズレがあること
  • ここから潜伏期間を推定できること

を指摘する。そう推定することは合理的だが、最後の2009年に少し上昇していることを根拠に再度発症の波がくると主張する学者もいると述べ、どちらが正しいかを科学的に決めることは難しく、たぶん終わっただろうというのが合理的な見方だが、30-50年後にごめんなさいがないと限らないことなどを指摘する。だから科学が悪いというのではなく、われわれの有している自然を理解する能力がこのレベルなのだと考えるべきだと述べる。

サウスウッド委員会の話に戻る。

ここで具体的な発問

「どうやって専門家を集めるのか?もしイギリス農水省の課長補佐だったらどうするか?具体的にどこにあたってどういう人を集めるか?」

がなされる。

文系の学生の自信なさそうな返答のあと、

  • この病気がそれほどメジャーではないので、専門家が少ないこと
  • 考慮するべき科学的分野が極めて広いこと

を指摘した上で、具体的に考えることを指示。
学生からいくつか意見がでる。学会や大学に問い合わせるという意見が出るが、具体的にはどこかと聞かれて東大というような答えも出てくる。

それらを受けて、小林が、委員長のサウスウッドはオックスフォード大の人だった。日本だと東大になるんだろう。実際に農水省の担当者に聞くと、他にどんなやり方がありますかと聞かれたというエピソードを紹介する。専門家委員会が作られたとき、ベストな専門家が選ばれているとは限らないという問題点を指摘する。

次に、「結論の暫定性」という問題を取り上げる。

サウスウッド報告書にある文章
「In there, as in other circumstances, the risk of transmission of BSE to humans appears remote.」
「Although the risks appear remote.」
を紹介し、「appears remote=ほとんどありそうもない」は大丈夫だと言っているわけではない。科学者も自信をもって書けないのだと指摘。
その一方で、
「It is .... most unlikely that BSE will have any implication for human health. Nevertheless, if our assessments of these likelihoods are incorrect, the implications would be extremely serious. 」
と述べてていることも紹介する。
これは科学者としてどう感じるかと理系の学生に発問。

「可能性はきわめて低いと読める」という学生に対し、小林は、科学の立場から確定的なことはいえないという立場を正直に言っているともとれると指摘。私たちが間違っている可能性や大丈夫だと保証できないとも言っていると。
しかしこの報告書を誰が読み、どう使われるのかを考えてみるべきだという。学会の中ならいい。しかし読み手は規制をするかどうかを決めなければいけない役人。この報告書が、政府と食肉産業にとって、ヒトへの感染の可能性はまずないと優れた学識経験者が保障してくれているバイブルと引用されたのだと指摘する。

後にサウスウッドは、「警告が弱すぎた。しかしわれわれが騒ぎ立てれば、イギリスや他国の食肉産業全体を混乱させる危険があった」と述べていることを紹介。
「あの段階(1989年)において、もう少し強い規制をかけることを提言すべきだったかもしれないが、そのようなことすれば、欧州の畜産業界に打撃を与えることになると考えて、やめた」
BSEについては、科学は極めて不確実な状態にあり、科学者として不愉快なことではあったが、本当に確かな根拠から離れ、判断せざるを得ないことがしばしばであった。これは人が時としてせざるをえない、難しい判断であった。善良で賢明な人なら、違った結論に達することもあり得ると思う。実際には、われわれは全員一致で結論を出したが、いくつかの問題に関しては、少数意見を報告することもできたはずだと思う。あまりに多くの不確実さがそこにはあったのだから。」
という後年のインタビューを紹介する。
専門家が専門家の社会の中で通用する慎重な書き方をしても、政治・行政・社会の中に出されるとだいぶ違った受け取り方をされ、使われることを指摘する。

そこで、発問

「あなたの立場を科学者に限定したとしたら、答申はどんな表現になったでしょうか?」

が出される。

ここで学生の意見が出る*2
「人間に感染するかどうかはわからない。」
「今まで集めた知識の範囲では、まぁ問題ないだろう。」
学生B「役人さんに集められた以上、求められている答えになるようにデータを集める。」
小林「御用学者になる!?笑」
「文系の人にかき方や伝え方を相談する。」
「わからないという事実を経済学などのほかの分野の人に伝え、リスクをどう判断するか議論する。」
「たぶん大丈夫とは言ってはいけない。人間に感染する可能性は低いというべき。」
小林「事実に中立な表現にしたい?」
「はい」
「婉曲な表現や断定は避けて、事実に基づいて、あとで責められないように、可能性は低いという。」
学生A「わかりません、という。科学者として呼ばれているから。可能性が低いとか表現を変えるとかは科学者ではない。それは役人が判断してください。または国民ひとりひとりが牛肉を食べるかどうか判断してください。」
「科学的根拠にのっとって事実を淡々と述べる。あとは規制をどうかけるかは政治家が決める。」
「最初のサウスウッド委員会の段階で文系の人とかを入れるべきだった。わからないものを安全だといったのはまずかった。」
小林「実際に行政の担当者だったとしたとき、科学者が微妙と答えたらどうするか?」
「長期短期でみて、情報を開示するか隠すか、どちらにするかは国民の利益になるように考える。」
「気持ち的には少しでも危険があれば規制したいが、利益団体から圧力がかかるので、それをどう押さえて厳しい基準をつくるかを考える。」
小林「でも微妙って言われてるんだから、線引きは任意だよね。科学者は責任を政治や行政がとってくれといっている。」
小林「実際に食べる人の立場に立つとどうだろう?」
「報告書に書いてある事実さえわからない庶民はどうすれば?生活に一番近い場面で話をして欲しい。自分の立場からの目線を重視しすぎで、生活に一番近い目線というのが入っていないことに違和感がある。」
これを厳しい意見と評する小林。

ここで八木准教授が発言する。

「科学的にはここまでっていうのはわかるんだけど、この状況でここまでって科学者が言ってしまうってことは、何の対策もとらないということにつながる可能性が高いってのはわかるよね。だって危険だって言わないと対策はとらないわけだから。科学者が科学的にわからないっていうことは、このリスクを見過ごすっていうことに加担することに、科学者はなるんだけど、それについてはどう思うのかなっていうのが聞きたかった。」

学生A「そうなりますか?科学的にはならないと思う。」
と答える学生に、八木の反論。

「科学的にはならないの。社会常識的に科学者の側が、これは危険です、人間に移る可能性がありますと積極的に言わないってことは、世の中の流れ的に言うと、結局何の対策もとられないという可能性が高いと思いませんか?」

学生A「行政の側もわからないと国民に伝えれば選択権はあるんじゃないか」
と発言。それは「行政の役割の放棄じゃないか」との反論があり、学生B「みんなわかりません、みんな死にましたということもあるわけで。」
学生A「いや選択権はある」
「行政が基準をきめなくちゃいけないわけだけど、」
学生A「それがおかしい。行政はわからないという科学的事実を出せばいい。食べて病気になったら本人の自己責任。それで終わりでしょ?」
学生B「行政は何をするの?」
学生A「伝えること。」
学生B「それじゃ学者が言えばいいだけで行政はいらない。」
別の人の発言。
学生C「結論がわかっていることなら行政は規制をかければいい。役割はある。」
学生B「行政が扱う問題の中で答えがわかりきっていることってあるんですか?」
学生C「答えがわからない問題は、国民に判断を委ねるという立場。」
学生A「結局責任転嫁しあっているだけで、間違っていたら科学者のせいだっていいたいだけだ。」
家族がヤコブ病で亡くなった人が発言。
「責任転嫁ばかりしないで、どうすればベターな方向になるかを目指して欲しい」

ここまでの議論を受けて小林が最後に発言する。

  • わからないといったとき、強めの規制をかけるのは難しい。例えば畜産業界はよくわからないのになんで規制をかけるんだというだろう。しかし、よくわからないんだったら規制をかけて欲しいと食べる側は思う。そこで科学者の意見が欲しいというのが行政の側の考えだ。
  • サウスウッド委員会の評価は難しい。あなたたち責任を取れということになるか?ならないとすれば誰が責任を取るか?
  • 何か社会的に科学技術に関する問題が起きているとき、その問題に関するベストの専門家をどう選ぶか?ベストな専門家を常に選べるような制度をもっているか?それがないと出てくる結果は危ない。
  • 科学技術の専門家だけの委員会をつくって、これだけ大きな問題の結論をかいてくれといわれると研究者はつらいかもしれない。サウスウッドさんを批判してもしょうがない。
  • 科学的に不確実な問題が起きたとき、科学技術の専門家をどう使うかということが問題になっている。

これで講義は終了。

最後に研究室での小林のコメントが入る。

「やっぱり大学院生になってくると、自分のスタンスっていうのを考えているんですね。専門分野の中でトレーニングされることによって。おそらくそのものの見方というのはその専門分野に非常に強く影響されてきていますから。彼らは普通にしゃべっているつもりでも、聞いている側からするとやはり特定の専門性を背負っているような発言になってくるんですね。それは今日は非常に感じましたね。もし特定の研究科の大学院生だけでやったらあの種の議論は起こらないんですよ。もっと簡単に結論が一致してしまうとかそういうことは起こるんですが、今回ですと、やはりちょっと発散する傾向はありますけれど、そう簡単にそうだねっていうふうにならない、っていうのはああいうふうに研究科混成の特徴じゃないですかね。」

少し長くなったので、第1回の内容に対して私が問題と考える点は(その3)で述べることにしたいと思う。

*1:そうは言っても、学生Aと学生Bの発言にはかなり問題があると思う。共通しているのは議論が概念的で具体性に乏しいことだ。私の主観だが、学生Aにはあまり議論をするという気分はなさそうに見える。しかし、科学者への帰責に対する反発は強いのだと思われる。他方で学生Bは学生Aの意見に納得できないものはあるのだろうが、議論が「科学的にわかる/わからない」という二分法にかなり嵌まり込んでいるように見え、科学的にわかることなんてあまりないんじゃないかという相対主義とも懐疑主義ともつかない議論を展開しているように見える。このあたりは本来教員の側が丁フォローしなければならないと思うのだが、もともとの講義の構成の悪さがある上に、八木准教授の発言が火に油を注いだ形だ。私は学生の議論はかなり拙いと思うけれど、この講義の構成や教員側の発言を踏まえると、学生の議論の仕方に問題があると非難するのは少し学生には辛いかなとも思う。

*2:これらは私なりの要約なので発言者の意図とは違うかもしれない。言葉通りに書き起こしているわけではない。