日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その4)─「論理」の氾濫─

今回の「大学生数学基礎調査」の報告書概要版とそれに基づく「数学教育への提言」の中には、「論理」という言葉がふんだんに使われている。しかし、それらの言葉や文脈は、詳細に見てみるとどのように定義されるものかが曖昧であったり、「論理」と「数学」との結びつきに対する説明が不足していると感じられる部分が多かった。これでは、見る人によっては、もはや「論理至上主義的」としか言いようがない形になってしまっているとさえ言っても過言ではなく、それは決して今回の調査を肯定的には理解してくれないということに直結してしまいかねないと危惧する。

まずこの点について具体的に見ることからはじめたい。

  • 「論理」に関する記述が主観的/観念的なものに留まっている上に断定的である。

提言p.1にある「大学生数学基本調査」の目的には

高等教育を受ける前提となる数学的素養と論理力を大学生がどの程度身につけているのか、その実態を把握し、大学教育の改善に活用するとともに、初等中等教育に対する提言の材料とすること

とある。この目的にある「高等教育を受ける前提となる数学的素養と論理力」という表現が抽象的であることは既に指摘した。日本数学会は今回の調査で使用した問題5問が「高等教育を受ける前提となるどのような数学的素養とどのような論理力」を試す問題であるか明確に説明するべきである。

しかし、提言p.1-2にある「基本調査の内容」を見てもさらに抽象的で概括的な言葉が並ぶだけである。曰く、

問題は別紙にある通り、3問からなっています。基本的に、問1は文章に含まれる論理を的確に読み取れるか、問2は論理的に正しい記述ができるか、問3は数学の基本である比例と作図を理解しているか、をテストしています。

である。また続く「基本調査の結果とその分析」(提言p.2)では

問1では「平均の定義と定義から導かれる初歩的結論」、「少し複雑な命題の論理的読み取り」のどちらも誤答率が高く、論理を正確に解釈する能力に問題があることを示しています。
問2.記述式入学試験を課している難関国立大学の合格者を除くと、「偶数と奇数の和が奇数になる」証明を明快に記述できる学生は稀、という結果になりました。二次関数の性質を列挙する問題では、意味不明の解答が多く、準正答のなかにも、すでに挙げた性質と重複する性質を再度挙げる解答が目立ちます。論理を整理された形で記述する力が不足しています。
問3では、平面図形を定規とコンパスで作図するということが何を意味するのか理解していない解答が多く見られました。高校までの教育で、こうしたことがきちんと教えられていない可能性もあります。

とある。

私は、これらの文章にはかなり主観的/観念的で雑な記述が含まれていると思う。

 例えば、問1に関して、「文章に含まれる論理を的確に読み取れる」とか「論理を正確に解釈する能力」というものの定義は明確とは言いがたい。これらが同じことを言っているのかさえよくわからない。「的確な読み取り」と「解釈」は同じ意味であろうか。

 具体的に考えてみると、「文章に含まれる論理を的確に読み取れる」ということと問1の2つの問がどう関係しているかはかなり曖昧であると思う。平均の定義を用いて確実にいえることとそうでないことを判別する問1-1は、「文章における論理を読み取る」というよりは、平均の定義とつき合わせて適切な反例が構築できるかどうかが問われているように思う。「文章に含まれる論理を的確に読み取る」というのは、どちらかといえば、 文章中から必要な事柄を読み取って選択肢の正誤を判断する問1-2のような問題のことだろう。しかも私にはいずれの問も「論理を正確に解釈する」という表現が妥当なようには思えない。「反例の構成」や「命題論理を使うこと」が求められているのであり、そう記述するのが最も誤解が少ないのではなかろうか。

 問2に関しても、まず「論理的に正しい記述ができるか」ということと「論理を整理された形で記述する力」という2つの表現が同じ事柄を示しているかどうかが曖昧である。「論理的に正しい」ということと「整理された形」とにはギャップがあるように思える。

 具体的に考えてみても、「偶数+奇数が常に奇数であることの文字式を用いた証明」を行う問2-1はかなり厳密な意味で「論理的に正しい記述ができるか」を問うている。他方二次関数のつくる放物線の重要な性質を3つ文章で答える問2-2は、「論理的に正しい」ということと「重要」であることとの間にはギャップがありうる。例えば重複する性質をいくら列挙しようともそれは「論理的に正しい」が、3つの重要な性質としては不十分である可能性もある。またこれは単に答えが求められている設問である以上「論理を整理された形で記述する」設問であるとは言えないように思う。さらに言えば、「重要な特徴を、文章で3つ」と言われたときに、重複した観点を挙げる答案は「論理的」ではないのだろうか。それさえ私には言いがかりのように思われる。

 このように実際に出題された問とそれを総括する際に用いられる「論理」という言葉との間に十分な連関がなく、またそれが十分に検討された形跡もないために、非常に主観的/観念的な文章になってしまっていると私は感じる。

 他にも例はいろいろある。
 
 既に批判した

論理的コミュニケーションの前提が崩壊している答案

という表現に登場する「論理的コミュニケーション」とは何か全く判然としないし、またその「前提」とは具体的に何なのかもはっきりしない。「論理的コミュニケーション」が取れないということと、その「前提が崩壊している」ということにもギャップがあるように思う。既に指摘したように、「論理的コミュニケーションを図ろうとしたが失敗して論理的にまずい主張をしてしまった」ということと、「そもそも論理的に話すつもりなんかさらさらない」ということとの間には明確に違いがあり、前者を「論理的コミュニケーション」に失敗したと形容することや後者を「論理的コミュニケーションの前提」が成立していないと形容することは、ある程度合理的かもしれないが、前者を「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」と形容するのは拙いと考える。

 報告書概要版p.2では、問1-2に対するコメントとして、

文の論理的読解」の正答率は64.5%。調査対象となった大学生の3人に1人が論理的読解に課題あり

という評価がある。この「(文の)論理的読解」という意味が判然としない。上でも述べたように、この問1-2で問われているのは、あくまでも「命題論理」としての理解である。「命題論理」がうまく読み取れなかった答案や学生を「論理的読解に課題あり」と評価してしまうと、数学とは限らない文章の読解全般に何らかの問題があると指摘しているかのように受け取られてしまう。何が問題なのかを明確に限定することが重要だと考える。

 同じく報告書概要版p.3では、問2-1に対する評価として

基本的論証力を身に着けているかどうかが、選択可能な進路の幅を大きく左右している可能性

とある。「奇数と偶数の和が常に奇数となること」の証明のために、2m+1と2nを持ち出して論証することが本当に「基本的論証力」だと言えるのだろうか。問題の内容に合わせて使うべき道具が変わるのは当然で、「連続する3つの奇数の和が3の倍数であること」の証明ならば文字式を使うことにかなり優越性があるが、「奇数と偶数の和が常に奇数となること」ならば、「偶数を足しても偶奇は変わらない」くらいでも十分に「論理的」であると私は感じる。

 「論理」からは少し離れるが、二次関数に関する問2-2に関して

  • 個々の知識だけでなく、知識を総合する力の有無が、選択可能な進路の幅を左右する。(報告書概要版p.5)
  • 「できる」と「わかる」の乖離を調べるために、あえてこのような設問を設定しました。本設問では、二次関数に関して学ぶ操作(例:x軸やy軸との交点を求める、頂点の座標を求める、等)がどのような意味を持つかを理解しているかを調査しています。(FAQp.3)

という表現がある。「知識を総合する力」というのが何なのか私には理解できない。「重要な性質を、文章で3つ挙げよ」と問うことが、「二次関数に関して学ぶ操作がどのような意味を持つかを理解しているか」を問うことになるのか。またこの問題の答えは、二次関数に関して学ぶ操作を3つ答えるだけである。今回のこの設問はどのような意味で「知識を総合する」必要があるのか。「『できる』と『わかる』の乖離」もわかりにくい。例えば放物線の概形を図示「できる」学生に、これ以上なにを「わかれ」というのだろうか。このような表現は主観的/観念的との謗りを免れないと考える。

  • 「数学」と「論理」の安易な関連付けや「数学」や「論理」の社会的価値を安易に断定しすぎている。

日本数学会からの提言の節(提言p.2)にも「論理」が「氾濫」している。曰く

基本調査によって明らかとなった問題点を踏まえ、日本数学会は以下の提言をいたします。
中等教育機関に対して:充実した数学教育を通じ論理性を育む。証明問題を解かせる等の方法により、論理の通った文章を書く訓練を行う。
大学に対して:数学の入試問題は出来る限り記述式にする。1年次2年次の数学教育において、思考整理と論理的記述を学生に体得させる。

とある。「論理」が3回も登場する。「論理性」とか「論理の通った文章」とか「思考整理と論理的記述」というような表現が抽象的で何を指し示しているのかが曖昧であることは既に指摘した点と同じである。しかしこのレベルになってくると、もうひとつの問題点が浮上せざるをえない。それは、ここで述べられている「論理」と「数学」の関係性である。「充実した数学教育」は「論理性を育む」のか、あるいは「思考整理と論理的記述」を体得させることができるのか。「証明問題を解かせる」ことで「論理の通った文章を書く訓練」ができるのか。

 例えば、ひとたび数学を離れてしまうと、いくつかの具体的な例を用いて説明することで、ある程度一般的に成り立つはずだと説得するしかないような場合もある。「考えられる限りの偶数と奇数を足してみたら奇数だから」というのは数学的な根拠としては、「すべての場合を尽くしている」とは言えないが、現実の問題では、そもそも「すべての場合を尽くす」ということが難しく、いくつかの典型的な例に頼らざるを得ないこともある。それを「非論理的」と切り捨てるのは簡単だが、現実はそういうことを言ってみても何も始まらないだろう。数学によって育むことのできるのは、「論理的記述」のある一部分であって、そのことと現実問題に対して論じるときの態度や書きぶりというのは、参考になる部分はあったとしても、かなり相違点も多いはずである。「数学(教育)」と「論理性」を無前提に結びつけることに違和感がある。

 これは、「将来へ向けて」(提言p.2)になるとより一層鮮明になる。いわく

資源に恵まれず災害の多い日本は、国民一人一人の知的水準を上げなければ生き残ることができません。数学は科学・技術を支える基盤です。また数学教育が育む論理力は、国際交渉の中で不可欠です。日本数学会は数学と数学教育を通じて、国民生活の向上に寄与できることを願っております。

「資源に恵まれず災害が多い」ということと、「国民一人一人の知的水準を上げなければ生き残ることができない」ということとの間に論理的つながりがあるだろうか。「国民一人一人の知的水準を上げることで生き残っていく、そういう国家像を目指すのだ」なら、それはひとつの主観の表明だが、意図はわかる。「国民一人一人の知的水準を上げなければ生き残ることができない」といわれると、本当に他の道はないのかと気になる。

「数学は科学・技術を支える基盤」であることは間違いない。しかしそのことと、数学の具体的な内容がどこまで「国民一人一人の知的水準の向上」と言う際のターゲットになるかということとは全く話が違う。

数学教育が育む論理力は、国際交渉の中で不可欠」という言い方も乱暴すぎる。これは「数学教育が育む論理力」がなければ、いかなる国際交渉も上手くいかないということを主張しているわけだが、実際には「金銭」や「バーター」が解決のための手段になっていることもままあるわけだ。それも「数学教育が育む論理力」なしでは為しえないという理屈は、少なくとも私には理解しにくいと感じられる。

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