日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その9)─雑誌「世界」の新井・尾崎論文をめぐって─

 雑誌「世界」5月号(岩波書店)に、「『空想主義的』教育改革がもたらしたもの─大学数学基本調査の結果から」(新井紀子・尾崎幸謙)が掲載された。今回はこの記事を取り上げて、ここまでに指摘してきた論点に即して問題点を列挙してみたい。
  あえて冒頭に結論的な私の感想を述べておくと、率直に言って、報告書概要版から報告書抜粋、そして今回の「世界」記事へといたる一連の流れで見ると、もはや筆者たちは、分析の内容や言葉の選び方/定義を一貫したものとする努力を端から放棄して、その場の場当たり的な感覚で文章を書いているのではないかという疑念が生じる。それは、統計的分析とその信頼性を錦の御旗のごとく振りかざし、調査の内容やその分析の整合性や厳密性をないがしろにしているという以外にないとさえ思える。


(1)知識の問題

「大学生の数学力を広範囲に調査する」という前例のない試みである。「数学力」ろはいったい何か。それは、どのようにすれば測ることができるのか。
近年、研究者や評論家が語る「学力観」は多様化の一途をたどり、混沌ともいえる様相を呈している。その一方で、受験生や高校・受験産業の行動は、有名大学への進学実績という一点に向かって収束しているように見える。私自身、その引き裂かれた状況を見れば見るほど、何を調査すればよいかについて迷いが生じた。
しかし、約一年に及ぶ議論の末、教育委員会が出した結論はシンプルなものだった。まず、特別な知識を仮定せず、平易な日本語で書かれているふつうの教科書を読み解くことができること。特に、条件文を正しく読み取り、それを満たす具体例をいくつか思い浮かべられること。そして他の人と論理的なコミュニケーションが成立している状態とそうでない状態の区別がつき、自分が書いた答案の妥当性を批判的に吟味し修正する力を持つこと。このような力が完璧に備わっていることを求めるわけではないが、せめてそのことの必要性を認識しつつ小中高で学んでいてほしい。それは数学者の都合でも理想でもない。そのような力を軽視しては、人文科学か自然科学かなどによらず、大学でより発展的な学問を学ぶことが困難だと思えるからである。また生涯にわたって学び続けることなどできようはずがないからである。

問題は、小学校から高校一年の教科書に掲載されるもっとも基礎的・基本的内容のうち、数学固有の知識や計算力をなるべく問わないものから選んだ。

結論が「シンプル」かどうかはさておくとしても、この文章で述べられている「結論」と調査の実態とがお世辞にも符合していると言えないところが問題なのである。

第一に、「数学の知識」や「数学固有の知識」をさも求めていないかのような書きぶりは実態を反映していないと考える。
  例えば、問3において、「定規とコンパスのみを用いて」という場合、定規には目盛りはないとするのは「特別な知識」「数学固有の知識」ではないのか?そもそも「作図」の問題は、「数学固有の知識や計算力をなるべく問わないもの」に該当するのだろうか。あえて言えば、「小学校から高校一年の教科書に掲載されるもっとも基礎的・基本的内容」と言えるのだろうか。少なくとも私はそうは思わない。問3はそもそもここで掲げられている結論の一部と齟齬をきたしていると考える。例えば、「平均の定義」や「偶数と奇数の定義」あるいは「放物線の性質を調べる操作」も、数学固有の知識であろう。しかし、少なくとも、「平均の定義」や「偶数・奇数の定義」に比べたら、「定規には目盛りはない」ということや「作図」問題そのものが、より極端に「数学固有」の知識や内容に偏りすぎているのではないだろうか。あえて言えば「放物線の特徴」さえ、前者2つに比べるとかなり「数学固有」であると感じられる。数学を選択していない私立文系の学生にとって、「放物線」というものは使わなくなって久しいものである可能性が高い。使わなければそれを忘れてしまうということは起こりうる。それはまさにもう何年も触れていなかった「数学固有の知識」ではないのだろうか。
  問3は新井氏の発言も問題である。(その8)でも触れたように、新井氏は報告会において、「教科書には全部載っている。載っているのに学生が覚えていない。」と発言している。まさにこれは「知識」を問うたと表明していることに他ならないのではないか。
  問2-1においても、報告書抜粋では、具体例を示して証明終了としている答案に対して「定義に基づく演繹的な議論により現象を説明できることが数学の良さであるとの観点から、この群の答案も深刻な誤答とした」と述べている。「定義に基づく演繹的な議論」が可能な土俵のもっとも極端な分野こそ数学であり、他の分野では、こうした議論を数学的に厳密な意味で行うことはかなり困難であると私には思える。その意味で、こうした「数学の良さ」こそ「数学固有」の観点ではなかろうか。
  また、問2-2について、報告会や報告書抜粋では、「数学の価値観を伝えること」が強調されていた。それこそまさに「数学固有」の内容ではないのだろうか。

第二に、今回の調査で問うことができていない部分が含まれている。
  「具体例をいくつか思い浮かべられること」はこの調査では何も問うていない。問1-1や問1-2は確かに反例を考える必要はあるが、それがわかって選択肢を選んだかどうかはこの調査では判定できない。そういう設問形式になっていないのだから。偶然3つすべてに正解してしまうという誤差を除いた正答者が、反例まで正しく思い浮かべられていたかは不明だし、またその反例を言語化できたかどうかも不明である。
  「自分が書いた答案の妥当性を批判的に吟味し修正する力を持つこと」も今回の調査で問うことができているとは思えない。端的に言って、そこまでの時間はないし、そのようなことをするには問題の内容が基本的過ぎる。

第三に、文意に不明な箇所がある。
  「平易な日本語で書かれているふつうの教科書」とは何か。それは数学の教科書のことなのかそれ以外のものも含んでいるのか。問1-2の問題文のように、「公園に子供達が集まっています。男の子も女の子もいます。よく観察すると、帽子をかぶっていない子供は、みんな女の子です。そして、スニーカーを履いている男の子は一人もいません。」というような文章を読ませることや、そこから「男の子はみんな帽子をかぶっている」「帽子をかぶっている女の子はいない」「帽子をかぶっていて、しかもスニーカーを履いている子供は、一人もいない」という選択肢の正誤を判定させることが、「平易な日本語で書かれているふつうの教科書を読み解くこと」ができるかどうかを確かめることになるのだろうか。私にはこの問2-2のような文章は、あえてわかりにくく書いた問題のための文章という気がしてならない。
  「他の人と論理的なコミュニケーションが成立している状態とそうでない状態の区別がつ」くというのも意味不明だ。「コミュニケーション」とは、「与えられた問題に対する答案を書く」というようなこととは全く違う。例えば、質問者と回答者が向かい合っていて、「この答案のここがよくわからないんですが?」といわれて、「それはこういう意味です。」というような「相互のやりとり」があってこその「コミュニケーション」であろう。そういうやりとりの中で、自分の書いた答案や説明が相手に伝わっていないと感じたら、さらに詳細に説明したり例を挙げたりすること、それが「論理的コミュニケーション」であろう。そういうことをこの調査に求めるのは無理だ。また問2-1で、「1+2=3だから」と答えた学生に「それだと具体例で確かめたことにしかなっていないのですべての場合を尽くすにはどうすればいいですか」と質問したり、「偶数をたすことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数を足すと、いつも必ず奇数になるから。」と書いた学生に、「もう少し説明してください。文字式は使えますか?」と質問したりした場合、それには的確な応答が得られる可能性は否定できない。そういうやりとりを経て、「論理的コミュニケーションが成立しているかどうかを区別」することができているのかがわかるのではないだろうか。新井-尾崎両氏を含め、調査側は、こうした答案に、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」という烙印を押したのである。もはやそういう行為自体、「論理的コミュニケーションが成立している状態とそうでない状態の区別」がついていないのではないかと皮肉のひとつも言いたくなるのである。

第四に、「このような力が完璧に備わっていることを求めるわけではないが、せめてそのことの必要性を認識しつつ小中高で学んでいてほしい。」という記述と、調査側が設定した期待正答率には齟齬があると考える。
  報告会で明らかになったことであるが、調査側は、問1-1および問1-2に対して「90%」という期待正答率を設定していた。問2-1および問2-2に対してさえ「75%」という期待正答率を設定していたのである。数学選択者ではない学生が存在する状況で「75%」の期待正答率を設定することさえ私にはかなり高いと感じられるのだが、それをはるかに上回る「90%」の期待正答率を設定し、その上で、問1では「誤答率が高い」(提言p.2)などと述べる調査側の書きぶりは、「このような力が完璧に備わっていることを求めるわけではない」という記述と符合しないと私には感じられる。

第五に、「それは数学者の都合でも理想でもない。そのような力を軽視しては、人文科学か自然科学かなどによらず、大学でより発展的な学問を学ぶことが困難だと思えるからである。また生涯にわたって学び続けることなどできようはずがないからである。」という部分が独善的過ぎると感じられる。
  「まず、特別な知識を仮定せず、平易な日本語で書かれているふつうの教科書を読み解くことができること。特に、条件文を正しく読み取り、それを満たす具体例をいくつか思い浮かべられること。そして他の人と論理的なコミュニケーションが成立している状態とそうでない状態の区別がつき、自分が書いた答案の妥当性を批判的に吟味し修正する力を持つこと。」という「シンプル」な「結論」は、ひとつの理想としては結構なことだ。それを「そのような力を軽視しては、人文科学か自然科学かなどによらず、大学でより発展的な学問を学ぶことが困難だと思えるからである。また生涯にわたって学び続けることなどできようはずがないからである。」と述べるのは、ひとつの理想を述べているという評価は可能だと思う。しかし、実際の調査で出題された問題に今回調査側が求めた満足な回答をかけないからといって、それが即座に「人文科学か自然科学かなどによらず、大学でより発展的な学問を学ぶことが困難だと思える」とか「生涯にわたって学び続けることなどできようはずがない」と断定するのは行き過ぎだと感じる。
  例えば、問3の「作図」問題ができないと、「発展的な学問を学ぶことが困難」なのだろうか。「偶数と奇数の和が常に奇数となること」に「2n+2m+1=・・・」という文字式を用いた証明を付けられないと「発展的な学問を学ぶことは困難」なのだろうか。あえてもっと言ってしまえば、「例示と論証」の区別が付いていなかったり、「偶数と奇数の和が常に奇数であること」の「理由説明」としていくつかの具体例を挙げてみせるだけしかしなかったりすると「人文科学か自然科学かなどによらず、大学で発展的な学問を学ぶことは困難」なのだろうか。放物線の重要な特徴を3つ文章化できなかった人は、「人文科学か自然科学かなどによらず、大学で発展的な学問を学ぶことは困難」なのだろうか。そういう答案を書いた人の中には、「単に放物線の概形を書け」なら十分な回答ができた人がいた可能性も大いにあると私は思う。そういう答案たちをひとくくりにして、「人文科学か自然科学かなどによらず、大学で発展的な学問を学ぶことは困難」と断定できるのだろうか。
  確かに「大学数学」を学ぶ上では、「作図」はともかくとして、例示と論証の区別などは重要な観点であろう。そこを間違えたのなら大学一年の今からでも遅くないから修正すればよいと思う。しかし、大学で学ぶ学問というのは、教養知から専門知まで幅広い。例示と論証の区別がそもそもかなり難しい自然科学の分野もある。というより数学以外では、たとえそれが自然科学であったとしても、「例示と論証」が深刻にぶつかる場面はそう頻繁に起こるとは限らないと私は思う。例えば、「A⇒B」という合理的な説明がついていて、Bが確かめられたとき、「Aである」と結論することはできない。それはA以外の原因でBが起きたかもしれないからだ。そうした可能性を排除するために、A以外の条件をすべてそろえた対照群を用意して実験を行うということをよく自然科学では行う。その場合には、ごく簡単な意味での「命題論理」が使われている。そういう議論においては、「例示と論証」の齟齬ではなく、むしろ問1-2で使われている命題論理が大切になる。しかしその場合でも、問1-2のようなあえてわかりにくく書いた文章や自然言語で書かれた条件文の読解というよりは、もっとごく単純な「論理」が問われているのだろう。ましてや大学で学ぶ学問の中には、分野で言えば文学、方法論で言えば事例研究・地域研究のように、のような「数学的論理」とは相当距離があるものも数多く存在する。そういうことを考えても、当該記述は行過ぎていると私は思う。


(2)偏差値群との正の相関について

偏差値が上がると、正答率は顕著に高くなり、その順位が問題によって入れ替わることはない。その意味で、本調査の問題は数学力以上に「学力」を測るリトマス試験紙として機能したと言えよう。

「偏差値が高いほど正答率が高いのは当たり前」だと思われるかもしれない。しかし、それは、この調査で問われた内容が学力とイコールだと仮定したときに導かれる結論である。本調査が入試問題のように、知識を前提とした上で、応用力・発想力・思考力を問う調査であれば、その仮定は自然だろう。しかし、本調査の内容は先に例を挙げたように、どの子も等しくできなければ、それ以降の学びが困難になる等、彼ら自身が困ることがらばかりである。小中学校でつまずいたなら、それを修正する機会が十分に与えられるべき内容なのである。その正答率が入学しうる大学の偏差値に直結し、しかも全体の正答率が低いレベルに留まったということは、初等・中等教育の設計に何らかの欠陥があるといわざるを得ない。

「本調査の内容は先に例を挙げたように、どの子も等しくできなければ、それ以降の学びが困難になる等、彼ら自身が困ることがらばかりである。」という記述には無理があるのではないかということを再三指摘してきた。これ以上は繰り返さないが、このような独断こそがこの調査結果を解釈する記述として極めて不適切であると私は考えている。

他方、この記述からは、今回の調査結果と偏差値群とが正に相関していることををむしろ問題視していることが伺える。

しかし、そもそも、昨今は私立大学を中心として入試自体が複線化し、数学を試験科目として選択することなしに大学に入学している層がそれなりにいることはこの記事でも指摘されている。大学入試で数学を試験科目として使わなかった人が、偶数と奇数の和が常に奇数となることの説明に文字式を用いたり、放物線の重要な特徴とか線分の三等分点を作図する方法をものの数分で思い出せるだろうか。おそらくそれは難しいと思う。残念ながら人間は使わなければ忘れてしまう生き物なのだ。「小中学校でつまずいたなら、それを修正する機会が十分に与えられるべき内容なのである。」ということが仮に正しいとしても、学習した当時は理解していた可能性があるのである。「つまずきが放置」されていたのではないかもしれない。使わないから忘れてしまったのかもしれないのだ。そう考えると、偏差値群との正の相関は、数学を入試科目としてどの程度使用しているのかに当然リンクしていることが予想される以上、当然のことのように思う。それを「初等・中等教育の設計に何らかの欠陥があるといわざるを得ない。」と総括することに問題があるのである。使わないので忘れてしまったというのは、「初等・中等教育の設計」に欠陥があるのではなく、彼ら自身が指摘している「ゲーム理論的」あるいは「経済性」に従ってに行動した結果に過ぎない。「初等・中等教育の設計」と「入試システム」とは切り分けて議論するべきであろう。

教育に携わる人々がそれぞれに局所的な最適化を目指した結果、小中学校でのつまずきは発見されることなく放置され、中学校で最も重要な具体から抽象概念への接続や論証が軽視され、高校では入学早々に数学が不得意な生徒は私立文系クラスに組み入れられ、その中でマークシート方式の私見のみに特化したトレーニングを繰り返してしまったのではないだろうか。そのことによって、彼らは、本当は手に入れることができたはずの、つまずきを修正する機会を逸してしまったと考えられる。

という記述にも、「初等・中等教育の設計」と「入試システム」という2つの視点の混乱が顕著に見られる。小中学校段階で「つまづいていた」かどうかはわからない。もちろんそういう人もいるだろうが、それ以上に、相対的に他の科目の方が出来ていたという人もいるだろう。その結果、私立文系を選択すれば、理解していたことも忘れてしまうのである。大学生に今回のような調査をしたからといって、その大学生たちが小中時代に何をどのように理解していたかを推し量ることはかなり難しいと思う。これは「入試システム」にかなり大きな原因があると見る方が自然だと思う。

だとすると、それが問題であると考えるのならば、今回の調査に用いた問題が、文理を問わず大学生が身に付けていることが望ましい内容なのであるという積極的な根拠が必要になってくる。それが明示できてこそ「入試システム」に問題があると結論できるからである。
「論理的思考力」とか「論理を正確に解釈する能力」とか「論理を整理された形で記述する力」といったものを、文理を問わず大学生が身に付けていることが望ましいと述べるのは簡単だし、そういう総論は多くの賛同を得られるかもしれない。しかし問題なのは、そうした力を判定するために今回の調査に用いられている問題が適切だといえるかどうか、採点基準が適切だといえるかどうか、そこを明確に説明することが必要なのである。「文字式を使った論証」以外認めないことは適切なのか、「放物線の重要な特徴を3つ文章で述べること」や「線分の三等分を定規とコンパスで作図すること」が「文理を問わずすべての大学生が身に付けているべき力」といえるのか。そうした疑問に、明示的に言語化されたされた回答を提示できないのなら、「初等・中等教育の設計に何らかの欠陥がある」とか「入試システムに問題がある」などという前にまずその回答を練ることからはじめるべきではなかろうか。

今回の調査側の資料(報告書概要版、報告書抜粋、日本数学会からの提言)および今回の「世界」の記事を見ると、とにかく「数学は文理を問わずすべての人に必要であること」を完全に自明の前提としておいてしまい、上で述べたような観点やそしてそもそも「数学」という学問それ自体が、そうした力とどのような相関を持つのかといった点について、殆ど何の説明もない。これでは、反発を受けるのも致し方ないのではないかとさえ思う。

(3)「深刻な誤答」と「典型的な誤答」について

深刻な誤答とは、そもそも論理的に説明するための前提に立っていない答案である。たとえば、「2+1=3だから」のように例示と論証の区別がついていないものや、「三角と三角を足したら四角になるのと同じで四角と三角では四角にならないから」のように無関係な事柄からの類推は深刻な誤答と判定した。問2−2の深刻な誤答には、(二次関数のグラフの特徴として)「大きいグラフ」「狭いグラフ」など、主観的な印象と客観的な性質の区別がついていなかったり、「二つある」「右上」など、指示している対象が不明な答案が数多く含まれる。数学者が入試や期末試験の採点時に「まったく意味が通じない」と当惑していたのはこのような答案だったと思われる。

典型的な誤答とは、数学的に理解可能な何らかの操作を行ってはいるが、問題解決のための方略を間違えたために、誤答に至ってしまったものである。例えば、問2-1「偶数+奇数が奇数であること」を示そうとした際、「偶数と奇数は、整数nを用いてそれぞれ2n、2n+1と表すことができる」と書いたものが典型的な誤答の例である。問いでは、独立した偶数と奇数の和が奇数であることを示すことを求められているが、2n、2n+1では連続した二数以外の場合は証明できない。

問2−2において典型的な誤答と判断された答案は、(1)数学用語を正しく用いることができない、(2)論理的な文章が書けない、(3)重要な特徴が何かの判断ができない、の三種類に主として分類された。どれもが実はマークシートではスクリーニングが困難な観点である。

  私は調査側がどのような答案を「深刻な誤答」や「典型的な誤答」に分類したのかという分類の基準が明確とは言いがたいと感じている。この基準を何らかの形で明確に言語化できないのなら、「深刻な誤答へ至る背景の統計的な分析」に信頼をおくことは難しいと考える。であるからこそ、「深刻な誤答」と「典型的な誤答」の定義をはっきりさせること、個別の答案をどう評価するかという基準を言語化すること、そしてその上で、答案の内容を嘲笑しない言葉を選ぶこと、などが重要であると考える。私は以下の点を問題視している。

第一に、媒体によって「深刻な誤答」であるとか「重篤な誤答」であるというように表現が浮動しており、その定義には曖昧さが残っている上に、例えば「例示と論証の区別がついていない答案」をどう評価するかという観点が媒体によって異なるなど、一貫した説明になっていない点がある。
今回の「世界」記事において、「例示と論証の区別がついていない答案」は、深刻な誤答の中に入れられ、「そもそも論理的に説明するための前提に立っていない答案」とされた。これは、報告書概要版の記述とは一致しているが、日本数学会のシンポジウムで配布された報告書抜粋とは異なる。そこでは、「例示と論証の区別がついていない答案」は、深刻な誤答の中の[C-2]群に分類され、[C-5]群の「論理的に説明するための前提に立っていない答案」とは区別されている。こういう点で記述に揺れがあるのは、「そもそも論理的に説明するための前提に立っていない答案」ということの定義がはっきりしないことともあいまって、分析の正確さや出題意図そのものを曖昧なものにさせてしまうのではないか。

第二に、答案の例として掲げているものがどの程度の頻度をなしているものなのかが分からないことが挙げられる。
確かに例示と論証の区別が付いていない答案はかなりの数に上ったのだろう。しかし、「三角と三角を足したら四角になるのと同じで四角と三角では四角にならないから」という答案は同程度にたくさんあったとは、私には想像できない。これはかなりユニークな答えだと思われるからだ。ちなみにこの答案例は、報告書概要版には取り上げられているが、報告書抜粋では取り上げられていない。
「大きいグラフ」や「狭いグラフ」、「二つある」、「右上」などの答案例もどの程度の頻度なのかはっきりしない。報告書概要版の「深刻な誤答」の例には、「右下」「右上にある」「2本できる」「細い」はあるが、「大きいグラフ」「狭いグラフ」「2つある」「右上」というような答案例は挙げられていない。報告書抜粋では「2つできる」「広がっている。大きい」「小さい放物線になる」「細長い放物線」は挙げられているが、「大きいグラフ」「狭いグラフ」「2つある」「右上」というような答案例は挙げられていない。
これは第一の点とも関連するが、媒体によって取り上げられている例の書きぶりが変わってしまっているのである。少ない紙面であるから、もっとも頻度の多いものを重点的に取り上げるべきだと私は思うが、「主観と客観の区別が付いていない」とか「支持している対象が不明」とか「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」とか「そもそも論理的に説明するための前提にたっていない」というようなカテゴライズだけが突出していて、そのためのデータがどの程度把握されているのか疑問を感じる。

この2点はすでに前回以前にも指摘していた点がさらにはっきりした形だが、今回、「典型的な誤答」の説明についても、記述の揺れが見受けられたと思う。これが第三の問題点である。
「典型的な誤答」の定義は、もともと報告書概要版や報告書抜粋の中ではかなり曖昧で、具体的な答案例が示されているだけだった。今回、「数学的に理解可能な何らかの操作を行ってはいるが、問題解決のための方略を間違えたために、誤答に至ってしまったもの」との定義が与えられた。
報告書概要版では、問2-1について

典型的な誤答には、(1)独立な偶数と奇数を、同じ文字を用いて2n,2n+1と表す、(2)小学校の説明活動のように、文字を用いず碁石を用いて直感的に説明する、などがある。

と述べられていた。問2-2については

典型的な誤答には、間違った観点をあげる(例:原点を通る、頂点は(3,-17))、自己流の用語の導入(「上に凸」を「∩型」とかく、など)、挙げるべき3つの項目のうち空欄がある等がある。

と述べられていた。
また、報告書抜粋で「典型的な誤答」に分類された答案は次のように説明されていた。問2-1については、

[C-1]隣り合う偶数と奇数に対してのみ証明している答案
[C-3]C-1,C-2,C-4群以外で、論理的には大きな誤りがない答案
例1:偶数(ないしは奇数)を2個以上足す場合を考察している。(問題文を誤読している答案)
例2:正答例の冒頭や末尾の「整数」部分が「実数」となっている。(数学用語を誤用している答案)
例3:正当例の冒頭の「整数m,nを用いて」に対応する部分がない。
[C-4]論理的な誤りはないが何を証明すべきかが理解できていない答案や、厳密な証明ではなく大雑把な説明になっている答案
以下に答案の例を具体的に示す。
例1:「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
例2:「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
例3:「偶数と奇数は、『偶数、奇数、偶数、奇数、偶数、奇数、・・・』と交互に並んでいる。したがって、奇数を偶数の分だけずらしても奇数のままである。」

と書かれていた。問2-2については、

[C-1]採点者が想像力を若干働かせると解答者の意図が理解できる誤答
以下、カギカッコ内で該当する答案の例を示す。
例1:用語を混同して使っている。「y軸と(0,-8)で接する」「原点が(3,1)」「中心が(3,1)」「原点が(0,-8)」「y軸対称」「xは2,4を通る」「原点におけるyの値は-8」「軸がx=3を通る」「軸が正」
例2:グラフの特徴をつかむための過程で行う作業と、グラフの特徴を混同している。「実数解が2つある」「D>0」「実数解は2と4」「f(0)<0、f(0)=-8」
例3:数学的には正しいがグラフの特徴としてあげるには不十分。「原点を通らない」「定義域は実数全体」「いたるところ連続」「微分すると-2x+6」
なお2つ以下の特徴しか挙げていない答案でC-2群に分類されないものも、この群に含めた。

と述べられていた。

確かに問2-1では、「2n,2n+1」と隣接した偶数と奇数を設定してしまう答案がそれなりの数あったのであろうし、今回の調査に関して各所で掲げられた回答の中にもそうしたものが多く見受けられたようである。それを取り上げて「数学的に理解可能な何らかの操作を行ってはいるが、問題解決のための方略を間違えた」と評するのであれば、それはある程度理解できると考える。しかし、「問題解決のための方略」というのは、なお曖昧なままであると思う。問2-1で文字式を用いなかった答案は、大雑把であると判定されると典型的な誤答に分類されているが、それは「問題解決のための方略を間違えた」と評するべきなのだろうか。問2-1では「問題解決のための方略=文字式を用いること」だということなのかもしれない。しかし、「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」という答案例は殆ど文字式を用いているのと等価にも見える。これを「問題解決のための方略を間違えた」と総括するのには躊躇を覚える。そもそも、
例1:「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
例2:「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
という答案ならば、「問題解決のための方略を間違えた」と判定され、報告書概要版で「重篤な誤答」とされた
「偶数は2で割り切れて、奇数は2で割ると1余るということから。」
「偶数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから。」
という答案だと「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している答案」とか「そもそも論理的に説明するための前提に立っていない答案」と評されてしまうことになる。この区別の基準は、「問題解決の方略を間違えた」と「論理的に説明するのための前提に立っていない」というものだけではあまりに粗雑だと思われる。いささか穿った見方かもしれないが、とにかく分類することだけが先走っていて、その分類基準はあとから概括的な言葉だけを置いているというだけに見えるのである。典型的な誤答として取り上げた答案例を正確に特徴付けた記述にはなっていないように見えるのである。

問2-2の方では、典型的な誤答の中に、3つの分類が持ち込まれ、その後者2つが「論理的な文章が書けない」と「重要な特徴が何かの判断ができない。」である。これは、「問題解決の方略を間違えた」というカテゴリの中に入れるのが適切なのだろうか?私には疑問だ。
用語の混同や間違った観点は、単に間違っているということであり、「論理的な文章が書けない」というのはやや厳しすぎる。自己流の用語の導入や挙げるべき3つの項目のうち空欄があるというのも同様だ。
「グラフの特徴をつかむための過程で行う作業と、グラフの特徴を混同している。」や「数学的には正しいがグラフの特徴としてあげるには不十分。」というのも「論理的な文章が書けない」というべき観点ではないように思う。
この3つの分類の中でも「論理的文章が書けない」という観点の具体的な例が挙げられていないために、抽象的な記述に留まってしまっている。
そもそも「論理的な文章が書けない」と「論理的に説明するための前提に立っていない」とはどう違うのだろう。それはどのような基準で判定されたのだろう。
これは問2-1とも関係しているが、「論理的な文章が書けない」というのは問2-1で見ると、どちらかといえば「深刻な誤答」に分類されているように見えるのである。
「論理的な誤りはないが何を証明すべきかが理解できていない答案や、厳密な証明ではなく大雑把な説明になっている答案」を「論理的な文章が書けない」と評するのは行き過ぎだし、
例1:「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
例2:「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
例3:「偶数と奇数は、『偶数、奇数、偶数、奇数、偶数、奇数、・・・』と交互に並んでいる。したがって、奇数を偶数の分だけずらしても奇数のままである。」
という答案も「論理的な文章が書けない」と評すべきではないと思う。
問2-2の場合だけに通用する言葉遣いを場当たり的に選択しているのではないかという疑いさえ抱く。

「重要な特徴が何かの判断ができない」の方は、報告書概要版で直接的に言及されていない。これも書きぶりの揺れの例であろうと思う。
報告書抜粋にある
例2:グラフの特徴をつかむための過程で行う作業と、グラフの特徴を混同している。
例3:数学的には正しいがグラフの特徴としてあげるには不十分。
という説明は確かに「重要な特徴が何かの判断が出来ない」と評価することは可能な内容であるが、しかしやはり「重要な特徴」とは何かという問題が残る。これはもちろん出題意図とも関係している。
例えば、報告書抜粋では「軸と頂点の座標を異なる二つの観点として挙げ、残る一つの観点を加えても二次関数が決定できない場合」は「準正答」としたと書いてある。
報告書概要版では、「重複する観点を挙げた」ものを準正解にしたと述べている。この「重複した観点」とは、「軸と頂点の座標を異なる二つの観点として挙げ」ていることを指すのだろう。
これは「重要な特徴が何かの判断」はできていると解釈するべきなのだろうか。
あえて言えば、「原点を通らない」「定義域は実数全体」「いたるところ連続」「微分すると-2x+6」というような答案例は「重要な特徴が何かの判断」ができていないとし、放物線を一意的に決定することのできない複数の観点をあげた答案であっても「重要な特徴が何かの判断」はできているとする基準の中身が理解できないのである。
「重要な特徴を3つ」と言われたら、「その3条件からもとの放物線が一意的に決定できるもの」が答えであるべきだと言うのなら、それはひとつの価値判断を提示していることになるのかもしれないが、それでは「準正答」の判定と齟齬があるし、そもそも3つである必要もないということになって設定に無理が生じる。残念ながら、「重要な特徴」ということの曖昧さと問題の設定がまずいのではないかといわざるを得ないのである。

この「世界」記事における「典型的な誤答」の説明は、具体的な答案例を包括する語彙の貧弱さからくる安易な断定と、「マークシート形式ではスクリーニングできない観点」ということを強調するあまり、整合性のない3つの分類を提示してしまうなど、やはり十分に検討して書かれているとは到底思えないものになってしまっていると感じられる。

(4)国語力との関係について

「得意・不得意」は成績とは異なり主観的なことである。また、数学などの理系科目と比較して相対的に国語が得意だったに過ぎない可能性も十分に考え得る。しかしながら、本来、論理的な読解や表現を学ぶはずの国語において、主観的な印象と客観的な性質の区別や、条件文の正確な読解に困難を覚える学生が「国語が相対的に得意」だと思い続けてしまったのは何故だろうか。
二〇一二年から本格的に実施される新指導要領ではすべての科目の基盤となる国語力の強化が叫ばれている。数学を学ぶ上でも国語力は重要であるが、「すべての科目の基盤としての国語力」と、実際に教えられている国語科の内容とは果たして合致しているのであろうか。

既に指摘してきたことだが、国語で求められる「論理性」や「主観と客観の区別」といったことと数学で要求されていることは、重なる部分もあるだろうけれど、質的に異なる部分も相当大きい。そのことに対する認識の低さに私は驚きを禁じえない。例えば、「すべての科目の基盤としての国語力」が想定する論理的思考力というのは、例えば、因果関係、順接や逆説、例示といった内容を表す接続詞の使い方というようなものであろう。それは「論証の中身」とは別のレベルである。すべての整数で成り立つことを証明するためには文字式を使うのが有効であるというレベルの「論理性」と国語力が想定する「論理的な文章を組み立てるための表現方法」とは別のものであるように思われる。主観と客観もそうだ。「すべての科目の基盤としての国語力」というのは、主観と客観という明確に峻別できるものがあって、それを区別しましょうというものであるというより、自分の見解はひとまず棚に上げて(=「主観」から離れて)文章の筆者が言いたいことを理解しましょうというレベルの話ではなかろうか。

数学的論理性と「すべての科目の基盤としての国語力」が想定する論理性とはそうとう隔たりがある部分も多く、またそれ自体が問題であるというよりも、数学という営みそのものがかなり極端な事例であると了解するべきなのではなかろうか。極端化した枠組みに適合できる人とそうでない人が出てくるのは仕方のないことで、適合しにくかった人がもう少しおおらかなレベルで「国語が得意」と感じることに私は何の不思議も感じない。

(5)第4節について
「現実主義的な教育改革の必要性」と題されたこの節は、おそらく新井・尾崎両氏の私見という扱いなのだろう。なぜこのような節を書かなければならなかったのか、今回の調査結果の説明という観点から見ると、あまりにも主観的な文章なのでどう評価するか正直悩ましい。少し記述を拾って問題点を指摘してみる。

今回の調査は、その「新しい学力観」が最も重視した判断力や論理的思考力を問う内容で、知識や技能を問う内容ではない。

このような記述に問題があると私が考える理由は再三述べてきた。問1-1の平均の意味や問1-2の「論理的」文章に対する設問はかろうじてこの文章に合致しているということを私は支持するが、問2-1、問2-2、問3は、やはり「数学固有の知識や技能」を問うていると考える。そのことの意図・意義・是非こそ議論されるべきで、「知識や技能を問う内容ではない」などという断定は間違っていると考える。

にもかかわらず、今回の調査の正答率が極めて低かったのはなぜなのだろう。また、そのもそも論理的コミュニケーションの前提に立っていないような深刻な誤答が続出したのはなぜなのだろう。

私は、こういう扇情的な書き方には反対だ。

問1-1の平均正答率を76.0%や問1-2の平均正答率64.5%を「極めて低い」などと形容することは疑問だ。問2-1の正答+準正答の平均33.9%は低いかもしれないが、これには採点基準の問題もあるだろう。問2-2の正答+準正答の平均53.0%も「極めて低い」というには無理がある。問3の正答+準正答の平均7.6%は確かに「極めて低い」が、これは問題の特性というべきだろう。また正答率自体、国公立から私立に至るまで相当の幅がある。そうした詳細があるにも関わらず、「今回の調査の正答率が極めて低かった」などという表現をするのは行き過ぎも甚だしい。深刻な誤答の方も同様である。「続出」などと形容するのは行き過ぎている。問2-1の「深刻な誤答」は全体で平均13.2%。問2-2はそれよりも低い。こういう値を「続出」などと言って欲しくない。

問3は与えられた線分(五センチメートル)を、コンパスと定規を使って正確に三等分する方法を箇条書きで書く、という問題である。この問題は、現在出回っているほぼすべての中学三年生の教科書の本文に図入りで掲載されている。しかし、私たちは、大学生の実態から実はこの問題は現場では教えられていないのではないかとの疑念を持っており、それを裏付けるためにあえて出題したのである。問3の全体の正答率は五問中最悪の七・六%であった。この問題は高校入試ではまず出題されない。高校入試に対する情報開示請求が認められるようになった結果、誰もが納得するような部分点の出し方を説明しづらい証明問題や作図問題を高校側は避けようとする傾向がある。高校入試で出題されない問題は、指導要領で教えるように求め、全ての教科書に掲載されたとしても現場では教えられないか軽視されてしまう。

ここでいう「高校入試ではまず出題されない」というのがどういう意味が曖昧である。作図の問題が出題されていないというのなら、それは誤りである。例えば、滋賀・大分・長野・東京・北海道・青森・群馬の平成24の公立高校入試問題には次のような作図の問題が出題されている。


(もちろん出題していないところもあるようで、例えば京都の平成24年の公立高校入試には出題されていないようである。このサイトで全国の問題にアクセスできる。
確かに線分の三等分は作図の問題としては少し手数が多いので、その問題自体が出題されることはないかもしれない。(すべての教科書に載っているのなら尚更入試では出しにくい。)しかし、学習指導要領で指定された作図の問題は全国で確かに出題されているのである。
この反例を見るだけで、もはやこの記述が何を言おうとしているのかも不明瞭になるし、なによりも根拠が薄弱であるということにならざるを得ない。
作図の問題の出来が悪いのは、教えられていないのではなく、単に高校入学後に扱われることがなかったために、忘れてしまったということなのだろう。その是非は議論の余地があるだろうが、この文章のような独断は間違っている。

八〇年代に入ると、新自由主義経済は子どもが消費者であることを発見し、その隅々まで触手を伸ばした。今や、子どもは教育も含めた生活の細部に至るまで「消費者」として経済に組み込まれてしまっている。現在の大学生は生まれたときから携帯ゲーム機やコンビニに囲まれ、小中学生時代から携帯電話に慣れ親しんできた若者たちでもある。当然のことながら、そのことは、彼らの価値観や行動様式を大きく変化させた。たとえば、今回の調査を実施した教員からは、「解答時間をもてあまして携帯電話をいじりたがる学生が多くて困った」という意見が寄せられた。たった数分の時間を、答案を見直すのではなく、形態につながっていないといられない学生の姿がそこに映る。

これが今回の調査といったいどういう関係にあるのか、どういう文脈で述べられているのか私には理解できなかった。しかし少なくともこの文章の後半は、今の大学生の行動様式を揶揄していると取られても仕方ない記述のように見える。こんな記述は不要だといわざるを得ない。

 教育という巨大産業に関わるプレイヤー(サービス提供者・消費者)の行動パターンを経済学的に分析することなく、教育理念や理想、あるいは単に思いつきのみにドライブされて「空想主義的」な教育改革を行えば、間違いなく失敗する。それは、ルソーの時代から変わらない。現在、認知科学や学習科学といった教育学の分野は、「科学」の手法を用いてはいるが、彼らの個別の研究対象は、幼児の言語獲得過程や計算中の脳の血流の様子など極めてミクロな現象に限定されている。そして、有識者の意見は、結局のところ個人的な体験談に過ぎない。どちらも産業化してしまった教育全体について科学的に分析する方法論は持っていないのである。にもかかわらず、本来プラグマティックであるべき官僚は、空想主義的教育改革を実行に移してしまった。
  教育に理想が不要だと言っているのではない。言うまでもなく、数学者は誰よりも理想を大切にする人々である。ただ、彼らは誰よりも真理を欲する人々でもある。真実を知るためには、まずはそこにある現象とその関係について数量的に徹底的に調べなければならない。そして、それは全数調査により競争を煽るというあざとい手法であってはならず、数理的な方法に基づいた公明正大な調査でなければならない。
  それは、やはりガリレオの時代から何も変わらないのである。

ルソーとかガリレオとか何を言いたいのか少なくとも私には理解できなかった。認知科学や学習科学を批判するのは自由だがむしろこの分野はミクロを見ることが一つの売りなのではなかろうか。マクロがないといってみても、それは分野の特性なのだから仕方がない。数学者は誰よりも理想を大切にするとか、誰よりも真理を欲するとか、そういう比較級に意味があるとも思えない。空想主義的とか現実主義的という言葉をもてあそんでも仕方がない。今回の調査側の問題点は、「数学の価値」を無前提に肯定し、今回出題した問題に込められた価値観を正当化するだけの明示的に言語化された根拠を語ろうとしなかったことにあると思う。にもかかわらず、大学生の能力を口を極めて論難してしまったのである。いずれにしても、今回提示された調査側の見解が、「教育全体について科学的に分析」した結果なのだとしたら、あまりにもお粗末だと言わざるを得ない。


(6)寄稿媒体について
  今回、新井−尾崎論文が掲載されたのは、雑誌「世界」5月号の特集「教育に政治が介入するとき大阪の「教育改革」批判─」の1編としてである。この特集のリード文は次のようにして始まっている。
「寒々とした光景が広がっている。
石原都政が10年以上にもわたって続き、教師の管理・統制強化と競争主義の導入が図られた結果、東京の学校現場から次第に教師同士の助け合い・協調性が失われ、教師は孤立し疲弊し、精神疾患が激増するようになった。
それまで教育に情熱を傾けてきた多くの教師が職場を去り、また新人教師たちには敬遠される職場となった。
それは東京だけの現象ではない。最近20年の間、政治家や政治集団が教育に強権的に介入することが多くなった。
教師たちはモノを言わなくなった。多様な考え方が認められず、自由に討論する場がなくなった。「日の丸・君が代」の強制、職員会議での挙手禁止などがその象徴だ。民主主義を教えるべき学校から、民主主義が失われつつある。
経済協力開発機構OECD)によると、2008年、日本の、学校など教育機関に対する公的支出の対GDP比は、比較可能な31カ国中最下位である。国が教育にお金を出さないにもかかわらず、日本の教育がこれまでそれなりに成果を挙げてきたのは、現場の教師と親たちの献身的な努力による。教師達は、教科や子どもの問題行動などについて、自主的な研究などを熱心に行い、実践を積み重ね、伝え合ってきた。
その姿が失われつつある。教師から情熱と士気が消えつつある。それは子どもにとって不幸なことであり、ひいては日本社会の将来を脅かすものである。
いま、その危険な政治介入が大阪で始まろうとしている。」
この特集に含まれるほかのタイトルを見てみよう。

  • 学校を死なせないために─子供を中心に再出発しよう!─(土肥信雄×尾木直樹
  • 政治は教育現場に何をもたらしたか─<未完のプロジェクト>としての教育の意義を(藤田英典
  • 収奪と排除の教育改革─大阪府における私立高校無償化の本質(中嶋哲彦)
  • 教育委員会は再生できるか─民主的システムを取り戻すために(小川正人
  • 最高裁君が代訴訟」処分違法判決をどうみるか─良心の事由によって得られたものと失われたもの(西原博史
  • 息苦しさと沈黙の学校現場─管理・統制に疲弊する教師たち(池添徳明)
  • 「空想主義的」教育改革がもたらしたもの─大学生数学基本調査の結果から(新井紀子・尾崎幸謙)
  • 市場化される子育て・保育─「子ども・子育て新システム」を問う(近藤幹生)

つまり、この特集は、教育への政治的介入、例えば石原都政や橋下府政市政に反対するという明確な政治性を帯びているのである。この特集が政治性を帯びていることが悪いといっているのではない。そうではなく、この明確な政治性を帯びた特集の中の一編として寄稿してしまうことは、この論文の意図も政治性を帯びていると理解されてしまうということを危惧しているのである。

それはタイトルや記事の内容とも関係している。「空想主義的」教育改革というタイトルの言葉を見れば、それが石原都政や橋下府政市政に象徴される「政治介入」のことだと誤解されかねない。また論文末尾から3-7行目にある

真実を知るためには、まずはそこにある現象とその関係について数量的に徹底的に調べなければならない。そして、それは全数調査により競争を煽るというあざとい手法であってはならず、数理的な方法に基づいた公明正大な調査でなければならない。

という文章は、それ単独では単に抽出調査を統計的に処理すれば十分だという主張をしたつもりなのであろうが、この特集の中で見れば、橋下府政市政に対する批判と理解されてしまうだろう。もし、新井−尾崎両氏がこの特集記事の政治性にコミットしているなら話は別だが、私は、日本数学会という組織が実施した調査の調査主体である二人がそうした政治性を強く帯びた雑誌で結果を公表し意見を述べるということには慎重であるべきだと考える。

例えば、日本数学会教育委員会からの報告(pdf)の項目8に

数学基本調査について.正解率の速報値が出ている.データをどう読むかの検討が必要.フォローアップ調査等も検討する必要がある.上記検討事項について理事会に諮り進める.最終結果については,報道発表,シンポジウム,一般書籍などでの情報発信を予定.(新井委員長)(注:11月初めに,「国立教育政策研究所が来年2月に五千人規模で論理と数学のテストを行う」との新聞報道あり.)

という記述がある。ここで言っている「一般書籍」なるものが、雑誌「世界」のようなものであるとしたら、私は両氏がこのような雑誌/特集を今回の調査結果について紹介する媒体として選んだその見識を疑わざるを得ない。