日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その11)─雑誌「数学文化」第18号の竹山論文をめぐってII─

雑誌「数学文化」第18号に、『問題提起としての「大学生数学基本調査」』と題する竹山美宏氏の論説についての検討を行っていた。
今回は、その中の「3.出題意図」を取り上げたい。

大学入試問題の相対化について

3.1節「設計方針と本調査が対象とする『学力』」の中にある次の記述から取り上げたい。

問題の形式としては、現在の大学入試の問題の形式からなるべく外れたものとする。我々がいま問題としているのは大学新入生の学力である。合格発表から入学まで多少の空白期間があるとは言え、新入生は大学入試を通過できる程度の学力を持っていると想定してよいだろう。その学力に問題があるのだとすれば、高等教育を受ける準備ができているかどうかを試しているはずの大学入試問題のあり方を相対化して考えなければならない。学生が見慣れた入試問題とは異なる形式の問題に対する正答状況および誤答の傾向を通じて、現在の大学入試問題が何を測れているのかを逆に浮かび上がらせようという狙いが、本調査にはある。

高校修了段階は、すでに各自の志望に応じて様々な進路に分かれて、多様な入試システムによって選抜されている。国立と私立では、どのような選抜方法を行っているかは全く異なっている。理系と文系でも選択している科目の相違は大きい。しかも、仮に同じ選抜方法で合格した生徒に限定しても、数学はあまり得点できなかったが他の科目で十分に得点を稼いだという人もいるだろう。そういう多様な状況を捨象して、「新入生は大学入試を通過できる程度の学力を持っていると想定してよいだろう」とか「大学入試のあり方を相対化して考え」るとか、「現在の大学入試問題が何を測れているのかを逆に浮かび上がらせよう」というような目標を設定することに、かなりのナイーブさを感じる。


例えば、入試科目の点を考えてみる。慶応大学は私立S群に入るレベルなのではないかと思うが、文学部・法学部にはそもそも数学の入試科目がなく、経済学部や商学部でも数学を選択しなくて済む選抜科目群が設定されている。早稲田大学の私立S群に入るレベルなのではないかと思うが、法学部・文学部・文化構想学部には数学の入試科目はなく、政治経済学部・社会科学部・国際教養学部といった学部でも数学を選択せずに済む選抜科目群が設定されている。つまり、実際に数学を選択していない学生は私立S群レベルでもかなりいることが容易に想像できる。数学を入試の選択科目にしていない学生に、「線分の3等分を作図する方法」を問うたところで、大学入試問題の何を相対化できるというのだろうか。文字式の利用以外正当とは認めないとか、放物線の重要な特徴を問うことも同様だ。数学を選択していない学生がこうした問題で満足のいく答えを書けないのは当然で、ならば数学の試験を課すべきなのかというとそう簡単に断言できるものでもないだろう。


対象となっている大学群で考えてみる。例えば、国立S群を見ると、問1-1,問1-2,問2-1,問2-3の正答+準正答率は94.8%、86.5%、76.6%、75.3%である。この数字から国立S群の大学入試問題の何を相対化できるというのだろう。問3は22.6%だが、それは高校で作図が扱われていないから忘れてしまったというだけだろう。正答率が低いから、作図問題を大学入試問題で出すべきだということになるだろうか。私は懐疑的である。作図以外に出題するべき内容はもっと他にあるだろうし、この作図問題ができるかどうかは大学以降の学習内容と余り関係ないと考えるからだ。



試験の形式の点で考えてみよう。例えば、マークシートと記述式の区別をどうつけているだろうか。例えば慶応義塾大学理工学部の数学の試験では、穴埋め式だがマークシート形式ではない問題が複数出題されると同時に、解答の過程を書かせる記述式問題も出題されている。(穴埋め式の方が分量が多い。*1)この場合、形式は記述式であり、過程を書く問題も出題されていることもあわせれば、「記述式試験」ということになるだろう。単に答えだけを問うという意味では、穴埋め式はマークシート式に近い部分もあるわけだ。試験の形式と今回の調査の出来の相関を調べる部分でもかなり不定性が残っている。


こうした観点からも、今回の調査の結果から大学入試問題の中身や入試システムの中身について具体的に論じることに、私は少々無理がありすぎるのではないかと思う。竹山氏のナイーブな書き方や日本数学会の提言の書き方もそうである。


さらに言えば、上のような記述が出てくる背景には、高校修了段階(あるいは大学入学段階)のすべての学生にとって共通に前提と出来るような学力あるいは数学力が設定できるはずだという考え方があるように思われる。しかし既に述べたように、高校修了段階はすでに進路の希望に応じて、履修内容に相当の幅が出てきて分化が進んでいる状態である。そのような状況の学生すべてが習得していなければならないと考えることのできる学力は、単に読み書きそろばん程度で十分だと主張する人さえいるかもしれない。私はそこまでは言わないが、作図の問題や文字式の利用、放物線の重要な特徴といった出題が、そうしたすべての高校修了者に要求できる内容なのかについては相当慎重に吟味する必要があると思うし、私はかなり懐疑的である。というより、調査側はむしろ、これらの問題が、すべての高校修了段階の学生すべてが習得していなければならないと考えることのできる学力を測るものであるということを明確に根拠付ける議論を提示しなければならないのではないか。報告書概要版や報告書抜粋、「世界」誌に掲載された新井-尾崎論文はもちろんのこと、今回の竹山氏の文章でさえその点について、十分明示的に述べているとは到底言えないと考える。

学力に関する3つの観点について

3.1節の最後で、竹山氏は、今回の調査で測ることを意図した学力として、

A)論理的な読み書き
B)「わかる」と「できる」の違い
C)学習指導要領が設定する「数学のよさ」

の3点を提示し、順次説明を加えている。おそらくこの部分が今回の記事の中で真に新しい部分であり、今回、竹山氏によって多くの点が新たに説明されたことを評価したい。しかし、その内容や書きぶりにはなお疑問も残る。これらの点について検討してみたい。今回はまず第一の点「論理的な読み書き」の部分を検討する。

「論理的な読み書き」について

竹山氏は、「数学を学習する場面において論理的な読み書きは欠かせない」と述べた上で、「論理的な読み」の具体例として、

「教科書の文章の論理構造を把握して理解できること」

を挙げ、「論理的な書き」の具体例として

「論理を組み上げる文章を書けること。特に、自分で書いた文章の論理構造を批判的に検証できること」

を挙げている。その上で、

これらは「論理的なコミュニケーションの能力」と呼ぶこともできよう。大人の間で交わされる日常会話のように、論理的であることが必ずしも求められない場合には、論理的なコミュニケーションなど必要ではない。しかし、数学の学習の場面においてそれは避けられない。

と述べている。これは後半で問1-2と問2-1を具体的な問題として想定した上での一般的な議論になっている。
私は、今回の竹山氏の記事によって初めて「論理的コミュニケーション」という単語の定義/意味/具体例が示されたことを評価したい。しかし、この記述に次の3つの観点で違和感がある。
第一に、「前提」というものとの関係、第二に、内実、そして第三に、日常会話、あるいは数学との関係、という3点である。

第一の点から検討してみる。今回、調査側は、報告書概要版の中で、「重篤な誤答」あるいは「深刻な誤答」という単語を、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」と定義していた。「論理的コミュニケーションに失敗した」ではないし、「論理的コミュニケーションが崩壊している」でもない。「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」と定義したのである。一体ここで言うところの「論理的コミュニケーションの前提」とは何だろうか。報告書抜粋や新井-尾崎論文では、「論理的に説明するための前提に立っていない答案」を深刻な誤答と定義していた。ここでも「論理的に説明するための前提」という似た語が使われている。一方で竹山氏の記事では、「論理の記述として大きく問題があると見なされる答案」と表現されている。前回も指摘したように、これらの記述のニュアンスはかなり異なっているように私には感じられるし、その一貫性のなさは決して看過できるものではないと考えている。

それにしても「前提」とは何だろうか。「論理的コミュニケーションの前提」とは、そもそも「論理的にコミュニケーションしようとする意思」であろうか。しかし、たとえ論理的に瑕のある答案を書いたからといって、そもそも「論理的にコミュニケーションする意思がない」と判断されてはたまらない。

上で竹山氏は2つの具体例を「論理的コミュニケーションの能力」と述べている。だとすれば「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」とは、「論理的コミュニケーションの能力がない」ということであろうか。上の具体例で書かれているような内容が実践できないこと、つまり、教科書の文章の論理的構造が把握できないとか、論理を組み上げる文章がかけないとか、自分で書いた文章の論理構造を批判的に検証できないというような場合、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」と言うのであろうか。しかし、今回は単なる誤答ではなく、「重篤な誤答」「深刻な誤答」と「典型的な誤答」という2つのカテゴリを設けて、答案の内容を分類しているのである。「深刻な誤答」が「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」のであって、「典型的な誤答」はそうではない。この後で竹山氏は、「問2-1は『論理的な書き』の能力を見ようとするものである」と述べた上で、「典型的誤答」に分類されている答案例「偶数を2m、奇数を2m+1とおくと、で始まる答案」を例に、「自分の頭の中にあるイメージが正確に言語化されていないというギャップが生じているのだ。数学の答案を書く際には、このギャップが生じていないかどうかを常に確認する必要がある。」と述べている。これは明らかに、上の具体例の2番目の能力がこの問題において発揮できなかったことを述べている。だとすれば、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」とは、単に、「論理を組み上げる文章がかけない」とか、「自分で書いた文章の論理構造を批判的に検証できない」というだけではないということになってしまう。例示により論証が終わったとした答案や、「偶数に奇数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になる」とした答案には、上で述べている「論理的コミュニケーションの能力」だけではない、さらに何かが欠けているということだ。そのことに対する明確な説明はない。やはり、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」とか「論理的に説明するための前提に立っていない」という表現と、上で竹山氏が述べている「論理的コミュニケーションの能力」ということの関係が不明だ。報告書抜粋で「典型的な誤答」に分類されている「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数」という答案例に対して、「自分の頭の中にあるイメージが正確に言語化されていないというギャップが生じている」という批判を行うのは難しいと思う。この答案を書いた人はこのレベルの厳密さで十分解答となるだろうと判断しているのだろう。この答案に対して、「論理的コミュニケーションの能力」に問題があると断定するのは無理がある。そうである以上、「典型的な誤答」においてさえ、竹山氏の言う「論理的コミュニケーションの能力」との関係は極めて曖昧だといわざるを得ない。

そもそも、ある問に対して論理的に瑕のある答案を書いた場合、それだけを根拠に、「論理的コミュニケーションの能力がない」と判断されるのは酷だと思う。「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している答案」=「論理的コミュニケーションの能力がないと判断せざるを得ない答案」だというのは言いすぎだと思う。

第二の点について検討してみよう。それは「論理的コミュニケーションの内実」についてである。少し抽象的になるが、通常われわれの行う「論理的コミュニケーション」には2つの側面があると考えられる。一つは内的他者とのものであり、もう一つは外的他者とのものだ。「内的な他者との論理的コミュニケーション」とは、自分の答案・証明・議論といったものを自分の眼でチェックすることだ。いま自分が行ったこの議論は大丈夫かな、自分の理解は間違っていないかなと常に自分を他者の目で検討することである。他方、「外的な他者との論理的コミュニケーション」とは、まさに自分以外の他人との間で議論し、他人からの指摘を理解しその指摘に応えること、また他人の議論をチェックし判断しそれを伝えることだ。

竹山氏の議論に即してみてみると、第二の点「論理を組み上げる文章を書けること。特に、自分で書いた文章の論理構造を批判的に検証できること」は、「内的他者との論理的コミュニケーション」にあたる。問題は第一の点「教科書の文章の論理構造を把握して理解できること」をどう見るかである。これは「教科書」という「他人の書いたもの」を論理的に読むことだから、ある意味では「外的他者との論理的コミュニケーション」である。しかし、他人からの指摘に応答するという部分はなく、もっぱら教科書を読む作業は自分ひとりで行うものだ。この第一の点は、半分以上は「内的他者との論理的コミュニケーション」に属しているのではないかと思う。

私がこの内的他者と外的他者の区別に拘る理由は、そもそも「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」という表現の意図しているものが、一体どのようなコミュニケーションなのかという点にある。

もしそれが「内的他者との論理的コミュニケーション」という意味だったとしよう。例えば、例示のみで論証できていると考えた答案は、内的他者との論理的コミュニケーションを行わなかったのだろうか。「偶数に奇数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になる」とした答案でも内的他者との論理的コミュニケーションが行われていないのだろうか。竹山氏は「偶数を2m、奇数を2m+1とおくと、で始まる答案」を例に、「自分の頭の中にあるイメージが正確に言語化されていないというギャップが生じているのだ。数学の答案を書く際には、このギャップが生じていないかどうかを常に確認する必要がある。」と述べている。しかしこれは「偶数を2m、奇数を2m+1とおくと、で始まる答案」において、内的他者との論理的コミュニケーションが行われていないことを意味するのだろうか。

私はそれはわからないと思う。もしろん「内的他者との論理的コミュニケーション」は行われていない可能性はある。しかし、それはその答案を書いた人の頭の中、心の内のことであって、外からはわからない。わかるのは、「内的他者との論理的コミュニケーション」が行われたか否かではなく、いずれにせよ「調査側の要求する厳密性の基準に満たなかった」ことや「論理的に瑕のある答案を書いてしまった」というアウトプットの問題点でしかありえないのだ。アウトプットという結果が仮に不十分であったり間違っていたからといって、その答案を書いた人が、自分の答案を批判的に検証していないのだと断定するのは間違っている。

竹山氏の言う「論理的な読み」が出来ているかどうかをある程度客観的に判断することは可能だと私も思う。私は平均に関する今回の出題はある程度その主旨に合致していると思っている。しかし、「論理的な書き」を試す場面において、その答案の内容だけから、その人が「自分で書いた文章の論理構造を批判的に検証でき」たのかどうかを判断することは難しい。「論理を組み上げる文章を書けること。」は、答案というアウトプットでもある程度客観的に判断できる部分はあるだろう。例示だけしかしなかった答案は、やはり数学の答案としては「論理的な説明にはなっていない」と判断せざるをえない。しかし、それは「自分で書いた文章の論理構造を批判的に検証したかどうか」を判断できる材料とはならない。批判的に検証してみたが間違いに気づかなかったのかもしれないのである。だから、私は、今回のような調査の内容をみて、「内的他者との論理的コミュニケーションの能力」が調査できるなどというのは無理だと言わざるを得ない。

他方、「外的他者との論理的コミュニケーション」という側面とややもすれば混同しているのではないかという疑義もある。そもそも、「論理的コミュニケーション」といった場合に想定されているものは、特に注釈をつけないとどうしても「外的他者との論理的コミュニケーション」であると思われがちなのではないだろうか。日本数学会の提言の中にある「数学教育が育む論理力は、国際交渉の中で不可欠です」という表現と「論理的コミュニケーション」という表現を並べるとどうしてもそのように見えてしまう。竹山氏の記述「大人の間で交わされる日常会話のように、論理的であることが必ずしも求められない場合には、論理的なコミュニケーションなど必要ではない。しかし、数学の学習の場面においてそれは避けられない。」からも、「外的他者との論理的コミュニケーション」のことなのかと錯覚させるかのような比較が行われている。

しかし、そもそも今回の調査で、「外的他者との論理的コミュニケーション」について何らかの判断が下せるということに無理がある。出題者が何か問題を出し、それに回答者が応えただけである。この時点では、まだ論理的かどうかではなく、そもそもコミュニケーション以前の段階だ。例えば、例示をして論証したと考える人に、「それで全ての偶数と奇数の組について論証したことになっていますか?」と問いかけること。「偶数に奇数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になる」と書いた人に、「もう少し厳密に論証するにはどうすればいいですか?」と問うこと、あるいは、「文字式を使って証明を書くことはできますか?やってみてくれませんか?」と問うこと。それをして初めて「外的他者とのコミュニケーション」になる。その応答の中で、「論理的なコミュニケーション」を行えるかどうかが「外的な他者との論理的コミュニケーション能力」に他ならない。そういう能力は、ペーパーテストの答案だけで判断することは難しい。だから大学の演習では、ゼミや演習の中で外的他者と対話することが求められているのだ。論理的に厳密ではないあるいは間違った答案を書いてしまったことと、それを「外的他者との論理的コミュニケーション」の中で修正していくことができるかどうかとはまた別の問題である。

こうした点からも、竹山氏の次の記述は混同を招きかねない記述だと考える。

五感を通じて直接的に与えられる情報に対して、いかなる論理的な判断も放棄し、思考停止して完全に身をまかせてしまっても、人は生きていけるかも知れない。また、自分の考えを他者に正確に伝える努力を軽視し、自分を理解しない他者を断罪し続けることも可能である。しかし、このような論理的コミュニケーションの欠如が人にもたらすものは、主体性の喪失や独善的な孤独であろう。それを選ぶことは、ある意味で楽な選択かもしれないが、個人や社会を幸福に導くものではない。数学を学ぶことの意義を、このような観点から考えるのも意味があろうかと思う。

「個人や社会の幸福」について「論理」との関係をあまりに断定的に述べている点に私は同意できないが*2、その点についてはおいておく。ここで問題としたいのは赤字で強調した2つの部分である。
 前者はある意味で「論理的な読み」や「内的他者との論理的コミュニケーション」にあたる部分であるように見える。しかし、この部分が非常に不穏当に見えるのは、これが今回の数学力調査の分析として登場するというまさにその点にあると思う。例えば、「偶数と奇数の和はいつでも奇数になること」の証明に対し、例示だけしかしなかった答案が、「五感を通じて直接的に与えられる情報に対して、いかなる論理的な判断も放棄し、思考停止して完全に身をまかせて」いると批判するのは行き過ぎである。そもそも、この問に対して、何らかの説明を試みようとした答案に対して、「五感を通じて直接的に与えられる情報に対して、いかなる論理的な判断も放棄し、思考停止して完全に身をまかせて」いるなどと言うのは不適切だ。
 後者はある意味で「論理的な書き」や「外的他者との論理的コミュニケーション」にあたる部分であるように見える。特に、「自分の考えを他者に正確に伝える努力」には「外的他者との論理的コミュニケーション」が含まれる。しかしこれも、今回の数学力調査に関する分析としては不穏当だ。そもそも、今回の調査でたとえ間違ったにせよ、それなりの説明を試みた答案に対し、「自分の考えを他者に正確に伝える努力を軽視し、自分を理解しない他者を断罪し続ける」などと批判することは不適切だ。そもそも、「自分の考えを他者に正確に伝える努力」というのは、出題+解答という1回きりのやりとりで達成されるものではなく、自己と他者の複数回のやり取りの中でこそ生きるものであろう。今回の調査結果の分析という記事において「論理的コミュニケーションの欠如」という文脈でコメントすること自体が不適切だし的外れだといわざるを得ない。

そもそも、数学以外の社会的な場面においては、完全に正しい答というものが与えられていない状態がほとんどであり、そういう場面では、まず「内的他者との論理的コミュニケーション」の中で自分のコミットする言説が正しいと考えられる根拠を整備し、その上で「外的他者との論理的コミュニケーション」を通じて、他者からの批判や指摘に応答し、必要ならば立場を修正したり、妥協したりするものだ。「外的他者との論理的コミュニケーション」を行うことで、自分の「内的他者との論理的コミュニケーション」に不備があったことにも気づかされる場合があるだろう。われわれの行う「論理的コミュニケーション」とはそういうものではなかったのか。そういう状況を考えたとき、単に文字式を使えないとか例示と論証の区別がつかないということを殊更重大視して、こういう答案を書く人は、「論理的コミュニケーションの能力」に問題があるのですなどと評価するべきではないと思う。数学というのはあくまで何が正しいかが相当精密に判定できる稀有な学問なのであるから、むしろその稀有な性質を利用して、「内的/外的他者との論理的コミュニケーション」のどちらも鍛えていける非常により練習問題になるのだと考える。「主体性の喪失」とか「独善的な孤独」などという扇情的な言葉を選ばず、もっと穏当な言い方を選ぶというのがなぜ出来ないのか不思議なのである。そういう過激な言葉が出てくる背景に、やはり「数学教育において育まれる論理性」が数学を離れた社会的側面において行われる「論理的コミュニケーション」と等価だ/等価であるべきだといった価値観があるのではないかと見える。

そこで第三の観点が問題になる。そもそもここで言う「論理的コミュニケーション」と「社会」の関係である。あえて言えば、竹山氏は巧妙に数学の問題を限定しつつ、その裏で社会的/一般的な判断を述べている。

上で引用した「これらは『論理的なコミュニケーションの能力』と呼ぶこともできよう。大人の間で交わされる日常会話のように、論理的であることが必ずしも求められない場合には、論理的なコミュニケーションなど必要ではない。しかし、数学の学習の場面においてそれは避けられない。」という記述では、「論理的コミュニケーションの能力」というものが、「数学の学習」という場面においては避けられないと述べている。問題が数学の学習という点に限定されている。しかし、その一方で、「論理的コミュニケーションの欠如が人にもたらすものは、主体性の喪失や独善的な孤独であろう。それを選ぶことは、ある意味で楽な選択かもしれないが、個人や社会を幸福に導くものではない。数学を学ぶことの意義を、このような観点から考えるのも意味があろうかと思う。」という記述は、明らかに「論理的コミュニケーション」の社会的役割について述べている。日本数学会の提言にある「数学教育において育まれる論理性は国際交渉の中で不可欠です」という表現もそうだ。

問題は「数学教育において育まれる論理性」と「社会において行われている論理的コミュニケーション」とが本当に直接的に結びつくのかどうか、という点である。ここに新井氏や竹山氏、あるいは日本数学会の提言の論理的飛躍がある。むしろその点こそ詳細に論じられるべきテーマなのではないか。そこを詰めずにナイーブな議論で「数学学習における論理性」と「社会における論理的コミュニケーション」を結び付けてしまうと非常に不穏当な表現が出てきてしまうのではないか。そもそもこれは数学力調査の分析なのだから、今回の調査の問題が「社会における論理的コミュニケーション」とどう関連付けられているのかということこそ紙数を尽くして論じられるべき観点であろう。例えば「例示と論証の区別」とか「作図」とか「放物線の重要な特徴」といったことを殊更強調して「論理的コミュニケーション」の問題を論じることには「社会」とのかかわりという観点でこそ問題があるのではないか。そうした分析が全く感じられないことに違和感があるのである。

次回、「わかるとできるの違い」、「学習指導要領が設定する数学のよさ」についての部分を検討しようと思う。

*1:2012年度は大問5題中、穴埋め式でない設問を含むのは1題のみ。

*2:竹山氏のよう「論理的な判断」とか「他者に正確に伝える」の意味しているものが何かにもよるが、われわれの社会やある民族や部族の人々や社会が、竹山氏の言うような意味での「論理的コミュニケーション」をおこなってきた/おこなっているかどうか疑問だからであり、それでも人は幸福を感じられるかもしれないし、その社会は幸福かもしれない。幸福かどうかを問題の尺度として使うこと自体が独善的なものになりがちだと思う。