日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その13)─雑誌「数学文化」第18号の竹山論文をめぐってIV─

雑誌「数学文化」第18号に、『問題提起としての「大学生数学基本調査」』と題する竹山美宏氏の論説についての検討を行っていた。今回は、竹山氏がこの調査で測ることを意図した学力のうち第3のものについて検討したい。

学習指導要領が設定する「数学のよさ」について

竹山氏は、まず学習指導要領の次の記述に着目する。

「数量、図形などに関する基礎的な概念や原理・法則の理解を深め、数学的な表現や処理の仕方を習得し、事象を数理的に考察する能力を高めるとともに、数学的活動の楽しさ、数学的な見方や考え方のよさを知り、それらを進んで活用する態度を育てる。

特にここで言う「数学のよさ」ということに焦点をあてて問2-1と問3を具体例として議論が進められる。

問2-1について検討する部分の冒頭は次のように始められている。

問2-1は、偶数と奇数をたすと奇数になる理由を説明する問題である。いくつかの値に対して実際に計算してみれば、この事実が正しいことを確認できる。

これは言葉の使い方が悪いのではないか。「事実が正しいことを確認できる」のではなく、「この主張が成り立ちそうであることが実験で確かめられる」程度にするべきであろう。このような細かい表現にこだわるのは理由がある。竹山氏を含め、今回の調査を実施した側は、例示と論証が違うことをことあるごとに強調してきたのではなかったのか。だとすれば、例示によって何が確かめられるのかという部分の記述をいい加減なものにするべきではない。また、報告書抜粋で、「教科書に書いてあるから間違っているはずがない」という答えを「論理的説明の前提に立っていない」と評価していたはずだ。「偶数と奇数を足すと常に奇数であること」は、すべての偶数と奇数について示してこそ「正しい事実」と確かめられるのであって、それ以外の方法(例えば例示や文献提示)では決して認めないという立場だったはずだ。このような表現の選択の杜撰さが総じて今回の調査側の文章に散見されるは決して看過されるべきではないと思う。

竹山氏の文章は次のように続く。

しかし、具体的な値でいくら試したところで、偶数と奇数は無限にあるのだから、すべての場合を尽くすことは不可能である。十分にたくさんの例を示しても、数学の世界では証明とは認められない。では、どうすれば良いか。そこで文字を使うことになる。2m、2n+1という文字式を使えば、任意の偶数と奇数を表現できる。そして、文字式の計算を実行すれば、どんな偶数と奇数であっても、それらの和は奇数であることを証明できる。具体的な数字を使っている限り有限個の場合にしか確かめられないが、文字式を使うことで無限の場合を尽くし、整数の普遍的な性質として把握できる。これは文字式を使うことの「よさ」であろう。このような「よさ」を「進んで活用する態度を育てる」ことだと思われる。

「文字式」を使うことの「よさ」ということは、数学教育の中で十分に強調されるべきである、ということを否定するつもりはないし、それは、例えば和算文化にはなかったという意味で現代の数学の獲得した強力さを裏打ちするものであろう。しかし、そのことと、「偶数と奇数の和はいつでも奇数になる」ということの「説明」にどの程度の厳密さで答えるかということは別の問題である。例えば、
「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
という答案を、典型的な誤答として退けてよいのか、という問題である。これは文字式を使っているわけではないが、いくつかの具体例に留まらずすべての場合を尽くそうとしているのではないか。重篤な誤答=論理的コミュニケーションの前提が崩壊している答案と断定された
「偶数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから」
という答えも具体例に留まらずすべての場合を尽くそうとしているのではないか。
そして逆の見方をすれば、「偶数を2m、奇数を2m+1とおくと・・・」で始まる答案は、仮に文字式という道具を使おうとしていたとしても、結果として連続する2つの整数という限定された場合にしか証明されていないという意味で、特別な具体例に対してしか証明できていない、ということもできるのである。これを典型的な誤答と分類するのは妥当なのか。あるいは、正答例の冒頭が「m,nを整数とすると、2mは偶数、2n+1は奇数になる」となっている答案も、すべての偶数と奇数の組に対して証明するという観点から見れば、記述の仕方に明らかな瑕がある。これを準正答と分類することは妥当なのか。


あえて率直に言ってしまうと、このような易しい問題で文字式を使うことの「よさ」が理解されると考えること自体に無理がある。本問のようなほとんど「当たり前」の内容を持ってきて、その証明に「文字式」を使えない答案をすべて「深刻な誤答/典型的な誤答」と切り捨てることに疑問があるのだ。文字式を使うことへの教条的な拘りが、何を正答とするかという判断の目を曇らせているように見えるのである。文字式を使うことのよさは、もっと複雑な問題でこそ活きるのであり、せめて「3で割った余りが2の数を2つ足すと」くらいの設定にしておくべきだ。

竹山氏は、さらに「説明してください」という問題文の書きぶりについて次のように説明している。

問2-1の問題文が、いかにも数学のテストらしい「証明しなさい」という表現ではなく、「理由を説明してください」という表現であるのは、文字式を使って証明するという考え方が「進んで活用する態度」にまで浸透しているかどうかを見ようという意図もある。

「進んで活用する態度」を見たいといっても、率直に言って、このレベルの内容なら、「文字式」など持ち出すまでもなく「説明」できてしまうのである。こういう記述は調査側の独りよがりであると見られても仕方ないと考える。

竹山氏は、「証明しなさい」という文言と「理由を説明してください」という文言が等価であると主張したいのか。それによって要求される厳密さに違いが生じうるということはないと断定するのだろうか。「理由を説明してください」という書きぶりなら、
「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
「偶数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから」
といったある意味で少しゆるい答え方でも良いと考える人がいるかもしれない。このような答案を書いた人が、「文字式」を利用した証明を書けないかどうかはわからない。「証明しなさい」と書くことで、これが数学的に厳密な証明を求めているのだと回答者に了解させることができる。またそうした要求に応じた答え方をすることができるのではないのだろうか。
前回も書いたが、竹山氏は

議論を行う場面において、それぞれの参加者が定義を自己流の意味で使っていては、話がすれ違うばかりなはずである。言葉の意味を共有することはニュートラルな議論の出発点となる。数学が定義から始まる論理体系であることは、そのような「対話の知」を体現しているはずだ。

と述べていたのではなかったのか。調査側がどのような能力を見ようとしているのかということを明示する言葉遣いがなければ、回答者がどのレベルの厳密性で回答すればよいかわからなくなる。こうした記述には看過しがたいダブルスタンダードがあるように見えてしまうのである。

続けて竹山氏は次のように述べる。

大人どうしの日常会話では例示だけを根拠として「正しさ」を共有することもあるのだから、「6+1=7,4+5=9などとなるから」という説明で、この問題の解答としては十分だと考えることもできよう。しかし社会全体がそれでよしとするのであれば、義務教育の学習指導要領の意義そのものを考え直さなければならないはずだ。

この記述にも相当複数の問題がある。

竹山氏が私が書いている一連の記事を読んでいるというわけではないと思うが、少なくとも私は、
「大人どうしの日常会話では例示だけを根拠として「正しさ」を共有することもあるのだから、「6+1=7,4+5=9などとなるから」という説明で、この問題の解答としては十分だ」
と主張しているわけではない。数学的論証の観点からは例示だけでは証明と言えないのは当然である。そこを問題にしているのではない。(日常会話どころではない)社会的にきわめて重要な問題を論じている場合であっても、数学以外の自然科学の話題に関する学問的議論であっても、すべての場合を尽くすことによる証明は難しく、そもそもそのようなことが不可能な場合がある、というよりそういう場合の方が圧倒的に多数である。であるからこそ、具体的な例示を用いて他者を説得するという行為は、「論理的コミュニケーション」の重要な手段であると認識するべきである。また数学自身も含め自然科学においても社会科学においても具体例を用いて定理や事実の確認を行うことがその定理や事実をよりよく理解することにもつながるのである。にも関わらず、「偶数と奇数の和は常に奇数になること」の「説明」に具体例を提出した答案を、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している答案」という論評を加えることが不当であり節度を欠いていると主張したいのである。

どうも言っていることが当たり前すぎてどう説明すればよいのかよくわからない、文字式を使って説明することは思いつかない・できない人が、とりあえず成り立つことを具体的な例で確かめたという場合、それはむしろ社会的にせよ自然科学にせよ様々な問題を考える上では推奨されるべき態度であろう。文字式を使うということを知らない/忘れたというのなら、もし必要ならその方法を学べばいい。しかし、具体例を使って自分の主張を説得的に述べるという態度の方がよほど重要であるように思えるのである。もちろんそれは、数学においてそれが証明と同等のことであると主張しているわけでは全くない。論評の仕方が不当だといっているのである。

「しかし社会全体がそれでよしとするのであれば、義務教育の学習指導要領の意義そのものを考え直さなければならないはずだ。」
という記述も趣旨が不明確だ。この節全体を通じてそうなのだか、義務教育の学習指導要領というものに自分たちの主張の正しさの根拠を「外注」することに疑問を感じるのである。竹山氏を含め、今回の調査をした側、日本数学会の提言などはすべて、数学教育で育まれる論理性が数学以外の自然科学や社会的問題を考える上で重要だということだったのではないか。なぜその重要性の根拠を自らの言葉を尽くして語ろうとしないのか。学指導要領などというものに拠った形でしか論じられないのか。むしろそこの論を鍛えることが先決なのだと私は考える。

次に問3に関する記述を見てみよう。

問3は相似を利用した作図問題である。この問題は数学的な発想力を試すものではない。なぜなら、相似を利用して線分を三等分するというテーマは、ほとんどすべての中学校の教科書に例題として掲載されているからだ。

いったいどういう意味だろう?これは教科書に載っていたという知識を問うているのだという宣言に過ぎないのではないか。これも完全な開き直りの記述である。今回の調査側の一人である新井紀子氏・尾崎幸謙氏は、雑誌「世界」の記事の中で

小学校から高校一年の教科書に掲載されるもっとも基礎的・基本的内容のうち、数学固有の知識や計算力をなるべく問わないものから選んだ。

と述べていた。すべての数学の教科書に載っていることは、「数学固有の知識」をなるべく問わないものと同義ではない。すべての教科書に載っていることは、まさに数学固有の知識なのかもしれない。上の竹山氏の発言は、すべての教科書載っているのだから、数学的な発想などはなくても解くことができるべきだということを安直に表明したに過ぎない。そのことは自明ではないし、使っていなければ忘れてしまうということも無視する暴論だ。

なぜこのテーマが広く扱われているのか。その理由は、問3の作図法が「数学のよさ」を伝えるのに適しているという認識が、教科書作成者の間で共有されているからであろう。この作図法は線分の長さによらず適用できるという意味で、とても良いものである。そして平行線を通じて線分の長さの比を別の場所に実現するという相似の考え方の良い応用例でもある(相似の導入としてよく語られる「木の高さを測る話」もその一例だ)。数学を現実的な問題に応用する好例として、このテーマをあげても不自然ではないだろう。

「作図法が線分の長さによらず適用できる」ということと「現実的な問題に応用する好例」であるかどうかとは別の問題である。現実に線分を三等分すること、特にメモリのない定規とコンパスだけで作図するということがどれだけ「現実的」なのだろうか。例えば「正答例」では省かれてしまった平行線の作図は、目盛りのない定規1個とコンパスだけでやろうとすると手数が必要だが、定規を2つ使って平行に滑らせてよいのならすぐにできる。「目盛りのない定規1個とコンパスのみの作図」というテーマ自体、「現実的」とはかなりかけ離れているように見える。もちろん建築を専門とする人たちにとっては製図の際に重要な役割を果たすことは考えられる。しかし、それが義務教育における「数学のよさ」の一例として強調されるべきかどうか、少なくとも私は懐疑的である。

他方、この問題では「相似」という考え方も問うているし、それもまた「現実的な問題に応用する好例」だという見方はある。相似の考え方が重要であることは否定しないし、「目盛りのない定規1個とコンパスのみを用いた作図」に比べれば、よほど重要だと私は考える。しかし、この問題の出来が悪いことを根拠に、学生が「相似」という考え方を「作図」という「現実的な問題」に応用することができないのだと結論するのは間違っていると思う。この問題が解けないことの最も大きな要因は「相似」という考え方の使い方ではなく、「目盛りのない定規1個とコンパスのみを用いた作図」という昔やったが忘れてしまった(あるいは習わなかった)内容が扱われているからである、と考えて間違いはないと思う。相似の使い方を見たいなら、もっと別の問題を使うべきだ。

この結果からは、「数学のよさ」を教科書で表現しても、それが学生に伝わるとは限らない現状が窺える。「作図問題は入試に出ないのだから、できなくて当然だ」と割り切ることもできよう。しかし、それならば、入試制度や学習指導要領の意義は何なのか、やはり考え直さねばならないだろう。

作図問題は高校入試に出題されているということは、新井-尾崎論文に対する批判の中で既に説明した。「入試にでないのだから、できなくても当然だ」という議論はすでに前提が間違っている。単に高校時代に一度も思い出す機会がなかったので忘れてしまったのだろう。

そしてここでも、判断の基準を学習指導要領に投げてしまっている。ここで竹山氏がした説明では、「目盛りのない定規1個とコンパスを用いた作図」というものが、「数学のよさ」特に「現実的な問題に応用する好例」であるとの説明にはなっていないと思う。「目盛りのない定規1個とコンパスを用いた作図」というのは、もちろん数学史の中で果たしてきた歴史的な役割や価値はあるし、相似の応用例としての価値もあるだろう。しかし、率直に言って、数学と社会のかかわりで見ても、義務教育から高校教育までで行われている数学教育の中身からいっても、相当辺境の内容に属しており、もっと身に付けておくべき基本的な内容はたくさんあるのではないかと思う。今回の調査で正面切って取り上げるほどの重要性を私は感じない。

ここまでで竹山氏が今回の調査について具体的な設問を用いて述べた部分は終わりである。


今回の調査について書かれた報告書概要版や報告書抜粋、新井-尾崎論文、そして今回の竹山氏の記事の中で散見されるのは、「○○ということを見るために、あえてゆるい表現を使った」というような記述である。学生は試されているといえば聞こえは良いが、学生にとって相当に当たり前な事実をどこ程度厳密に書けばよいかはっきりしない言葉遣いで問うたり、あるいはどのようなレベルで書けばよいかはっきりしない「重要な特徴」問うという姿勢からは、学生たちと「論理的コミュニケーション」を取ろうとする意図は感じられないばかりか、初めから底意を隠して“モルモット”である学生たちを試し、自分たちの設定した価値基準にあわない答案を口を極めて論難するという不適切極まりない態度に見えしまう。しかも、数学教育の育む論理性と社会の関わりについて述べる主張はあまりに概括的・断定的で説得力に欠けるばかりか、今回の調査問題とどのような関係にあるのかが十分には語られていない。それでいて相当に強い言葉で学生たちの能力を否定的に記述してしまっている。そういう態度やダブルスタンダードを私は問題視している。


次回は第4節「おわりに」の中で述べられている「欲望論的アプローチ」について検討したい。