日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その14)─雑誌「数学文化」第18号の竹山論文をめぐってV─

雑誌「数学文化」第18号に、『問題提起としての「大学生数学基本調査」』と題する竹山美宏氏の論説についての検討を行っていた。

「欲望論的アプローチ」との関係について

「4.おわりに」の中で竹山氏は次のように述べている。

 いかなる調査であれ設計者の眼差しを前提とせざるを得ない以上、本調査のような実証的手法による結果をいくら積み重ねても、それだけからすべての人が了解できる当為を取り出すことは難しい。なぜなら、異なる眼差しから設計された調査を実施すれば全く別の世界像を語れるだろう、という可能性の直観を消し去ることはできないからだ。それは社会のありようを真に客観的に捉えるのは原理的に不可能であることの帰結である。そして、複数の世界像が対立するとき、当為の正当性を支える規範を互いに主張しあうだけでは、その対立を解消することはできない。そのような規範にも一定の説得力があるからだ。互いの世界像の優位を主張しあうことにも意義はあるだろう。しかし、大人が繰り広げる相対主義的な批判の応酬が、ニヒリズムを社会に招いているのだとしたら、少し立ち止まってみる必要がある。「何とでもいえる」「権力ゲームに強い者の言い分が通るだけ」というニヒリズムは、言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲を殺してしまう。それが数学を学ぶ意欲をも殺してしまうことは、本誌の読者であれば容易に想像がつくはずだ。
 相対主義的な混乱はいかに克服できるか。ひとつのアイデアとして苫野一徳が提唱する欲望論的アプローチがある。私達が「教育はかくあるべし」と主張したくなるとき、その背後には自分の経験の中で抱いた「この教育はよいものだ」という確信がある。その確信が訪れたこと自体は本人にも疑うことができない。そして、この場面だけが共通了解を組み上げるための基盤となりうる。

“さて、とすれば私達は、教育とは何か、そしてそれはどうあれば「よい」といいうるか、という(略)問いについても、今やその根本的な問い方を手にしたことになる。すなわち、私はこのような欲望・関心のゆえに、教育の本質と正当性を次のようなものとして捉えているが、果たしてこの欲望・関心は、普遍的に了解されうるものであろうか。そしてまた、この欲望・関心から導出された教育の本質および正当性論は、十分共通了解の得られるものとなっているだろうか。これが私たちの問い方となる。
 換言すれば次のようになる。私達はいったいどのような教育を欲するのか。そしてそれは、普遍的に了解されうる欲望、およびそこから導出された、普遍的に了解されうる教育のあり方と言えるのだろうか。(苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』)”

 本稿の後半は、私なりの欲望論的アプローチの試みである。

この部分をどう批評するべきか、私には正直よくわからない。あえて率直に感想を述べるなら、「大学生数学基本調査」と何らかの意味での「相対主義的な混乱」との間の関係が不明だ、ということである。いま、「大学生数学基本調査」というものに関連して何か「相対主義的な混乱」があるというのだろうか。この最後の節と苫野氏の議論の引用は、私にはいささか唐突なものと映る。竹山氏の問題意識はいろいろあるのだろうが、少なくとも「大学生数学基本調査」に関する報告/私見という観点からは、ピントがぼやけてしまっていると感じる。

苫野氏の議論には、現実にはもっと大きな問題があると私は考えている。それについては次の「補論」を参照して欲しい。

(補論)苫野氏の「欲望論的アプローチ」について

私は苫野氏の著書を一読してみた。私が苫野氏の議論を十全に理解しているとは限らないということを前提に、誤解を恐れず要約してみると、次のようになる。

苫野氏は、教育学の立場に見られる「理想・当為主義」と「相対主義」を批判的に検討している。「理想・当為」を語る立場は異なる「理想・当為」の間で深刻な対立を招きそれを調停することが困難になる。その一方で、ポストモダン思想を中心に、「理想・当為主義」の暴力性や政治性に対する批判を糧として、絶対的に正しい理想・当為などというものは存在しないのだという相対主義が唱えられてきた。しかしそれは、逆に「どのような教育を構想していけばよいか」という問いに教育学が全く答えられなくなってしまうという事態を引き起こしてしまった。苫野氏はこうした認識の上で、次のような「欲望論的アプローチ」を提示する。すなわち、理想・当為を直接的に語るのではなく、その理想・当為に至った自身がどのような教育を欲しているのかという「欲望」に立ち返ってみるのだ。理想や当為といった「教育論」を支える自身の「欲望」が他者にとって十分に了解できるものかを互いに問い合うことが共通了解を構築することの原動力になる、というのである。竹山氏はおそらく苫野氏のこうした議論を念頭に、欲望論的アプローチにコミットしているのだと考えられる。



私は、苫野氏の議論全体をここで詳細に考察するだけの用意はない。しかし、「欲望論的アプローチ」を取ることによって何らかの「共通了解」に至れるはずだという苫野氏の「確信」には必ずしも同意できないし、そこには強い違和感があるということだけを述べておきたいと思う。



それ以上にここで指摘しておきたいのは、苫野氏が述べている点が、単に上ような「欲望を問い合うことによる共通了解の構築(可能性)」に留まらないということである。苫野氏は、確かに、その欲望が他者に了解されるものであるかどうかを問い合うことから始めようと述べている。しかし苫野氏は、その欲望が他者に了解されるものであるかどうかの基準を続けて述べているのである。苫野氏は教育の「本質」を、

「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」(p.28)

と述べている。この実質化が十全に達せられているときのみ、その公教育は「正当化」されるのであり、教育政策の正当性はこの点から担保されるのだと述べている。



私は、苫野氏の議論の有効性や書物の中で提示されているいくつかの実践例について評価していないわけではない。しかし、「自由」と「自由の相互承認」を重要視すると表明したとしても、そのことだけでは、現実の具体的な問題についての処方箋を提示することはできないと思う。現代は、多種多様な「自由」が互いにせめぎ合い、到底「相互承認」など望むべくもない状況に見えるからだ。その上で、少なくとも、学習カリキュラムという点に関して、苫野氏が次のように述べていることを見落とすべきではないと思う。少し長くなるが、苫野氏の見解をなるべく誤解なく引用するためにご容赦を請いたい。

 特に義務教育段階において育成獲得が保障されるべき<教養=力能>を、私は「共通基礎教養」と呼ぶことにしたい。

 ここでいう「共通」には、二つの意味が込められている。

 一つは、すべての子どもたちに共通に獲得を保障すべき基礎教養という意味である。この意味での共通教養がなければ、知識習得に著しい不平等が生じてしまう。また社会全体から見ても、この共通教養がなければコミュニケーションは著しく滞るだろう。
「共通」のもうひとつの意味は、将来どのような学業や職業に就いても、一定程度共通に必要とされる教養ろいう意味である。この意味での共通教養を保障しなければ、各人のその後の進路選択の自由は著しく狭められてしまうことになるだろう。

 この「共通基礎教養」の本質を、私は三つ取り出したいと思う。一つは、重要な「諸基礎知識」、二つは「学び(探究)の方法」、そして三つは、「相互承認の感度」である。

(中略)
 「諸基礎知識」についてから論じよう。

 思い切っていえば、私の考えでは、この諸基礎知識の量については、それほど膨大かつ細かなものではないし、むしろそうであってはならないものである。教育を最大の関心事の一つとして、数学者であり哲学者でもあったホワイトヘッドは、教育の原則は「多くのことを教えすぎるな」、そして「教えるべきことは徹底的に教えよ」であるといっているが、私もまた、共通基礎教養についてはこの原則が当てはまるといいたいと思う。

 なぜか。それは、そのことこそが、まさに各人の<自由>を最も十全に実質化しうる「学力観」であるはずだからである。

 何のためにこれを勉強するのか、と子どもたちを悩ませ学習意欲を喪失させる最大の理由は、細かで膨大な知識、つまりホワイトヘッドのいう「生気のない諸概念」を学習しなければならないという感覚にある。そのことは、探究心、そしてこの探究心を持った「学びの方法」の育成もまた妨げることになり、結果として、子どもたちを<自由>の獲得から遠ざけてしまうことになるだろう。数学者ホワイトヘッドでさえ、「二次方程式の代数的解法が数学専攻者のためだけでなく、多様なタイプの少年たちに課されるというのはどうなのか」といっているが、これは多くの人たちの実感でもあるのだろう。

 それゆえ私は、学力の本質は、重要な「諸基礎知識」と、探究心を失わせることなく育むべき「学び(探究)の方法」にある、といいたいと思う。

 もちろん、「教えるべきことは徹底的に教えよ」というホワイトヘッドの原則は重要である。それゆえ、重要な「諸基礎知識」については徹底的にその獲得を保障する必要がある。しかしそれと同時に、その過程において「学び(探究)の方法」を十分に身につけることができれば、子どもたちは自ら探究したいと思う事柄について、学校が教えるより効果的に、また深く、自ら学ぶことができるようになるだろう。

 それゆえに私の考えでは、子どもたちが獲得すべき「諸基礎知識」の量は膨大である必要はない、というからといって、社会全体の学力低下や国際競争力の低下などを心配する必要はない。ほんとうに重要な「諸基礎知識」とその系統性を見きわめ、その獲得を必ず保障すると同時に「学び(探究)の方法」を育成することに力を注げば、それはむしろ、各人にとっても、そして社会的にいっても有為な力能を、長い目で見ればより引き上げることを意味するはずであるからだ。

 教育は長い目で見ることが重要だ。私たちが考えるべきは、義務教育段階においてどれだけ高い知識到達度に達することができたかではなく、どれだけ「諸基礎知識」と「学び(探究)の方法」を確実に育成獲得することができたか、ということにある。もちろん、より高い到達度を目指したい、あるいは目指しうる子どもたちの学力向上については、その機会は十分保障される必要がある。しかし義務教育段階において決定的に重要なことは、「諸基礎知識」の「分かる」「できる」を徹底すること、そして「分かる」「できる」をより充実させていくための「学び(探究)の方法」を、徹底的に育んでいくことなのである。
もちろんこれまでの日本では、学習内容や時数を削減した「ゆとり教育」のために、学力低下が問題化されてきた経緯がある。しかし、ただ学習内容を削減するだけでは不十分どころかむしろ弊害があるのは当然のことで、私の考えでは、私たちは「諸基礎知識」の系統性の徹底と「学び(探究)の方法」をどう育むかという教育方法の拡充や教師の熟練を、必ずセットにして教育(カリキュラム)を計画しなければならないのである。

 それだけではない。私たちは、後述するように、義務教育終了後における、多様な教育機会の充実、あるいは学び直しを可能にする社会・教育のあり方をつくるという課題もまた、同時に探究していく必要がある。「諸基礎知識」と「学び(探究)の方法」を土台として、後に論じる「自らの教養」を、多様にかつより深く育んでいくことのできる、十分な教育機会が必要なのである。
したがって、義務教育段階における「学力」の本質を「諸基礎知識」と「学び(探究)の方法」として明確化し、これを現実のものとしていくためには、私たちは、学習内容の精選から教員養成・研修のあり方、教育方法の充実、そして生涯学習社会の充実に至るまで、広く長期的な視野を持って着実に計画を進めていく必要がある。そして繰り返し述べておくが、私は右のような「学力」論を、前章で明らかにした教育の本質論に基づいて導出している。まさに私たちは、学力論も教師論も教育方法論も生涯学習論も、すべて、教育の本質(原理)を達成するための実践理論として考えていく必要があるのである。(p.151-154)

私が苫野氏の議論に違和感を覚える大きな理由の一つは、議論の中身がともすれば抽象的なものに終始し、具体的な事例に即して対立を調停するという場面を回避しているように見える点である。もう少しフェアに言えば、もちろん苫野氏は、支援組織としての教育委員会というあり方などの実践事例は提示しているから、具体的事例が全くないというわけではない。しかし、学習カリキュラムに関する限り、上で引用した部分に対する具体的な事例は、「二次方程式」に関する部分以外にないように私には見受けられた。


あえて誤解を恐れず率直に言えば、苫野氏がここで述べているようなことは、こと義務教育における学習カリキュラムについて、おおよそ合意の取れる共通了解であろう。しかし、具体的な対立の生じている場面はそこではないと思う。例えば、義務教育段階で「二次方程式の解法」を教えるべきだと考える立場は根強くある。しかし苫野氏は、逆の立場に立っている。しかも、それがあたかも「教育の本質論から導出」されるかのようにさえ読める。つまり具体的対立が生じているのは、義務教育段階での獲得保障は、「諸基礎知識」と「学びの方法」と「相互承認の感度」であるべきか否かではなく、「諸基礎知識」、「学びの方法」「相互承認の感度」を獲得させるための具体的な内容に関する場面でなのではないか。苫野氏の議論はそこが極めて抽象的であるにも関わらず、なぜか「二次方程式の解法」についてはホワイトヘッドの議論と「多くの人たちの実感」だけを頼りに断定している。


このことから苫野氏のいう「共通基礎教養」に関する危うさを指摘することもできる。苫野氏は上で引用したように、「共通」の意味を「すべての子どもに獲得を保障するべき基礎教養」と「どのような学業、職業に就いても一定程度必要とされる基礎教養」の2つの側面から述べていた。


この議論の第一の問題点は上で指摘したように、「共通基礎教養」の枠内に何を入れ、何を除くかという具体的事例の判断基準を何も提供していないという点である。率直に言って、苫野氏の「欲望論的アプローチ」だけで具体的対立を調停する判断基準を構築することは現状困難であると感じられた。


第二の問題点は、そもそも「どのような学業、職業に就いても一定程度必要とされる基礎教養」ということの射程の曖昧さにある。例えば、「二次方程式の解法」が「どのような学業、職業に就いても一定程度必要とされる」かどうかは疑問である。少なくとも、実際に「二次方程式」を解くことが職業的に要請されている人は稀だろう。しかし、その人が就いている職業の基盤をなす仕組みや知識、理解といったものが、「二次方程式の解法」に立脚しているということは起こりうる。普段意識していなくても、「二次方程式の解法」のような数学的背景を持っている場合である。何か問題が起きたとき、より前提に近いところまで戻ろうとしたら、そうした数学的背景にぶち当たるかもしれない。そういう観点では自然科学の内容の方が分かりやすい。原発事故が起きなければ、セシウムストロンチウムなどという元素や、それらの放射性崩壊およびその半減期などについて何も知らなくても生活できた人は決して少なくないと思う。しかし今回の3.11のような原発事故が起こった場合に、放射性元素の崩壊半減期といった基礎概念に全く触れたことがないということは、苫野氏流に言うと、その人の<自由>を狭める危険性があるかもしれない。あえて付け加えるなら、放射性元素の崩壊半減期には、簡単な微分方程式の解法という「二次方程式の解法」どころではなく高度な数学的背景があることも指摘できるだろう。これらは、苫野氏の言う共通基礎教養に含まれるだろうか。「諸基礎知識」に含まれるだろうか。それとも「学びの方法」があれば、「諸基礎知識」から外しておいても必要に応じて学べるだろうか。


つまり、「どのような学業、職業に就いても一定程度必要とされる」という意味が曖昧なのである。必ずしも起こるとは限らないが、起こってしまうことがありうる事態というものを考えると、直接的には職業上必要とされる教養ではないとしても、持っておかないとその人の<自由>を狭めてしまう基礎概念というものはあり得る。それはもちろんそうした事態が起きなければ、その人の日常生活を送る場面では全く必要とされないかもしれない。数学的思考力や自然科学的手法というようなものは、むしろそちらに近いのではないかという意見の方が根強いくらいかもしれないのである。


苫野氏の議論は竹山氏の引用している「欲望論的アプローチ」や「どのような教育を欲するのかという欲求のレベルに戻り、その欲求が普遍的に了解されるものであるかどうかを問い合いましょう」というようなレベルに留まっていない。苫野氏は、さらに先に進んで、「普遍的に了解」される教育の本質/正当性とは、「自由とその相互承認を実質化」に資するかどうかであると結論しているのである。またその点から、「共通基礎教養」の内容についてかなり踏み込んだ断定を行っている。しかしその議論はかなり抽象的で、必ずしも具体的対立を調停するだけのものにはなっていないと私は考える。

こうした観点から、私は苫野氏の上で引用した議論には違和感がある。竹山氏は、苫野氏の「欲望論的アプローチ」の部分のみを引用してコミットしているやに見えるが、今回の「大学生数学基本調査」において問題になっていることは、「欲望論的アプローチ」の部分よりもむしろ、苫野氏の提示している「教育論の本質」や上で引用した「共通基礎教養」の「諸基礎知識」や「学びの方法」に深く関わっているはずだ。私はそもそも今回の竹山氏の文章に苫野氏の文章を引用する必要はないと考える。それは、第一に引用することでかえって竹山氏の議論の趣旨がぼやけてしまっているように見えること、第二に苫野氏の議論には、「欲望論的アプローチ」以上に今回の調査に関連した重大視するべき議論が含まれているにも関わらず、その観点に触れない竹山氏の引用は、結果としてバランスを失してしまっていると考えるからである。

再び「欲望論的アプローチ」との関連について

竹山氏の「4.おわりに」の議論に戻る。この節の内容が唐突に映ることはすでに述べた。上の「補論」を参考にしつつ、竹山氏の記述の内容にもう少し踏み込んでみたい。

まず、そもそも「何とでも言える」「権力ゲームに強い者の言い分が通るだけ」というニヒリズムを「相対主義的な混乱」とか「相対主義的な批判の応酬が、ニヒリズムを社会に招いている」と要約しようとする姿勢に疑問を感じる。(これは、苫野氏が「理想・当為主義」や「相対主義」を批判し、「欲望論的アプローチ」を提唱していることに対する疑問でもある。)


確かに、相対主義は、絶対的に正しいことは存在しないと主張する点で、「何でもあり」だとか「考え方は人それぞれなんだから優劣はつけられない」という結論に向かいがちであるし、またそこから、結局強いものの言い分が通るだけというところへ堕する危険性を持っている。あるいは、自らの正当性を声高に言い募るだけに終始するという危険性もあるだろう。


しかし、それはあくまでも「相対主義」の一面に過ぎないと私は考える。「あらゆる局面で常に正しい絶対的な規範があるわけではない」ということは、例えば、個別の具体的な問題においていくつかの規範が優劣を競い合うことを否定していない。絶対的に正しい判断基準がないからこそ、個々の問題で、複数の規範に立脚する人々が、議論し対話することで、妥当な判断基準を探っていくこと、相対主義はその営みを決して否定しないし、むしろ個別の様々な局面において、複数の規範が自らを試すべく互いに議論するのが相対主義の健全なあり方なのだと私は考える。「相対主義」から何らかの意味の思考停止を導くことが誤っているのではなかろうか。だから、「相対主義」は「ニヒリズム」を肯定しているわけではないし、ニヒリズムを必然的に導くわけではない。


複数の規範に立脚する人々が議論し対話することで、妥当な判断基準を探ろうとする営みにおいて、「言葉を正確に使う意欲」「論理的コミュニケーションを実現する意欲」「自分の中に「正しさ」の根拠を作る意欲」は決して放棄されない。むしろ、そういう営みにおいてこそ、相手の言葉を理解し、自分の言葉を相手に伝える中で、対立する人々と「論理的コミュニケーション」を実現することが重要なのであり、それは同時に、自らの依って立つ立場の「正しさ」の根拠を言語化することが必要になるのである。相対主義は決して自分の中に「正しさ」の根拠を作る意欲を否定していない。むしろ、相対主義を採るからこそ、個別の具体的な局面において、相手の立場に対して自らの立場の妥当性を示す根拠を形作ることが必要なのではないか。


だから私は、「相対主義的な批判の応酬」が「言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲を殺してしまう。」と断定することに疑問を感じるのである。議論や対話と「批判の応酬」とを区別することは難しい。しかし、相対主義がそうした意欲を殺してしまうとするのは、むしろ相対主義批判に名を借りた「議論の放棄」を容認してしまっているとさえ見えるのである。


しかも、そうした「相対主義」の一面と、「数学を学ぶ意欲」とを結び付けようとすることには無理があると感じられる。この部分で竹山氏は、「本誌の読者であれば容易に想像がつくはずだ。」と、読者との間の共通理解を前提に論証を省略している。しかし、それには無理があるのではないか。

第一に、「数学を学ぶ意欲」と「言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲」とは、必ずしも同一のものではない。数学を学ぶ意欲を持った人が、言葉を正確に使いたいとか論理的にコミュニケーションしたいとか、自分の中に「正さ」の根拠を作りたいと考えているとは限らない。むしろ、「役に立つから数学を学ぶ」もあり得るし、そういう人の方が多いぐらいかもしれない。数学は事実として、様々なレベルで役に立っている。それを動機付けとして学ぶ意欲を持つこと、それは相対主義云々以前にお勧めできることであろうし、また事実そういう人もたくさんいるだろう。だから、仮に「言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲」が減退しても、「数学を学ぶ意欲」は減退しないかもしれない。相対主義的な混乱が「数学を学ぶ意欲」を殺しているという見方は一面的に過ぎると考える。


第二に、「言葉を正確に使う意欲」や「論理的コミュニケーションを実現する意欲」や「自分の中に「正しさ」の根拠を作る意欲」と「数学を学ぶ意欲」との間に直接的な関係があるとすることに疑問がある。「言葉を正確に使う」とか「論理的コミュニケーション」とか「自分の中に「正しさ」の根拠を作る」ということは、必ずしも数学に限った話ではない。むしろ数学はある意味でそれらの観点が極端化されくっきりと見えているという部分が強い。それをどの程度まで咀嚼して学習してもらうかという問題は、どのような観点から数学を学ぶかという点と関係しているはずで、すべての大学生が同じ程度の論理的厳密さを要求されるべきであると一概に言い切れるわけではない。


第三に、仮に「数学を学ぶ意欲」が減退しているとしても、そのことは直ちに「言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲」が減退しているということにもならない。枠組みが極端化することによって内容的に明確化されたり論理的厳密性が担保されたりするかもしれないが、具体的な問題関心からは離れるということが起こりうる。「言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲」をもっていても、必ずしもそれを「数学を学ぶ意欲」に結び付けようと思うわけではないだろう。


この三つのいずれの観点で見ても、「言葉を正確に使う意欲、論理的コミュニケーションを実現する意欲、そしてなによりも、自分のなかに「正しさ」の根拠を作る意欲」と「数学を学ぶ意欲」を並べて論じる部分に飛躍があるように感じられるのである。



今回で全5回にわった竹山氏の記事に関する記事は終わりである。

最後に、新井紀子氏の次のコメントを取り上げておこう。

「問題提起としての『大学生数学基本調査』」竹山美宏さんはぜひ読んで欲しい@数学文化18号。「ゆとり叩き」なんかじゃない、ってわかるから。分断されている時価的余裕なんてない。私たちは同じ船に乗ってる。

調査側の真意は率直に言ってなんともいえないし部外者からは窺い知れない。

しかし、竹山氏の記事を読んで、これによって今回の調査側の真意は「ゆとり叩き」ではないんですと得心できるか、といえばそういうわけではない。竹山氏の記事では確かに今まで説明されてこなかった点に言及があった。しかし、「ゆとり叩き」としか受け取られないような言葉遣いの問題について自己反省が述べられたわけではなく、なお一層数学あるいは数学教育を通じて育まれる論理性と社会のかかわりについて十分に記述していないことや十分に検討されたとは思えない断定が際立っているように思えてならない。

「分断されている」というのが何のことを意味しているのかも不明瞭だ。何によって何が分断されようとしているのだろう。今回の調査結果の分析で、強烈な言葉を選択して大学生の能力を論難した調査側は、むしろかえって数学者側と調査される大学生あるいは社会の側との溝を深めてしまった、あるいは数学者側の信頼性を損なってしまったのではないか。分断しているのは誰なのか、とあえて皮肉のひとつも言いたくなる。

「私たちは同じ船に乗ってる」というのも「私たち」とか「同じ船」といった言葉が何を指しているのかわからないし、「時間的余裕がない」という言葉もよくわからない。

結局のところ教育とは、個々の教育に携わる人々が前人格を賭けて自分の正しいと思う価値観にコミットし、その根拠を明示的に語るという以外に道はないのではないか、と私は思う。調査側に何らかの価値観がおおざっぱに共有されていることはわかるが、そのことの社会的意味/意義を語る言葉があまりにナイーブで説得力に欠けているのではないか、というのが私の総論的感想である。