日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その15)─新井紀子氏による日経ビジネス Associe」誌の記事について

思わず目を疑うような記事を見た。日経ビジネス Associe」誌2012年10月号に掲載された、新井紀子氏による「サバイバル力を試す数学問題」なる記事である。4ページにわたって日本数学会による大学生数学基本調査の問題のうち、問1-1,問1-2,問2-1,問3の4題を取り上げている。

あえて最初に公平を期して言えば、この記事単独で見れば、それなりに説明を尽くそうとしている部分も見受けられるし、報告書概要版や報告書抜粋、「世界」掲載の新井-尾崎論文などと比べれば、いくらかマシに見える部分もある。

しかし、逆に言えば、報告書概要版や報告書抜粋、「世界」掲載の新井-尾崎論文、あるいは前回まで取り上げていた「数学文化」掲載の竹山論文などと、記述の仕方があまりに違いすぎる。率直に言って、この「サバイバル力を試す数学問題」の書きぶりは、上であげた論文と同じ価値観を共有している人が書いているとは信じがたいような記述がある。このようなやりかたは、極めて不誠実だと言わざるを得ない。社会的な事柄との関連付けがあまりに安直な点は相変わらずだし、さらにいくつかの点では問題のある記述が新たに出現している。

最初に少しだけ注意しておきたいことがある。今回の記事の全文を新井氏自身が記述したかどうかはわからないし、おそらく書きぶりを見る限り、そうではないのだろう。新井氏はたとえば談話としてコメントを述べ、編集部はそれを適宜編集するという形で行われている可能性が高いように見える。しかし、それは、新井氏を経歴+写真入りで紹介する形で記事が構成されている以上、この記事の内容に関する文責は、第一義には新井氏にあると私は思う。もし内容的に問題がある、あるいは自分の考え方と合致しない、あるいは日本数学会の考え方と合致しないのなら、原稿段階で変更を加えることも可能であったはずだという点からもそうである。

以下、いくつかの項目を取り上げて具体的に指摘したいと思う。

「偶数と奇数の和が常に奇数となること」(問2-1)に関する記述(1)─「珍答」と「例え話」─

記事で、「問題3では、「偶数と奇数を足したら必ず奇数になる」と答えるところで間違う人はまずいない。難しいのは、その理由の説明だ。」と述べた上で、次のように続ける。

大学生の間では「三角と四角を足しても四角にならない」といった珍答が続出した。こういう誰が読んでも「ピント外れ」な説明の共通点は「例え話でごまかすこと」(新井さん)。ここでは奇数とは何かを明確に示したい。

よく思い出して欲しい。報告書概要版には、「重篤な誤答=論理的コミュニケーションの前提が崩壊している答案」の具体例として次のように書かれていた。

重篤な誤答には、1.いくつかの例を示すことで論証したと考えるタイプ、2.奇数や偶数の定義が間違っているタイプ、3.トートロジーを繰り返す、4.あいまいな言説への逃避や無関係な事柄からの類推、などがある。以下が実際の答案の例。
「2+1=3、4+1=5だから」(タイプ1)
「思いつく奇数と偶数を足してみたらすべて奇数になったから」(タイプ1)
「偶数を2x、奇数を1とおくと、その和は2x+1」(タイプ2)
「割り切れないから」(タイプ3)
「奇数は奇数をたさないと偶数にはならないから。」(タイプ3)
「偶数は2で割り切れて、奇数は2で割ると1余るということから」(タイプ3)
「どんなに数が大きくなろうとも、1の位は同じ循環をし続けるから」(タイプ4)
「偶数をたすことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから」(タイプ3,4)
「三角と三角を足したら四角になるのと同じで、四角と三角では四角にならないから」(タイプ4)

報告書抜粋には、「深刻な誤答」として、次のような説明があった。

[C-2](具体例を示して証明終了としている答案)
「定義に基づく演繹的な議論により現象を説明できることが数学の良さであるとの観点から、この群の答案も深刻な誤答とした。なお、具体例の個数が極度に少ない答案はC-5群に含めた。」
[C-5](論理的に説明するための前提に立っていない答案)
「極度に説明不足の答案や、論理的に大きな誤りがある答案など。時間切れで中途半端になった答案を含む。」
例1:1+2=3だから。
例2:偶数と奇数が「偶数、奇数、偶数、奇数、偶数、奇数、・・・」と交互に並んでいるから。
例3:偶数を奇数にするためには偶数を足しても駄目だが、奇数を足せばよい
例4:偶数同士を足すか奇数同士を足さない限り、整数の和は偶数にはならない。したがって、偶数と奇数の和は奇数である。
例5:学校で習ったのだから「偶数+奇数=奇数」が間違っているはずがない。

あるいは、「典型的な誤答」として次のような説明があった。

[C-1]隣り合う偶数と奇数に対してのみ証明している答案
[C-3]C-1,C-2,C-4群以外で、論理的には大きな誤りがない答案
例1:偶数(ないしは奇数)を2個以上足す場合を考察している。(問題文を誤読している答案)
例2:正答例の冒頭や末尾の「整数」部分が「実数」となっている。(数学用語を誤用している答案)
例3:正当例の冒頭の「整数m,nを用いて」に対応する部分がない。
[C-4]論理的な誤りはないが何を証明すべきかが理解できていない答案や、厳密な証明ではなく大雑把な説明になっている答案
以下に答案の例を具体的に示す。
例1:「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
例2:「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
例3:「偶数と奇数は、『偶数、奇数、偶数、奇数、偶数、奇数、・・・』と交互に並んでいる。したがって、奇数を偶数の分だけずらしても奇数のままである。」

ここで取り上げられている例には様々なものがある。しかし、「三角と三角を足したら四角になるのと同じで、四角と三角では四角にならないから」という答案例以外に、「例え話」などと呼べる答案例がどこにあるというのだろうか?「学校で習ったのだから「偶数+奇数=奇数」が間違っているはずがない。」は、単なる文献提示に過ぎないが、「例え話」ではない。「どんなに数が大きくなろうとも、1の位は同じ循環をし続けるから」は、適切な説明ではないのは明らかだが、偶奇性が1の位で判定できるということを使おうとしているように見える。これを「例え話」というのは言いすぎだと思う。はっきり言って、ここで取り上げられている他の例のどれをとっても「例え話」ではないことは明白だ。新井氏の記述は、概要版や抜粋で取り上げられた答案例とは乖離していて根拠不明だ。

そして、そもそも「三角と三角を足したら四角になるのと同じで、四角と三角では四角にならないから」という答案例を書いた人が一体どれだけいたのだろう?以前にも書いたが、この答案例は、本問の答案として適切ではない「例え話」だろうが、かなりユニークな説明のように見える。まさかこういう答案を書いた人が一人だけなどということはよもやないと思うが、このような特異的であるとしか思えない例を使って「珍答が続出」などと断定することに疑問を感じる。

「偶数と奇数の和が常に奇数となること」(問2-1)に関する記述(2)─具体例をあげること─

記事はさらに続けて次のように述べている。

説明に困った時には、具体例を手がかりにするといい。「2+1=3、4+1=5だから、偶数と奇数を足せば奇数になる」と考えるのは、筋としては悪くない。ただ、具体例をいくつ並べても、一般的な証明にはならない。例えば、健康食品のセールスで「これを食べたら、Aさんも痩せたし、BさんもCさんも痩せた。だからあなたも痩せますよ」と言われても、確実に痩せる保証にはならない。都合のいい事例だけを並べているのではないか、との疑いが残る。
万人を納得させるには、具体例を一般論に変換する必要がある。この問題は、偶数を「2x」、奇数を「2y+1」など、文字や記号で表現するのがポイントだ。

記事の中の図解には、
Level1全然ダメ「例え話でごまかす」
の次に、

Level2ここからスタート!「具体例だけを示す」
「思いつく偶数と奇数を足してみたらすべて奇数になったから」
「2+1=3,4+1=5だから」
「偶数とは何か」「奇数とは何か」を「具体例」で捉えている点で、一歩前進。「具体例」を「イtパン論」に落とし込めれば、正解にたどり着く。

という説明がある。さらにその下にも説明で

白紙は別として、誤答の中で、最も正答に遠いのは、曖昧な例え話でごまかしてしまうケース。実際に偶数と奇数を足して、奇数になることを確認した人は、それよりも一段、レベルが上。

と書いている。そもそもこの問題を扱っている節のタイトルは「具体例を手がかりに・・・」だ。問題3のポイントとしてでかでかと

「具体例」だけでは根拠が弱い

と書かれている。これはかなり常識的な書きぶりになっている。(セールスの話はあとでコメントする。)

しかし、よく思い出して欲しい。報告書概要版で、具体例のみで論証終了とした答案を、「重篤な誤答」と評価し、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」と判断していたのではなかったのか。あるいは、報告書抜粋や新井-尾崎論文では、「論理的に説明するための前提に立っていない」と判断し、「深刻な誤答」としていたのではなかったのか。「一歩前進」とか「筋としては悪くない」とか「一段、レベルが上」とか「根拠が弱い」とか「具体例をてがかりに」といった記述と、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」という評価とが、同じ内容の答案に対する評価として整合的であるなどとは到底思えない。この落差には率直に言って呆れてしまう。

どうしてこういう明らかに異なった記述が出来るのか、私は理解に苦しむ。
日経ビジネスの読者層を考えて表現を弱めたのか、はたまた、大学生に求める「論理的コミュニケーションの前提」と日経ビジネスの主要な読者層である「社会人」に求める「論理的コミュニケーションの前提」に違いがあると考えているのか。いずれにしても、そうした理由を明示しないまま、媒体によって評価の質的な内容が全く違う趣になるような記述をする態度は不誠実だと私は考える。

思い出してみると、日本数学会のシンポジウムの中で、問1-1の平均の問題に関して、有効数字の取り扱いについて説明した大学教員に対し、統計的には問題が無いという答えと同時に、この問題は大学新入生を対象としたもので大学で統計学を教えている教員を対象としたものではないという発言をしていた。問1-1は、「確実に正しいと言えること」を選ばせる問題であった。対象が誰であるかによって「確実に正しいと言える」ことが変わってもよいとするのなら、もはやそれは「数学」ですらなくなってしまっていると思う。誰が対象となっているかによって、説明の丁寧さや内容的な深みや強調する側面が変化することはあってよいと思う。しかし、「確実に正しいと言えること」が変化したり、「論理的コミュニケーションの前提」を満たしているか否かに対する評価が変化してしまうことは、やはりあってはならないことだと思う。

「偶数と奇数の和が常に奇数となること」(問2-1)に関する記述(3)─その他─

記事の中の図解に

Level3惜しい!「一般化の詰めが甘い」
「偶数を2x、奇数を2x+1とすると、その和は4x+1だから」
とても惜しい回答。一般化に挑戦しているが、「2x」と「2x+1」では、「2と3」「4と5」など、連続する2つの数しか表現できず、例えば「2と5を足した時に奇数になる」ことは証明できない。

という説明がついている。上でも書いたが、Level2の「具体例だけを示す」の説明に

「偶数とは何か」「奇数とは何か」を「具体例」でとらえている

という一節があった。

これは竹山氏の論文について検討した際にも指摘したが、「偶数を2x、奇数を2x+1とおく」から始まるという答案は、形式的には文字式を使っていても、内容的には「連続する2整数」という「具体的」な場合しか証明できていない。それは確かに無限個の偶数と奇数の組について照明を与えているが、やはり「すべて」を証明したとは言えない。それを「とても惜しい」と形容することに私は疑問を抱く。
「偶数を2x、奇数を2x+1とおく」から始まる答案と同様に「典型的な誤答」とされた「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」という答案例は、文字式こそ使っていないが、「例え話」でもないし、「具体例」でしか論証できないないわけでもない*1。一般の偶数と奇数の組について証明しているのである。
やはり「典型的な誤答」とされた「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」や
重篤な誤答=深刻な誤答」とされた「偶数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから。」についても同じことが言える。
出題側は、文字式を使えることを相当程度重要視して、「とても惜しい」と言っているのだろうが、一般的な/抽象的な/高度な道具を使ってみるという姿勢があっても、肝心の答案の内容に問題があるのでは意味がない。道具に振り回されて肝心の証明の内容が不十分であるこのような答案を「とても惜しい」と評価することに私は反対である。

「奇数とは何かを明確に示したい」とか、「「偶数とは何か」「奇数とは何か」を「具体例」でとらえている」という表現にも問題がある。この問題で問われていることの中には、(馬鹿馬鹿しいことだけれど)偶数と奇数の定義は確かに含まれている。しかし、「偶数と奇数の和は常に奇数」ということを示す問題で、「具体例」をあげた人が、「偶数は2の倍数」「奇数は2の倍数に1を足したもの」という定義を理解していないと断定するのは無理があるし、「偶数」「奇数」というもの、「-2,0,2,4,6」とか「-1,1,3,5,7」のように具体例だけでしか理解していないかどうかはわからない。はっきり言って「当たり前」すぎるのでよく聞いてみればちゃんと定義を言える人は決して少なくないと思う。もちろんそうではない人もいるだろうけれど。答案だけを見て、回答者の能力や理解のレベルをあまり断定的に述べるべきではないと思う。しかも、本問では、「偶数を2x,奇数を2x+1とおいて」とやってしまった人は、「奇数とは何か」「偶数とは何か」ということははっきりわかっている。問題はその先の部分にあって、「任意の偶数と奇数の組」をどう表現するかという部分にあるわけだから、何か「定義」が明確にできれば、本問で文字式を用いた説明が書けるというわけではないということが、「偶数を2x、奇数を2x+1とおく」と始まる答案例に表れている。記事では、「偶数とは何か」「奇数とは何か」を明確にするという点に焦点が合わせられすぎているように見えた。

問題文にある「理由を説明せよ」という書き方に関連して、問3を「ロジカルな説明力を試す」とタイトル付けしたり「難しいのは、その理由の説明だ」は問題文にそった記述だが、図解の中では、「難しいのは、その証明だ」という表現があったり、「一般的な証明にはならない」という記述があるように、「説明」と「証明」が混在しているのは相変わらずである。こういう用語法に意図があったとはいえ、適切ではないと思う。

社会的有用性の観点(1)─「具体例」を挙げることとセールスの例について─

上で出てきた健康食品のセールスと具体例の関係について、もう一度本文を抜き出しておこう。

ただ、具体例をいくつ並べても、一般的な証明にはならない。例えば、健康食品のセールスで「これを食べたら、Aさんも痩せたし、BさんもCさんも痩せた。だからあなたも痩せますよ」と言われても、確実に痩せる保証にはならない。都合のいい事例だけを並べているのではないか、との疑いが残る。
万人を納得させるには、具体例を一般論に変換する必要がある

この例は、社会的な観点で「具体例」と「一般論」の難しさを実は端的に示しているのではないだろうか。
もしこの健康食品が「確実に痩せる保証」を「一般論」で証明しようとしたらどうすればいいだろうかと考えてみよう。無論「どんな人でも痩せる」ことを証明すればよい。
そのためのひとつの方法は、この食品が痩せるという効果をもたらす機序を解明することかもしれない。それは人間に共通した系を使って説明できたとすると、かなり「一般論」的な証明であろうが、現実にはなかなか難しい。そもそも医療用の薬剤でさえ、必ずしも効果をもたらす「機序」が解明されているとは言えないものが多くある。また、機序が変わっても、体質のような個人差の壁はある。文字通りの意味での「すべての人」が痩せられるということを証明できるわけではない。
だとすれば、痩せた人を3人ではなく、例えば1万人持ってくればよいだろうか?これはかなり数が多いという意味で、3人の例よりもずっと説得力があるように見える。だが一般論ではない。具体例に過ぎない。
あるいはもう少し自然科学的な立場から言うと、対照群を設定しなければいけない、ということになるだろう。その健康食品を摂取するという点だけを変え、他の生活習慣や食事の内容などはなるべく統一した2つの集団を用意して、実際に痩せるかどうかを比較するというわけだ。これで有意な差が出れば、かなり説得力があるかもしれない。しかし、これさえも「全ての人」が「確実に痩せられることを保証」できるわけではない、という意味で「具体例」による説得ということになる。

文字式を使ってすべての偶数と奇数の組について論証できるということは、確かに数学という営みにおいては重要なテーマであるが、しかし、そのことと社会的な問題における説得の方法との間には、一筋縄ではいかない乖離があることが、この例でも容易に理解できるのではないだろうか。この健康食品のセールスの例も、「数学における論証」と「社会における説得」とが直接的に結びつくことをイメージさせようという意図のもとに選ばれているのだろうけれど、この例ですらそういうことを示すには無理がありすぎると思う。

平均についての問題(問1-1)に関する記述

1つのデータの裏に複数の可能性がある

という見出しで、平均に関する正誤判定問題である問1-1が取り上げられている。身長の分布が正規分布であるとは限らないことを図解で説明している。そのこと自体に問題があるわけではない。
しかし、社会性との関連という点で言うのなら、もう少し具体的な事例を引きながら述べるべきなのではなかろうか。
100人の中学生の身長のデータをとったとき、平均値の生徒がほとんどいないような2こぶの分布を示したり、ある一人の生徒だけ身長が2倍もあるかのような分布だけを載せるというのもいかがなものかと思う。
たしかに極端な事例で考えてみることは大切だ。それによって物事の見通しが立つことはありえるだろう。
しかしもう少し現実的にも起こりうることを述べて欲しい。
例えば、政府統計の窓口から平均身長のデータが取れる。
14歳男子165.58cm、14歳女子156.78cm
15歳男子168.34cm 15歳女子157.03cm
このデータから中学三年生の年齢では、すでに男女に10cm近く平均身長の差が出来ていることがわかる。
仮に男子だけでみたら正規分布、女子だけで見たら正規分布という状況でも、同数の男女を合わせてみるだけでも、2つのこぶができて、平均値=最頻値ではなくなる。
また、やや男子の方が多いクラスを想定すれば、平均値=中央値も成り立たなくなる。
正規分布でなくなるという事情が、かなり極端な状況でしか起こりえないのことではなく、むしろ現実的な状況で容易におきること、平均身長のような一見正規分布しそうな統計でも容易に起こりうること、
そこまで強調してこそ、ビジネス誌に載せる文章になるのではないか。

「1つのデータの背後に複数の可能性がある」ことを見破れるかが鍵だ

などという抽象的なことを言うのもいいが、それだけではなく生身のデータを持ってきて論じるべきだろう。

平均に関する問題についてはこのぐらいで十分かと思っていたら、よくよく見るとどうもおかしな記述が他にもあった。選択肢(2)に関する記述が囲み記事の形で書かれている。

操作手順を逆算できる?
(2)は「思考のプロセスを逆行できるか」を試す問題。「生徒100人の身長の平均が163.5cm」というデータは「生徒100人の身長の合計÷100=163.5」という計算から導かれる。とすれば、「生徒100人の身長の合計=163.5×100」という関係が成り立つはず。自分の思考プロセスに誤りがないかをチェックする「見直し」に不可欠の考え方だ。

単に、x/100=163.5という一次方程式を解くだけなのに、「思考のプロセスを逆行できるか」などというのはいかにも大げさだと思う。そもそもこれは何を逆にしたというのだろう?
「100人の身長の合計は16350cmでした。平均は何cmですか?」という問題を解いて答を出したとき、その答えを100倍してもとの16350になるかどうか確認するというのは、割り算よりも掛け算の方が間違えにくいかもしれないという点で有効かもしれないが、
それは何かを「逆」にしたものだろうか。どこで「思考のプロセスが逆行」しているのだろう?
この文章の言い方では、x/a=bという一次方程式を解くことは、何らかの思考のプロセスを逆行できるかどうかを見ることができる問題だということになってしまうのだろうか?
率直に言って、言葉が踊っているだけで意味するところが不明だ。

より問題なのはむしろ後半である。
「自分の思考プロセスに誤りがないかをチェックする「見直し」に不可欠の考え方だ。」という文章では、一体どのような考え方が、「自分の思考プロセスに誤りがないかをチェックする「見直し」に不可欠」だと主張しているのだろうか?
具体例をばっさり切り落とせば、「思考のプロセスを逆行できること」と読むしかない。
ある仮定から出発して、ステップ1、ステップ2、ステップ3と議論を積み重ねて結論を得たとしよう。自分の思考プロセスに誤りがないかどうか確認したければ、ステップ1で誤りがないか、ステップ2で誤りがないか、ステップ3で誤りがないか、と順番に見直していくというのはごく自然なことだと思う。さてそのような場合、どこで「思考のプロセスを逆行」させたのだろうか。「不可欠」というからには、「自分の思考プロセスに誤りがないかをチェックする」ときにはほとんどいつも使うということなのだろう。しかし、どう贔屓目に見ても、この具体例はせいぜい割り算の検算程度の意味しか持ち合わせておらず、とても一般的に何かを主張できるようなものになっていない。
やはりこれも言葉だけが踊っていて、意味するところが不明瞭なままだ。

社会的有用性の観点(2)─命題論理と詐欺、契約書、社会学など─

命題論理を扱っている問1-2は

条件文には落とし穴がある

というリード文を用いて紹介されている。ここでは、「逆・裏・対偶」という命題論理で使う概念を、例と問1-2に即しながら説明している。その説明は比較的丁寧に行われているように思う。
しかし社会とのかかわりに関する記述には問題があると思う。3つの文章を取り上げる。

ビジネスに頻出する「逆・裏・対偶」で検証しよう。

条件文の読み替えは意外に間違いやすく、詐欺にもよく使われる。高校数学で習う「逆・裏・対偶」で整理すると分かりやすいが、試験ではあまり出題されないので、忘れている人が多い。ただ、契約書をはじめ、ビジネス文書では頻出で、社会学系の骨太な本を読む解く時にも不可欠。左の「巨人軍の選手とプロ野球選手」のような分かりやすい事例で覚えておけば、思い出しやすい。

「条件文の読み替えは、古代から人間が最も間違えやすいロジックとして知られ、詐欺にも良く使われる『逆・裏・対偶』は、いわばサバイバルのための概念だ」と新井さんは話す。条件文はビジネスでも契約書をはじめ頻出なので、覚えておく価値は高い。

例がない。この部分で取り上げられているのは、「巨人軍の選手であるならば、その人はプロ野球選手である」という命題の「逆・裏・対偶」と今回の調査問題の問1-2だけである。この2つの命題は、確かに条件文とその読み替えかもしれない。しかし、詐欺、ビジネス、契約にはおそらく関係ない。はっきり言って同じことを三回も書くくらいなら、一体どういう条件文が詐欺で使われているのか、そしてそれに「逆・裏・対偶」という概念がどう有効なのか、あるいはビジネスや契約書で使われている条件文とは具体的にどのようなもので、それに「逆・裏・対偶」という概念がどう有効なのか、ひとつでもふたつでも例を書いて欲しいものだ。こんな文章からでは、本当に条件文の読み替えが詐欺でよく使われているのかとか、ビジネス文書や契約書で使われているのかとか、そういったことを全く諒解できない。

詐欺といってもいろいろある。オレオレ詐欺のような声色を用いた手法もあれば、あとで返すといって返さない寸借詐欺のようなものもある。いかさまや食い逃げだって詐欺だ。そういう種類の詐欺には、条件文の読み替えも何もない。
いったい詐欺でも良く使われる手口としての「条件文の読み替え」とはどのようなものなのか全くわからない。

そもそものところ、「条件文」とは何か。その定義がはっきりしない。一体どのような条件文が「ビジネス」「契約書」に頻出なのか全くわからないし、「社会学系の骨太な本を読む解く時」に不可欠なのかまるでわからない。ましてや、「逆・裏・対偶」がどう有効なのかもはっきりしない。

「『逆・裏・対偶』は、いわばサバイバルのための概念だ」というのも理解に苦しむ。「逆・裏・対偶」が理解できてないと本当に生きていくことができないのだろうか?「サバイバル」って一体どういうレベルで使っているのかまったく理解できない。残念ながら詐欺にひっかかってしまう人がいる。しかし、それは「逆・裏・対偶」を理解していないからなのか。日々契約書の作成を行っている人、あるいは社会学徒は、本当に「逆・裏・対偶」がわかっているのだろうか。あるいはわかっていないと仕事ができないのだろうか。

既に何回も指摘してきたことだが、現実の社会的な場面では、具体的な例を十分に掲げることが、相手を説得するための有効な方法の大きな柱になっている。新井氏はそのことにもっと注意を向けるべきだ。「偶数と奇数の和が常に奇数であることの理由説明」で例示だけにとどめた答案を「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」などと断定する前に、もっと適切な例を使って自分の抽象的な主張を裏付けようとする努力を試みるべきだ。そういう基本的な手法が身についていないのではないかと疑わせるような文章を書くべきではない。

作図の問題(問3)について

作図の問題は「オマケの難問」として扱われているが、そのリード文は

「新しい基準」を導入できるか?

である。与えられた線分上にはない点をひとつとることを「新しい基準」を導入することと言っているようである。
この問題について、

クリエイティブな発想力を試す
ある種のクリエイティビティーが問われる。
「新しい基準を導入する発想が必要なので、難しい」
(新井さん)

というコメントがついている。

まず第一に、実施側の一人である竹山美宏氏が、「数学文化」の記事の中で、次のように述べていることを忘れるべきではない。

この問題は数学的な発想力を試すものではない。なぜなら、相似を利用して線分を三等分するというテーマは、ほとんどすべての中学校の教科書に例題として掲載されているからだ。

これは一体どういうことだろうか。この2つの記述に整合性があるとは到底思えない。もちろん竹山氏は自身の記事の内容をあくまで私見であって日本数学会の見解ではないと述べている。しかし、新井氏も竹山氏も実際に調査を実施した側なのである。かたや一方が、全ての教科書に取り上げられているのだから「数学的な発想力を試すものではない」といい、もう片方が「新しい基準を導入する発想が必要なので、難しい」という。

新井氏自身の記述に戻ってみると、新井-尾崎論文の中には、次のような記述があった。

問題は、小学校から高校一年の教科書に掲載されるもっとも基礎的・基本的内容のうち、数学固有の知識や計算力をなるべく問わないものから選んだ。

本調査の内容は先に例を挙げたように、どの子も等しくできなければ、それ以降の学びが困難になる等、彼ら自身が困ることがらばかりである。小中学校でつまずいたなら、それを修正する機会が十分に与えられるべき内容なのである。その正答率が入学しうる大学の偏差値に直結し、しかも全体の正答率が低いレベルに留まったということは、初等・中等教育の設計に何らかの欠陥があるといわざるを得ない。

アソシエの記事の中には、

「オマケの難問」は、ほとんどの中学校の教科書にある基本的な作図問題。

という記述もある。
「もっとも基礎的・基本的内容」なのに「発想が必要なので、難しい」のか。「どの子も等しく出来なければ、それ以降の学びが困難になる等、彼ら自身が困る事柄」であるにもかかわらず、「発想が必要なので、難しい」のか。「基本的な作図問題」なのに、「発想が必要なので、難しい」のか。

これらの記述には整合性がない。「難しくないですが、難しいです」と言っているようにしか見えない。こういう整合性が崩壊したような記述は、媒体が異なるからとか、実施側の個人が異なるからといった理由で正当化できるものではないと思う。その問題を十分に時間をかけて検討したのかとか、出題側がその問題をどう見るかという点についてコンセンサスを取る努力が行われているのか、といった点にさえ、もはや疑義を抱かざるを得ないのである。

全体的な問題点について

全体に関わる問題点についていくつか指摘したいと思う。

まず今回の記事で取り上げられている4つの問題全体に関するコメントとして

問題作成に関わった国立情報学研究所新井紀子さんによれば、「数学を解答例の暗記でごまかしてきた人は正解できないように作ってあるので、意外に手強い」。

という記述がある点だ。
3つ問題があると思う。

第一の問題点は、「数学を解答例の暗記でごまかしてきた」という言い方が曖昧過ぎる点である。一体どういう人が「解答例の暗記でごまかしてきた」というのだろう。本当に「解答例」しか「暗記」していないのだとしたら、全く同じ問題が出ないと解けないことになる。しかし、どんな受験生でもそんなに馬鹿ではないはずだ。いろいろな問題にあたってみて、理屈は良く分からないけどこういう手法もあるんだなという経験を積み上げて、なんとか目の前の目新しい問題に取り組み合格してきた人の方が多いと思う。「解答例の暗記」というのは単なるステレオタイプであって、「数学の苦手な人」について論評する常套句のようになっているが、実態はそういう簡単に割り切れるような話ではない。物事を単純化して見すぎているのではないか。

第二の問題点は、仮に「解答例の暗記でごまかしてきた人」がいたとして、その人はこういう問題が解けないのかどうかは論証されていないということだ。今回の大学生数学基本調査では、どのようなタイプの数学の試験を受けてきたかについては一定のデータを取った。しかし、そもそも数学の試験を受けずに大学に入った人が、「解答例の暗記でごまかしてきた」かどうかはわからない。それはマークシート式試験だけで入ってきた人も同様だ。試験の方式だけで、「数学」の理解の仕方を把握できるわけではない。検証できないことをあたかも真実であるかのように語る記述には問題がある。それは単なる新井氏の独断に過ぎない。

第三の問題点は、上の新井氏の発言を、「数学を解答例の暗記でごまかす⇒正解できない」という「条件文」として読むと、その対偶、「正解できた⇒数学を解答例の暗記でごまかしていない」ということになる。本当にそうなのか私は大いに疑問だ。高校生の数学においては、理屈は厳密には正当化できないが、とりあえずこうやれば解けるというふうにしか教えようが無い部分は少なからずあるし、逆に言うと数学の理解の仕方の決定版があるわけでもないから、ある程度経験知で乗り切らなければならない側面もある。今回の調査の問題が出来た人が、そういう「数学」のやり方をしていない人だけだというのはやはり無理がありすぎると思う。そもそも、新井氏は、「問題は、小学校から高校一年の教科書に掲載されるもっとも基礎的・基本的内容」とか「どの子も等しくできなければ、それ以降の学びが困難になる」といっているのである。それらの出来だけで、もう少し高度な内容が問われている高校数学全般の理解の仕方について評価できるというのは言いすぎだ。

今回の日経ビジネスAssocie誌の記事では、

  • 社会との繋がりに関する部分で根本的に事例が不足しすぎている。
  • 問題内容の評価の点で、他の媒体との整合性が破綻している。
  • 抽象的な内容の言葉が踊っているばかりで、その具体的意味内容が不明確な部分が散見される。また言葉の選び方に一貫性が乏しい部分がある。
  • 新井氏独自の見解、あるいは独断とおも思える断定的記述がある。
  • そもそも「主観と客観の区別」という重要な論点であったはずの「放物線の重要な特徴」を述べる問題が割愛されている。

などの問題点があると思う。

また、日本数学会とその中の教育委員会なる組織が実施した調査の結果について、例えば、日本数学会教育委員会からの報告(pdf)の項目8
「最終結果については,報道発表,シンポジウム,一般書籍などでの情報発信を予定.」
とあることは以前にも紹介したが、ここで言う一般書籍が「日経ビジネスAssocie」を含むのだとしたら、ここに述べられている見解は、やはり新井氏個人のものなのか、それとも日本数学会としての見解なのかが不明確になる。
私には、もはや今回の記事では新井氏独自の見解が相当程度ミックスされてしまって、教育委員会の中や日本数学会の中で個々で述べられているような評価がどれだけコンセンサスを得られているのか多いに疑問であるし、それはあえて悪く言うと新井氏による調査結果の「私物化」とさえ言えなくもない。

*1:強いて言えば「=」をどういう意味で使っているかが曖昧なのだが、それがダメだという指摘はまだどこにも書かれていない。