京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その1)

1.はじめに─私の感じた反対側への違和感(1)─

京都大学において、いわゆる「全学共通科目」と呼ばれている教養・共通教育の見直しのために、新しい組織として構想されている「国際高等教育院」がある。この「国際高等教育院」構想についての賛否両論が交錯しているという話を聞き、youtubeなどで配信されている反対側の教員の演説や「京都大学の自由の学風のために」と題された総人・人環有志による反対派のウェブに掲載されている反対意見を見てみた。

確かに、この構想そのものには問題点もいろいろあるのであろうことは理解できる。しかし、今回のこの構想に対する反対意見は、「国際高等教育院」構想の目的のひとつである『「全学共通科目」という教養・共通教育の再編と一元的企画・管理』というテーマに関して驚くほどわずかなことしか述べられておらず、しかもそれは、改善が進行しており、問題の大半は解決へ向かっているなどというようなおおよそ具体的な取り組みの不明確な断言に終始しているように見えた。さらに言えば、反対している側の議論は、主としてこれまでの経緯や手続きに瑕疵があること、総長のトップダウンで議論が進むことへの警戒感、人事権に代表される「学部の自治」を奪われるといったことへの反発のみが語られ、それを「自由の学風」とか「京大教養教育の伝統」とか「学部の自治を守れ」といった、驚くほど前時代的な表現でしか語れていないと感じられた。私はそのことに強い違和感を持った。

私はこの「国際高等教育院」構想そのものについて、この文章の中で賛否を表明するつもりはない。推進側も反対側もその議論の中に種々のまずさを抱えていると感じる。しかし、ここでは、反対側が主要な論点であると考えているであろう「これまでの経緯や手続きに瑕疵があること」、「総長のトップダウンで議論が進むことへの警戒感」、「人事権に代表される『学部の自治』を奪われることへの反発」といった点について検討するつもりはない。というのも、私には、京都大学内部でどんな議論が積み重ねられてきたかとか、総長がどのような目論見でこの構想を始め、そしてそれがどう変質していったかなどについて全くうかがい知ることが出来ないし、そうである以上、それらのことを検証することは不可能だからだ。

むしろ私は、いわゆる9月12日付け総長メールに添付された参考資料1から参考資料4までの内容を検討し、具体的にどのような問題意識が提示され、改善策としてどのような提案がなされているのかについて把握しようと努めた。その内容が構想そのものや構想に反対する議論との間でかみ合ったものになっているのかを知りたかったからである。私がこの文章で行いたいことは、主として反対側の議論を批判的に検討することを念頭に、

(i) いわゆる「9/12付総長メール」に添付されていた参考資料のうち、特に1から4を検討し、その中身を把握すること。
(ii) 参考資料に対する反対側のコメントについて検討すること。また、「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」と題された文章を検討すること。
(iii) 「国際高等教育院」構想に関するいくつかの期待といくつかの危惧を述べること。

の3点である。これは、「国際高等教育院」構想そのものについて考えることにも役立つであろうが、むしろ広く「教養教育」とはどうあるべきなのかを議論する手がかりになると思うからである。

2.議論の概要─私の感じた反対側への違和感(2)─

9月12日付総長メールに添付されている7つの参考資料は、その全文を見ることが出来る。私が検討しようとしている参考資料1〜4は全学共通科目あるいは教養・共通教育についての意見を整理し報告する検討会の報告資料である。それぞれの検討会の位置づけは様々あるようだが、各参考資料の中身の詳細な検討は次回以降に譲るとして、今回は、これらの報告の中身を大雑把に要約しつつ、私の持った違和感の中身をもう少し具体的に示しておきたい。

 まず参考資料1から参考資料4までを通じて私が持った印象の第一は、参考資料の報告書を作成した委員会のメンバーの間では、「教養・共通教育における学生の履修状況・習得状況に対する危機意識が共有されている」ということである。
 その危機意識には様々なレベルのものがあるが、例えば次のように要約することができるのではないかと思う。

《問題意識》

 高等学校での履修状況の多様化や教育内容の削減によって、大学入学時に学生が習得している内容やその幅が減少している。理系学生の人文的教養や文系学生の自然科学的教養について大学入学段階での習得状況があまり期待できない実態がある。そうした背景から,次のような状況が起きている。

(ア)ある学問分野について、多様な科目群の中から見通しを持った履修計画が立てにくくなり、主体性や目的意識を欠いたまま試験の難易度と単位習得の容易性だけに着目していわゆる「楽勝科目」に履修者が集中するような状況が起きている。

(イ)将来各学部で専門分野を修めるために必要な基礎的内容を低学年時から履修させる必要性が増大し、必修の専門基礎科目の履修時間が増加したために、教養科目に当てられる時間の自由度が減少し、教養科目の履修状況が体系性を失う傾向に拍車をかけている。

 また語学学習とくに教養科目の英語科目については、京都大学の英語教育の目標が「学術研究に資する英語」であるのは妥当だが、その一方で、社会を取り巻く人文的・自然科学的問題について「英語で議論できること」といった「実践的英語運用能力」を高めるべきだとの社会的要請が高まっている。そうした観点からは

(ウ)具体的な科目の内容が各担当教員の裁量にゆだねられており、しかもクラス指定で学生の側に内容に応じた選択の自由度が少なく、しかも、1講義で1,2ページ程度ずつ進めるような「熟読型」の教材が選ばれがちである。また、到達目標や成績評価の基準に統一性がない。

という問題点が指摘されている。

《改善案》

 こうした危機意識に対して、参考資料1から参考資料4の中では、次のようないくつかの改善の方向性が示されていると感じた。それは非常に荒っぽく言うと、学士課程修了者の習得内容についての「出口管理」をある程度正確に行いたいということだと思う。

(一)科目群・テーマの設定。
 これはおそらく多岐にわたっているA群科目を整理し、一定のテーマごとに再編成して履修科目を体系化するために導入するべきひとつの方法として構想されているようである。「人文・社会科学系科目群」とし、「真・善・美と人間形成」 「歴史と文化」 「文学と言葉」「人間の行動と社会」 「法と政治」 「経済と社会」のようなテーマの設定が例示されている。それに伴い一部の科目を「現代社会適応科目群」や「拡大科目群」に移してそれらの中でも一定のグループ化を行う。

(二)階層化。
 これはおそらく現状「全学・全回生向け」という表示であまりにも多岐にわたる科目が設定され、内容的にもやや専門的なものがかなり含まれている状況を踏まえ、学生の習得段階に合わせて内容を設定し、科目群を再編成するための方法として構想されているようである。内容レベルに応じて3つの段階にラベリングすることが提案されている。人文・社会科学系では、各テーマの俯瞰やそのテーマを学ぶ上での見方・考え方の基礎を学ぶ第一段階、各科目群に関する基礎的な思考・表現の方法を学ぶ第二段階、3年次以降で学ぶ応用的・発展的内容の第三段階と区分することが提案されている。自然科学系では、文系科目や高校未履修者のための科目を中心とした第一段階、自然科学を学ぶために共通して必要とされる知識やスキルを学ぶ第二段階、各学部によって提供される専門基礎科目からなる第三段階と区分することが提案されている。

(三)履修モデルの提示。
 これはおそらく学生がある一定の学問的内容を体系的に習得できるような履修計画を立てられるようにするために構想されたものだろう。

(四)科目間連携の強化。
 これは、教養科目の履修にあてられる時間は限られていることなどを考慮すると、内容と駅に重複のある科目が複数開講されているという状況より、各科目が互いに連携し、教育課程全体における目的や役割を明確にする必要があるとの問題意識から構想されているようである。一方で、単なる個別のトピックの寄せ集めようなオムニバス講義には警鐘を鳴らしていることにも注目しておきたい。

(五)履修登録のキャップ性の導入、各学部の単位認定方法の変更、成績評価の厳格化。
 語学科目を含め教養科目における到達目標を明確化した上で、その成果を適正に評価するための成績評価基準を策定することが提案されている。学生の無計画な履修登録を防止し、各学部が設定している卒業認定基準を上記のような科目群やテーマ、レベルに合わせて変更することなども提案されている。

《反対側への違和感》

 もちろんこれらの問題意識や改善案に対して異論がある向きもあるだろう。私自身もそれらすべてに諸手をあげて賛成というわけではない部分もある。また、これらの議論と「国際高等教育院」構想との関連性は必ずしも明確であるとは言いがたい。しかし、ここで強調したいことは、ある程度共有できる問題意識が表明され、そのための一定の改善方法が提案されているという点である。反対する側はこれらの点について、そもそも問題意識が共有できるのかできないのか、改善案について大筋でその方向性を認めるのか認めないのか、そして具体的な各論の部分で改善案について異論のある箇所があるのか、あるとすればその根拠や代替案はあるかといった点について、見解を明示するべきだと私は考える。

 しかしながら、「京都大学の自由の学風のために」の「問題点の整理」と題されたページでは、参考資料1から参考資料4について、

「教育院の中身とは関係ない資料(総長参考資料1,2,3,4)を示して、中身を十分議論したと偽装」

と述べてて、端から参考資料1から参考資料4が「国際高等教育院」構想と無関係だと断定している。「国際高等教育院」構想の出自がどうであれ、現在「全学共通科目」の整理や再編を目的として提案されている以上、参考資料1から参考資料4は、「国際高等教育院」構想を考える上でのむしろ前提であるはずだ。これらの参考資料で示された問題意識や改善案に同意しないのか、同意するが「国際高等教育院」では実行できないと主張するのか、「国際高等教育院」でも可能だが今のままでも可能だと主張するのか。
 反対側の提案する「基幹ユニット構想」の説明の中では、全学共通科目の検討及び再編について、

「全学共通教育システム委員会共通・教養教育企画・改善小委員会の平成24年6月8日付方向「平成25年度以降の全学教育科目の科目設計等について」(引用者注=参考資料4)に沿って、全学的に調整が進められており、これによって基本的な問題の大半が解決の方向に向かうと考えられている。」

などという非常に曖昧な表現が使われている。「基本的な問題」とは何か不明確だし、「解決の方向」といっても、どういう取り組みがなされているのか何もわからない。
 反対側のページの学内資料のページには、「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」と題された文章が掲げられている。これは確かに全学共通科目の中でも特にA群科目の内容について議論したものだが、そもそも2004年8月の段階でのものであり、参考資料1がまとめられた2010年3月よりも圧倒的に古い。仮に当時から意見が変わっていないのだとしても、2010年初めの段階での問題意識や改善案に対する応答としては不十分極まりない。(この文章についてもあとで検討したいと思う。)
 現状、反対側の議論は、自らが提供している「全学共通科目」について、参考資料1から参考資料4で示されたさまざまな問題意識や改善案に対しての見解は、ほとんど表明せずに、経緯や手続き論、組織論、個人的な感情などに立脚して、「国際高等教育院」構想を潰すという「学内政治的運動」をしているようにしか見えない。仮にそれが一定の成果を得たとしても、それはこの参考資料の中で表明されている具体的な論点や改善策についてなんら建設的な成果をもたらすものではないと私は思う。

 次回から具体的な資料の中身についての検討を行いたい。