京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その4)

前回・前々回と、いわゆる総長メールに添付された参考資料1から参考資料4の内容を具体的に取り上げつつ、それらに対する反対側のコメントの内容について批判的に検討してきた。

簡単にまとめるなら、全学共通科目に関する現状に対し、大学入学時の学生の習得状況の変化などを背景として様々な問題意識を表明し、それらへの具体的な改善策を提言している参考資料1から参考資料4に対し、反対側のコメントの大半は「手続き論」や「組織論」に終始するばかりで、全く応答しようとする気配が見受けられない。それは、「国際高等教育院」構想をつぶすという「学内政治的運動」として一定の成果を挙げたとしても、結局のところ教養・共通教育に対して掲げられた問題意識や改善策に対してはなんの建設的な成果もあげられないものでしかないと私は考える。仮にも学問を嗜む大学人ならば、「手続き論」や「組織論」とあわせて、これらの点についても誠実に応答する態度を見せるべきであると考える。

今回は、まず、反対側のページの学内資料一覧に掲げられている「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」を取り上げてその中身を検討してみたいと思う。特にこの文章で述べられていることが参考資料1から参考資料4までで問題となっていた点や改善案などとどうかみ合っているかを中心に検討したい。

次に、反対側が、「国際高等教育院」構想に対して提示した対案である「基幹ユニット構想」について検討する。特に、この構想が参考資料1から参考資料4で提示されていた問題意識や改善案とどうかみあっているかという点に加えて、教養・共通教育の担い手が行う「研究」に対する見方についての議論も検討したいと思う。

「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」の内容概観

この文章は、2004年6月にまとめられたものである。その経緯の中で次のように述べられている。

(教養教育に関する文系群会全体としての考えの提示)については、まとまった成果は出されないまま一年半あまりの時間が経過してしまったが、今回ようやく文書の成立を見た。なぜこれほどの時間がかかったのか。京都大学における教養教育は、授業担当者の自由を最大限生かす方向で行われている。こうした方式は、人文・社会系の学問の特徴に即したものであり、旧教養部以来の長い歴史を経て選び取られてきたものだ。この「自由放任」とも「個人商店方式」ともよびうるような方式は、質の高い授業を提供する上では最善の方式なのだが、授業担当者の集団(文系群会)が集団としての意志を形成しようとするにあたっては、逆にネックになってしまう。教養教育とは何かについて統一見解を出そうとしても、それぞれの教養教育観に基づくいろいろな意見が出て、なかなかまとまらないのだ。というわけで、教養教育についてまとまった考えを提示するには時間がかかった。しかしそうした地道な議論の場を経て、ともかくここに「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」をまとめるに至ったのである。

そこでこの文章の内容を具体的に見ていくことにしよう。いろいろ意見したい部分はあるが、それは次節でまとめて行う形を取る。

 1章は「教養教育における講義の特質」と題されている。
 冒頭で講義形式の授業について

人文・社会系の全学共通科目という言葉から連想されるごく一般的なイメージは、大教室にさまざまな学部の(つまり雑多な、均質的でない)学生が集まり、教師が一方的に講義するのを聴いている、というものだろう。(中略)
定員数百人の教室で教師が語るのを聴くだけ、という授業は実際かなりあるのだ。そしてこの種の授業形態は、通常ネガティヴな評価の対象となる。たとえば安易な単位認定の温床になっている、あるいは双方向性を欠いた授業が学生の興味を減殺している、といったように。

と述べた上で、この否定的評価は、「教員と学生の関係の希薄さについての認識」が背景にあるとしている。その特徴は、
「匿名性」=教員が学生個々人を識別することは物理的に難しいこと
「一回性」=関係は半期限りであり、単位が認定されれば関係は途絶すること

にあると述べる。そこで

匿名性や一回性という特徴の認識は、無責任や怠惰という大人数授業への否定的評価と容易に結びつく。だがこれらの特徴についてはまったく別の見方をすることも可能である。

という言明があり、この論証がこの文章の中心的な話題のひとつになっているといってよい。

 そのための鍵になるのが、「教養教育における講義の特質」、教員と学生の間の独特なつながりにあるという。

そのつながりの核にあるものは何か。それはひと言でいえば、その授業で語られる事柄への興味・関心の共有である。教員はそれぞれの専門分野で研究を進める研究者である。その立場から、学生にとって有意味と思われるテーマを講義の主題に設定するだろう。「有意味と思われる」ということは、その教員がそのテーマを端的に「面白い」と思っているということだ。この感情は敏感な学生にすぐ伝染する。講義を聴き続けている学生は、教師の興味・関心に共鳴している者たちであるにちがいない。語る事柄への教師自身の興味・関心が学生の興味・関心を喚起するのである。

続けて、「興味・関心の中身」について、教養教育と専門教育では、「差異の発見」の程度が異なると述べられている。

学問上の興味・関心を引き起こす契機となるのは、さまざまな意味での差異の発見である。これまで当然とされてきた事柄に反する何かが見つかった。あらゆる学的探求はここから開始される。この差異に言及しなければ、講義は面白いものとなるはずがない。この点に関しては教養教育であろうが専門教育であろうが、異なるところはない。問題は言及される差異の中味である。
 一般に専門教育においては相対的に小さな差異を問題とせざるをえないのに対し、教養教育において問題となるのは、相対的に大きな差異である。

その理由は、専門科目の場合、研究者は「専門分化の当然の帰結としての小さな差異」、「研究の前線にいる者にしかわからない微小な差異」をめぐってしのぎを削っているのであり、それを専門課程の学生に伝えなければならないのに対し、教養科目の場合は、「研究者次元での差異ではなく、研究者と世の常識との差異ということにならざるをえない」からだという。

 ごく一般的に考えるなら、小さな差異についての話より、大きな差異についての話の方が面白い。話す方もそうであるし、聴く方もそうだ。細々した話より「目からウロコ」の話の方が面白いに決まっている。教員は研究者の一人として小さな差異にこだわる日々を送っているはずだが、教員個々人の学問的営為をその基底において支えているのは、まちがいなくここでいう大きな差異の方である。大きな差異に言及することは、教員の研究の根本動機に直接ふれることにほかならない。したがってこの種の話は、小さな差異についての話とは別の意味で個々の教員にとって切実な話であり、その限りで小さな差異についての話とはまったく別のルートで学生たちに研究現場の香気を伝えることになる。つまりA群科目における「大きな差異」をめぐる講義は、聴く側の条件(非専門課程の学生)によって規定されるだけではなく、教員の側の内発的な動機づけから発している側面もあるということである。

このような議論のうえで、2節「匿名性と一回性の意義」へ続く。

匿名性と一回性という「教員―学生関係」の特徴は、この種の講義の遂行にとってきわめて有利な条件として働く。

その理由は

匿名性という条件下で講義を聴こうとする学生というのは、語られる主題によほど興味・関心をそそられている学生ということになるだろう。加えて一回性という条件がある。大多数の学生にとって、この科目・教員と付き合うのは、これ一回限りである。これからなされる卒論の指導のことを考えて教員に愛想よくしておこうとか、これから学ぼうとする専門科目の基礎としてこの科目を取っておこうとかいった配慮は、ここではあまり意味がない。

と述べられており、

匿名性と一回性という条件によって事柄への興味・関心を強くもった学生がふるい分けられてくる。匿名性と一回性は、「語られる事柄への興味・関心」が純粋なかたちで析出してくるために欠くことのできない条件であるとさえいえるかもしれない。ともかくこの条件の下で事柄への興味・関心を第一義とする空間が成立してくる。そこには(やや大仰に言えば)語られる事柄への興味・関心の共有という事実しか存在しない。その空間内の教員と学生は、ただその一点だけでつながっている。学問的主題への興味・関心以外のものが排除されているという意味で、そこはきわめてアカデミックな空間である。A群科目の大人数の授業というのは、その外観とは異なり、知的な興味・関心が全面的に展開される類まれな空間なのである。

とされている。

 他方、どうしてもA群科目の現実とは違うとか「単位目的」の学生がいるといった批判があることを想定して次のように述べている。

これまで提示してきたのは、京都大学における教養教育の本質と私たちが考える内容であり、A群科目の「現実」についての情報では必ずしもない。A群科目の授業が、すべて実際にこのようなものとして行われていると主張しているわけではないのだ。実際には「事柄への興味・関心」を前面に出さない授業もあるだろうし、「事柄への興味・関心」より「単位取得についての心配」によって授業に出てくる学生もいるかもしれない。

 だが他面、上に論じたことは、現実から完全に遊離した単なる理想論でもない。2003年夏に実施した「A群科目に関する<学生による授業評価>」において、回答者の一人(理学部学生)が歴史学関連のある授業を評して「教官が<オレは歴史が好きなんだー>という熱意をふりまいていつもおもしろくきいている。ひきつけられる」と書いてきた(『A群科目に関する「学生による授業評価」・報告書』2004年2月、53ページ)。同種の回答はほかにもいくつかあった。主題に対する教員の側の興味・関心が、学生の中に潜在していた興味・関心に火をつけるのである。このような事実がある限り、これまで述べてきたことは、多少とも現実的な根拠のある議論ということになるのではなかろうか。

この2節の最後の脚注はあとでも議論したいので、長いがそのまま引用しておく。

 なお付言すれば、教養教育における講義形式の授業の本質を以上のように捉えてみると、1で言及したような、講義形式の授業へのネガティヴな評価の理由――安易な単位認定の温床、双方向性の欠如など――は、いずれも講義形式に内在する本質的な問題ではなく、技術的に解決可能な問題であることがわかる。たとえば、双方向性の確保については、授業後の小レポートやウェブ掲示板によって学生との対話を試みるなど(前掲報告書、55-56ページ)、個々の教員の工夫によって対処がおこなわれている。

 またA群科目に関しては、履修登録者が著しく多い授業(いわゆる「大規模クラス」)の存在が以前から問題として指摘されてきた。これに関しても、履修登録者数が376名(最大教室の定員)を超える科目については、平成15年度からそれらの科目の開講コマ数を増やすことによってクラス規模を適正化するという対策が講じられ、すでに一定の成果があがっている。具体的には、履修登録者数376名以上の授業は、平成13年度には28、平成14年度前期には24あったのに対し、平成15年度前期には16と減少している。さらにそのうちでも、履修登録者数1000名以上の超大規模クラスは、平成13年度には8、平成14年度前期には7あったのに対し、平成15年度前期には1と激減している。

 さらに付け加えれば、講義形式の授業、とりわけ上記のような大規模クラスに顕著な問題として、履修登録のみおこなって実際には授業に出席しない学生が多数おり、そうした学生(特に二回生以上)の中には、学部専門科目と全学共通科目との重複登録をおこなっている学生が一定数存在することが指摘されてきた。この点を考慮し、各学部が実効性のある制度として重複登録の禁止を実現することにより、授業への学生の実質的参加を促進し、また大規模クラスの解消に資するべきであることを提言しておきたい。

 3節では、「放置の問題」と題して、「放置容認ではないか」との批判に答えようとしている。

語られる事柄に対する興味・関心に力点を置いて教養教育を論じると、必ず「興味のわかない学生はどうするのか、放っておいてかまわないというのか」といった反論が返ってくる。興味・関心のない学生に興味・関心をもたせようとするのが教育ではないか、という主張である。

という批判を想定して、次のように答えている。

しかしよく考えてみよう。その放置は、当該科目に関してだけのことなのである。A群科目全体がシステムとして放置を容認しているわけではない。A群科目には実に多彩な授業科目が含まれており、そのどれかにこの学生の興味をひくものがあるかもしれないからだ。個々の学生の知的興味・関心の内容は多様である。この多様な興味・関心に対応するためには、A群科目の科目設定は必然的に多様とならざるをえない。多様であればあるほど、「放置」の現実は回避されることになる。A群科目全体は、「放置」の可能性に対して科目の多様性によって対応しようとしているわけだ。

さらに、

A群科目の全体を見回してみても、自分の興味をひきそうなものは一つもない、実際にたくさんのA群科目の授業を受けてみたが、どれもこれもつまらなかった、という感想を抱く学生についてはどうか。このような学生は、A群科目の全体から放置されることになるのではないか。こうした学生をどうするのか。

という批判を想定して

この問題を解く鍵は各学部で設定されている「卒業に必要な単位」にあるというのが、現在のところの私たちの考えである。無反応学生は、各学部で設定された「卒業に必要な単位」に押し出されてA群科目を受講しようとしているにちがいない。A群科目の受講を決めているのは、当人ではなく学部なのだ。となると、そもそもこの押し出す側の論理は何か、が問われることになるだろう。各学部は教養教育に何を期待し、どのような基準で「卒業に必要な単位」を算定しているのだろう。理系学部に関してすでに指摘しておいたように(前掲報告書、45−46ページ)、無反応学生という問題に関してはこのことこそがまず第一に考えられねばならない事柄なのではあるまいか。

と述べている。

 4節は「基礎ゼミナール」という形式の授業について述べている。

基礎ゼミナールという授業形式の特徴は、受講学生が自ら読み、考え、書くという作業を授業参加の必須の条件にするという点にある。

とし、

  • 学生たちの中に、聴くだけでは飽き足らない、自らの「事柄に対する興味・関心」を自らの手で展開したい、と考える者は一定程度必ずいる。
  • 2004年1月に基礎ゼミナール受講者を対象にした調査(「基礎ゼミナールに関する<学生による授業評価>」)を実施したが、寄せられた回答を読んで驚かされるのは、学生の間にあるこうした類の願望の根強さだ。
  • 自分で読み、考え、書くという作業は、それ自体で彼らにとって大変魅力的であるようなのだ。

と述べた上で

むろんすべての学生がこの作業を望むわけではない。それはその通りなのだが、その一方で「事柄に対する興味・関心」を焦点とする講義が活発に行われれば行われるほど、それに刺激された能動的精神が胚胎してくるというのも事実だろう。「事柄に対する興味・関心」を焦点とする講義が、その当然の帰結として、自ら読み、考え、書くことを願望する学生を生んでいく。「自学自習」を教育上の基本理念とする京都大学にとって(「京都大学の基本理念」参照)、このことはきわめて好ましい事態であるにちがいない。このような精神を自ら生み出しつつ、それに対し何の対応もしないのは、教育を旨とする組織として不誠実というものだろう。ここに基礎ゼミナールという授業形式が存在する必然性がある。教養教育をここで論じているような姿勢で実施していく限り、基礎ゼミナールという授業形式は必要不可欠の意味をもつ。教養教育においては、講義と基礎ゼミナールという二つの授業形式は、いわば車の両輪のようなものなのだ。

基礎ゼミナールにおいては、一年間ほぼ固定したメンバーが同じ主題について議論をし合う。そしてそこには一回生だけでなく、上回生も参加している。関心の持続という意味でも、あるいは参加者の広がりという意味でも、そこにあるのは、単なる「導入」ではなく、教養教育の本質すなわち「事柄に対する興味・関心」に基づいたきわめて知的、学問的な空間だといえそうである。

としている。

 5節は提言であり、

  • A群科目の多様性は、学生たちの興味・関心の多様性に対応するものだという趣旨のことを述べた。興味・関心が教養教育にとって本質的な要素であるとするなら、そして学生の知的関心に応えることが大学の責務であるとするなら、A群科目の多様性は今後もできるだけ保持されていかねばならないだろう。多様性は、A群科目という科目群にとっていわば本質にかかわることなのだ。よりよき教養教育を実現していくためには、A群科目の科目設定は今後もできるだけ多様であることをめざすべきである。
  • 基礎ゼミナールは教養教育の推進にとって不可欠の意味をもつ。ところがこの授業形式に関しては、1コマあたりの履修者数の少なさゆえにしばしば批判が投げかけられてきた。全学共通科目の第一の責務は、大量の学生に単位を供給することであり、少人数の学生にしか単位を与えない授業などは不要なのではないか、というわけである。私たちはむろん教養教育をこのように量的にながめる観点はとらない。先に述べたように、基礎ゼミナールは、講義とは異なった教育の質を提供できるがゆえに、教養教育にとってなくてはならぬものなのだ。この講義と基礎ゼミナールの並存という事態は、今後も維持されねばならないと考える。つまり、望ましい教養教育を実現していくために、A群科目においては講義と基礎ゼミナール(実習、講読などを含む)という二つの授業形式を今後も保持すべきである。

と述べられている。

「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」」に対する違和感

この文章では、主として、A群科目に対する否定的な評価の代表的なものとして「安易な単位認定の温床、双方向性の欠如」といった点を挙げ、それに反駁すること、より具体的には、匿名性と一回性によってこそ「知的な興味・関心が全面的に展開される類まれな空間」が出現するのだと主張し、さらに学生を放置することを肯定しているのではないかとの批判には、「科目の多様性」によっていずれかの講義への興味・関心は引き出せると論じている。

しかし、これまでに検討してきた参考資料1から参考資料4までの内容と比較して、この文章で語られている内容を見てみると、やはりA群科目の現状を正当化しようという目的が先行していたり、そもそも問題意識がかみ合っていない面も散見される。以下具体的にいくつか指摘したいと思う。

 この文章では「興味・関心の共有」ということが重要な鍵として提示されている。しかしそのことからしてすでに複数の問題点がある。

《単位認定》

「興味・関心の共有」と「単位認定」は話が別である。確かに興味を持って毎週授業を聞いてくれる人はいるだろう。しかし、「単位認定」というのは、そもそも「興味・関心を共有して聞いてくれたこと」に対する対価なのであろうか。ここに大きな認識の乖離があるように思われる。その講義で何らかの実質的な習得内容を確認できた場合にのみ「単位認定」を行うべきだという指摘に対し、この文章は何も応えていない。参考資料1から参考資料4で示された問題意識の源泉には、こうした「習得内容」を具体的な基準で「評価」することによって「単位認定」を行うべきではないかというものが色濃く反映されていると見るべきであり、そのことに対する異論があるのならばまずそこから始めなければならない。

《学生の実態》

「興味・関心の共有」は、現実の学生の対応と適合していない可能性がある。この文書自体が認めているように、この文書で提示されている議論は、必ずしもA群科目の「現実」に対応しているわけではない。しかし、この文書はそのことに対し、「多少とも現実的な根拠のある議論」とか「現実から完全に遊離した単なる理想論でもない」という結論を、たったひとつのアンケート結果『「教官が<オレは歴史が好きなんだー>という熱意をふりまいていつもおもしろくきいている。ひきつけられる」と書いてきた』と「同種の回答はほかにもいくつかあった」ということだけを根拠に導いている。特段興味のあるA群科目があるわけではないが、卒業認定に必要なのでとりあえず単位がとりやすそうなものを受けておくという姿勢が「楽勝科目」への集中を招いているのだとする問題意識に対して、上のような議論が応答として適切だとは言えないし、そもそも「教官が<オレは歴史が好きなんだー>という熱意をふりまいていつもおもしろくきいている。ひきつけられる」というのはそもそも感想に過ぎず、この感想を書いた学生は、その結果この講義でどういう内容を習得できたのかまったくわからないし、ひきつけられたのは歴史学の中身というより教員のキャラクターだっただけかもしれない。その後歴史学の中身について自学自習してみようという気分になったわけではないかもしれない。このようなアンケート結果を持ち出すこと自体、問題意識が低いレベルで留まっているといわざるを得ない。

《双方向性》

「双方向性」が確保されていることの担保が薄弱である。この文書では、安易な単位認定の温床や双方向性の欠如は「講義形式に内在する本質的な問題ではなく、技術的に解決可能な問題であることがわかる。たとえば、双方向性の確保については、授業後の小レポートやウェブ掲示板によって学生との対話を試みるなど(前掲報告書、55-56ページ)、個々の教員の工夫によって対処がおこなわれている。」としている。しかし、レポートを書いてもらうだけでは「双方向」とは言えない。ウェブ掲示板で対話する学生は講義を受けている学生のごく一部である可能性もある。何らかの具体的な内容の習得を問うたり、何らかの具体的なテーマについて思考することを求めるのであれば、学生の提出したものに対するフィードバックを何回も繰り返すことが不可欠である。そのレベルでの「双方向性」が確保されているのか疑問だし、そもそもそのレベルの「双方向性」が可能な講義の人数は自ずから限定されてくるはずだ。受講者が三桁を超えるような講義で、そうした「双方向性」を保つ講義をすることはかなり難しいといわざるを得ない。

《多様性》

多様性があることによってこそ、いずれかのA群科目には興味・関心を示す蓋然性を担保できるのだという議論、これこそが「放置」への対抗策なのであるとする議論には、参考資料1から参考資料4の中で提起されていた次のような反論が考えられる。つまり多様になればなるほど、学生の体系的な履修やそのための計画の作成が妨げられてしまうということである。その点についての具体的な応答と見ることができる部分は、この文書には乏しい。学問分野に十分見通しを持っているわけではない大学入学時点での学生たちがいずれかの分野やテーマを体系的に履修することを目的とするならば、単に多様なだけではなく、テーマ設定や難易度階層別に科目を再編成したほうが良いし、高等学校段階までで十分に内容習得が出来ていない学生への対応も考えて、より基本的で平易な内容からなる初習科目も必要だというわけだった。つまり、多様性にはこの文書が言うようなメリットもあるかもしれないが、参考資料1から参考資料4が示していた問題意識や改善案は、まさに多様性のみが押し出される状況からくるデメリットを提示したものであり、それらを克服しようとするための一案であったことを忘れるべきではない。

《無反応な学生への対応》

無反応な学生への対処をどうするかという点についてこの文書が主張していることは明らかに学部への丸投げである。この文書では、特にA群科目のどれにも興味がないという学生について、非常に曖昧な答えしか提示していない。「無反応学生は、各学部で設定された「卒業に必要な単位」に押し出されてA群科目を受講しようとしているにちがいない。A群科目の受講を決めているのは、当人ではなく学部なのだ。となると、そもそもこの押し出す側の論理は何か、が問われることになるだろう。」と述べているだけである。これは、事実上各学部に丸投げしているだけである。

《教養教育の意義》

 ここまで「興味・関心」ということに力点が置かれすぎているのではないかという観点で検討してきた。
 この点は教養教育というものをどう位置づけるかという点に強く関係している。この文書では、教養教育は、学生の興味・関心に依拠している。「語る事柄への教師自身の興味・関心が学生の興味・関心を喚起する」とか、「匿名性と一回性は、「語られる事柄への興味・関心」が純粋なかたちで析出してくるために欠くことのできない条件であるとさえいえるかもしれない。ともかくこの条件の下で事柄への興味・関心を第一義とする空間が成立してくる。そこには(やや大仰に言えば)語られる事柄への興味・関心の共有という事実しか存在しない。その空間内の教員と学生は、ただその一点だけでつながっている。」といった記述にそのことが象徴されている。

 しかし、私はこの認識にこそ、参考資料1から参考資料4で表明されている問題意識や改善案の趣旨、また少し荒っぽく言えば社会的な要請との乖離があると見る。念のために注意しておくが、私は社会的要請なるものが全面的に正しいと主張するつもりはない。私が強調したいことは、投げかけられた批判や要請に対する応答として、この文書で述べられているようなことだけでは、十分に応えたことにならないし、応え方もいささかずれているということである。その意図をもう少し突っ込んで明確化しよう。

 参考資料1の冒頭にあったように、教養教育の意義や内容について、

「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」

という規定が紹介されていた。とするならば、それは個々の学生の「興味・関心」だけを尺度とするのではなく、たとえ「興味・関心」がなくても身につけておくべき事項を整理して、まさにひとつの強制力を持って学生に学んでもらうべきだと考えることもできる。もちろん、興味・関心がある分野について学んでもらうのは構わない。しかし、学生がこの時代を生きるための最低限の基礎的な素養は、必ずしも学生たちが今興味や関心を引かれるものではないかもしれない。しかもこれは、単に人として生きるための教養ではなく、学士課程を修了した人材として生きるための教養でなければならず、それはもちろん高等学校教科書レベルであっていいはずがない。だからこそ上の記述はかなり踏み込んで具体的な例示をしているのだろう。その意味で、高等学校教科書レベルよりもより深化した内容について、理解し思考し、そして論理的に表現できること、これがいわば学士課程を卒業する学生の「教養」として要請されるべき事柄なのではないだろうか。

 もうひとつ着目しておかなければならないことは、参考資料1から参考資料4の中で繰り返し指摘されていた点、つまり、教養教育は、必ずしも「専門予備教育」ではないということだ。この点はA群科目のテーマ分けや階層化について述べた箇所で強調されていたし、積み上げが重要な自然科学系科目においてもなお、第二階層は、特定の分野ではなく広く自然科学を学ぶ上で共通する内容を扱うこととされていた点に現れている。理系のための文系科目や文系のための理系科目の設定が取り上げられていたことも忘れてはならない。これらのことは、教養教育では、専門教育とは別の形で、広く学士課程修了者全般にとって必要とされる教養を体系的に身につけてもらうことを意識しているためだろう。その意味からいっても、教養教育は単なる「興味・関心の共有」だけで語るべきではないと私は考える。

 ここまでが主要な論点だが、ほかにもいくつか気になる記述があるので、取り上げておこう。

《有意味と面白さ》

 「学生にとって有意味と思われるテーマを講義の主題に設定するだろう。「有意味と思われる」ということは、その教員がそのテーマを端的に「面白い」と思っているということだ。」という記述にも疑問が出てくる。教員が「面白い」と思うことと学生にとって「有意味」であることとは必ずしも合致しないかもしれない。今後のために身につけておいて欲しいこと、思考しておいてほしいことというのは、学生にとって「有意味」ではあっても、教員にとっては基本的すぎて「面白い」かどうかはわからない。このあたりも「良い講義」が学生にとって何らかの意味で「面白い」講義であることが暗黙のうちに仮定されているように見える。学生にとって面白くない、興味や関心が湧きにくい内容であったとしても、これからの時代を生きる学士課程修了者が身につけるべき素養というのはありうる。もちろんまったく面白くない講義を受けるのは苦痛かもしれないが、しかし、一定の内容を習得してもらうために数多くのフィードバックを繰り返す講義が学生にとって常に「面白い」ものであるとは限らない。

《大きな差異と研究の根本動機》

「教養科目の場合は、「研究者次元での差異ではなく、研究者と世の常識との差異ということにならざるをえない」」とか、「研究の根本動機」を語るという記述が出てきていた。しかし、A群教養科目や基礎ゼミナールについて提示されていた疑問点には、多様性以外にも難易度についての観点があったことを忘れてはならない。「世の常識との差異」とか「研究の根本動機」といっても、現状のA群科目や基礎ゼミナールで取り扱われている題材が、専門科目レベルの内容になりすぎているのではないかという指摘である。この種の懸念に対する応答はこの文書では読み取れない。

《アカデミックな空間》

 このような用語の意味はよくわからない。興味と関心が共有されていて、学問的主題への興味・関心以外のものが排除されている空間がなぜ「アカデミックな空間」なのだろうか。例えば基礎ゼミナールに関する記述でも、
「関心の持続という意味でも、あるいは参加者の広がりという意味でも、そこにあるのは、単なる「導入」ではなく、教養教育の本質すなわち「事柄に対する興味・関心」に基づいたきわめて知的、学問的な空間だといえそうである。」
という記述がある。いったいこの文書でいう「学問的な空間」とは何であろうか。
 
 例えば、教員と学生の間で興味・関心が共有されているということだけで、何らかの新しい成果が生み出されるわけではないし、おそらく新しい成果や新しい概念が生まれることは皆無だろう。仮に教員が「研究の根本動機」を語って学生側がそれに対して様々な応答とすることにより、教員の側の思考にブレイクスルーが起きたというのなら、その教員は率直に言って思考不足だといわざるを得ない。もちろん講義の準備をしながら学生との応答とは別に教員自身が思考したけっか何か新しい着想を得ることはあるかもしれない。しかしそれは学生と興味・関心が共有されていることとは別の問題だ。だから教養科目が「新しいものを生み出す」という意味でのアカデミック・学問的空間ということはありえない。

 他方、例えば、学生にとっては、新しい内容に触れたり考えることを通して、知的作業を行う空間となりうるだろう。しかし、それは、必ずしも興味や関心が共有されていなくても、「有意味」なことを強制力を持って思考させるという場であっても為しうることだ。

《世俗的な配慮》

「これからなされる卒論の指導のことを考えて教員に愛想よくしておこうとか、これから学ぼうとする専門科目の基礎としてこの科目を取っておこうとかいった配慮は、ここではあまり意味がない。ここでは「これから」よりは「いま」を優越させて構わないし、「世俗的ないし目的合理的な判断」よりは自分自身の「興味・関心」に優先権を与えて一向に差し支えない。」
「専門教育の授業においては、「これから」のことをはじめとするもろもろの世俗的な配慮がどうしても侵入してきてしまうからだ。学生たちはさまざまな配慮から完全には自由にはなれない」
といった記述が出てくる。A群の専門科目では、「卒論指導のことを考えて教員に愛想よくしておこう」というような世俗的配慮が働いているというのだろうか。こういう一方的な記述をもって教養科目の正当性を主張するやり方には賛成できない。

 ここまでが「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」についての検討である。あえて率直に言えば、この文書は、「匿名性」と「一回性」という否定的評価の根拠とされる事柄を、なんとかうまく現状肯定の立場から読みかえられないかという動機に強く依存しているように見える。見方によっては弱点こそ強みですよという形の反論をすることも重要だが、もう少し正面から応えることもあってしかるべきだと考える。

「基幹ユニット構想」の内容とその違和感

「基幹ユニット構想」は、「国際高等教育院」構想に反対する総合人間学部・人間環境学研究科有志が提案している代案である。これは、組織論に関する部分も多いので、あまり積極的に中身を検討したくはないのだが、それでも今回の「教養教育」に関する問題意識に照らして、関連する部分を概観し、いくつかの疑問点を述べたいと思う。

《基本的な問題の大半が解決の方向へ向かう?》

 「構想の基本方針」の中で、

全学共通教育に関するいくつかの全学的委員会がこれまで提示してきた結論の主要部分は、(1)一元的企画部門の強化と、(2)科目の検討・再編の促進にある。

と述べた上で、

(2)については、全学共通教育システム委員会共通・教養教育企画・改善小委員会の平成24年6月8日付報告「平成25年度以降の全学共通科目の科目設計等について」[引用者注=参考資料4]に沿って、全学的に調整が進められており、これによって基本的な問題の大半が解決の方向に向かうと考えられている

と述べている。率直に言って、このような曖昧な言明は非常に不誠実で、外部から憲章の仕様がないものになっているといわざるを得ない。既に見たように、参考資料1から参考資料4までの中では、教養教育に対する理念、学生の現状に対する危機意識、そして全学共通科目全般の再編のための幅広い改善案が提示されていた。そもそもここでいう「基本的な問題」とはどこからどこまでのことなのか、具体的説明が全くなく、反対側が何を基本的問題と了解したのか何もわからない。それらのすべてが解決に向かうということは、そこで提示された問題意識すべてに同意し、改善の方向性も共有しているということなのか。反対側は、教養教育に対してどのような構想を持ち、現状をどう考え、何をどのように改善していこうとしているのか、全く不十分な記述しか行っていないのである。私はそこにこそ反対側の問題点であると思っている。そうしたことこそもっとも基本的部分であり、そこを議論しないまま、組織論に反対することは建設的ではないと考える。

《研究できなくなる?》

 「国際高等教育院」構想に反対している有志の主張の中で、教育専従にさせられた教員が研究できなくなるという観点が再三強調されている。基幹ユニット構想の中でも次のように述べられている。まず、

2)当該案[引用者注=「国際高等教育院」構想]の説明では、その根底に、全学共通教育を行う教員は研究ができなくてよいという考えがあり、これは、京都大学の教員の資質についてこれまで繰り返し確認されてきた全学的基本合意に反している。

とある。しかし、そもそも「国際高等教育院」構想において、そこに所属する教員が「研究ができなくてよい」とされているのかどうか自体はっきりしないし、しかもそれは「研究を本務としない」なのか「研究しなくてもよい」なのか「研究させない」なのかは曖昧だ。具体的に「国際高等教育院」に所属することになる教員がどのような研究活動にどのような形で従事することになるのかがはっきりしない段階で断定的な記述をするのは避けるべきだし、この文書を書いた側に都合の良いようにバイアスがかかっている可能性も否定できない。これについてはあとでも論じる。次に、

当該案は、そうした「教育専用教員」がいずれかの研究科と関わることを認めてはいる。それは、かつての教養部教員の多くが他の学部・大学院教育と関わっていたことと相似であり、このことはむしろ、旧教養部の問題の一つを十二分に想起させる。研究に関わることを本務とせず、専ら教養教育のみを担当しているかのように「見え」てしまう教員による初年次からの教育が、若い学生に(それとともに当の教員にも)どのような悪影響を及ぼすかは、上記2)に言うように全学的に意識されてきたところである。本学においては、良き研究者であることは、良き全学共通教育の担い手であることの必要条件である。したがって、科目提供者は大学院・研究所等に本籍を有することを基本とすべきである。

この記述は非常に不明確で含みを持たせた記述になっている。例えばそれは、『「見え」てしまう』というようなカギカッコの使い方にも現れている。旧教養部の問題点としてどのようなことが話し合われたのかつまびらかに知らない人間には、「どのような悪影響を及ぼすか」ということの具体的内容を推測できないし、その検証もできない。私には良くわからない。もしその教員が「国際高等教育院」に所属していつつ、(学部や大学院と兼担という形であれなんであれ)実際にオリジナルな研究成果を出している人物であれば、もちろんその人の講義の端々にそこのこが現れるであろうし、当人は研究しているのだから何も恥じることはない。本務がどうとか、学生からどう「見え」るかということは二義的な問題で、自分が研究さえしていれば、そのことを学生に納得させ、自らも納得させることはできるはずだ。

 少しこの「研究」の意味について考えてみたい。
 研究の遂行には、大きく分けて3つの観点が考えられると思う。

 第一に、研究のためにかけられる時間という側面である。
 時間的制約としては、もちろん講義があげられるが、それ以外にもゼミ学生の指導や会議の時間などが考えられる。例えば、「国際高等教育院」に所属する教員には、毎週10コマ(平日1日2コマ180分)といったレベルの講義の義務が課せられるのだろうか。現状よりも科目数を絞り階層化するのだから、各教員にそこまでの負担が貸されるとは少し想像しにくい。せいぜい週5コマ(平日毎日1コマ90分)がいいところではないだろうか。学部や大学院との兼担なら学生の指導もあるだろうが、それは義務とはされないのだろう。教授会なども軽減されるとの報道もある(京都大学新聞)。このレベルの時間的制約で研究に支障が出るというのは少し不思議な気がする。そもそも研究は9時-5時というような定時で行えるようなものではないし、考えることそのものが日常化しているはずなのだ。上で書いたような時間的制約ならば、「研究できない」などというデメリットを指摘するにはあたらないと思う。もちろん講義の内容充実のために必要な時間もあるから、そもそもそうした講義の内容向上のためにも、私は週10コマのような義務を課すのは行き過ぎであると考えている。

 第二に、研究のための資金という側面がある。
 通常研究者は、大学の運営費交付金や大学への寄付金などからなる大学の予算の中からいくらかの研究費を得る部分と、科学研究費補助金などの形で直接国から個人ないしグループ単位で資金を得る部分との2つの方法で研究資金を確保している。私は京大の教員が前者の形でどの程度資金を得ているかはわからない。しかし、後者の科学研究費補助金は、本人の研究業績に応じて国から直接研究資金を得るシステムであるから、京大の教員である以上、どのような組織にいても応募できるはずである。もし「国際高等教育院」に所属している教員には科研費に応募させないということになれば問題だが、そのような措置を講じるとは考えにくい。科学研究費補助金には、間接経費として大学自体に入る部分が確保されており、それは大学にとってのメリットのひとつであるからだ。つまり、「国際高等教育院」に所属しているという理由で研究のための資金が得られなくなるということは考えにくいのである。

 第三に、研究のための人材や設備という側面がある。
 これは分野にもよるが、研究の遂行のために大型の設備が必要な分野や、研究の遂行のために学部4年生や大学院生、ポスドク研究員などの手を必要としている分野もある。「国際高等教育院」に所属する教員には、自前で大型の設備を購入したり、学部4年生や大学院生、ポスドクなどを受け入れることが難しくなるかもしれない。そのような可能性は確かにある。しかし、これはやや私の独断だが、そのようなことが研究の遂行に影響する分野は、教養教育を担当することが想定されている部局や分野から見るとかなり限定的であるように思われる。そのような分野こそ、兼担の形にするとか、場合によってはそのような分野に限って学部から出向してもらう形にするなどの柔軟な対応を取れば十分に対処できるように見える。

この3つの観点から見る限り、私には、教養教育を推進するために「国際高等教育院」に所属する教員が、実質的に研究できない状態に置かれるというのはかなり無理がある議論であると思われる。研究は、確かに食い扶持を稼ぐための仕事であろうが、研究者として生きていく以上、それは、個人の内発的な動機によって「面白さ」という形で息づいているものであり、このレベルの組織改変で研究そのものができなくなるなどとは到底思えない。そして実質的に研究が出来るのであれば、上でも述べたように、本務や「見え」方などは二義的問題に過ぎないと思う。

《各学部のニーズ?》

基幹ユニット構想の中には、学部のニーズや最先端の話題といった単語が何度か現れる。

4)課題(1)[引用者注=一元的企画部門の強化]についてとりわけ重要なのは、「学士教育における全学共通教育の位置づけ」に基づく各学部のニーズを、いかにして企画に取り込んでいくかである。これを行うのに必要なのは、各学部に足場を持つ委員からなるしっかりとした企画・調整組織であって、大量の「教育専用教員」ではない。

5)当該案では、そうした「教育専用教員」が、いずれの学部の専任教員でもない以上、各学部のニーズを自ら十全に把握し企画に生かすという課題に応えることはできない。

新たな機構の核となる基幹ユニット(CU 21)においては、各学部から出向する計20名のHP(Headquarter Professors)が、統括者である総長指名のHPC(Headquarter Professor in Chief)のもと、各学部のニーズを全HPに責任をもって伝達することによって学部の意思の反映を図るとともに、自らチーム(CU 4)を組んで、「教養教育」(広義における。従来の「全学共通教育」に替えて、以下ではこの名称を用いる)の企画・調整を責任を持って進めることとなる。これにより、「教養教育は自分たちの問題である」という方向への意識改革が、なお一層進むであろう。特定の教員が長期にわたって任にあたることを避け、2年任期で1年ごとに半数交替するというシステムも、この意識改革を進める上で重要な役割を果たすであろう。これによって、京都大学の多くの教員が教養教育の企画・調整を経験することになり、こうした経験の広範な共有が、制度のよりよい運用に繋がるはずである。

HPが科目提供者を兼ねることがあっても、あくまでもHPとしての任務は、出向元の研究科の教養教育に対する要望をCU21の全HPに責任を持って伝達し、かつ、教教育全体および担当する科目群の企画・調整を、責任を持って遂行することにある。

いったいどの段階から、教養教育の課題が「各学部のニーズ」との連結だということになってしまったのだろうか。この点は既に何度か指摘してきたが、教養教育は、少なくとも学部で提供される専門教育とは一線を画し、人文・社会科学や自然科学における最も基本的な考え方やその成果を文理を問わず身につけてもらうことだと規定し、そのための基礎的な科目の充実と体系的履修が提言されていたのである。そうした観点から教養教育で提供するべき科目群や内容、およびその難易度や単位認定の方法の設計を、「国際高等教育院」に所属する教員たちの手で行おうというのが「国際高等教育院」の言う「一元的企画部門の強化」ということの趣旨ではなかったのか。それはそもそも専門教育とは一線を画す全人的教育である以上「各学部のニーズ」こそ二義的な観点であるといわざるを得ない。

 HPの任期が2年というのも、「意識改革」としての重要性が強調されているが、私はむしろ、教養教育の再編や設計を担うのならば、その役割が1年や2年で変わっていくようなHPを置くよりも、むしろ5年程度のスパンでその企画や調整を行う者を選ぶべきだという気がしてならない。教育の結果は1年や2年では出ない。数年の継続的な実施とその成果の調査によってはじめて再編の果実がはっきりするのであり、その段階で問題があれば再設計するなどの見直しを行う必要がある。そうしたことを可能にするべく、一定の長期にわたって教養教育の企画に携わる組織や教員があってよいと思うし、それが「国際高等教育院」構想の目的の一つなのではなかろうか。

《全学的関与と学士教育の向上》
基幹ユニット構想では、「全学的関与」といった視点が強調されている。

科目提供は、「主要科目提供部局」たる人間・環境学研究科と理学研究科が中心となってこれを行い、独立大学院はもとより、広く研究所・センターからも、「最先端の話題を教養教育に」をモットーに、多様な科目提供を募る。

学生を一から育てることに関わる可能性が、学部・大学院教員のみならず、京都大学の全教員に保証されることになれば、そのことによって、教育に対する全学的意識の更なる高揚とともに、京都大学が擁する先端研究者の全学的関与による学士教育の更なる向上が期待される。大学院重点化によって危ぶまれてきた学士教育の弱体化の懸念に抗して、京都大学らしい学士教育重視型教育システムへの移行が、その先に望見されるところである。

京都大学は、大綱化に伴う教養部廃止において、教養学部体制を取る東京大学とも、教養科目担当教員の大幅な分散化を選んだ他の多くの大学とも異なる道を歩んできた。人間・環境学研究科および理学研究科において、全学共通教育を担うハイレベルの教員集団を大規模に維持してきたこと、そして、企画・調整を図る全学的組織として「高等教育研究開発推進機構」を置き、円滑な企画運営を進めるべく鋭意努力してきたことは、京大型教養教育を進める上で、決してゆるがせにしてはならない重要な面である。新たな機構とその核となる基幹ユニットが構成する教育体制は、学部・大学院において教育・研究を進めながら全学の教養教育を担う教員集団──京都大学の教員としての資質を十全に保持した教養教育担当教員集団──による主要な科目の提供を保証するとともに、独立大学院、研究所、センター等の学士教育全体への積極的関与を促す形で、全学のパワーとニーズの積極的活用を担保する。これによって、京都大学の教養教育システムは、大綱化と大学院重点化を経た今、全国の教養教育のモデルケースとなるはずである。

私は、あえてこのことに疑問を呈したい。

 一口に研究者と言っても、実際には少なくとも2つのレベルがあると言って良い。

 最近話題になった2つのある意味で極端な例を引こう。iPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中伸弥教授と整数論の大きな予想の一つであるABC予想についての論文を公表した望月新一教授である。彼らは、彼らの独創的なアイデアでもって、まさに文字通りの意味で、その分野を開拓し前進させている。まさに文字通りの意味で、研究の最先端で人類の未踏の大地を押し広げている研究者が現に京大には居る。そんな彼らを前期と半期を通して拘束して教養教育を担当してもらうべきなのだろうか。「最先端の話題を教養教育に」「先端研究者の全学的関与による学士教育」といくら言ったところで、このレベルの研究者、つまりその分野を今まさに自らのアイデアで押し広げている文字通りの最先端にいる研究者たちに、学部の教養教育を担ってもらう義務を課す必要はないとあえて断言したいのである。もちろん本人がそれを望む場合は別だし、半期や通年単位ではなく、例えば半年に1回何らかの形で講演してもらうという仕組みはあってもよいと思う。しかし半期や通年の教養教育の講義を義務付ける必要はない。

 理由は簡単だ。そういうまさに最先端にいる研究者には、その分野を開拓していくための時間こそ重要であり、そのために彼らの時間を活用してもらう方が分野の発展を望める。文系とも理系とも限らず将来その分野を専門にする可能性が低い学生たちの集団よりも、その分野を専門として志す学生や大学院生に薫陶を授けてもらうほうがより有益だからであるということに尽きる。そうした最先端の研究者にとっては時間と相手は重要なポイントなのだ。

 研究者の第二のレベルは、真に新しい結果を継続的に発表しているとは言っても、その結果自体は、先達たちが切り開いた分野をより詳細に精密に理解するためだったり先達たちの結果を拡張したり補強したりするようなものであるような研究者たちだ。率直に言って研究者の少なくとも半分はちらに属すると言って良いと思う。これらの研究者は自らオリジナルな成果を得るために研究を進めているからこそ最先端の研究成果を自ら調査し造詣を持っているし、そして研究のための思索も深く行っている。このレベルの研究者が学部の専門教育や教養教育にあたればよいと私は考える。

 これはむしろ上の機関ユニット構想が考えている教育の分担と比べると、むしろ逆説的に次にように言いたい。東大や京大のように、まさに最先端で分野を開拓している研究者とそのレベルの研究者を追いかけながら研究している研究者とが無視できない比率で在籍している大学でこそ、私は、学部低回生の専門基礎教育や教養教育を担当する教員とそうでない教員とを分けたほうが良いと思う。

 《語学教育とくに英語教育》
 最後の節で、「学士教育の更なる国際化のために」と題された語学特に英語教育に関する記述があるが、これについてはコメントは割愛する。

次回は、反対側のより具体的な人々の意見についていくつか検討を加えた上で、私が国際高等教育院に期待することや危惧することなどを述べたいと思う。