京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その5)

 前回まで、いわゆる総長メールに添付された参考資料1から参考資料4の内容を具体的に概観し、「国際高等教育院」構想に反対する側がこれらの資料についてどのようなコメントを行っているか批判的に検討するとともに、反対側が公開している具体的な文書として、「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」と題された文書と、「基幹ユニット構想」についての文書を批判的に検討してきた。

 今回は、「国際高等教育院」構想に反対する側の具体的な発言の内容について、前回までの分析に引き続いてさらなる検討を加えたいと思う。
 反対側の具体的な発言にはいくつかのものがある。総人・人環有志のページで公開されているメッセージ、総長への抗議文、説明会などでの講演、ツイッターなどでのつぶやきなどである。
 ここでは次の4つの文書や発言を取り上げて、その内容について検討してみたい。
(1)総人・人環有志のページにあるメッセージ

(2)人間・環境学研究科 石原昭彦教授から総長への手紙
(3)youtube上で公開されている動画『「国際高等教育院」構想と総人・人環の再編案を問う(2012.11.15)』
(4)ツイッターアカウント「自由の学風@orita_hikoichi」のつぶやき

(1)総人・人環有志のページにあるメッセージ

まず最初に検討したいのは、総人・人環有志が「国際高等教育院」に反対するために出した初期のメッセージである。それぞれ具体的な記述を見てみよう。

京都大学の教養教育(専門基礎・外国語教育を含む)は、人間・環境学研究科と理学研究科が多くの授業科目を提供することによって行われてきました。優れた教養教育の基盤として必須な幅広い分野の教員が、第一線の研究と大学院・学部教育を担いつつ、教養科目を担当しています。高度な研究能力をもつ多くの教員が一丸となって、研究・教育を一体化させて推進することで、京都大学にふさわしい創意と多様性に溢れた教養教育を実現しているのです。

参考資料1から参考資料4の検討の中でも具体的に見てきたように、これらの参考資料では、教養科目と専門基礎科目とのすみわけの問題が議論されていた。教養科目は専門予備教育ではないことが強調されていた。しかし、このメッセージの冒頭から、教養教育の中に「専門基礎」教育が含まれるかのように記述している。このような記述は、反対側が参考資料1から参考資料4で提示された問題意識や改善策について十分検討していないことの証左であるように見える。


また、教養科目の内容が、研究の具体的な内容と強く結びつきその内容的難易度が少し高く設定されすぎているのではないかとの指摘もなされていた。より基礎的な内容の科目を設けて、教養教育に関しては、「本学の目指す卓越した知の継承に必要な基礎的(ファンダメンタル)な内容の授業展開に配慮」することや、理系のための文系科目や文系のための理系科目などの配慮も求めていた。専門教育と教養教育とをいったん切り離して、


「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得すること」


と規定していたのである。私がここであえて指摘したいのは、「研究・教育を一体化させて推進する」ということの意味である。

教員自身が研究していることと、教養教育の中身を研究の具体的な内容と直接関連付けることとは別の問題であるということだ。私は、自身が研究活動に参画していない教育専従の教員が行う大学教養教育が中身の薄いものになるという危惧に指しあたっては同意する。しかしそのことと教養教育の具体的な中身をどうするかということとは違う。その教員が単に教えることに特化した教育専従教員なのか、自身もオリジナルな研究成果を出している研究者であるのかという違いは、扱っている話題がその人の研究の具体的な内容と直接関係しているかどうかということにはよらず、講義で話す中身の深みや学生からの質問への回答の的確性や指導の中身に自ずからにじみ出て来るものだと私は考える。

つまり、教養教育を担当する教員であっても、自らオリジナルな研究成果を出すために日々最先端の話題について思考する研究者であるべきだという主張と、教養教育の中身をより基礎的なものから階層的に再編成し、テーマごとに分けて学生の体系的な履修を促すべきだという主張は、矛盾しないと考える。教養教育で提供される具体的な個々の科目の内容が、教員の研究内容と「一体化」していなければならないとは私は思わない。

しかし、現在、松本紘総長が尋常ではない速さで実現を急いでいる「国際高等教育院」構想では、各部局から配置転換される200名近くの教員が教養教育に専念することを義務づけられます。暫定的には、研究と学部・大学院教育を続ける可能性をかろうじて担保されるとしても、近い将来、この組織が、最先端の研究に裏づけられた広い視野をもたない、ありきたりの教養教育しか提供できなくなることは明らかです。この認識に立ち、人間・環境学研究科/総合人間学部教授会は、同構想の決定に反対することを9月27日に決議しております。

「教養教育に専念することを義務付けられる」ということの根拠が不明確である。担当する科目が教養教育の科目だけであることや教養教育の企画に関与することが中心的な業務になることと、その教員が研究できなくなることとは別であると前回指摘した。教養教育に専念することと研究できなくなることとは同値ではない。


「ありきたりの教養教育」というのも何を意味しているのかはっきりしない。「最先端の研究に裏付けられた」という考え方は、反対側の文書で頻繁に登場するが、第一に、参考資料1から参考資料4の中で、教養教育の中身について、必ずしも研究の最先端の状況とリンクさせるのではなく、むしろ分野や時代によって変わることのない共通した基礎的内容の習得に重点をおくべきだとの指摘がなされていたことを忘れるべきではない。とかく「最先端」と言いがちであるが、最先端の研究の内容そのものを教養教育の具体的な中身に反映させなければならないとは限らない。反対側にはそのことを検討した形跡は見当たらない。


そして第二に、上で指摘したことの繰り返しだが、研究者として最先端の研究に従事していることと、科目の内容が最先端の研究内容とリンクしているかどうかとは別の問題だということだ。私は、「国際高等教育院」に所属する教員自身が研究活動もする一方で、担当している科目は教養教育の科目だけであるという状況になっていれば、「最先端の研究に裏づけられた広い視野」が損なわれることはないと考える。


反対側の主張の中には、「国際高等教育院」構想によって、教養教育が「ビジネススクール」化するとか「専門学校」化するというものがある。
しかし、例えば自然科学系の基礎として想定されている科目群を具体的に教えている「ビジネススクール」や「専門学校」は想定しづらい。あるいは例えば、人文・社会科学の基本的な書物を複数読ませることが参考資料1などで推奨されているが、それらも「ビジネススクール」や「専門学校」とは違うだろう。つまり科目の中身が、「ビジネススクール」や「専門学校」のものと同列になることは想定できない。またもう一度強調しておきたいのだが、科目の中身をより基礎的な内容にシフトさせることと、それを教える教員が最先端の研究に従事していることとは独立の話であり、科目の内容が直接最先端の内容とリンクしていなければ、「ビジネススクール」や「専門学校」と同列だというは乱暴すぎる。どうしてもこれらの批判は扇情的に見えて、中身がないと私には思えてならない。

京都大学「自由の学風」を謳い文句とし、学生のみなさんもそのことに大きな誇りをもって、この大学で学ばれていることでしょう。わたしたちは、いかにも京都大学らしい柔軟な発想に溢れた高度な教養教育を崩壊させる「国際高等教育院」構想に反対します。このわたしたちの活動に、ぜひともご理解とご協力をお願いします。

この記述は言葉だけが先行していて中身が不明確だといわざるを得ない。「自由の学風」とは何か。「いかにも京大らしい柔軟な発想に溢れた高度な教養教育」とはどういう意味なのか。残念ながら私には内容的な面も根拠の面も理解できない。

私は組織論については検討しないと(その1)で述べていた。このメッセージの中には組織論が多く提示されている。それを除くと、この文章の中にある教養教育に関する指摘はつぎのものだけである。

1.「国際高等教育院」構想は、教養教育の破壊です。
 私たちは、全学共通科目の教育と、専門科目の教育を序列化すべきではないと考えます。すなわち、全学共通科目を教える教員は研究をせずにたくさんの授業を担当させればよいとか、全学共通科目は有期雇用の教員に担当させればよいといった考え方は拒否します。同時に、専門教育担当者は全学共通科目を持つ必要はないという考え方にも与しません。たとえば、優秀な数学者が1年生の一般教育を教えたことで、お互いにその面白さに目覚めた例が、日本でも、また欧米の大学でもあるからです。研究はもちろん、大学院・学部の教育にも携わる教員が、その経験とセンスをベースに行う教養教育にこそ、学生は魅力を感じるはずです。とくに、本学の優秀な学生が、教養教育「専従」教員の授業に満足するとは到底思えません。

前回述べたように、京都大学の研究者には2つのレベルがある。文字通り最先端で分野を切り開いている研究者と、最先端の成果を追いかけつつオリジナルな研究成果を出しているがその成果の内容は、先達たちが切り開いた分野をより詳細に精密に理解するためだったり先達たちの結果を拡張したり補強したりするようなものであるような研究者である。私はこのレベルに応じて、教養教育の担当義務について緩やかなすみわけがあってもよいし、むしろそれは推奨されるべきだと考えている。


文字通り最先端で分野を切り開いている研究者には、その分野の開拓とその分野を志す専門課程の学生を指導してもらうことに重点をおき、後者のレベルの研究者は教養科目とそれに接続する専門基礎科目などを中心に担当するというすみわけである。学士課程の学生に最先端の研究の成果を周知したいということはあったとしても、そのことと半期ないし通年の義務としての教養教育を担当することとは負担の度合いが違いすぎる。分野を切り開いている最先端の研究者には、そのための十分な時間と彼らが薫陶を授けることが有益な専門課程の学生を中心に見てもらうほうが学問分野そのものにとってより有益だ。


私が「緩やかな」と書いているのは、2つの意味がある。ひとつは、最先端で文字通り分野を切り開いている研究者の話を学士課程の学生に聴いてもらう機会は確保されていてしかるべきだということである。しかしそれは半期や通年の教養教育というよりは、オプショナルなオムニバス形式の講義の形や短期集中の講義でやればよいし、「国際高等教育院」構想とは独立に考えればよい。もうひとつの意味は、「国際高等教育院」に所属している教員は専門教育や大学院生の指導を禁止するというような固定的な運用は避けたほうがよいということだ。何年かに一度、いくつかの専門科目を担当したり、大学院生と教員の両者が配属を希望すればそうした大学院の指導もできる柔軟な運用をすればよい。もちろん文字通りの意味で分野を切り開いている研究者であっても、半期や通年の教養科目を担当したいという希望があるのなら受け入れてもよいだろう。「国際高等教育院」に所属する教員が大筋で教養科目の企画・運営に参画することを中心としつつ、個々の教員については、学部専門教育や大学院教育に関して柔軟な対応をとればよいと考える。


こうしたことを前提にもう少し細かく記述を見てみたい。

  • 「研究をせずにたくさんの授業を担当させればよい」

たくさんといってもどれだけの講義を担当することが想定されているのか、推進・反対のどちらの側の議論からも見えてこない。既に書いたように、週5コマの講義というのはむしろ妥当なレベルであり、それによって研究活動が遂行できないとするのには無理があると考える。それよりも多くなるとすると、そもそも内容充実の観点から言って問題が出てくるが、それは「国際高等教育院」構想には依存しない問題である。誰であれ、週5コマを超えるような講義の質・双方向性を維持するのは難しい。

  • 「全学共通科目は有期雇用の教員に担当させればよい」

これも具体的にどういうことが想定されているのか見えてこない。現状、若手研究者が就職するポストの中に任期付きのものが増加している。任期付きの教員だと全学共通科目は担当するべきではないのだろうか。しかし任期が付いていても、最先端の研究を追いかけている研究者はたくさんいるし、その意味で、反対側が主張しているような、教育と研究が一体になった教養教育が阻害されるとも思えない。私が上で述べたように、研究者でありつつ科目の内容はより基礎的な内容のものを講義するというシステムであっても、実際に研究を遂行している有期雇用教員ならば十分に担当できるだろう。確かにこうした有期雇用の仕組みは、若手研究者の就職問題とあいまって、重要な問題のひとつにはなっているが、それと「国際高等教育院」構想とは議論の筋が別である。

  • 「研究はもちろん、大学院・学部の教育にも携わる教員が、その経験とセンスをベースに行う教養教育にこそ、学生は魅力を感じるはずです。とくに、本学の優秀な学生が、教養教育「専従」教員の授業に満足するとは到底思えません。」

既に述べていたように、私は、オリジナルな研究成果を上げている研究者が学士課程における教養教育を担当するべきであるということに同意する。しかしこの文章には、新しい観点が追加されている。「大学院・学部の教育にも携わる」ことだ。私は、そのことは必須の要件であるとは思わない。もちろん大学院や学部での教育の経験やセンスが、その教員の教養教育に何らかの良い影響を与えることはありうるだろう。しかし、それがないからといって魅力が減じられるとも思えない。その点では、私はオリジナルな研究成果を上げていること、そしてそのために最先端の研究内容をフォローしていることのほうがよほど重要であると考える。あえて学部や大学院の教育を必須とする積極的な理由が見出せない。

既に述べたように、「国際高等教育院」所属の教員が研究できなくなるというのは杞憂だと私は考える。ここで言う研究というのは言うまでもなく、「先達たちが切り開いた分野をより詳細に精密に理解するためだったり先達たちの結果を拡張したり補強したりするようなもの」という意味だ。私は文字通りの意味で分野を開拓している研究者を「国際高等教育院」に配属させることには反対である。その前提で、「研究できなくなる」は杞憂だといいたいのである。そしてその意味で「研究できる」以上、京都大学の優秀な学生を満足させる教養教育を行うことは可能であると考える。

  • 「優秀な数学者が1年生の一般教育を教えたことで、お互いにその面白さに目覚めた例が、日本でも、また欧米の大学でもあるからです。」

このような書きぶりをすることに私は否定的だ。
そもそもこの文章には「例がある」とほのめかしつつ、どのような例なのか根拠や具体の明示しないというトリックがある。こうした書き方はアカデミックな立場にある研究者の書きぶりとしては適切でないと考える。
この文章の中身をよく見てみよう。「その面白さ」とは何の面白さであろうか。「数学の面白さ」であろうか?しかし、1年生が数学の面白さに目覚めることをはあっても、「優秀な数学者」がいまさら「数学の面白さ」に目覚めるというのは考えにくい。では「一般教育の面白さ」であろうか?「優秀な数学者」が「一般教育の面白さ」に開眼することはあるだろう。しかし1年生が「一般教育の面白さ」に目覚めるというのは意味不明だ。「優秀な数学者は一般教育の面白さに目覚め、1年生は数学の面白さに目覚めた」ということなのであろうか。しかし、「お互いにその面白さに目覚めた」というときには、「優秀な数学者」も「1年生」も同じ面白さに目覚めていると理解しないと言葉が合致しないと私は感じる。そもそも教養教育で教員の方が何かに目覚める必要はなく、学生を目覚めさせることが教育の本分なのだから、この文章にはいまいち説得力を感じない。また、「優秀な数学者」という言い回しも気にかかる。これが一流の研究成果を上げているという意味なのだと私は推測するが、それは、専門教育を担当しているか否かとは別の問題だ。あくまでその人個人の成果の問題なのである。教養教育に携わるものが研究を遂行していることは大切だと何度も繰り返してきた。しかしそれは専門教育を担当していることを義務付けることとはまったく別の問題だと考える。

4.私たちは、決して現状維持を主張しているのではありません。
 人間・環境学研究科教授会では、9月の段階で、総長の提示する「国際高等教育院」構想の対案として「CU(Core Unit)21」構想を提案し、総長はじめ、各部局長に送付しています。これは、総長指名の責任者、および、10学部から各2名の出向教員によって構成される常駐組織であり、高等教育研究開発推進機構の弱点とされる「企画力」を強化する組織です。ここでは、「人文・社会科学系科目群」「自然・応用科学系科目群」「外国語系科目群」「現代社会適応科目群」「拡大科目群」それぞれに4名ずつの企画・調整担当の教員を配置し、各学部の意見を集約して適切な改革を行います。これによって、従来の弱点は克服できるにもかかわらず、総長は真摯に検討していません。

という記述についても一言触れておこう。
 既に繰り返してきたように、参考資料1から参考資料4は、単に組織上の問題や「企画力」の有無だけを問題にしているのではなく、広く学生の状況に対する危機意識から教養科目の内容上の問題点までを取り上げ、そのための改善策のひとつを提示していた。にも関わらず「現状維持を主張しているのではありません」の中身は、基幹ユニット構想という組織論に終始し、「4名ずつの企画・調整担当の教員を配置し、各学部の意見を集約して適切な改革を行います。」というような改革の中身が全く不透明で、しかも問題意識の向きが変容してしまったような書き方をしたり、「これによって、従来の弱点は克服できる」などという安易な断定を行ってしまっている。こうした記述は、やはり「国際高等教育院」構想に反対する側が、参考資料1から参考資料4で提示された論点を十分に把握できないまま、自らの組織を変更されることや人事権を奪われることだけに執拗に反対していると見られても仕方なく、それは「現状維持」の「抵抗勢力」に過ぎないと断ぜられても文句は言えないとさえ私には思えるのだ。

(2)石原昭彦教授から総長への手紙

人間環境学研究科の教授が総長へ出した手紙が公開されている。人間・環境学研究科 石原昭彦教授から総長への手紙

この手紙の内容について検討しようと思う。

現在、人間・環境学研究科 (総合人間学部) の縮小・廃止で研究科は大きく揺れ動いています。私自身はこのような状況ではとても研究・教育に集中することができず、毎日が非常に苦しく辛いです。

現在多くの若手研究者が任期付きの職のもとで研究と教育活動に従事している。来年度以降の就職先を探して公募書類を出している若手のポスドクも多いだろう。そういう人たちがこの記述を見てどう思うか、果たして石原氏は考えたのだろうか。終身の雇用が約束されている教授が、組織改編があるので、研究・教育に集中することができないとか非常に苦しく辛いというのなら、任期付きの職にある若手研究者はどうすればいいというのだろうか。非常に荒っぽく言うが、組織が変わっても、雇用が約束されているなら、研究も教育も出来るはずだ。

共通教育 (全学共通科目) の充実を図ることは重要であり、現状で問題ないと結論できるものではありません。しかしながら、人間・環境学研究科 (総合人間学部) の多くの教員を国際高等教育院 (仮称) に移籍させたとしてもそれで解決できる問題ではありません。その理由は、共通教育を専任とする教員が、それを理解してモチベーションを維持して授業を続けることができないからです。私たちは、毎日、学部学生や大学院生と一緒に研究に対して全力で挑戦を続けています。そこから生まれる独創性、斬新性、新規性は、研究を進める活力になるだけでなく、講義、演習、ゼミ、実験で大きく活用されています。全学共通科目の授業では、単に基礎知識だけを教えるのではなく、社会の動向に素早く反応して常に新しい情報や話題を提供する必要があります。これについては、日本の将来を支えていく京都大学の学生・院生に対して特に強く主張できることです。

前段の主張は意味が良く分からない。「それを理解してモチベーションを維持して授業を続けることができない」というのはどういう意味だろう。「それ」とは何をさしているのか。「共通教育専任であること」だろうか。共通教育専任にされると、モチベーションが低下するというのだろうか。どうもその理由がよくわからない。誰しも意に染まない形で何かを行わなければならないことはあるが、それでモチベーションが下がるなどというのは言い訳のようにしか聞こえない。「学部学生や大学院生と一緒に」というのも不可解だ。一緒でなければ、独創性も斬新性も新規性も得られないのだろうか。研究に挑戦していれば、その組織はどうであれ、独創性、斬新性、新規性が生まれるし、それを講義に活用できるだろう。

後段の主張は、少し慎重に検討しなければならない観点を含んでいる。石原氏の手紙にはこの「社会的有用性」の観点がかなり頻出するので、あとでまとめてもう少し詳しく議論するが、いまここで一言で問題点を述べるなら、「社会的有用性」をあまり安易に主張することは、反対側の中でさえコンセンサスにはなっていないのではないかということである。

私がこれまでに行ってきました全学共通科目の授業では、基礎知識に加えて私自身が積み重ねてきました研究成果を国内外の最新の研究と比較しながら説明しています。その説明には、常に自信と誇りと学生の将来への期待が込められています。授業に出席する学生の眼は間違いなく輝いています。授業後には、期待通りの展開を終えた充実感と、その反面、学生の勉強心を十分に引き出せなかった悔しさが混じり、いつも反省を繰り返しています。それができるのも研究を継続してきた自身の軌跡があるからです。

ここにも2つの問題点がある。

既に何度も繰り返しているが、研究成果や最新の研究を述べることが教養教育の役割であるとは限らないし、またあまりそうしたことを追求しすぎて、教養教育が専門基礎教育となってしまっていないかという指摘が参考資料1から参考資料4の中で述べられているのであった。この記述にはそうしたことを踏まえた形跡が見当たらない。

もうひとつの問題点も繰り返し指摘していることだが、研究ができているのならば組織の問題は二義的だ。担当する科目が教養教育に限定されていることと研究が出来ないこととは別の問題である。

研究を背景に持たない授業がいかにつまらなく、学生の学習意欲を損ねるかは、京都大学での教養部、総合人間学部、人間・環境学研究科を通しての20年以上に及ぶ教育から十分に理解しています。学生がワクワクと胸を躍らせて勉強したり、多くの疑問や質問を投げかけてくれたり、さらに授業時間を超えて自主勉強したいと思う気持ちを持つことができる授業を企画するためには何が必要でしょうか。共通教育 (全学共通科目) の役割は、幅広く基礎知識を身につけることだけではなく、社会に出て生かされるもの、役立つものでなくてはなりません。

これも上と同様だ。自身の研究ができているのなら、研究に背景を持たない授業にはなりえない。「国際高等教育院」所属の教員が研究できないという指摘は的を得ているとは言いがたい。

私たちが、共通教育を通してどのようなことで学生を育てることができるのでしょうか。共通教育の目的は、既存の知識を詰め込むこと、知識の幅を広めることなのでしょうか。それならば、大学で授業を受けなくてもインターネットや書籍で身につけることができます。通信教育でも問題なく行えると思います。しかし、京都大学の全学共通科目の授業はそれでは成り立たないのです。
共通教育 (全学共通科目) を通して、授業内容に対して感動や強い印象を持ってもらうことが大切だと思います。学生に授業を行う先生の熱意や素晴らしさを感じて欲しいと思います。それが学生の心を豊かに、そして暖かくして、社会に役立つ京都大学出身の社会人を育てることになります。そのためには、授業を行う教員が、プライドと自信を持って学生に接することが不可欠です。そのためには、教員が学生に誇れる研究を進めていることが大前提になります。

共通教育の目的が「既存の知識を詰め込むこと」であるとは「知識の幅を広めること」だとは、少なくとも参考資料1から参考資料4の中では主張されていない。何度も取り上げた記述「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」のどこが、「既存の知識を詰め込むこと」とか「知識の幅を広げること」なのだろうか。こういう要約の仕方はあきらかに教養教育というものの価値に対する問題意識を低下させてしまうものであり看過できない。

おまけに提示される共通教育の価値が、「感動」とか「強い印象」とか「熱意」とか「素晴らしさ」といった感覚的なものに過ぎないことや、「学生の心を豊かに、そして暖かく」などという情操的な記述に終始している。参考資料1から参考資料4は、教養教育の理念やその実現について踏み込んだ提案をしている。具体的にどのようなことを習得してもらうことを目標にするか、そのための改善案はどういうものかということが、提示されていたはずである。それに対する応答がこれほどまでに感覚的なものになってしまうのは、やはり問題意識を十分に把握しきれていないのではないかと疑わせる。

そして組織改編が行われると、自信やプライドがもてなくなるとか、誇れる研究が出来なくなるなどという批判も非常に感覚的で受け入れがたい。

現状で人間・環境学研究科 (総合人間学部) の教員を共通教育の専任教員に移籍させたとしても、それで解決できるものではないと思います。共通教育の改革に向けては、これまでにアンケートや委員会で討論が繰り返されてきました。しかし、それが実を結んで現在の改革に至ったとは考えられません。それは、全学共通科目の授業を受講する学生や授業を行う教員の目線に合わせて、どこに問題があるのかを真に見極めていないことによると思います。学生が全学共通科目に何を期待しているのかを理解していないことによると思います。すなわち、現状では、「全学共通科目は卒業するために必要な単位を揃えるためにある」という学生の意識が前提にあるからです。学生には、「全学共通科目は重要であり、社会で必要になり、役立つものであることを理解してもらう」こと、教員には、「それを学生に理解してもらうにはどのような授業を企画しなければならないかを検討する」ことが大切と思います。

それは参考資料1の段階で提起されている問題意識をなぞったに過ぎない。この石原氏の手紙は、結局ようやく最後になって、参考資料1から参考資料4の問題意識にたどりついただけであり、むしろ議論の主要なポイントはその先にあるということに無自覚であるといわざるを得ない。

人間・環境学研究科 (総合人間学部) の縮小・廃止で不安・心配なことがあります。これまでに学部を卒業した学生、大学院を修了した院生、さらに、就業中の学生・院生の気持ちを考えたことはありますでしょうか。社会に巣立った多くの学生・院生が出身学部・研究科が縮小・廃止することに対してどれほど悲しんで落胆することでしょうか。学生・院生は、総合人間学部を卒業、人間・環境学研究科を修了したことを誇りに思い、それを心に刻んで社会で活躍しています。その足場を失うことは非常に辛く寂しいことになります。どこの学部や研究科の出身者も同じ気持ちではないかと思います。これまでに築き上げた伝統や歴史を当事者の意見や気持ちを考慮せずに失くしても良いのでしょうか。共通教育 (全学共通科目) を推進するシステムを再構築することは必要ですが、学部・研究科の構成員の個々の気持ちを確かめたり、理解せずに縮小・廃止することには無理があると思います。

このようなことを言っていたら組織の改編は決して出来ないことになってしまう。このような議論は、現状維持を望んでいるだけだとみなされるだけでなんら建設的とは言えないと思う。

総合人間学部・人間環境学研究科の発足以降に採用された教員は、今回の件をどのような気持ちで捉えているとお考えでしょうか。公募で厳しい審査を受けて採用された教員は、研究に対する夢と期待を持って本研究科に赴任されたことと思います。研究を生きがいとし、学生・院生を育てることに全力を捧げてきた教員の気持ちをどのようにお考えでしょうか。これは、どこの学部・研究科の教員も同じではないでしょうか。研究分野にかかわらず、研究指導を行うことによって学生・院生が育ち、学生や院生の気持ちが理解できるようになります。そのような教育・研究環境を持たない教員が授業を展開しても、どれだけ充実した授業ができるのでしょうか。

私は、京都大学の教員であることを誇りに思います。さらに、人間・環境学研究科の教員であることを誇りに思い、研究と教育に邁進してきました。研究を基盤として、学生・院生を指導できることに生きがいと熱意を感じています。それが、学部専門科目、大学院の授業だけではなく、全学共科目の授業に大きく反映されていることは間違いありません。研究を基盤として授業が成り立っています。

「学生や院生の気持ち」を「理解する」という感覚的な記述が再び登場している。そもそもそれは講義をする上で必須の要件なのだろうか。
研究できないという指摘が一方的過ぎるのではないかということは既に述べたので繰り返さない。

《社会的有用性》

石原氏の文章には、「社会的有用性」についての記述が登場している。改めて抜き出してみると次の3箇所になる。

  • 全学共通科目の授業では、単に基礎知識だけを教えるのではなく、社会の動向に素早く反応して常に新しい情報や話題を提供する必要があります。これについては、日本の将来を支えていく京都大学の学生・院生に対して特に強く主張できることです。
  • 学生には、「全学共通科目は重要であり、社会で必要になり、役立つものであることを理解してもらう」こと、教員には、「それを学生に理解してもらうにはどのような授業を企画しなければならないかを検討する」ことが大切と思います。
  • 共通教育 (全学共通科目) の役割は、幅広く基礎知識を身につけることだけではなく、社会に出て生かされるもの、役立つものでなくてはなりません。

このような記述は、非常に注意深く扱わなければならない。
これまでに検討してきた参考資料1から参考資料4の中では、

  • 教養・共通教育の重要性が再認識されるに至った背景には、学問研究の高度化・精緻化に伴い、専門教育の細分化が進展する一方で、環境や生命をはじめ、現代社会が直面する重要な課題が、より複合的で深刻な価値観の対立を含むものになって来ている状況がある。このような課題に対応するためには、多様な専門分野間での共同が必要であり、異なる価値観や視点の共存を図るとともに、現在の世代だけではなく、将来の世代に対する配慮をも欠くことができない。
  • 我が国や国際社会において指導的な役割を果たす人材を輩出していくためには、自らが専攻する分野について高度な専門的知識・能力を確実に修得させるとともに、共時的にも通時的にも多元的な視点で考察することができる知識や能力を身につけさせることを通じて、開かれた知的姿勢をもって、自ら課題を設定し探求していく創造的な能力を育成していく必要がある。もちろん、各人が専攻する分野における専門的知識・能力の修得が、これからも大学教育の最も重要な目的であることは言うまでもない。しかし、これからの社会において、そうした専門的知識・能力が十全に発揮されていくためには、自らの専門性を全体の中に的確に位置づけるとともに、異なる分野や異なる見方・考え方と対話し、多元的な視点で考察する能力が益々重要になるであろう。
  • 本学の卒業生は、研究者あるいは高度専門職業人として、様々な領域で知識基盤型社会を牽引していくことが期待されるだけではなく、健全な良識と深い人間的洞察力、そして高い責任感・倫理感をもって、自由で公正な民主社会の担い手となることも求められている。そのために必要な基本的知識・資質を身につけさせることも求められる。

といった記述の中に、社会の動向や要請、社会で役に立つことなどの観点が盛り込まれてる。

 さらには、学際科目について述べた中で、

  • 学際的な科目を提供する場合には、現代社会の抱える包括的課題や新しい研究分野等の中から、京都大学における教育にふさわしい一定のテーマを精選し、学際的な科目群を設定した上で、授業科目を適切に編成して、学生に履修をさせることが望ましいと考えられる。 どのような科目群が適切かは、今後の検討が必要であるが、例えば、「生命」、「心と意識」、「都市と生活」、「科学史・科学哲学」などが考えられ、人文学系、社会科学系、自然科学系の教員が共通のテーマの下に集まり、リレー講義やワークショップ形式の講義を行うことも考えられる。

のように述べることで、現代社会の動向に直結した問題意識に関する講義の開講も検討されている。

その一方で、

  • 文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である。
  • 自然科学系科目群の設定に当たっては、研究の流行を反映したトピックス的なものではなく、通時的な価値観の変化にも耐えうるような基本的、基盤的なテーマを設定し、長い学問的営為から自然に生じた分野により科目群を編成する。
  • 教養教育に関しては、本学の目指す卓越した知の継承に必要な基礎的(ファンダメンタル)な内容の授業展開に配慮する。

といった観点からは、必ずしも流動する社会の動向に囚われず、より基礎的でしかも価値観の変化に影響を受けにくい部分を重点的に教えるべきだという観点も盛り込まれている。
 また、文系にとっての理系科目、理系にとっての文系科目の重要性が強調されていた点においても、専門教育の内容と同レベルでその学生が社会に出た場合に役に立つスキルといういうよりは、まさに基礎的教養としての内容に重点をおいた科目の必要性が示されていた。

 語学科目については、少し赴きが違っている。

  • グローバル化の進展の中で、様々な分野で指導的な役割を果たす人材は、人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できることが期待される。そこで、「一般学術目的の英語」においては、ディスカッションやライティングなどの、言語技能的な側面をより重視する教育を行う方向性で検討する必要がある。
  • プレゼンテーションやディベートといった場面でのより実践的な英語力に対するニーズが、社会的にも、また、学生の側からも指摘されているところである。今後、このようなニーズの更なる高まりが予想されるところであり、このような点にも配慮して教育内容の充実を図る必要がある。
  • 英語部会はリーディング/ライティングを中心とする学術目的の英語教育を重視しているが、学生はオーラル・コミュニケーション等のより実践的能力の向上も求めており、学生の希望と科目提供の間に齟齬があるのではないかとの指摘がある一方、大学は海外旅行に必要な程度の英会話を教える場ではないとの意見も出された。

といった記述の中には、学生の要望のみならずグローバル化の進展というような社会状況に応じて内容を変えていくべきではないかという指摘がある。
 語学科目において、学生のニーズや社会的要請ということがやや強く押し出されているのは、やはり、1授業で1,2ページしか進まない熟読型の講義というものが重視されすぎてきたのではないかという問題意識があるのだと考えられる。この点には賛否両論があるだろうことは想像に難くないが、しかしその問題意識そのものは理解できる。

 こうした記述から私は次のように述べたい。

 参考資料1から参考資料4の中で検討されてきた教養・共通教育に対する問題意識や改善のための提案の中では、社会の動向や社会において役立つことに対する配慮を一定程度示す一方で、どのように社会が変化しようとも教養としてみなされるべき内容を精選して、教養・共通教育の中で提供しようとする意識が明確に表明されていると考える。そのバランスはかなり絶妙に調節されているように見えた。


 その点で石原氏が指摘しているような「単に基礎知識だけを教える」とか「幅広く基礎知識を身につけることだけ」を意識しているわけではないし、石原氏が述べているような「社会の動向に素早く反応して常に新しい情報や話題を提供する」ことや「社会に出て生かされるもの、役立つもの」という観点にも一定の配慮を示している。この点で、私は石原氏の指摘は、参考資料1から参考資料4の中で示された論点の中に既に含まれているものだといわざるを得ない。


 そしてもうひとつの問題点は、「社会の動向に素早く反応して常に新しい情報や話題を提供する」ことや「社会に出て生かされるもの、役立つもの」という観点は、そもそも、今回の「国際高等教育院」構想に対して、反対側が賛成側の底意であるとして批判していた論点なのではないかということである。


 大学における教育において、社会に出て直接的に、そして即座に役に立つような内容が提供されるべきだという議論は、むしろ今日非常に根強いものがあるといってよいと思う。「国際高等教育院」構想がこのような社会的要請に即応する形で「ビジネススクール・専門学校化」することへの危惧は、むしろ従来から反対側が提示している論点のひとつであったはずである。石原氏の手紙は、この点で、反対側の議論と方向性が異なっているように明らかに見えてしまう。「社会」という言葉を使う議論は、非常に慎重でなければならない。その慎重さが石原氏の手紙には見受けられないことが問題なのである。
 しかも私は、反対側が「国際高等教育院=社会的要請に応えるビジネススクール」であると断定する議論には無理があるということを参考資料1から参考資料4を検討する中で示してきたつもりでいる。石原氏の手紙は、率直に言って、教養・共通教育に関する議論をかみ合ったものにさせるどころか、かえって混乱させてしまう内容を含んでいるといわざるを得ないのである。

(3)動画『「国際高等教育院」構想と総人・人環の再編案を問う(2012.11.15)』

 「国際高等教育院」構想と総人・人環の再編案を問う(2012.11.15) と題された動画がyoutubeで閲覧できる。この動画の中では何人かの教員が意見を述べている。ここでは、岡真理氏の発言を取り上げて検討してみたいと思う。岡氏の発言は動画の19:10あたりから始まる。岡氏の発言を文章に起こしているが、一部正確に聞き取れない箇所もあるので、完全に正確なものではないことをあらかじめお断りしておく。

わたしたち教員だけではなく、教わっている学生さんたちを含めて、人間を愚弄している。

というかなりどぎつい発言が冒頭から行われている。しかし、そのあとに続く発言が、

大学という制度が人間を愚弄しているのは、今に始まったことではなく、例えば、非常勤職員の方の5年雇い止めとか、そういうのは除々にあった。
人間を労働力としてしか見ていない、代替可能なものというような。

というのはいささかいただけない。これは「国際高等教育院」構想とはまったく別の論点だ。「国際高等教育院」構想の何が「人間を労働力、代替可能なものとしてしか見ていない」というのだろうか。問題意識が全く理解できないのである。非常勤職員の5年雇い止めの問題が軽い問題だといっているわけではない。この問題は、正規雇用と非正規雇用という日本の雇用問題のひとつの中心的なテーマを深く関係している重要なトピックであろう。しかしそれと「国際高等教育院」問題を関係付けようとするのは暴論だ。

次の発言は

総人・人環の解体ということになれば、この10年間自分がしてきたこと、あるいはこの10年、11年の間、学生さんたちが私あるいは私たちのもとで学んできたこと、そうしたことが否定されている。そういう人材はいらないんだということ。

というものだ。
 これも暴論である。教育というものには、そもそも完全な正解などというものが存在するわけではない。であれば教育という営みそれ自体が、未完の試行錯誤の繰り返しということにならざるをえず、その中で、教育のシステムやその内容というものを見直すということは必要な作業なのである。かつて「ゆとり教育」というものが導入され、その結果を様々な観点から検討した結果、これは見直すべきだという方向性が打ち出された。その方向性の是非は今後様々な形で議論されていくだろう。しかし、そのことと、「ゆとり教育」を受けた人材が不要だとか、その人材を否定しているとか、愚弄しているとか、そういうことには全く当たらない。そういうことを言い出したら教育制度やその内容の見直しはすべてそれ以前の人材の否定になってしまう。そういう暴論は慎むべきだ。

続いて、現在進行していることの問題点として、

  • 教養教育の全否定
  • トップダウン式の強権政治
  • 「自由の校風」の否定
  • 総人・人環の実質解体

があげられている。
 しかしいったい誰が教養教育を全否定したというのだろうか。そういうスローガンをいくら並べても建設的な議論にならない。唯一これが正しい教養教育のあり方だという正解があるわけではない状況なのだから、自分たちの目指す教養教育のあり方はどういうものなのかを述べ、相手がどのような教養教育像を提示しているかを曇りのない目で把握し、必要なら問題点を具体的に指摘してよりbetterな形になるように、かみ合った議論をするべきだ。

 岡氏は、大川勇氏の議論を引用して、次のように述べている。

 大学における教養教育というものがいつどこでどのようにして始まったのか、それは普仏戦争のとき、19世紀のプロシア、今のドイツ。普通に考えれば、国が戦争しているときになんでシェークスピアなんだ、とかね。なんで敵国のフランス文学を学ばなければいけないのか、そんな時じゃないだろうというような話になるわけですが、そうじゃないと。国がナショナリズムを、ことあげして(ママ)戦っているときだからこそ、普遍的な世界的な教養というものが必要なんだという、まさにそういう視点なんだと思います。そしてそういう理念のもと、たとえば日本では旧制高校ではドイツ語やフランス語を教え、さらに漢文も教え、そしてその伝統の上に京都大学の教養部というものがある。そして教養部時代から教養課程を担ってきた多数の先生方による教養の教育というものがある。その伝統の上にある。言ってみればそういう伝統が全部否定されているんだ、ということです。

再び全否定されているという議論が出てくる。しかしそういう問題の立て方自体に無理がある。参考資料1から参考資料4の中で示された様々な論点は、教養部以来の伝統を否定するものではなく、それらを踏まえつつ、現在の学生の状況に鑑みて、どのような改善をしていくべきかということの一案を提示しているのである。


しかも、上の岡氏の議論では、教養教育というものの起源は語られていても「普遍的で世界的な教養」とはどういうものなのか何も語られていないし、そもそも普仏戦争のときの大学と今の大学とでは、入学してくる学生の数やレベルひとつとっても、置かれている状況が全く違うのではないだろうか。そういう状況を捨象して、今日の教養教育と比較してしまうのは暴論であると思う。ナショナリズム云々などと言い出す前に、もっと整理しておかなければならない論点があるはずだ。


岡氏の議論は次のように続いている。

 教養ってなんでしょうか。松本総長は、グローバルな人材を育てたいとおっしゃっている。グローバルな人材ってなんなのか。松本総長によれば、それは大学1回生からネイティブスピーカーの授業に出て英語がぺらぺらしゃべれるような人のようです。そしてたぶんビジネスで英語を活かしてお金をいっぱい稼ぐということなんだと思いますけれど、グローバル、グローブって惑星のことです。惑星規模的な人間ってなんでしょうか。惑星規模で歴史を考える、人間を考える、世界を考える、45億年、地球の45億年の歴史、あるいはもっと言えば、宇宙創成の時からの、そういう規模で、人間を世界を歴史を考える、まさにそれを総合人間学部、人間・環境学研究科がやっているわけです。

「大学1回生からネイティブスピーカーの授業に出て英語がぺらぺらしゃべれるような人」などという話が、参考資料1から参考資料4のいったいどこに出てきたというのだろうか。既に見ていたように、例えば参考資料1では、

  • グローバル化の進展の中で、様々な分野で指導的な役割を果たす人材は、人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できることが期待される。そこで、「一般学術目的の英語」においては、ディスカッションやライティングなどの、言語技能的な側面をより重視する教育を行う方向性で検討する必要がある。

と述べられていた。これを「大学1回生からネイティブスピーカーの授業に出て英語がぺらぺらしゃべれるような人のようです。そしてたぶんビジネスで英語を活かしてお金をいっぱい稼ぐということなんだ」というように要約しているのだとしたら、むしろその読解の方にこそ問題があるといわざるを得ない。しかも、参考資料1から参考資料4は単に語学だけではなく、教養・共通科目全体が検討されているのであり、こういう議論のまとめ方をするのは問題を矮小化している。


後段にも問題がある。ここで問題になっているのは、教養・共通教育であって、総合人間学部や人間・環境学研究科の教員が具体的にどのような研究をしているか、「惑星規模」の研究をしているかということではない。教養・共通教育の中で、学生にどのような科目を提供し、それによって何を習得してもらうのか、という点である。そういうことに対する具体的な議論はなおざりにされた挙句、岡氏の発言は次のように続く。

惑星規模で考えるというのは、ドイツ語やフランス語だけ学んでヨーロッパのことだけ学んで西洋のことだけやればいいのか、なぜアラビア語を教養課程で教えるのか、なぜ中東のことを学ぶのか、そうじゃない視点がある、そうじゃない世界の見方、歴史の考え方があるんだということを学ぶ。そういう人材はいらないということなんです。いま進んでいるものというのは。そんなことやんなくっていい、学部1回生から専門の基礎をやって、必要最小限の英語が活用できるようになるような、それをやればいいんだ。


これを進めている人たちにとっては、なんでアラビア語なんかやるんだ、なんで別に中東いったら英語でやればいいのに、なぜ中東のことなんかやるんだ、という話になるわけです。

ここに至って、岡氏の発言は、参考資料1から参考資料4で述べられていた観点をすべて無視して、安易な断定へと流れてしまっている。
 参考資料1の冒頭で、

  • 教養・共通教育の重要性が再認識されるに至った背景には、学問研究の高度化・精緻化に伴い、専門教育の細分化が進展する一方で、環境や生命をはじめ、現代社会が直面する重要な課題が、より複合的で深刻な価値観の対立を含むものになって来ている状況がある。このような課題に対応するためには、多様な専門分野間での共同が必要であり、異なる価値観や視点の共存を図るとともに、現在の世代だけではなく、将来の世代に対する配慮をも欠くことができない。
  • 青年期後期にある学生の人間形成の観点からは、「未知なるもの」あるいは「自分とは異なるもの」と接触し対話を図ることによって、より広い世界の中で、自己とは何かを考え、自らの現在の位置を見極めると同時に、新たな自己の可能性を切り拓いていくことが、重要であると考えられる。こうした経験を積み重ねることにより、異なる考え方や価値観を有する人々との共生を図りつつ、社会における自らの役割と責任を自覚し、より高い次元において自己を実現していくことが可能となる。

と述べられていること、そして語学科目の箇所でも

  • 言語は思考・文化の結晶であることから、母国語と異なる言語を学ぶことによって、異なる見方・考え方あるいは価値観を学び、多文化理解を図ること

があげられ、初修外国語に対しても

  • 限られた時間での初修外国語教育の効果を考えたとき、そこで獲得された知識が多文化理解に十分活かされているとは言えない場合もあることから、それぞれの学士課程教育の中において、多文化理解を目的とするA群科目を初修外国語と関連付けたり、あるいは、それに代えるなどの方策も考え得る

という具体的な方策があげられているということを無視しているのだ。
 問題になっているのは、「異なる価値観」に触れるか否かではない。「触れる」ことは教養・共通科目の目的の中に組み込まれているのである。西洋のことだけでいいとか、アラビア語を学ぶ必要はないなどというような断定はどこでも行われていない。むしろ問題なのは、「どのようにして」異なる価値観に触れさせるか、また「どのような科目で」提供するかという点なのである。この点で岡氏の発言は問題意識を低下させているに過ぎない。


 さらに、岡氏の発言は、既に何度か触れてきた反対側の典型的な言い分と誤解が端的に示されている。「国際高等教育院」構想では、「学部1回生から専門の基礎をやって、必要最小限の英語が活用できるようになる」ことを目的としているというのは、少なくとも参考資料1から参考資料4で示された問題意識やその改善ための提案とは、まったく乖離しているといわざるを得ない。
 第一に、参考資料1から参考資料4の中では、「学部1回生から専門の基礎をやれ」などという方向性は全く示されていない。むしろ逆である。高校での履修内容の多様化などを背景に、専門教育の基礎を低回生から行わなければならないことによって、教養・共通教育の体系的履修が阻害されているという問題意識が提示されているのである。その状況を改善するために、過度に専門基礎科目を低回生から配当することを避けつつ、グループ化と階層化によって、専門教育とは一線を画した形で、体系的な教養・共通科目の履修を促進させるべきであると提言しているのである。岡氏の指摘は完全に的を外している。
 第二に、参考資料1から参考資料4が提示している語学、とくに英語教育のあり方について、「必要最小限の英語の活用」などというまとめ方をするのは一方的過ぎる。繰り返し引用してきたが、

  • 人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できること

という目的が、「必要最小限の英語の活用」であるはずがない。まず「人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題」について論じた英語の文章が読めなければならないし、それについて語学とは別に思考することが必要であり、そしてその思考を英語の形で表現し、発表できなければならない。このような目的は容易なことでは達成できない困難な課題であると思うし、ひとつの目的として十分検討に値するのはもちろん、それをどのような科目と内容の形で提供するかということ自体、教養・共通教育における語学科目の位置づけを考えるための適切な問題意識であると私は考える。この点でも岡氏の発言は問題を矮小化させているといわざるを得ない。

 岡氏の発言はこのあと組織論や手続き論に移っていく。それについてはこの文章で検討するつもりはない。
 岡氏の最後の発言だけ取り上げよう。

 数の上だけ見ると、総人・人環の教員という既得権益集団が既得権を守るために、異を唱えているかのような印象を与えるかもしれません、内情を良く知らないと。でもそうではないということ。確かにいまの教養・教育課程、全学共通教育、いろんな問題点があると思います。改善すべき点はたくさんあると思います。でもそれは改善すればいいんです。いまのシステムのままでもいくらでも改善できます。

 要するに、いまやろとしていることは、全学共通科目を良くする、改革するといいながら、そうではない。それだったらこんなことをしなくても改善できるのに。要するに改革のための改革だということ。私たちが守ろうとしているのは決して自分たちの既得権というようなものではなくて、でももし既得権という言い方をするのであれば、さきほど申し上げたような普遍的理念に照らした教養教育をすることができるという、これはものすごく大きな特権だと思います。


 そして本当に未来を、この地球の未来を担う人材を育成しているんだというそういう誇りをもって教育に携われるという。本当にそれはこういうことが起こってから私も認識しました、すごい特権だと思います。この権利だけは手放したくない。そして是非みなさんも、こういう教育を受けることによって全人的な人間としてつくられていく、それを特権として手放して欲しくない。いま起きている改革案というのは、大学の主役である学生さんにとって何にもいいところがひとつもない、そういう改革だから反対しています。

 単に既得権を守るために反対しているというわけではないと主張したいなら、何が問題でどう改善できるのかを明確に語らなければならない。
 「いろいろ問題がある」とか「改善すべきところはたくさんある」といいながら、どのような問題があるのか、どのような点を改善しなければならないのか、という具体的な指摘が皆無である。にも関わらず「いまのシステムのままでもいくらでも改善できます」などという断定が行われている。こういう議論の仕方に問題がある。

 もうひとつ問題点を指摘するとすれば、「普遍的理念に照らした教養教育」なるものが全く不明確だということだ。何が普遍的理念なのか何も説明されていない。そもそも異なる価値観へ目を向けることを説く者が、安易に「普遍的理念」などと口にしてもよいのだろうか。私はあえて、岡氏のそのようなスタンスに疑問を呈したい。

 さらにもうひとつ「大学の主役である学生さんにとって何にもいいところがひとつもない」などという断定も行き過ぎだ。「教養・共通教育の体系的履修」は十分に学生にとっても有意義なことであろう。今よりもその方向性を強く打ち出していくことに何のいいこもないなどと断定するべきではない。こういう何もかも全否定の態度の方にこそ問題があるのではなかろうか。

 
 この動画の岡氏の発言のあとに、伊勢田哲治氏が話している。その中で、次のような発言がある。

  • 本人たちが納得していないのに、異動させるというのは、どう考えてもそう簡単に認めていい話ではないわけです。 
  • 労働条件が悪くなればなるほど、働く人間にとって魅力的ではない大学ということになります。その結果どういうことになるかというと、結局面白い授業をする先生というのはこの大学からいなくなります。学生の皆さんも是非面白い授業が聞きたいと思ったら、面白い授業をする先生をサポートしてあげて欲しいと思います。

 この構想と教員の労働条件や環境に関する話はあまり深入りするつもりはない。しかし、今回の教養・共通科目の再編成という論点を、「面白い授業」などという安直な言葉で括って欲しくはない。確かに「面白さ」はひとつの尺度ではあるだろうが、参考資料1から参考資料4の中で提示されているさまざまな問題意識や改善のための提案は、単に「面白い教養・教育」などというレベルの低いものではない。今日の教養・共通教育とはどうあるべきか、その理念と学生の現状とがどのような乖離を示しているかを提示し、その上で、具体的にどのように改善していくべきか、という一案を提言しているのだった。それを単に「面白いか面白くないか」などという論点でまとめること自体問題意識の低下である。このような議論をしているだけでは、建設的な議論にならないし、そもそも議論がかみ合わないだろう。

(4)ツイッターアカウント「自由の学風@orita_hikoichi」のつぶやき

「国際高等教育院」構想に反対する側が、ツイッターなどの媒体を使って発信している意見もある。ツイッターアカウント「自由の学風@orita_hikoichi」もそのひとつである。

 しかしあえて率直に言うと、このアカウントで主張されていることをまともに取り上げようという気にはなれない。高々140字のつぶやきを積み重ねたり、先達の発言をいくら引用してみたところで、「国際高等教育院」構想それ自体や教養・共通教育のあり方について具体的な議論をするためには曖昧すぎる部分があまりにも大きく、どのような問題意識と射程で具体的にどのような意図があるのか判然としないものばかりだからである。それでは議論が深まらないし、応答のしようがない。

例えば

  • 「理念なきトップダウン改革」から「自由の学風」は生まれない。三高の時代より、「自由の学風」は京大の憲法である。
  • 中教審のまとめは「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」である。それに対する答えが、なぜ、ビジネススクールのような国際高等教育院なのだ?予測困難だからこそ、「ムダ」知識が必要なのだ。
  • 京大生に期待されているのは「レールの上を走ること」ではありません。京大生に期待されているのは「新たなレールを敷くこと」です。未開の土地に地図はありません。いくら成績が良くても、教科書だけの知識は役に立ちません。
  • 役に立つことがわかっている知識は「基礎知識」である。教養とは「アホ」な知識である。教養とは評価不可能な知識である。評価の軸は、価値観によって、正負が逆転し得る。価値観が決まらなければ、評価はできない。教養とは、価値観を構成する素となる知識である。
  • 教養とは、すぐに役に立たない、漠然とした知識の集合である。世の中、すべてが予測可能であれば、教養はいらない。将来が予測不可能だからこそ、教養が必要になる。教養がなければ、場当たり的行動はできない。カオスの世の中を生き抜くためにこそ、教養は必要である。
  • 京大の自由さ、いい加減さが、世間の尺度に合わないのは事実。しかし、真面目だけでは通用しない場面があることも、直感的、経験的に多くの人が知っている。それを正々堂々と主張してこそ、京大の価値がある。
  • 「教養」の中身はいろいろある。「基礎知識」だったり「豊かな人間性」だったり。でも、一番大事なのは、自分自身の価値観で自分自身の行動が決められること。大学の成績はあくまで他人の評価。これに振り回されない人間であることが、最も重要な「教養」である。
  • 世界情勢が流動化し、将来予測が困難な現代こそ、「いい加減さ」が本質的に重要になる。真面目なだけでは、絶対に乗り切れない。真面目に勉強しさえすれば、明るい将来が待っている、なんて言えるほど、世の中、甘くはない。もちろん、真面目に勉強することも必要だけど。
  • 「いい加減さ」が重要なのは、世の中カオスだから。カオスの世界では、未来の予測が不可能である。したがって、あらかじめ計画をたてたり、準備したりすることが意味をなさない。いきあたりばったりに、テキトーに対処する能力が重要。正攻法も奇策もない。
  • 教養を理解する上で重要なのは、論理的思考を止めること。これは、論理的思考を叩き込まれた人間にとって、極めて困難な作業である。まずは、自分の中に「天才バカポン」を一匹飼っておいて「これで〜いいのだ〜」と歌ってみよう。
  • 教養が論理的に表現不可能なのは、それが論理的な「樹形図構造」ではなく、無節操な「スケールフリー構造」を持っているから。理性は前者の上に成り立っているのに対して、生物は後者の上に生きている。人間は理性を持つ生物として、この両方の上に立っている。
  • 教養とは、普遍的な「真」でありながら、論理的言語で表現不可能な「真」である。具体的言語で表現した瞬間に、実に薄っぺらくつまらないものになってしまう。まるでシュレディンガーの猫のような存在である。
  • 大学は教育機関である。S&Pのような格付け機関ではない。大学が厳密な評価に拘るのはナンセンス。学生が将来解決しなければならない難問は、大学教員だって知らないんだから。
  • 学生の評価は社会がする。大学は、社会に評価される人材を育てるのが仕事。彼らにAAAやB+みないなラベルを付けるのが仕事ではない。
  • 大学の「成績」は、あくまでその「瞬間」の旧世代(教員)による評価。将来にわたって、それを「保証」するものではない。iPS の山中先生だって、昔は「ジャマ中」だったんだから。

というつぶやきから、いったい何を読み取ればよいのだろうか。このつぶやきには、確かにそれなりに一貫した考え方の背景はあるのだろう。しかし、レトリックが多すぎて具体的な内容が明確とは言いがたい。例えば、『「ムダ」な知識』『「アホ」な知識』『いい加減さ』『論理的思考を止めること』『いきあたりばったりに、テキトーに対処する能力』とは具体的にどういう意味あるいはどういう内容のことなのか。「新たなレールを引くこと」に「教科書だけの知識」は全く役に立たないというのだろうか。「厳密な評価に拘るのはナンセンス」というのであれば、数学や物理の科目でも成績評価をつけることに反対するのか、あるいは単位認定そのものを否定するのか。漠然とした考え方の枠組みは理解できても、具体的な内容や根拠は不透明だ。

 私が考える最大の問題は、これらのつぶやきをどう寄せ集めても、教養・共通教育をどのように設計し、そのような科目を提供することによって学生に何を習得してもらうか、という具体的な問題を議論するのに資する提言が見当たらないということである。これでは議論にならない。参考資料1から参考資料4は、教養・共通教育のあり方について理念的なことから具体的な設計まで、ひとまず提示しているのである。中身に踏み込んだ具体的なかみあった議論こそ必要なのであって、いかようにも解釈できるような抽象的なつぶやきを積み重ねることでは建設的な議論とはならない、というのが私の考えである。

 もう1点指摘しておきたいのは、このつぶやきの「研究」に関する記述にいささかの違和感を禁じえないことである。一例をあげると、

一流の研究こそ、激しい競争は、ない。だって、誰もいないんだもん。あるのは、自分との闘いである。

というつぶやきへの違和感である。この論理に従うと、激しい競争のある研究は決して一流ではないことになってしまう。もちろん激しい競争とは無縁の中ですばらしい成果が得られたこともあるだろう。そのことは否定しない。しかし、すくなくとも自然科学における多くのすばらしい成果が激しい競争の中でもたらされたことを疑う余地は、少なくとも私にはない。ある程度認知された形の到達目標や望まれる成果、良い理論といったものがある程度はっきりしていて、それに向かって多くの研究者がしのぎを削っている状況というのは決して珍しいものではない。その結果、誰かが成果を挙げたとき、それは一流の成果ではないなどというのは暴論でしかない。激しい競争の中で最後に独創的なアイデアを出して成果をものにする研究者がいる。そのような一流の成果も星の数ほどあるだろう。このつぶやきではどうもそうした「独創性」と「一流の研究」ということを混同しているのではないかという雰囲気さえ漂っている。一流かどうかはその成果の中身で決まるのであり、競争の有無で決まるものではない。

 このアカウントのつぶやきに見られる問題点は、例外や多くの実例を無視して「すべて」を主張するような、非常に乱暴な断定が随所に行われていることであるといってもよいと思う。

 次回は、私が「国際高等教育院」構想に期待すること、また危惧していることについてまとめてみたいと思う。