科学ジャーナリスト・内村直之氏による前京大総長・松本紘批判への疑問(その4)

(その1)でみた科学ジャーナリスト・内村直之氏による松本批判のツイート群について検討したい。
(その2)では、総長選挙の内部情報に関する点について、(その3)では「松本氏の業績」に関する点について、それぞれ批判的に検討した。
今回は、松本氏の改革の方向性や成果に関する論点と、それら以外のいくつかの細かな点について述べたい。

松本氏の改革に関する内村氏のツイート

松本氏が行った「改革」について、内村氏は次のようにコメントしている。

  • 私は新聞社の最後の方で、京都の科学担当を3年勤めた。その時の総長が尾池さんと松本さん。やり口は存じています。ただただIPSを盛り上げるという限られた成功体験で、他も推し進めようという方向。その後の体制改革などほとんどうまくいっていないでしょう。特に基礎的な学問については無知です。
  • 例えば、iPS細胞にお金を注ぎ込みすぎることの欠点について(若手の問題も含め)質問したことがありますが、その時は的確な答えは返ってこなかった。その後の、白眉という制度もできてはいますがあれだけではなあ。シシュウカンだったかはどうなっていたかな。確か学生が集まらなかったのではない?

例えば、京大特色入試を導入したり、一年次教養教育の見直しとして「国際高等教育院構想」をぶち上げたとか、若手研究者支援のための「白眉研究員制度」を導入したとか、「大学院リーディングプログラム」に採択され「思修館」を作ったとか、iPSに代表される知財関係の戦略とか、総長権限の強化とか、それ以外にもいろいろ松本氏がやったこと/やろうとしたことはあり、そのうちのいくつかは継続されたり、縮小されたりしているようである。

(その3)でも述べたように、現在大学の置かれている状況は、国家的/社会的要請ということに強く影響されざるを得ない部分が大きい。こうしなければ予算を削ると言われれば、どうしてもそれに従わざるを得なくなりがちだ。松本氏が、その方向性に抗ったり、苦渋の選択の上に従ったというのではなく、むしろ乗っかるどころか積極的に旗を振ったという批判はあってもいいと考えるが、少なくとも科学ジャーナリストたる内村氏は、松本氏個人を批判するより、もう少し国家的/社会的趨勢について議論を深める方に軸足をおくべきだ。理研理事長への就任という話題について言及する場合であっても、理研が日本の科学技術研究においてどのような国内的/国際的役割を果たしていくべきか、そのためにはどういう組織であるべきなのか、それを支援する国の政策的な方針はどうあるべきか、という点について、一定の言及をしたうえで、それのもとで松本氏の資質や見識がどうなのかという点で議論するべきである

「科学技術的業績は何もない。」「学問に対する真摯な姿勢がみられません。」「あの人は科学がわかっている人ではないです。」「特に基礎的な学問については無知です。」と根拠なく批判するだけでは到底建設的とは言えないし、おそらくこれらの批判は妥当性を欠いていると考える。もちろん私はだからといって「理研理事長」という重責に松本氏が適任だと主張したいわけではない。今回問題にしているのは内村氏の批判の姿勢である。

さて、内村氏の言う「その後の体制改革などほとんどうまくいっていないでしょう。」ということの射程は非常にあいまいである。どのような改革について何がうまくいっていないのかはっきりしないし、具体例も乏しい。

上のツイートで言及されているのは、iPS、白眉、シシュウカンだけだが、これらを「体制改革」の具体例としてあげているのかどうかはわからない。

iPSについては(その3)でお触れたので繰り返さないが、これは松本氏のやりたいことや成果について一定の評価は与えてもよいのではないかと、少なくとも私は考えている。もちろんいろいろ問題点はあるだろうからそのことはより具体的に指摘して批判すればよいわけで、何も見るべきものがないとするのは一面的すぎる。

ここでは「白眉」と「シシュウカン」について触れたい。ここで私が内村氏の批判について疑問に思うのは、端的にいって、この2つのプロジェクトが成果をあげるかどうかを今の時点で判定することは無理だからだ。これらのプロジェクトはかなり長射程の教育・研究支援プログラムである。導入の際にこれらのプロジェクトの方針や設計について議論する時点なら、デメリットと予想される点をひとつひとつ検討することにも意義はあるし、松本氏がそうしたステップを省略してトップダウンで決めたのだという批判もあるのかもしれない。しかし、現時点では、両方ともプログラム自体が走り出し、すでに研究者や学生が従事している段階である。これらのプロジェクトについて検討するなら、その成果が上がったかどうかを検討しなければ無意味だ。その結果、成果があがっていないなら、松本氏を含めプロジェクトの責任者は批判を受けなければならない。しかし今の段階で成果があがっているかどうかを確定することは困難だ。もちろん、より良い成果が上がるように進行中のプログラムに修正を加えていくための議論は推奨されてしかるべきだが、内村氏の一連のツイート群にはそうした建設的な部分は見当たらないと言ってよいと思う。

「白眉プロジェクト」とは、若手研究者を5年任期+研究費+(事後評価なし)で雇用し、研究に専念してもらう試みとして導入された。優秀な大学院在籍生から、一定の研究をすでにはじめている若手研究者までが採用対象であり、
2010(平成22)年に最初の採用者が選ばれた。その後平成26年まで継続して新規採用を続けていたが、平成27年度の公募については、若手研究者の育成支援についての改善の観点から公募開始が延期されている。

任期5年ということは、最初に採用された研究者の任期が2010年4月1日から2015年3月31日までということになる。まだ第一期の任期が終了したに過ぎない。
これだけで若手研究者が研究に専念し、成果をあげ、次の身分へステップアップできたかを評価するのは難しい。5年という評価軸はかなり長期なのである。
もちろん平成22年度採用研究者のページから、だれがどのように異動したかを調べることはさしあたって可能だ。17名のうち10名が新しい身分へすでに異動している。2015年4月から異動する人もいるようだ。
成果を検証することは難しいかもしれないが、少なくとも新しい身分へ異動した人は、一定の成果は得たのだろうと推測することは可能である。

もちろんこの制度はいろいろな意味でリスクはあった。まだ主たる業績を上げていない大学院生も対象になっているため将来性をよほど慎重に見極めなければいけない点や、教育の負担がないことは同時に教育経験が十分にない状況で次の就職先を探すことにもなり、昨今の教育経験をある程度重視するアカデミックポストの採用事情をマッチしているかという点もある。事後評価がないということと制度の検証という点の両立も懸念材料だろう。

しかし、そもそもようやく第一期の任期が終了した段階で、この制度に基づく若手研究者支援が成果を上げたかどうかを云々するのは明らかに時期尚早である。これからである。これから数年間が集中的に評価されるべき期間なのである。

「白眉プロジェクト」が京大独自のシステムであったのに対し、「思修館」は、大学院リーディングプログラムという国の支援プロジェクトに採択されたものだ。
こうした取り組みにも多くの問題点はあるし、それを指摘することは可能である。端的にいってこのプロジェクトに参加した大学院生が、成果をあげられるかどうか未知数だし、もともと博士論文のための成果を4年で出さなければならないということも、制約として無理がある、十分に学問的修養を積めないといった批判だ。もちろんそれらの批判は、このプロジェクトを設計する際にはありうべき批判である。しかしこれも現実にプロジェクトが動き出している現状では、むしろ具体的な成果の検証によってその成否について判断するべきである。

確かに学生集めには苦労しているのかもしれないが、少なくとも現在三期生まで在籍している(それぞれ5名、10名、16名)。大学院合計5年間で卒業していくわけだから、まだ第一期生も卒業していない段階でこのプロジェクトの成果を判断することは時期尚早である。これは数年後からようやく評価できる期間に入ってくるイメージだ。

またそもそもこのプロジェクトに関して松本氏だけを批判の対象とするべきではなのかという点もある。「大学院リーディングプログラム」の方向性は良いが「思修館」というプログラムが良くないのか、そもそもの「大学院リーディングプログラム」自体もまずいのか、そうした点を含めた議論でなければ建設的とは言えないと考える。

繰り返すが、教育や研究に関する評価というのは、総長一代で結論のでる話ではなく、より長期的なタイムスケールで評価せざるを得ず、松本氏による様々な取組の評価はまだ定まっていないと言うべきだと考える。そのような段階で松本氏を根拠を十分に明示しないまま悪しざまに批判するのは到底フェアでも建設的でもない。内村氏の批判はそういう類のものになってしまっているというのが私の考えだ。

内田麻理香氏のツイートについて

内村氏のツイートではないが、内村氏がRTしている内田麻理香氏(@kasoken)のツイートについても簡単に触れたい。

内田氏はこの中で、

京大の前総長、総長時代も学生から立て看で批判されていた人物である

と述べ、"MATSUMOTIZATION"と書かれた「立て看」の写真を掲載している。(赤字加工は私による。)

私はこの「立て看」(というより垂れ幕?)には、やはりかなり「悪意」を感じる。"MATSUMOTIZATION"というフレーズを「ユーモア」と解せば、かろうじて許容はできるが、このような垂れ幕を掲げる人たちと本当に冷静に話し合いができるのか、私には自信が持てない。つまりこの垂れ幕を掲げている人たちが、松本氏の言う主張を的確に把握し吟味し、真摯に議論しようという立場なのかどうか、いぶかしんでいるのである。

内田氏は、この立て看板を「学生からの批判」としている。しかし、内田氏はこの立て看板を掲示したのが「学生」であるという根拠を持っているのだろうか。

というのも、松本氏の掲げた「国際高等教育院」構想を巡って、総合人間学部や人間・環境学研究科の教員有志が立て看板を掲げたこともあったからである。内田氏のツイートにある「立て看板」をだれがどのような意図で掲げ、どう行動している人たちなのかは、率直に言って不明である。当然のことだが、松本氏のやろうとしていたことに対して、殊に学生に限ってみれば、多くの学生が敢然と反対していたという状況ではないことは明白で、内田氏のツイートは、その点についても誤解を生みかねず、こうしたやり方が、真摯な議論に資するものかどうか、やはり私は疑わしいと言わざるを得ない。

そもそも、なぜ松本氏が理研理事長にふさわしくないのかということを「立て看板(垂れ幕)」「学生からの批判」などという伝聞と具体性を欠く情報からしか裏付けられないのだとしたら、この問題について発言するべきではないし、このようなツイートや情報提供は、議論の方向性を歪める不適切なものだ。

また内田氏は、春日匠氏とのやり取りの中で、次のように述べている。

春日氏の言う「我流なんちゃってグローバリゼーション」という言い方が本当に松本氏の議論を正確に要約しているのか私には疑問である。「本当に「国際競争力」を上げようとするなら、もうちょっとやり方というものが...」というのも具体性に乏しい。もし提案があるなら、もっとそのことを具体的に示すべきだ。

確かに、松本氏の改革案の中には、外国人教員の雇用計画があり、これはかなり端的に文科省からお金をもらうためのものであった。松本氏自身のアイデアや言い分も二転三転したりして内部ではそれに振り回されたという面もあるだろう。春日氏はおそらく内部でそのような事情を見聞きしているために「我流なんちゃってグローバリゼーション」という言い方になったのかもしれない。しかし、松本氏の著書『京都から大学を変える』や国際高等教育院における外国語教育の設計などを見ると、それは、たとえば英語講義を外国人教員で、というだけの安直なグローバル化志向だけではないことがわかるのではなかろうか。教養教育における語学教育の位置づけや設計についてはもう少し真摯な議論があってよかったはずだが、国際高等教育院に関連する議論の中で、特に人間・環境学研究科や総合人間学部の教員有志から出てきた文章には、春日氏の表現「我流なんちゃってグローバリゼーション」という揶揄めいた言い方しかなく、建設的で真摯な議論が非常に少なかったことは指摘しておくべきである。

が、問題なのは、春日氏の発言よりも内田氏の発言である。
内田氏は春日氏の発言をうけて、

確かに「改革しているふり〜」ですねえ。その従順さアピールのお上手な方が、お上に好かれて出世するような気も。資金を下賜する機関の意向にどれだけ沿った振る舞いができるかにかかっていたり。

と述べている。
まずそもそも内田氏は、松本氏の行ってきた改革の中身について、正確に把握した上で「改革しているふり」と批判しているのだろうか。少なくとも私はそうとらえることはできない。もしそのような把握をしているなら、「京大の前総長、総長時代も学生から立て看で批判されていた人物であるが」とか「MATSUMOTIZATION」の立て看板の写真だけを貼るなどということをするだろうか。もし問題があるというなら、その中身を具体的に指摘し、理研理事長にふさわしくないことを根拠づけるべきだ。

内田氏は上のツイートで、「資金を下賜する期間の意向にどれだけ沿った振る舞いができるか」などと批判的に述べているが、やはり現在の大学の置かれている状況に十分に目を向けているとはいいがたい。大学の長といっても、文科省の意向に逆らうのは相当の困難な作業であり、もし逆らうならば、資金の確保策なども含めて相当に周到な準備と根回しが必要である。それでも金をやらないと言われればかなり苦しい立場に追い込まれてしまう。現状の研究の一部は、どうしても資金的な基盤がなければ遂行できない部分が大きいからだ。
内田氏のツイートは、そうした大学の置かれている状況に対する最低限の「思いやり」さえ欠いた極めてステレオタイプな議論で、具体性にも乏しいものであるとしか見えない。
そのような議論は、松本氏を理研理事長にするという案に関して、あまりに一面的すぎると言わざるを得ない。