科学ジャーナリスト・内村直之氏による前京大総長・松本紘批判への疑問(その4)

(その1)でみた科学ジャーナリスト・内村直之氏による松本批判のツイート群について検討したい。
(その2)では、総長選挙の内部情報に関する点について、(その3)では「松本氏の業績」に関する点について、それぞれ批判的に検討した。
今回は、松本氏の改革の方向性や成果に関する論点と、それら以外のいくつかの細かな点について述べたい。

松本氏の改革に関する内村氏のツイート

松本氏が行った「改革」について、内村氏は次のようにコメントしている。

  • 私は新聞社の最後の方で、京都の科学担当を3年勤めた。その時の総長が尾池さんと松本さん。やり口は存じています。ただただIPSを盛り上げるという限られた成功体験で、他も推し進めようという方向。その後の体制改革などほとんどうまくいっていないでしょう。特に基礎的な学問については無知です。
  • 例えば、iPS細胞にお金を注ぎ込みすぎることの欠点について(若手の問題も含め)質問したことがありますが、その時は的確な答えは返ってこなかった。その後の、白眉という制度もできてはいますがあれだけではなあ。シシュウカンだったかはどうなっていたかな。確か学生が集まらなかったのではない?

例えば、京大特色入試を導入したり、一年次教養教育の見直しとして「国際高等教育院構想」をぶち上げたとか、若手研究者支援のための「白眉研究員制度」を導入したとか、「大学院リーディングプログラム」に採択され「思修館」を作ったとか、iPSに代表される知財関係の戦略とか、総長権限の強化とか、それ以外にもいろいろ松本氏がやったこと/やろうとしたことはあり、そのうちのいくつかは継続されたり、縮小されたりしているようである。

(その3)でも述べたように、現在大学の置かれている状況は、国家的/社会的要請ということに強く影響されざるを得ない部分が大きい。こうしなければ予算を削ると言われれば、どうしてもそれに従わざるを得なくなりがちだ。松本氏が、その方向性に抗ったり、苦渋の選択の上に従ったというのではなく、むしろ乗っかるどころか積極的に旗を振ったという批判はあってもいいと考えるが、少なくとも科学ジャーナリストたる内村氏は、松本氏個人を批判するより、もう少し国家的/社会的趨勢について議論を深める方に軸足をおくべきだ。理研理事長への就任という話題について言及する場合であっても、理研が日本の科学技術研究においてどのような国内的/国際的役割を果たしていくべきか、そのためにはどういう組織であるべきなのか、それを支援する国の政策的な方針はどうあるべきか、という点について、一定の言及をしたうえで、それのもとで松本氏の資質や見識がどうなのかという点で議論するべきである

「科学技術的業績は何もない。」「学問に対する真摯な姿勢がみられません。」「あの人は科学がわかっている人ではないです。」「特に基礎的な学問については無知です。」と根拠なく批判するだけでは到底建設的とは言えないし、おそらくこれらの批判は妥当性を欠いていると考える。もちろん私はだからといって「理研理事長」という重責に松本氏が適任だと主張したいわけではない。今回問題にしているのは内村氏の批判の姿勢である。

さて、内村氏の言う「その後の体制改革などほとんどうまくいっていないでしょう。」ということの射程は非常にあいまいである。どのような改革について何がうまくいっていないのかはっきりしないし、具体例も乏しい。

上のツイートで言及されているのは、iPS、白眉、シシュウカンだけだが、これらを「体制改革」の具体例としてあげているのかどうかはわからない。

iPSについては(その3)でお触れたので繰り返さないが、これは松本氏のやりたいことや成果について一定の評価は与えてもよいのではないかと、少なくとも私は考えている。もちろんいろいろ問題点はあるだろうからそのことはより具体的に指摘して批判すればよいわけで、何も見るべきものがないとするのは一面的すぎる。

ここでは「白眉」と「シシュウカン」について触れたい。ここで私が内村氏の批判について疑問に思うのは、端的にいって、この2つのプロジェクトが成果をあげるかどうかを今の時点で判定することは無理だからだ。これらのプロジェクトはかなり長射程の教育・研究支援プログラムである。導入の際にこれらのプロジェクトの方針や設計について議論する時点なら、デメリットと予想される点をひとつひとつ検討することにも意義はあるし、松本氏がそうしたステップを省略してトップダウンで決めたのだという批判もあるのかもしれない。しかし、現時点では、両方ともプログラム自体が走り出し、すでに研究者や学生が従事している段階である。これらのプロジェクトについて検討するなら、その成果が上がったかどうかを検討しなければ無意味だ。その結果、成果があがっていないなら、松本氏を含めプロジェクトの責任者は批判を受けなければならない。しかし今の段階で成果があがっているかどうかを確定することは困難だ。もちろん、より良い成果が上がるように進行中のプログラムに修正を加えていくための議論は推奨されてしかるべきだが、内村氏の一連のツイート群にはそうした建設的な部分は見当たらないと言ってよいと思う。

「白眉プロジェクト」とは、若手研究者を5年任期+研究費+(事後評価なし)で雇用し、研究に専念してもらう試みとして導入された。優秀な大学院在籍生から、一定の研究をすでにはじめている若手研究者までが採用対象であり、
2010(平成22)年に最初の採用者が選ばれた。その後平成26年まで継続して新規採用を続けていたが、平成27年度の公募については、若手研究者の育成支援についての改善の観点から公募開始が延期されている。

任期5年ということは、最初に採用された研究者の任期が2010年4月1日から2015年3月31日までということになる。まだ第一期の任期が終了したに過ぎない。
これだけで若手研究者が研究に専念し、成果をあげ、次の身分へステップアップできたかを評価するのは難しい。5年という評価軸はかなり長期なのである。
もちろん平成22年度採用研究者のページから、だれがどのように異動したかを調べることはさしあたって可能だ。17名のうち10名が新しい身分へすでに異動している。2015年4月から異動する人もいるようだ。
成果を検証することは難しいかもしれないが、少なくとも新しい身分へ異動した人は、一定の成果は得たのだろうと推測することは可能である。

もちろんこの制度はいろいろな意味でリスクはあった。まだ主たる業績を上げていない大学院生も対象になっているため将来性をよほど慎重に見極めなければいけない点や、教育の負担がないことは同時に教育経験が十分にない状況で次の就職先を探すことにもなり、昨今の教育経験をある程度重視するアカデミックポストの採用事情をマッチしているかという点もある。事後評価がないということと制度の検証という点の両立も懸念材料だろう。

しかし、そもそもようやく第一期の任期が終了した段階で、この制度に基づく若手研究者支援が成果を上げたかどうかを云々するのは明らかに時期尚早である。これからである。これから数年間が集中的に評価されるべき期間なのである。

「白眉プロジェクト」が京大独自のシステムであったのに対し、「思修館」は、大学院リーディングプログラムという国の支援プロジェクトに採択されたものだ。
こうした取り組みにも多くの問題点はあるし、それを指摘することは可能である。端的にいってこのプロジェクトに参加した大学院生が、成果をあげられるかどうか未知数だし、もともと博士論文のための成果を4年で出さなければならないということも、制約として無理がある、十分に学問的修養を積めないといった批判だ。もちろんそれらの批判は、このプロジェクトを設計する際にはありうべき批判である。しかしこれも現実にプロジェクトが動き出している現状では、むしろ具体的な成果の検証によってその成否について判断するべきである。

確かに学生集めには苦労しているのかもしれないが、少なくとも現在三期生まで在籍している(それぞれ5名、10名、16名)。大学院合計5年間で卒業していくわけだから、まだ第一期生も卒業していない段階でこのプロジェクトの成果を判断することは時期尚早である。これは数年後からようやく評価できる期間に入ってくるイメージだ。

またそもそもこのプロジェクトに関して松本氏だけを批判の対象とするべきではなのかという点もある。「大学院リーディングプログラム」の方向性は良いが「思修館」というプログラムが良くないのか、そもそもの「大学院リーディングプログラム」自体もまずいのか、そうした点を含めた議論でなければ建設的とは言えないと考える。

繰り返すが、教育や研究に関する評価というのは、総長一代で結論のでる話ではなく、より長期的なタイムスケールで評価せざるを得ず、松本氏による様々な取組の評価はまだ定まっていないと言うべきだと考える。そのような段階で松本氏を根拠を十分に明示しないまま悪しざまに批判するのは到底フェアでも建設的でもない。内村氏の批判はそういう類のものになってしまっているというのが私の考えだ。

内田麻理香氏のツイートについて

内村氏のツイートではないが、内村氏がRTしている内田麻理香氏(@kasoken)のツイートについても簡単に触れたい。

内田氏はこの中で、

京大の前総長、総長時代も学生から立て看で批判されていた人物である

と述べ、"MATSUMOTIZATION"と書かれた「立て看」の写真を掲載している。(赤字加工は私による。)

私はこの「立て看」(というより垂れ幕?)には、やはりかなり「悪意」を感じる。"MATSUMOTIZATION"というフレーズを「ユーモア」と解せば、かろうじて許容はできるが、このような垂れ幕を掲げる人たちと本当に冷静に話し合いができるのか、私には自信が持てない。つまりこの垂れ幕を掲げている人たちが、松本氏の言う主張を的確に把握し吟味し、真摯に議論しようという立場なのかどうか、いぶかしんでいるのである。

内田氏は、この立て看板を「学生からの批判」としている。しかし、内田氏はこの立て看板を掲示したのが「学生」であるという根拠を持っているのだろうか。

というのも、松本氏の掲げた「国際高等教育院」構想を巡って、総合人間学部や人間・環境学研究科の教員有志が立て看板を掲げたこともあったからである。内田氏のツイートにある「立て看板」をだれがどのような意図で掲げ、どう行動している人たちなのかは、率直に言って不明である。当然のことだが、松本氏のやろうとしていたことに対して、殊に学生に限ってみれば、多くの学生が敢然と反対していたという状況ではないことは明白で、内田氏のツイートは、その点についても誤解を生みかねず、こうしたやり方が、真摯な議論に資するものかどうか、やはり私は疑わしいと言わざるを得ない。

そもそも、なぜ松本氏が理研理事長にふさわしくないのかということを「立て看板(垂れ幕)」「学生からの批判」などという伝聞と具体性を欠く情報からしか裏付けられないのだとしたら、この問題について発言するべきではないし、このようなツイートや情報提供は、議論の方向性を歪める不適切なものだ。

また内田氏は、春日匠氏とのやり取りの中で、次のように述べている。

春日氏の言う「我流なんちゃってグローバリゼーション」という言い方が本当に松本氏の議論を正確に要約しているのか私には疑問である。「本当に「国際競争力」を上げようとするなら、もうちょっとやり方というものが...」というのも具体性に乏しい。もし提案があるなら、もっとそのことを具体的に示すべきだ。

確かに、松本氏の改革案の中には、外国人教員の雇用計画があり、これはかなり端的に文科省からお金をもらうためのものであった。松本氏自身のアイデアや言い分も二転三転したりして内部ではそれに振り回されたという面もあるだろう。春日氏はおそらく内部でそのような事情を見聞きしているために「我流なんちゃってグローバリゼーション」という言い方になったのかもしれない。しかし、松本氏の著書『京都から大学を変える』や国際高等教育院における外国語教育の設計などを見ると、それは、たとえば英語講義を外国人教員で、というだけの安直なグローバル化志向だけではないことがわかるのではなかろうか。教養教育における語学教育の位置づけや設計についてはもう少し真摯な議論があってよかったはずだが、国際高等教育院に関連する議論の中で、特に人間・環境学研究科や総合人間学部の教員有志から出てきた文章には、春日氏の表現「我流なんちゃってグローバリゼーション」という揶揄めいた言い方しかなく、建設的で真摯な議論が非常に少なかったことは指摘しておくべきである。

が、問題なのは、春日氏の発言よりも内田氏の発言である。
内田氏は春日氏の発言をうけて、

確かに「改革しているふり〜」ですねえ。その従順さアピールのお上手な方が、お上に好かれて出世するような気も。資金を下賜する機関の意向にどれだけ沿った振る舞いができるかにかかっていたり。

と述べている。
まずそもそも内田氏は、松本氏の行ってきた改革の中身について、正確に把握した上で「改革しているふり」と批判しているのだろうか。少なくとも私はそうとらえることはできない。もしそのような把握をしているなら、「京大の前総長、総長時代も学生から立て看で批判されていた人物であるが」とか「MATSUMOTIZATION」の立て看板の写真だけを貼るなどということをするだろうか。もし問題があるというなら、その中身を具体的に指摘し、理研理事長にふさわしくないことを根拠づけるべきだ。

内田氏は上のツイートで、「資金を下賜する期間の意向にどれだけ沿った振る舞いができるか」などと批判的に述べているが、やはり現在の大学の置かれている状況に十分に目を向けているとはいいがたい。大学の長といっても、文科省の意向に逆らうのは相当の困難な作業であり、もし逆らうならば、資金の確保策なども含めて相当に周到な準備と根回しが必要である。それでも金をやらないと言われればかなり苦しい立場に追い込まれてしまう。現状の研究の一部は、どうしても資金的な基盤がなければ遂行できない部分が大きいからだ。
内田氏のツイートは、そうした大学の置かれている状況に対する最低限の「思いやり」さえ欠いた極めてステレオタイプな議論で、具体性にも乏しいものであるとしか見えない。
そのような議論は、松本氏を理研理事長にするという案に関して、あまりに一面的すぎると言わざるを得ない。

科学ジャーナリスト・内村直之氏による前京大総長・松本紘批判への疑問(その3)

(その1)でみた科学ジャーナリスト・内村直之氏による松本批判のツイート群について検討したい。
前回の(その2)では、総長選挙の内部情報に関する点について批判した。今回は「業績」に関する点について扱う。

内村氏の松本氏の業績や知見に関する評価は非常に手厳しい。

  • 彼には科学技術的業績は何もない。理事の時に、たまたま山中先生のIPS細胞発見に出会い、文科省とつるんで盛り上げただけ。
  • 松本さんには学問に対する真摯な姿勢がみられません。
  • あの人は科学がわかっている人ではないです。
  • 特に基礎的な学問については無知です。

これらの記述は相当に踏み込んだものであることは言うまでもない。「科学技術的業績は何もない」「学問に対する真摯な姿勢がみられない」「科学がわかっているという人ではない」「基礎的な学問については無知」という文面は、学者として失格であるという烙印を押しているとも受け取れる最大級の批判だ。このような批判をするためには、第三者にもアクセスできる十分な根拠を明示するべきであり、もしそれがない/できないのなら、単なる人格攻撃とみなさざるを得ないし、この文面は不適切極まりないということになる。

もちろん私は松本氏が「業績がある」「学問に対する真摯な姿勢がある」「科学が分かっている」「基礎的な学問に熟知している」ということを具体的な業績紹介でもって根拠づけられるだけの情報や知見を有しているわけではないし、また松本氏の専門分野についての知見も活動履歴もない。

しかし、松本氏の学問的業績について、いくつかの第三者がアクセスできるデータや情報があることは明示できる。

松本氏の業績について第三者がアクセスできる情報

例えば京都大学が公開している次のようなページがある。
松本紘総長の略歴

まず、松本氏は工学博士である。博士号を持っている以上、少なくとも「博士号を授与されるに値する学問的価値を持つ論文という業績」は必ずあるはずだ。

次に、例えばwikipediaには次のような記述がある。

主に地球磁気圏・宇宙圏のプラズマを研究している。数値計算分野では、KEMPOコード (Kyoto university ElectroMagnetic Particle code) を開発し、宇宙プラズマの力学過程を再現することに成功した。観測分野では、GEOTAIL衛星によるプラズマ波動観測を主導し、数値計算と組み合わせて静電孤立波の励起メカニズムなどの解明を進めている。また、宇宙空間におけるマイクロ波送電技術の実用化という工学的研究にも取り組んでいる。

少なくともこの記述の中に、複数の科学技術に関する成果が具体的に記述されている。これらは少なくとも「業績」と呼びうるものであると理解できる。

略歴の中には、

  • 地球電磁気・地球惑星圏学会(SGEPSS) 会長(1999〜2001年)、評議員 (1995〜2006年)
  • 国際電波科学連合(URSI) 会長(1999〜2002年)、副会長 (1996〜1999年)
  • 米国地球物理学会(AGU) 学術誌(J. Geophys. Research*1編集委員長 (1997〜2002年)

などの記述がある。

また、

  • 松本氏を(筆頭)著者(共著者7名)とする学術論文"Electrostatic Solitary Waves (ESW) in the Magnetotail : BEN Wave forms observed by GEOTAIL"(Geophysical Research Letters, 21, 2915-2918, 1994)は、少なくともGoogle Scholarで見る限り、332件の引用がある。
  • X.H.Deng氏と松本氏の2名による共著論文"Rapid magnetic reconnection in the Earth's magnetosphere mediated by whistler waves"(Nature, 410, 557-560, 2001)も、少なくともGoogle Scholarで見る限り、172件の引用がある。
  • 英文研究論文誌約303編、邦文研究論文誌53編との記載がある。

このページを見るだけで、少なくとも確認できるさまざまな情報があるのである。
もちろん上で書いたことは、研究の内容についての具体的な業績紹介を伴わない以上、あくまでも傍証に過ぎない。
またノーベル賞受賞者との比較が可能かどうかも不明だし、また当該分野で(仮に比較が可能だとして)トップの業績を上げているかどうか、というような点もこの情報だけではわからない。また他分野に対する理解についてもわからない。

しかし、内村氏の記述は全面的かつ包括的なものであることを忘れるわけにはいかない。

工学博士号を持ち、国内学会や国際的学術団体の長でもあった経験を持ち、学術誌の編集委員長を務め、執筆論文に一定の引用数があるものがあり、やnatureに掲載論文を持つ人物。
そのような人物が「科学技術的業績は何もない」「学問に対する真摯な姿勢がみられない」「科学がわかっているという人ではない」「基礎的な学問については無知」なのだとしたら、それはそれは深刻だ。
というより、すぐに調べられる範囲でこのような経歴を持つ人物に対して、
「科学技術的業績は何もない」「学問に対する真摯な姿勢がみられない」「科学がわかっているという人ではない」「基礎的な学問については無知」
という批判を浴びせるとしたら、そこには相当に客観的な、しかも業績の内容に踏み込んだ形の具体的な根拠づけが必要不可欠であり、
それは批判を浴びせた内村氏に挙証責任が生じることは言うまでもない。もしそれができないならこのような発言は取り消すべきだし、不当な誹謗中傷・人格攻撃であるとの誹りを免れることはできない。

内村氏のツイートの個別的検討

松本前京大総長が理研理事長案と。いかにも文科省のやりそうなこと。最悪だ。彼には科学技術的業績は何もない。理事の時に、たまたま山中先生のIPS細胞発見に出会い、文科省とつるんで盛り上げただけ。それをよしとする工学、経済の押しで総長に。理、医などの猛反対は彼の押しに嫌気をさしたから。

この文面を読む限り、内村氏が「科学技術的業績は何もない」と判断した根拠は全く不明だ。文科省とつるんで盛り上げただけ」ということと「科学技術的業績」との関係性が全く見えない。少なくとも、松本氏の「科学技術的業績の有無」と「iPS」は、松本氏の学術的専門分野がiPSと無関係な以上、まったく関係ないと言わざるを得ない。それとも内村氏の言う「科学技術的業績」とは「学術研究者としての当該分野での研究業績」とは違うものなのだろうか?

少なくとも内村氏の一連のツイートには、松本氏の「学術研究者としての当該分野での研究業績」というものに関係すると思われるコメントは一切ない。まさか、理事・副学長、あるいは学長としての何らかの意味での「成果」のことを「科学技術的業績」と書いているのだろうか?そんな言葉の選択をすることは、少なくとも私には到底信じがたいことだけれども。

  • 松本さんには学問に対する真摯な姿勢がみられません。
  • あの人は科学がわかっている人ではないです。
  • 特に基礎的な学問については無知です。

ということに対する根拠も曖昧だ。

内村氏は、少なくとも2つのエピソードを述べている。iPSと小林・益川のノーベル賞受賞時に関することだ。

  • 私は新聞社の最後の方で、京都の科学担当を3年勤めた。その時の総長が尾池さんと松本さん。やり口は存じています。ただただIPSを盛り上げるという限られた成功体験で、他も推し進めようという方向。
  • 例えば、iPS細胞にお金を注ぎ込みすぎることの欠点について(若手の問題も含め)質問したことがありますが、その時は的確な答えは返ってこなかった。
  • 小林益川両先生のノーベル物理学賞のとき、横にいた基礎物理学研究所の某先生のところへ、スピーチ助けてと、松本さんから連絡が入った。その時、彼が用意していたのは山中先生礼賛原稿だけ。自分の業績と思っていらした?これをモデルにして明日のを作れと言ったと聞いたと思う。僕しか知らない話。

このエピソードが何を補強/論証するためのエピソードとして出されたものか、理解に苦しむ。「学問に対する真摯な姿勢がない」「科学が分かっていない」「基礎的な学問について無知」という批判を行うならもっとはっきりとした根拠を明示するべきだ。

iPS細胞に関する点について、
私は(その1)の冒頭で、山中氏の研究に対して奈良先端科学技術大学院大学が果たした役割についてもっと言及と敬意を示した方が良いと感じた、という印象をのべた。また、iPS細胞研究に国の支援が集中しすぎて、ES細胞研究やそのほかの研究への投資が減らされてしまうことの弊害は、もちろん重要な論点であることは確かだろう。
その反面で、iPS細胞の問題は、知的財産権との関係性を無視することはできず、大学としてのバックアップを必要としていたことは否めない。私も京都大学の(あるいは松本氏主導の)iPS細胞研究支援を仄聞して、少し前のめりになっているのではないか、失敗した場合のリスクはかなりあるのではないかと危惧を持ったこともある。しかし、たとえば松本氏の著書には、

 iPS細胞技術を一刻も早く普及させ、患者さんに届けるため、知的財産(知財)を適正な価格で広く世界に利用してもらうしくみ作りに取組、これを実現しました。
 誰かが特許を占有し、高額な知財料を取ってしまえば、iPS細胞を使った治療が受けられるのは一部の富裕層で、一般の人はその恩恵に浴せません。それを避けるには、大学が知財をきちんと管理、活用できるしくみが必要です。
 しかし、そのための事業会社を大学が直接設立することは法律で禁じられています。そこで、京都大学は、法律で認められた中間法人を活用することにしました。二〇〇八年五月、京大がガバナンス(管理、統治)する「中間法人iPSホールディングス」を設立、この中間法人の100%子会社として翌六月、「iPSアカデミアジャパン株式会社」を設立したのです。このようなしくみに先例はなく、すべてゼロからの構築でした。
 同社は設立以来、iPS細胞関連の知財を国内外で幅広くライセンス契約する活動などを行ってきました。(中略)成果は着実にあがっており、これまでに国内大手製薬会社を含む80社を超える国内外企業との間で、ライセンス契約を締結しています。
 松本紘『京都から大学を変える』(祥伝社新書2014年 p.216-217)

もちろんこうしたことは松本氏個人の成果ではなく、多くの人々の努力によるものであるが、京都大学という学問的にも規模的にも十分な人的余裕がある大学が支援したことで、
これらの成果が得られたという側面はあると考えられるし、少なくとも松本氏が関与する形でのiPS細胞研究支援の一定の成果であるとみることはできるはずだ。

少なくともiPS細胞研究支援で、松本氏に何の成果もないかのような断定は一面的すぎるし、「文科省とつるんで盛り上げただけ」という文章は妥当性を欠くと考える。

またiPS細胞研究に前のめり過ぎるのではないかという懸念は当然妥当なものではあるだろうが、それが松本氏の総長としての権能の範囲内でどうにかなる問題であったかどうかも議論の余地があると思われる。
さらに、若手研究者のキャリア問題は、iPS細胞研究だけに限る話ではなく、広く日本の若手研究者全体にかかわる問題点で、これも松本氏の権能の範囲からは外れる部分も大きいと思われる。
つまり、国全体の科学技術支援政策という話題の中でのiPS細胞研究への偏重や若手研究者のキャリアという問題が議論するべき重要な論点であることには同意できるが、
それを京大総長としての松本氏に問題提起しても、松本氏から有意味で実効性のある解答が期待できるとは思わないし、またそういう解答をしないことを批判されるべきかどうかもかなり疑わしい。

大学にも経営的観点を導入せよという国家的な/社会的な要請は名強いものがあり、それにどこまで従うか/抗うかは、もちろん個々人の見識と意志にかかっているわけで、
そういう国家的/社会的要請に唯々諾々と従うのはけしからんという批判はもちろんあってよいが、それは学内の議論として、だれを選ぶか/どういう方針を取るかという決定の場で議論になることは有意義だけれど、
学外の人間が総長を批判する文脈ではあまり建設的とは思えない。
国家や社会がある程度政策的な観点から大学に対して様々なハードルを課してくる以上、日本の大学の2トップである京都大学は何らかのアクションは起こさざるを得ず、
背を向けるか、半身で受けるか、むしろ先導するかは、正解が確定する問題ではない。松本氏が「積極的に乗っかっる」ことを選択したことを批判し、今後の検証を行うことはひとまずありうるし、妥当なことだが、
どんな大学でもトップはある程度反対を覚悟で苦渋の決断を迫られる苦しさは抱えていると思う。トップが理不尽なことをすると憤りを覚える大学関係者も多いことは確かだし、その憤りにも理はあるが、
学外者はその批判に丸ごと乗っかって大学のトップを批判するのではなく、むしろ国家や社会を相手に堂々と論陣を張るべきではなかろうか。
ましてやそうしたことと「学問に対する真摯な姿勢がない」とか「科学が分かっていない」とか「基礎的な学問に無知」という判断を下すこととの関係性・妥当性は薄い。
iPSに関しては、知財管理は、高額な特許料が学問的研究の足かせとなることを防ぐ観点もあることを忘れてはならない。

小林・益川のノーベル賞受賞に関するエピソードもどういうことが補強/論証されているのかあいまいだ。

小林・益川両氏の業績を紹介するスピーチの原稿についてhelpを頼むことは「学問に対する真摯な姿勢がない」とか「科学が分かっていない」とか「基礎的な学問に無知」という判断の根拠になるとは思えない。
自分の専門とする学術領域から離れた内容について、自分だけで十分に内容のある正確な業績紹介やスピーチを書くことはかなり難しい。学内に精通している人がいるのであればその人にhelpを頼むことに何の問題もない。
では、「山中先生礼賛原稿」をモデルとして示したことが問題なのか。それは「山中先生礼賛原稿」がいったいどういう中身だったのかを見ないと結論を下すことはできないが、
そもそもそのことと「基礎的な学問に無知」ということとはずいぶん話が違うと、少なくとも私は考える。

少し細かい点だが、

  • 彼が用意していたのは山中先生礼賛原稿だけ。自分の業績と思っていらした?

などというのも嫌味だし、

  • 僕しか知らない話

というのも根拠不明だ。内村氏の持っているのは基礎物理学研究所の「某先生」からの伝聞情報であり、「某先生」が別の人にもその話をしていれば、内村氏以外にもこの話を知っている人がいることになる。そういう人はいないと断言できるのだろうか?
またもし仮にそうだとすると、(その2)で指摘した信頼性の問題が生じる。内部情報の核心的な部分のひとつに重大な「記憶違い」を犯した人が、「僕しか知らない話」として述べる内部情報・伝聞情報には、十分な正確さが本当にあるのか疑問が生じるのである。

基礎科学について

最後にひとつ付言しておきたいことは、松本氏は必ずしも「基礎科学」というものを軽視しているとは限らないという点である。これは教養教育改革という松本氏の方針とも関係していることは言うまでもない。
少し長いが前掲書から一部を引用する。

新たな価値創造ができる人材の要件とは何でしょうか。
それは、幅広い知識や経験がある、ということです。想像力は、知識や経験の組み合わせです。知識や経験もないのに、想像力を発揮しなさいと言っても無理です。幅広い知識や経験こそ独創的ないアイデアの源泉であり、それがなければ、斬新な発想は出てきません。
逆に言えば、知識や経験が多いほど想像力は豊かになり、アイデアも膨らみます。高校時代には受験科目でなくそれ以外の科目も幅広く勉強してください、と繰り返し述べているのはそのためです。幅広い学びが豊かな発想、アイデアを生むのです。スポーツや部活動、ボランティアなど勉強以外の経験も大切です。そうして知識や経験の土台をしっかり作る、これが新たな価値創造ができる人材の大前提です。
大学入学後は、その土台の上により広く、より深い教養の森を育てていきます。この森が豊であればあるほど、その先の専門分野でも独創的な研究ができます。
現代社会は、急速な科学の進歩により、生命科学からナノテクノロジーまで学問の多様化、専門化が進んでいます。研究開発で国際競争に勝つには、最先端の学術研究が不可欠です。その最先端の研究を支えているのは基礎研究です。学問というのは、基礎や基本、本質が極めて重要で、これがしっかりしていなければ、最先端の研究でのブレークスルーもありません。だからこそ、まえにも述べたように、物事の本質を把握するように努める「務本の学」、すなわち大元の基本原則、学理、学究が大事になるのです。
それを支えるにのは、今でもなく豊かな教養の森です。最近はアリストテレスパスカル、カント、孔子孟子など古典的な哲学や思想を学ばせる企業が増えていると聞きます。それだけビジネスの世界も複雑になっており、道標となる教養が必要なのです。
幅広い教養は、新たな価値創造のように、自分の頭で考えて判断する能力や論理的に組み立てて結論を導き出す能力、さらには外国人を含む他人との深いコミュニケーションを可能にする能力などのベースになるものです。
ですから、グローバル時代の教養の森は、第三章で述べように、高いレベルで「異・自・言」(異文化理解力、自国理解力、言語力)の能力が鍛えられている必要があります。
グローバル人材とは、英語などの外国語の能力に長けているだけでなく、日本のことも相手の国のこともよく理解した上で、きちんと議論し、仕事ができる人を言います。ですから「異・自・言」を徹底的に鍛えなければなりません。
また、より高いレベルでグローバルリーダーを目指すなら、深い教養の森に専門性も備えている必要があります。ここで言う専門性とは、戦術のように、小枝の先の葉のような狭い専門領域の専門性ではなく、幹に近い太い枝レベルの専門性です。
専門性に特化しすぎると、帰った複雑な問題に対処できないからです。針山のてっぺんみたいな専門性しかないのに、何でも分かった気になるのが一番怖い。ピットホール(落とし穴)に嵌りやすいのです。必要なのは、複雑な問題の全体像を把握し、最適解を見いだせる高い俯瞰力を鍛えた人材です。具体的には、前にも述べたように「学部で学ぶ教養をさらに深堀し、太い枝レベルの専門性も獲得している人」です。
今、産業界をはじめ、社会が一番欲しいのは、そういうハイレベルな人材です。
前掲書『京都から大学を変える』p.248-251

松本氏は必ずしも基礎研究を軽視していないし、この文面を見る限り、大学における安易な実学/職業教育の推進とも一線を画しているとみることができるのではないだろうか。

もちろん、上に述べたことにつっこみを入れることはできるだろうし、上に述べたことを実現する組織が、果たして国際高等教育院やリーディング大学院(思修館)なのかという問題もある。理念を実現する組織をどう作り、どう落とし込んでいくかはもちろん重要だが、そのことについての合意を得ることは非常に難しい。そこについて学内外を問わず大いに議論することは望ましいと考える。

しかし上のような記述がある限り、少なくとも私は、松本氏に対して、

  • 彼には科学技術的業績は何もない。理事の時に、たまたま山中先生のIPS細胞発見に出会い、文科省とつるんで盛り上げただけ。
  • 松本さんには学問に対する真摯な姿勢がみられません。
  • あの人は科学がわかっている人ではないです。
  • 特に基礎的な学問については無知です。

という批判を行うことは一面的すぎて、相当に妥当性は低いと結論せざるを得ない。

今回の松本批判の中には、例えば佐々真一氏が言及し内村氏がRTしている「京都大学前総長の松本紘教授による「古代宇宙飛行士説」の紹介の内容が随分ひどいということもあるようだが、これについては、少なくとも私は講演を見ていないし内容も把握していないので、詳細なコメントは控えたい。
ただ、きちんとした学問的業績のある人でも、話の内容がいささかホラ話のようになってしまう実例を少なくとも一つ私は知っている。そういうホラ話的なことに私自身は嫌悪感を持つが、しかしそれを根拠に「学問に対する真摯な姿勢がみられません」「科学がわかっている人ではない」「特に基礎的な学問については無知です。」という全面的かつ包括的な主張をするつもりはないし、それは妥当ではないと思う。私も内村氏が重大なミスを犯したからと言って、内村氏の情報がいつでも嘘だなどと主張するつもりはない。しかし少なくとも内村氏の言う内部情報にミソがついたことは確かだし、松本氏の講演もせっかくの業績に水を差したという判断を下すことはありえると思う。

*1:J. Geophys. ResearchのImpact Factorは3よりも少し大きい程度のようだが、この学術誌が当該分野でどの程度権威のある雑誌なのか、私は知らない。

科学ジャーナリスト・内村直之氏による前京大総長・松本紘批判への疑問(その2)

(その1)でみた科学ジャーナリスト・内村直之氏による松本批判のツイート群について検討したい。今回は「総長選挙」に関する点について扱う。

総長選の内部事情とそれに対する重大なミス

この節で私が指摘したい論点は以下の通りである。

  • 各研究科の投票行動について、公けにすることについて慎重に検討したのか。
  • 経済学研究科の投票行動についての重大なミス。
  • 総長選挙における「対立候補」の行動を暴露することの是非。
  • 総長選挙の実態を松本批判へ結びつける文面の不適切性。

内村氏は、2008年に行われた京大総長選挙について、上のツイート群の中でまず次のように述べている。

理事の時に、たまたま山中先生のIPS細胞発見に出会い、文科省とつるんで盛り上げただけ。それをよしとする工学、経済の押しで総長に。理、医などの猛反対は彼の押しに嫌気をさしたから。

これに対して、京都大学経済学研究科の依田高典氏が次のように指摘した。

事実誤認だけを正すとあの時は経済系は研究科長の判断を踏まえ対立候補の方に入れました。ただしその対立候補が全く総長をやりたい意志を持たなかったのでどうにもならなかった。

それに対する内村氏のツイートが

  • 経済はそうでしたか。訂正します。そうですね。対立候補はレポートを白紙で出し、当日は海外でした。残念。
  • 依田先生から前々回の京大総長選での、間違いを指摘していただきました。経済学研究科は対立候補を押されたとのことでした。かなり学内で割れた総長選であったことは確かだと思います。

というものであった。驚くべきことに、内村氏はこのツイートの後に、次のように述べているのである。(色付け強調は私による。)

あの総長選の夜、僕は某先生と出町柳のビストロで痛飲していたのです。内部事情を全部聞いていました。

もちろん選挙であるから、誰が、あるいはどの部局がどいういう投票行動をとろうと決めるかにあたって、いろいろな争いはあるだろうし、多数派工作も行われるだろう。選挙である以上それは当然だ。
しかし、どの部局がどういう投票行動を取ったかは、本来公けにするべきものであるのかどうか、相当に慎重に判断するべきであると思う。そういう情報にどれだけの公益性があるのか、少なくとも私は疑問である。
内村氏の最初のツイート「工学、経済の押しで総長に。理、医などの猛反対は彼の押しに嫌気をさしたから。」という文面が、この「公益性」の観点を、果たしてどれだけ吟味した上でなされたものなのか、
内村氏は十分に説明する責任があると考える。

必ずしも松本氏の選出に賛成する人たちばかりでなかったことは、京大自身が公開している「京大広報」2008年6月号を見ることでわかる。
第1次選考者6名のうち2名に絞り込まれた第2次選考で、松本氏と成宮周氏(医学研究科)への投票結果は829対605であった。このような情報に一定の公益性があることは認める。しかしそこから一歩踏み込んだ投票行動についての内部情報を公開することについて丁寧な検討が必要だったはずだ。

しかもあろうことか、内村氏は経済学研究科の投票行動について、誤った情報を公けにしてしまったのである。そもそも公開するべきかどうか慎重に判断するべき内部情報を公開したうえに、そこに重大なミスを犯したのである。
しかも、「経済はそうでしたか。訂正します。」という文章から判断する限り、内村氏は、経済学研究科の投票行動について、そもそも正しい情報を記憶していたのではなく、今回指摘されて初めてミスに気が付いたと考えざるを得ない。

そのような「記憶違い」を犯してしまった人物が、十分な謝罪もないままに、「内部情報を全部聞いていました」などとツイートすることは、まったく驚くべきことであると言わざるを得ない。開いた口が塞がらない。
このような重大な点に「記憶違い」があるということは、総長選挙に関する内村氏のコメント全体の信頼性を著しく毀損することは言うまでもない。この点に関して内村氏は十分な説明や謝罪が必要であると考える。
内村氏のツイートの中に、訂正はあっても謝罪は一言も含まれていないことに注意を喚起しておきたい。

さらに言えば、
依田氏のツイート「経済系は研究科長の判断を踏まえ対立候補の方に入れました。ただしその対立候補が全く総長をやりたい意志を持たなかったのでどうにもならなかった。」は、事実の訂正と相当に抑制された内容になっている。
内村氏の「記憶違い」という誤った情報を放置することは許されない以上、何らかの訂正は必要であることは十分に理解できる。

本来、総長選挙は、各教員が自分の意志で投票行動を行うものであるから、経済系として決めた方向性ですべての教員が投票したかどうかはわからない。
「経済系は研究科長の判断を踏まえ対立候補の方に入れました。」という文面からだと、対立候補以外に入れた経済系の教員が全くいないように読め、実際そうなのかもしれない。
ただそれが事実かどうかは読み手は確かめられないし、もし松本氏に投票した教員がいたとすると、このような書きぶりが適切かどうか疑問である。
この記述も確認できない内部情報を持っており、検証が難しい内容になっている。もちろんこの記述が事実なら、このような訂正をしなければならない以上、適切なものと言えるであろう。

もともと内村氏のツイートがなければ、このようなツイートをする必要は生じなかったのであり、その点からも内村氏のツイートが不適切であることは明白だ。

後段の「その対立候補が全く総長をやりたい意志を持たなかったのでどうにもならなかった」という部分が本当に必要であるかどうか、私は少なくとも態度を留保したいと思う。

というのも「対立候補」というのがどの人物を指すのか明確ではなく、しかも誰であるかを明示するべき「公益性」を持つかどうか疑問だからだ。
この文面と京大広報の記述を見ると、その対立候補が第2次選考で対立候補となった成宮氏であると読めてしまう。しかし実際には、第1次選考通過者6名の中の誰かのことを指しているのかもしれない。
どの読み方が正しいのか読み手は非常に確認しにくい。依田氏はこうした点について十分に検討した上でコメントしたのかどうか、私には判断できない。しかし抑制された記述であると私は感じた。

翻って内村氏のツイートに戻ると、あろうことか、内村氏の発言はさらにエスカレートしている。

対立候補はレポートを白紙で出し、当日は海外でした。残念。

依田氏の発言の中にある「対立候補」がだれを指すのかははっきりしないことを指摘した。第1次選考者の中にいた人がやる気を見せずに辞退したのかもしれないし、実際のことはわからない。
しかし、内村氏は、その曖昧さを無視し、対立候補」が具体的にどのような行動を取ったかを暴露してしまったのである。
総長選挙においてこのようなことが起きていたことを報じることにいったいどれだけの公益性があるだろうか。
すでに述べたように、私は内村氏の「記憶違い」は重大であり、この内村氏の暴露に対する信頼性はそうとう危ういと感じる。
また、少なくとも私は、依田氏と内村氏のやりとりに出てくる「対立候補」は成宮氏であると読むのが自然であると思う。しかし、それが事実であるのか、もし事実でないとすれば、これは名誉を傷つけかねない。
仮に事実だとしてもこのようなことを公表することの公益性に疑問があり、対立候補の名誉を傷つけているのではないかという疑念はぬぐい難い。
依田氏の訂正コメントはぎりぎり許容できる範囲であると感じるが、内村氏のこれらのツイートは到底看過できないたぐいのものである。

もう一つ指摘したいことは、そもそも総長になる意志を持たず「レポートを白紙で出し、当日は海外」というような人物が候補者になっているような総長選挙の実態を、

工学、経済の押しで総長に。理、医などの猛反対は彼の押しに嫌気をさしたから。

などとまとめるのは全く不適切なのではないかということだ。そもそもやる意志のない人間とやる意志を持つ人間が競う状況は選挙として無意味で、そのことの責任を「彼の押しに嫌気」などと松本氏を批判することに利用するのは批判の矛先がまったく見当はずれであると言わざるを得ない。そもそも選挙の構図がおかしいのではないかと感じる。

そして最後にもう一つ付け加えたい。

あの総長選の夜、僕は某先生と出町柳のビストロで痛飲していたのです。内部事情を全部聞いていました。そして、その方も数年してすい臓がんであっという間にこの世を去られてしまいました。

という記述である。内村氏が、上記のような重大なミスを犯し、内部情報についての記憶違いを犯したしまったあとに、このようなツイートをしてしまうと、この「某先生」からの内部情報がそもそも正確なものであったのかどうかさえ疑問が出てきてしまう。
内部情報の出どころについて記述し、しかも内村氏の記述した内部情報に誤りがあるということは、内村氏が「某先生」からの内部情報を適切に記憶できなかったのか、「某先生」の情報が不正確だったのか、判断できないからだ。「某先生」がなくなられている以上、このことは、「某先生」の名誉も傷つけてしまっていることに内村氏はもっと思いを致すべきだ。ジャーナリストであるはずの内村氏が、内部情報を公開することの危うさについて、あまり慎重に検討したとは思えないような書きぶりやミスを犯すことに正直驚いている。

科学ジャーナリスト・内村直之氏による前京大総長・松本紘批判への疑問(その1)

前京大総長の松本紘氏が、野依良治・前理化学研究所理事長の後任として調整が進んでいるとの報道が出た。
これについて、科学ジャーナリストの内村直之氏が以下で引用するような一連のツイートで批判的に言及している。

私は、内村氏の批判は非常に一方的で、丁寧な補足説明や自らの発言を裏付ける根拠を明示しない限り、不当な誹謗中傷や人格攻撃をしていると判断せざるを得ない。

(実は以下に引用する内村氏のツイートに、axion811氏が批判的なコメントをつけているが、2015年3月22日現在、内村氏は一切応答していない。
もちろん私はaxion811氏ではないことを明言しておく。axion811氏の発言にもやや行き過ぎていると感じられる箇所があるし、氏の発言全てに私が賛同できるわけではないことも念のため明示しておく。
また私は現在も過去も京大総長選挙に対して投票権を持ったことはないことも付け加えておく。)

私自身、松本氏の「改革」の方向性がすべて妥当なものであると考えているわけではない。
松本氏が総長として行った様々な事柄の中に、学内の意向を十分に聴取していなかったり、学内に十分に説明することを怠っていたものがあるかもしれない。
少なくとも学内には松本氏に対する批判的な意見はいろいろあるのだと想像する。
またiPS細胞に関係する点について、たとえば松本氏の会見の中で、奈良先端科学技術大学院大学が山中氏を採用し研究活動を支援してきたことへの言及や敬意が必ずしも十分には述べられていなかったのではないかと感じている。
さらに、後でも引用する松本氏の著書『京都から大学を変える』(祥伝社新書2014年)の中にも、内容的に齟齬のある記述が含まれているのではないかとか、必ずしも同意できない点もいろいろある。松本氏の主張していることと実際にやっていることとの間に乖離もあるのかもしれない。私自身、松本氏の式辞を直接聞いた経験が何度かあるし、また上記の本の中の記述にも表れているように、自分の経験に立脚した話し方をかなりはっきりとされる方だという印象はある。そういう意味で、松本氏の様々な言説や方針に、自身の「成功体験」が強く反映され過ぎていて、一般的な妥当性を十分に保証できていないのではないかという論点はありえると思う。

そうした点で松本氏の行ってきたことにいろいろな問題点がある可能性はあり、そのことの検証作業は必要だと思う。
しかし、たとえそうだとしても、内村氏の発言は行き過ぎていると私は考える。以下、まず内村氏の一連のツイートを見る。

内村氏による松本批判ツイート

時系列順に引用する。











内村氏による松本批判の問題点

内村氏による上記のツイート群には、複数の問題点がある、と私は考える。大別して次の3点を指摘しておきたい。

  1. 総長選挙の内部事情を公けの場で明らかにすること。そしてそこに重大なミスがあったこと。(→その2
  2. 松本氏の業績についての根拠を明示しない独断。(→その3
  3. まだ成果について判断することができない事柄についての根拠を示さない独断。(→その4

以下、順を追ってみていきたい。

京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その6)

 前回まで、いわゆる総長メールに添付された参考資料1から参考資料4の内容を具体的に概観し、「国際高等教育院」構想に反対する側がこれらの資料についてどのようなコメントを行っているか批判的に検討するとともに、反対側が公開している具体的な文書として、「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」と題された文書と、「基幹ユニット構想」についての文書を批判的に検討してきた。さらに、「国際高等教育院」構想に反対する側の具体的な発言として

なども検討してきた。

 12月になって、京都大学新聞が「教養教育 私の視点」と題する連載企画を開始した。今回は、この連載企画の記事を検討したいと思う。2012年12月28日時点では、第1回と第2回が掲載されているので、この2つの記事を扱うこととし、以後、さらに連載記事が追加された場合には順次加筆していきたいと思う。

第1回 阪上雅昭教授の記事について

 あえて、この記事の最後を引用することから始めたい。

「国際高等教育院」構想に信念をもって反対したい。

こう述べる以上、この文章には、この反対の根拠あるいは信念が述べられているのだと私は考える。実際そうなのかということを検討したい。
 まず冒頭で

私は物理学が専門である。基礎教育としての物理学に比べると教養教育としての物理学というのはかなりイメージすることが難しい。幸運にもいわゆつ文系学生を対象とする“物理学概論”を担当しているのでそれを手がかりにしてみることにしたい。すると浅はかではあるが“自然の見かた”を教えることではないかと思えてくる。

と述べている。
 次に、研究を始めた頃から振り返りつつ、阪上氏の「宇宙観」というようなものが語られる。
 しかし私は、ここから特に教養教育について引用するべきなにかを見つけることはできなかった。
 話題が変わり、東日本大震災原子力発電所の事故に関する記述が続く。これらの記述からも教養教育に関連して何か引用しなければならないと思われる記述を見出せなかった。
 最後に次のように述べている。

 大学の教育について話を戻したい。物理学概論について言えば、講義の内容が直接彼らの進路で役立つことはないだろう。でも稀にでも彼らの琴線に触れ自然観を変えることがあるならとても幸せなことである。素晴らしい教育をしているなどと主張する気はさらさらないが、一人の教員の中での連携する営みとして、教養、学部、大学院教育、そして研究がゆるやかに統一されていることが、私の教育そして研究を豊穣なものにしてくれていることは確かである。この実感により、「国際高等教育院」構想に信念をもって反対したい。

あえて私は率直に述べたい。

この文章の中で、冒頭と最後の部分以外は完全な枝葉であり、教養教育や「国際高等教育院」構想を考える上でほとんどなんらの関連性を持っていないとさえ言えると思う。というのも、阪上氏の宇宙観と原子力発電所の事故に関する分析を読んだとしても、「一人の教員の中での連携する営みとして、教養、学部、大学院教育、そして研究がゆるやかに統一されていることが、私の教育そして研究を豊穣なものにしてくれている」という阪上氏の「実感」を根拠付けるものとは見えないからだ。

より具体的に指摘しよう。

阪上氏は、博士課程の途中で素粒子論から宇宙論へ研究テーマを変えたと述べており、

視点を変えることで宇宙や時空そのものを対象化し一体として捉えることができたこと、特にその進化を俯瞰できたことは何物にも代え難い貴重なものであった。

と述べている。しかし、それと教養教育はどのような関係を持っているのか全く分からない。この記述は、単に阪上氏が博士課程でどのような指導を受けたか、どのような見方を獲得したかということに過ぎず、教養教育の中身と直接関係していないのだ。

また原子力発電所の事故については

原子力発電あるいは原子力政策を全体として理解している者が当事者の中に誰一人として存在しなかったと思われる

と述べ、これを致命的な問題点と指摘しているが、しかしこれは教養教育とどのような関係を持つ話題なのか全く分からない。たとえば、「原子力発電あるいは原子力政策を全体として理解している者が当事者の中に誰一人としていない」という致命的な問題点が教養教育によって改善されるとでも言うのだろうか。

これらの具体的な話題の中から、「一人の教員の中での連携する営みとして、教養、学部、大学院教育、そして研究がゆるやかに統一されていることが、私の教育そして研究を豊穣なものにしてくれていることは確かである」ということの根拠記述を読み取ることは残念ながら私にはできなかったと言う以外にない。「信念をもって反対する」といわれても、このような記述では何も応答しようがない。

 それでもあえていくつかの記述について考えてみたい。

 一つ目は、文系学生にとっての物理学概論が、「講義の内容が直接彼らの進路で役立つことはないだろう。」という断定である。「進路」という言い方は非常に微妙だ。それを「職業」という意味で考えたとすると、例えば、原子力行政に携わる官僚機構がすべて理系の人間だけで構成されているとは思えない。文系出身の人でも、物理学や自然科学の基本的な考え方が「職業」上全く役に立たないなどという断定はするべきではない。しかも、「進路」という言葉を「学生の人生」という意味で捉えるならば、様々な社会的問題と物理学や自然科学の見方というものが密接に関係しているということを忘れるべきではない。たとえ自分の職業上で物理学の基礎的な内容を直接利用したりする必要がなくても、例えば今回の原子力発電所の事故についての報道の中で、放射線セシウム半減期などといった物理学の基本的な内容と直接関係する事柄が登場している。それらについて、文系出身の人々が何も知らないという状況で良い、とは私には思えない。これは、文系学生にとって物理学や自然科学の基本的な見方が役立つ側面はありうることの証左だ。もちろん今回のような事故が起こらなければ、文系出身の学生は、放射線とかセシウム半減期などという事柄に触れずに済んだかもしれない。しかし、それは役に立たないまま終わることがあるかもしれないが、役に立つ場合もありうる内容なのである。「進路で役立つことはないだろう」などという安易な断定は問題だ。

 そして二つ目は、そもそも「国際高等教育院」構想自体は、文系学生に「進路で役立つ」ということを基準として履修科目を選択させようという試みではないということだ。すでに検証してきた参考資料1から参考資料4には、そのような「進路で役立つか」という視点はない。何度も引用しているが、参考資料1の冒頭で述べられていた教養教育の中核となる内容についての記述

「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」

には、「進路に役立つ」などという視点はない。文系であろうと理系であろうと、どのような職業を選択しようとも、学ぶ価値のある内容について述べているのだ。語学教育を別にすれば、教養教育の中身について、社会に出て役立つなどという視点を前面に押し出すような安易な議論はなされていないのである。

 三つ目として、「稀にでも彼らの琴線に触れ自然観を変えることがあるならとても幸せなことである。」という表現にもいささか違和感がある。「自然観を変える」とはどういう意味だろう。何か文系学生は正しくない自然観を持っていて、それを正しい自然観に変えるという意味だろうか。上の記述にあるように、教養教育においても理解科目では、「数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論」を学んでもらうことが主眼であり、それはどちらかといえば「理解し使えるようになる」ことであり「変える」こととは違うように思う。

 四つ目として、「一人の教員の中での連携する営みとして、教養、学部、大学院教育、そして研究がゆるやかに統一されていることが、私の教育そして研究を豊穣なものにしてくれている」という記述に対する違和感である。
 問題点はいろいろあると思う。
 まず、「教養、学部、大学院教育」をすると、自身の「研究」が豊穣なものになるのかという点である。研究活動をしていることが、教養、学部、大学院教育を豊穣なものにすることには同意できる。しかし、逆向きすなわち、研究するために教育、とりあわけ教養教育をすることは必須の条件だろうか。私は賛同できない。研究に教育は、しかも特に教養教育は必須の条件であるとは思えない。例えば文系学生に物理学概論を教えることが、自身の研究の豊穣さにつながるとでもいうのだろうか。私にはにわかには信じられない。
 次に、教養教育を豊穣なものとするために、学部や大学院の教育は必要かという点である。繰り返すが、私は研究活動をしていることが教養教育を豊穣なものにすることには同意する。しかし、研究活動は、学部や大学院教育とは別物である。学部や大学院の教育をしていることが、豊穣な教養教育を提供するための必須な条件であるとは思えない。
 「ゆるやかに統一」というナイーブな言葉で、どのような活動が何を豊穣なものにするのかという分析が放棄されてしまっていることを私は問題視したいし、そのことについての十分な分析なくして、「国際高等教育院」構想の是非を議論することなどできるはずがない。あえて率直に言えば、阪上氏が最後の一文の主張を述べたいのであれば、自身の宇宙観はともかく、原子力発電所の事故の話などをする前に、もっとこれらの点について精緻に述べるべきではないのだろうか。

第2回 菅原和孝教授の記事について

「知と青春と権力 真の教養とは批判の力だ」と見出しがつけられた記事である。冒頭を引用することから始めたい。

「国際高等教育院」構想に対する人環教員有志の反対運動が始まってから、私がもっとも胸を突かれたのは、学部学生からの次のような批判だった。「ことの本質は、人事権をめぐる総長と人環との権力闘争でしょう。『教養教育を守れ』という美辞麗句を隠れ蓑に使ってほしくない」。小論では、「学部自治」破壊に対する抵抗と、「教養教育を守る」こととが不可分の課題であることを主張したい。

こう述べる以上、この文章の中に、『「学部自治」破壊に対する抵抗と、「教養教育を守る」こととが不可分の課題であること』の根拠が述べられるべきなのは当然であろう。その根拠を読み取るべく、具体的な記述を見ていきたい。

 菅原氏の記述は、まず青春時代の記憶から始まる。
 1969年、東大入試が中止された年に理学部に入学した菅原氏が、教養教育でのような衝撃を受けたかを3つの事例で述べている。

  • 英語の竹森は「自分を問われない生活」に埋没することへの不安をかきたてた。
  • 芸術学の新田の講義では、西欧絵画こそ最高だと思い込んでいた自身の偏見が打ち砕かれた。

という2つの事例に続き、数学の例が述べられている。

もっとも衝撃的だったのが数学の西野(理学部から出向していた)との対決だった。実は授業開始後の一週間以上、機動隊に守られた秩序への復帰を納得できない仲間たちと共に、私は、多くの授業で教官をやりこめ開講を阻止した。だが、西野はこう反問した。「君は何のために大学に来たの?」私は少しためらった。「自分のしたい学問に必要な知識を身につけるため」。彼は「ふむまあいいだろう」とか呟いたあと、こう断言した。「どんな闘いをするにせよ、君たちの武器は論理しかない。論理的に思考することをこの授業で教える。文句あるか?」私たちは震撼し一言も反論できなかった。翌日から授業を受けることを決めた。今も講義で論理的に話そうと努めているとき、この数学者との出会いが私の半生に影を落としてきたことに気づく。京大の教養教育とはそのようなものであった。私が「認識の徒」として生きる決心をした理由はいろいろあるが、畏敬に値する学識をもって真剣勝負を挑んでくる教養部教官から受けた衝撃もその一つであった。

京大の教養教育とは「そのようなもの」だったという「そのようなもの」とは何か。例を省けば、結局のところ、「畏敬に値する学識をもって真剣勝負を挑んでくる」ということに尽きるだろう。だとすれば、私の疑問はこうだ。「畏敬に値する学識をもって真剣勝負を挑む」ことが、なぜ「国際高等教育院」構想のもとでは困難なのか。担当する科目が教養教育の科目だけであったとしても、自らの学識が試される以上、それは自身が研究者として畏敬に値する学識を持っているかどうかだけが問題の本質のはずだ。組織がどうとか、学部や大学院の教育を担当しているかどうかとか、ましてや人事権があるかどうかなど二義的な問題に過ぎないのではないか。

もうひとつ、少し瑣末なことだが、あえて3つ付言しておきたいことがある。
 まず、青春の思い出を語るのはいい。しかし、菅原氏が語った思い出の中に、「多くの授業で教官をやりこめ開講を阻止した。」という記述がある。講義を受けたいと考えていた多くの学生にとって、こうした行動が迷惑千万であったことは間違いがなく、そうしたことへの痛烈な反省を含まぬ議論は、単なる青春の思い出語りや武勇伝語りに過ぎない*1
 次に、「自分のしたい学問に必要な知識を身につけるため」という青春時代の目的意識と、教養教育の中身とが結び付けられていない記述に違和感があるということだ。率直に言って、この目的意識と教養教育の関係について議論することの方が、青春の思い出語りよりもよほど「国際高等教育院」構想を考える上で有益だと私は考える。
 そしてもうひとつ、西野氏が行っていた数学の授業が「論理的に思考すること」だけを教えていたのかどうかという点もポイントだ。これは、数学に限らず理系科目の教養科目を教える場合の目標設定と密接に関係した論点である。この部分も、教養科目における理系科目の位置づけを議論する上で欠かせない論点のはずだ。当時に比べて、現在ははるかに科学技術が社会の隅々に浸透している。そのような中で、文理を問わず理系科目の教養教育における役割はどうあるべきかを考えることが、「国際高等教育院」構想を考える上で重要だと私は考える。


 菅原氏の記述は、引き続いて、教養部から総人・人環への移行期、文部省の「大綱化」への対応についての記述に移る。

全教員の悲願は、語学教育(基礎教育)センターへの配置といった差別的な分断化をせず、一丸となって学部・大学院に移行することだった。新しい部局の設立が全学の合意を得るためには、全学共通科目の責任を担うことが必須だった。それだけが教員全員が相互に対等な研究者として切磋琢磨しながら、青春時代の私に衝撃を与えたのと同質な、若者と研究者との対峙の場を確保し続ける唯一の途だった。

人環が主要部分を支えてきた教養教育には、20年近い歴史がある。旧態然とした「教養部」風の授業が最良だといっているわけではない。高等教育研究開発推進機構(通称「機構」)が共通教育をシステム化したことにより、カリキュラムやシラバスはすこぶる整備された。人文社会系科目については2004年に当時の副機構長が起草した文書によって、多様性に飛んだ授業科目、制約のない履修方式、といった「自由の学風」を体現する特質が明晰に理論化された。教養教育の改革を構想するのであれば、こうした歴史的蓄積の検討と、学生諸君の意見を包摂した評価を経ることが大前提だ。それをすっとばして総長直轄の人員プールに人環構成員の7割を配置換えを強行するなどということは、身を粉にして教育研究に携わってきた私たちの生に対する侮辱である。

前段の人環設置時の経緯については、私では検証できないことである。私は総合人間学部や人間環境学研究科がどのような組織として構想され、そしてそれが実をあげているといえるかどうかについて、意見したいこともたくさんあるが、ここではそれは控えたいと思う。ここで議論したいのは後段の記述である。

まず、「旧態然とした「教養部」風の授業が最良だといっているわけではない」という記述の射程が曖昧であることを問題にしたい。

これは、単に、「教養部」風の方法にも問題があり、その代表的な問題であったカリキュラムやシラバスの問題を改善したし、「多様性に飛んだ授業科目、制約のない履修方式、といった「自由の学風」を体現する特質」というものが理論化されていなかったので、それを行ったという意味なのだろうか。つまりこの記述は、現在提供されている全学共通科目においては、旧態然とした教養部風の授業の悪い点は改善されて、現状は最良のものが提供されているのだという意思表示なのであろうか。それとも、現状ではまだ改善するべき本質的な問題が他にもあるということを言っているのだろうか。私が「国際高等教育院」構想に反対する側の主張に関して指摘してきたことは、そもそも現状の全学共通科目に対して、問題点があると思っているのかそれとも問題点はないと思っているのかはっきり述べるべきだし、少なくとも参考資料1から参考資料4で述べられてきた種々の問題意識に同意するのかしないのかくらいは明確にするべきだということである。問題点はあらかた解決されたという立場を表明するなら、そのことの具体的な根拠を参考資料1から参考資料4で掲げられた具体的な問題意識ごとに述べるべきであるし、もし問題があるとか参考資料1から参考資料4で提示された一部の問題意識に同意するというのなら、その問題点を明示し、それがどのような方法で今の組織でも改善されるのかという改善案くらいは示すべきだろう。そういう具体的な表明なしに、今の全学共通科目にもいろいろ問題があるがそれは今の組織で改善できるというような趣旨の発言をしたり、旧態然とした教養部風の授業が最良だというわけではないが、様々な問題点が解決されてきたというような議論だけを述べるのは全くバランスを失しているとしか言いようがない。菅原氏のこの記述でも、いったい菅原氏がどのような立場に立っているのか全く明らかになっていないし、射程のはっきりしない記述に終始するべきではない。

次に、「教養教育の改革を構想するのであれば、こうした歴史的蓄積の検討と、学生諸君の意見を包摂した評価を経ることが大前提」という記述について検討したい。

そもそも、参考資料1から参考資料4は、教養部以来の歴史的蓄積を無視して行われたわけではなく、それらを背景として十分に踏まえているし、学生の現状という問題意識と提案している改善案とをかなり絶妙なバランスで記述しているという印象を、少なくとも私は持っている。その意味で、教養教育の改革を構想するための第一段階の文書として十分に価値があると考える。菅原氏の記述は、やはり参考資料1から参考資料4を十分に踏まえたものとはなっていないと感じる。

他方、私は、「学生諸君の意見を包摂した評価を経る」という点については、かなり懐疑的である。もちろん大学といえども講義を受ける学生のニーズを完全に無視した形で行われるべきではない。しかし、そうはいっても教育とはやはり一定の強制力でもって学生に何らかの事柄を習得させることを大きな目標とせざるをえない。その際、受ける学生のニーズや評価というものは決して第一義的に考慮されるべきものであるとは、私は思わない。学生が、語学科目では熟読よりも「海外旅行で必要なスキル」を教えてほしいと望めばその通りの科目を提供しなければならないわけではないし、理系の学生が文系科目を学ぶ意義が理解できないから必修単位から外すべきだと主張したとしてもその通りにしなければならないわけではない。何よりも、まず教員の側がかくかくしかじかの理念のもと、こういう形の科目群を提供することでその理念を達成したいのだという青写真を示すことから始めるしかないと考える。学生からのニーズがそれに見合っていない場合には、もちろん学生のニーズには耳を貸すべきだが、ニーズに反していたとしても、自らの理念や実施案が正しいと思うならばそう主張しなければならないだろう。残念なことに完全に正しい教育内容やその方法というものが存在するわけではない以上、教育とは未完の試行錯誤にならざるを得ない。教養教育を提示する側がその責任でもって学生たちを説得し、また学生たちの意に沿わないとしても正しいと信じることはやっていく、年月を経てその実があがったかどうかの評価を受けるしかないのが教育というものではないのだろうか。

3つ目として「生に対する侮辱」という言葉の選び方にもあえて注文をつけておきたい。自らの意に沿わない配置転換に納得できないことは理解できるし、それを批判することは構わない。しかし、「生への侮辱」という言葉は非常に強いものだ。少なくとも私には、この表現はそうとう強いものだと感じられる。任期付きで先の保証や見通しがないまま研究活動をしていたり、非常勤を続けながら研究しているポスドクの人たちがいる。そういう人たちに比べて、自分たちの生の方がより侮辱されているというのだろうか。学術分野以外へ目を向けてみれば分かるように、非正規雇用の労働者の問題というのは現在でも大きな社会的問題のひとつだろう。そういう人たちよりも「生」が「侮辱」されているというのだろうか。任期もなく十分に身分保証がなされている状況にある大学教授がの「生」が「侮辱」されているなどというのは、学術分野の状況だけみても、あるいは社会全体の状況に視点を広げればなおさらのこと、大げさに過ぎると私は考える。このような言い方をするからこそ、「ことの本質は、人事権をめぐる総長と人環との権力闘争でしょう。」という批判が出てくるのではないだろうか。この構想に反対する側は、もっと徹底的に詰めて論点を整理しなければならないことがたくさんあるにも関わらず、それを放置して、自らの意にそまない配置転換を「生に対する侮辱」などという強い言葉を選んで記述してしまっているように見える。

菅原氏の記述は、教養教育の理念への言及へと続く。

私が専攻する社会人類学の大きな使命は、<近代>社会に張り巡らされた権力作用を批判することである。だがそれは人類学に限ったことではない。どんな学問分野においても思考の最も根源的な潜勢力は批判である。批判とは、「自分のことば」を用いて「てめえのアタマ」で世界の謎を考え抜くことである。かつて吉本隆明は、「日常性を織り込めない思想はダメだ」と言って連合赤軍を批判した。若者たちの批判的知性を励起すべく奮闘することは紛れもなく私の日常性の一部なのだから、日常への暴力的な権力の侵入に対しては、研究を貫くのと同じ水準の論理で対抗するしかない。

1995年、高度な科学的知識を具えたオウム真理教信者たちがハルマゲドンの教義に傾倒して残虐なテロに走ったことへの衝撃から、主体的な判断力と高い倫理観とを具えた人格を涵養する教養教育の必要性が叫ばれた。「学力の底上げ」を金科玉条とする人たちは、この現代史の苦い教訓を忘れたのだろうか。マニュアル的知識を頭に詰め込んだだけの順応主義は他律的な回心や誘惑によって容易に狂信やファシズムに転化する。利己的な順応主義者がテクノクラートとして君臨した果てに、この国の惨状がある。かけがえのない暮らしと風景を無惨に破壊したことを恥じず、解決不能な汚染物質を何万年も先の子孫に押し付ける。被災者の塗炭の苦しみを嘲笑うかのように自らの属する省庁の利益獲得に狂奔する。どんな教育がそのような想像力の欠如したエリートを生み出したのだろう。私たちが担っている教養教育は不条理な権力作用の最深部を撃つ強靭な知を育てるはずのものだ。その点において、私たちの力が十分でなかったことを謙虚に認めなければならない。

松本総長が「国際高等教育院」なる構想を思いついたのは、京大生の基礎学力の低下と英語力のなさを憂えてのことだという。だが、若者の知性を衰弱させたもっとも大きな力は、半世紀にわたって少年少女から批判力を周到に刈り取ってきた保守政権の文教政策にほかならない。ウェブ上で入手できる知識への過度の依存も知的好奇心を痩せ細らせる。生の謎を鮮明に照らす古今の傑作文学を耽読する大学生はもはや絶滅危惧種である。しかし、人類史上はじめて起きているサイバースペースへの過適応とそこから帰結するヒトの認知能力の微視的進化(退化?)の趨勢を管理教育の強化によって変更しうると思い込むことこそ、この時代が直面している黙示録的な危機に対する恐るべき無理解を暴露している。

これらの記述への印象を一言で言うなら、権力作用に対する批判的知性などという位置づけ/問題意識自体が前時代的なものなのではないかということだ。権力とは、確かに我々を拘束するものであるが、同時にそれは我々自身が作り上げるものでもある。そのことを忘れて、自らを拘束する障害としての権力をただ批判することだけに堕してはならない。少なくとも可能な範囲で、現実的な改善案を提示しながらそれを練磨していく営みを怠ってはならないはずだ。具体的に教養教育の枠組みについて、毎年入学してくる3000人余りの新入生に、どのような理念でどのような科目を提供し、何を身につけてもらうのか、その点を整理して議論することが必要なのである。

単に「批判的知性を励起する」とか「不条理な権力作用の最深部を撃つ強靭な知を育てる」というのでは、私には釈然としないものが残る。参考資料1の冒頭では

  • 本学の卒業生は、研究者あるいは高度専門職業人として、様々な領域で知識基盤型社会を牽引していくことが期待されるだけではなく、健全な良識と深い人間的洞察力、そして高い責任感・倫理感をもって、自由で公正な民主社会の担い手となることも求められている。

という記述がなされていた。京都大学の卒業生は、単に権力作用を監視し、撃つ批判的知性の持ち主であればよいというだけではない。むしろ、彼ら/彼女らこそ権力作用を作り上げていく一翼を担う人材になる可能性がかなり高いのである。そういう人材にとっての教養教育は、「不条理な権力作用の最深部を撃つ強靭な知」というよりもむしろ、「自由で公正な民主社会」において「権力」をどのように形作り、その行使をいかにおこなうかということを思考し、またそれらに必要となってくる基礎的素養を身につけることではないだろうか。「自分のことば」を用いて「てめえのアタマ」で考え抜くことは大切だが、それは権力作用とは完全に独立した形でその権力作用を撃てばよいというわけではない。例えば、「ハーバード白熱教室」で「正義」というキーワードをもとに、功利主義自由主義というものの文献を参照しつつそれらを再考する営みが行われているのは、単に権力作用を撃つためなのではなく、自らの参画する「権力形成」や「権力行使」の場面で、いかに「正義」ということを、自由や公正や民主的であることを担保していくかというこを思考させる目的に資するものだからだと私は考える。権力作用を批判するということだけに限定した教養教育の位置づけ自体がもはや古い問題意識であると改めて述べておきたいのである。

個々の記述を具体的に検討してみよう。

  • 「私が専攻する社会人類学の大きな使命は、<近代>社会に張り巡らされた権力作用を批判することである。」

少し細かいことなのだが、人間環境学研究科の菅原氏の紹介ページには、「権力作用」という言葉が見当たらない。研究のキーワードにも含まれていないようだ。<近代>ということ、あるいは<近代>を相対化することは、確かに社会人類学のみならず多くの学問の中心テーマであろうが、しかしそれと「権力作用」ということを結びつけてよいものか、ここでは疑問を呈するだけにとどめたい。

  • 「どんな学問分野においても思考の最も根源的な潜勢力は批判である。批判とは、「自分のことば」を用いて「てめえのアタマ」で世界の謎を考え抜くことである。」

私は「批判」という言葉の選び方に疑問がある。「自分のことば」をもちいて「てめえのアタマ」で世界の謎を考え抜く」というのならば、数学や物理学や生物学でも通用するだろうが、「批判」という言葉は上手く合致しているようには見えにくい。ましてや「<近代>社会に張り巡らされた権力作用を批判すること」というのは、少なくとも数学や物理学や生物学といった自然科学の様々な分野では第一義的な目的とは言えないのではなかろうか。言葉の選び方の適切性に疑問を感じる。

  • 「若者たちの批判的知性を励起すべく奮闘することは紛れもなく私の日常性の一部なのだから、日常への暴力的な権力の侵入に対しては、研究を貫くのと同じ水準の論理で対抗するしかない。」

「若者たちの批判的知性を励起」することだけが教養教育の目的とは言えないのではないかということは上で述べた。この記述に対するもうひとつの疑問は、「国際高等教育院」なる新しい組織では、「若者たちの批判的知性を励起すべく奮闘すること」がなぜできないのかということである。例えば、学生たちが教養科目を履修する際に、一定の体系性を考慮した履修モデルを基本とすることと、個々の教員が「若者たちの批判的知性を励起すべく奮闘すること」とが矛盾しているということの根拠がわからないのである。あるいは、「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」と規定するとき、なぜ個々の教員が「若者たちの批判的知性を励起すべく奮闘すること」と矛盾していのか、その根拠がわからないのである。

  • 「1995年、高度な科学的知識を具えたオウム真理教信者たちがハルマゲドンの教義に傾倒して残虐なテロに走ったことへの衝撃から、主体的な判断力と高い倫理観とを具えた人格を涵養する教養教育の必要性が叫ばれた。」

私は、このような議論の方法は乱暴だと考える。主体的な判断力や高い倫理観が、残虐さを内包する宗教的集団への帰属に抗するものになるとは一概に言い切れないからである。

そもそも主体や倫理ほど危うい概念はない。主体的な判断力や高い倫理観は、ある意味では宗教、狂信、ファシズムといったものと常に対抗するものであるとは限らないし、むしろそれを積極的に擁護し強化してしまうこともありえる。オウム真理教に参加してしまった多くの人々が、主体的な判断力や高い倫理観を持っていなかったのか、あるいはそれらによってこの現代史の経験が変えられたのか、私はそれを安易に確言などできない。ましてやファシズムをやである。むしろそうした現代史の悲しい経験を分析し、それに抗する概念をどう打ち立て、どう正当化するかを思考し続けることこそ、以後の学問に課せられた重要な課題であり、私はそのことへの答えは未だに到底見出されていないと考える。それは単なる「不条理な権力作用の最深部を撃つ強靭な知」などという権力作用から完全に独立した第三者的視点に立つことだけでは到底解決できない課題だと思うのだ。

そして同時に、それらに抗する概念を「教える」ことなど到底教養教育では提供しきれないといわざるを得ない。教養教育は、「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得すること」を通じて、多くの先人たちの知的営為を学生たちに提供し、そして学生たち自身に思考することを促すことだけしかできないのではなかろうか。

  • 「「学力の底上げ」を金科玉条とする人たちは、この現代史の苦い教訓を忘れたのだろうか。マニュアル的知識を頭に詰め込んだだけの順応主義は他律的な回心や誘惑によって容易に狂信やファシズムに転化する。」

「学力」や「マニュアル的知識」とか「順応主義」といったことだけを根拠に、狂信やファシズムを語る語り口はナイーブ過ぎるということは既に上で指摘したことと同様である。むしろここで指摘したいのは、「国際高等教育院」構想は、単に「学力の底上げ」とか「マニュアル的知識を詰め込む」ことを目的になどしていないということである。何度でも引用するが、「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得すること」のどこが「学力の底上げを金科玉条している」というのだろうか。「マニュアル的知識を詰め込む」ことを目的としているのだろうか。菅原氏のこのような議論は適切とは言えないと考える。

  • 「利己的な順応主義者がテクノクラートとして君臨した果てに、この国の惨状がある。かけがえのない暮らしと風景を無惨に破壊したことを恥じず、解決不能な汚染物質を何万年も先の子孫に押し付ける。被災者の塗炭の苦しみを嘲笑うかのように自らの属する省庁の利益獲得に狂奔する。どんな教育がそのような想像力の欠如したエリートを生み出したのだろう。私たちが担っている教養教育は不条理な権力作用の最深部を撃つ強靭な知を育てるはずのものだ。その点において、私たちの力が十分でなかったことを謙虚に認めなければならない。」

これらの記述もナイーブだとしか言い様がない。われわれの国は、戦後の復興の中で、いわば「擬似的社会主義」とでもいうべき徹底した官僚的制度を打ち立てることで、むしろ豊かな暮らしを実現してきたのではなかったのか。その緻密な設計は、確かに、今の時代にあってさまざまなほころびを見せ始めている。しかし、この到達点を何か全く酷いものであるかのように記述することは一面的だ。残念ながらわれわれは利益を得るために失ってしまったものも数多くある。逆に言えば確かに様々な欠陥はあるが、その欠陥はわれわれが日常享受している様々な便益の裏返しなのである。そうしたことを無視して「教養教育は不条理な権力作用の最深部を撃つ強靭な知を育てる」などと述べること自体、私には空々しく聞こえる。問題はそういう単純なものではないのではないか。

  • 「松本総長が「国際高等教育院」なる構想を思いついたのは、京大生の基礎学力の低下と英語力のなさを憂えてのことだという。」

上の記述でもそうだったのだが、「学力」という言葉を安易に使うのは慎重であってほしいと思う。私は、参考資料1から参考資料4においては「基礎学力の低下」という言い回しを意図的に避けているように見える。高校修了段階の習得内容が多様化しているという指摘は、教養教育が単なる「学力」ベースで語られてしまうことへの警戒感から慎重に言葉を選んでいるように見えるのだ。「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」という規定は、単なる「基礎学力の強化」に留まるものではないと私は考える。

  • 「若者の知性を衰弱させたもっとも大きな力は、半世紀にわたって少年少女から批判力を周到に刈り取ってきた保守政権の文教政策にほかならない。」

この記述には具体性が乏しい。こういう前時代的な批判に私は疑問を禁じえない。

  • 「ウェブ上で入手できる知識への過度の依存も知的好奇心を痩せ細らせる。」

これは本当にそうだろうか。ウェブの普及は、むしろ複数の知識データベースへの接続をより容易にし、我々の判断力の向上に資するように思えてならない。知的好奇心を痩せ細らせるというのは一面的だと感じる。

  • 「生の謎を鮮明に照らす古今の傑作文学を耽読する大学生はもはや絶滅危惧種である。しかし、人類史上はじめて起きているサイバースペースへの過適応とそこから帰結するヒトの認知能力の微視的進化(退化?)の趨勢を管理教育の強化によって変更しうると思い込むことこそ、この時代が直面している黙示録的な危機に対する恐るべき無理解を暴露している。」

「管理教育」などという言葉遣いも前時代的であると感じる。何度でも何度でも引用するが、「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」という規定のどこが「管理教育」なのだろうか。学生たちに体系的な履修を促すためのグループ化と階層化、履修モデルの提示のどこか「管理教育」なのであろうか。問題意識の水準が古いのではないかと私が感じるのはこうした言葉遣いにも現れている。「この時代が直面している黙示録的な危機」というのも内容が不明確で私にはどう意味なのか了解できなかった。あえて率直に言えば「恐るべき無理解」に陥っているのは誰なのか、と皮肉の一つも言いたいところなのである。


続いて菅原氏は英語教育について述べている。

英語は他の言語より優れているから<帝国>の公用語になったわけではない。その覇権は戦後の国家間の力関係がもたらした歴史的な偶発事である。そのことへの苦々しさを含まぬ英語崇拝は世界秩序への過剰順応に過ぎない。知の植民地状況の中で疲弊している極東の知識人は、<帝国>の支配を内側から食い破るためにこそ<帝国>の公用語を操るのだ。だから私は山のように英語の論文を書いてきたし、国際学会の討論の場で沈黙を決め込む日本人研究者たちにもどかしさを感じてきた。「ネイティブと同じように」といった被植民者の卑屈な夢は捨てて、下手くそな英語で自らの思考を表現しようとする「身もだえ」のなかにこそ対等なコミュニケーションの可能性を見なければならない。

「英語は他の言語より優れているから<帝国>の公用語になったわけではない。その覇権は戦後の国家間の力関係がもたらした歴史的な偶発事である。」などということは、非母語として英語を学ぶ者ならば誰でも知っていることであり今更強調するまでもない。むしろそのことに「苦々しさ」を持たなければ「過剰順応」なのかということに議論の余地があると思う。「<帝国>の支配を内側から食い破るためにこそ<帝国>の公用語を操る」などというのもいかにもレトリカルである。自然科学を志望する学生の教養教育でこうしたレトリックを用いて本当に支持が得られるのか、私は疑問である。しかし、それらはすべて脇へのけておいて、一番問題だと感じるのは最後の文章だ。

「国際高等教育院」構想は、あるいは参考資料1から参考資料4で述べられていた語学教育に関する記述は、何も学生たちが「ネイティブと同じように」英語を操れるようになるべきだということではない。そのようなことは述べられていない。仮に、「国際高等教育院」構想の初期に、ネイティブ教員を雇用するというような構想があったとしても、ネイティブ教員に習うことと「ネイティブと同じように」英語と操ることも全く別の話だ。

  • グローバル化の進展の中で、様々な分野で指導的な役割を果たす人材は、人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できることが期待される。そこで、「一般学術目的の英語」においては、ディスカッションやライティングなどの、言語技能的な側面をより重視する教育を行う方向性で検討する必要がある。

という参考資料1の提言は、何も学生が「ネイティブと同じように」英語を操れるようになれなどといっているわけではない。むしろ「下手くそな英語で自らの思考を表現しようとする「身もだえ」のなかにこそ対等なコミュニケーションの可能性を見」ることと何も矛盾しないし、方向性はむしろかなり類似のものであるとさえ見えるのである。書物を読むことに重点が置かれすぎているのではないかという現状認識のもと、「表現」にも重点を置くことを提言しているからだ。「身もだえ」することを促しているのだ。

最後に菅原氏は、「私がもっとも誇りとする全学共通科目の成果」を紹介している。菅原氏が担当している「社会人類学調査演習」での多くの傑作レポートが書物に結実したこと、特に、工学部3回生の傑出したレポートを紹介している。その上で

京大生のこのような知性と行動力に出会うことこそが、私の日常を輝かせる意味の一部なのだ。その輝きを破壊しようとする力に粘り強く抗わなければならない。

とまとめている。
私は、「国際高等教育院」構想や参考資料1から参考資料4が示している教養教育の改善案というものが、京大生の知性や行動力に出会うという「私の日常を輝かせる意味」を本当に破壊するものなのかという点について、懐疑的である。
確かに、より基礎的な内容の充実とグループ化・階層化、履修モデルの提示という観点からすると、基礎ゼミナールやフィールド実習的な科目が「拡大科目群」に分類されることは想定できる。私も、こうした基礎ゼミナールやフィールド実習が1回生の初めから履修できるようにしておくべきかどうかについては懐疑的だ。しかし、こうした科目は、3000人の入学者すべてが履修しなければならない科目というより、むしろ学生の興味と関心によって駆動される科目であると考えられる。そうであれば、例えば履修年次を3回生以上に設定するなどの方法を取りつつ、学生の興味と関心に応じて少数のそうした科目群を履修することのできる余地を残し、単位認定でも少数の単位ならば認定できるようなシステムにすることは可能だろう。少人数の学生の興味と関心によって運営する科目ならばむしろ弾力的な運用が可能なのではないかと私は考える。あえて言えば、理系の学生に、文系科目に関係した基礎ゼミナールやフィールド実習の中から最低一つを、文系学生には理系科目の実験や実習科目の中から最低一つを履修するように単位認定制度を設定することも、参考資料1から参考資料4で提示された観点を踏まえた形で容認できるのではないかとさえ思うのだ。

菅原氏の文章を検討する最後に2つのことを付言したい。

一つは「私の過剰」である。「私の日常を輝かせる意味」とか「その輝きを破壊しようとする力に、粘り強く抗わなければならない」といった記述には、菅原氏という「私」があまりに過剰に露出されすぎていると感じる。あえて言いたい。教養教育は、菅原氏という「私」の日常を輝かせるためのものではないと。教養教育は、学生に考えてもらうことが最大の目的だと考えるからだ。学生にとって何が有意味であるかが優先されるべきで、教員の日常の輝きは二義的な問題なのではないか、とあえて述べてみたいのである。だからこそ、学生にとって有意味であることとはどういうことなのかを明確に整理することが「教養教育」を語る上での前提になると思うのだ。菅原氏の議論はどうしてもその部分がナイーブな記述に留まっているという印象を禁じえない。にも関わらず「私の日常の輝き」を守るのだという意思だけが表明されているように見える。そのアンバランスに違和感があるのである。

少し論点を広げると、これはおそらくA群科目に顕著なことだと思うのだが、教養科目で提供されている科目の中で、教員が「自分の考えたこと」「自分の興味関心」「自分の研究の根本動機」「自分の研究の最先端」といったことをどうしても語りたがる傾向があるように思う。しかし、学生に考えてもらうという点では、むしろ教員は自分の考え方をあまり前面に出さないほうが良いこともありえる。「ハーバード白熱教室」のマイケル・サンデルは自身のコミットする政治的な立場をかなり棚上げして、問題を典型的に浮き彫りにする具体的な事例を手がかりにしながら、古今の様々な著作を紐解き、諸概念の再考を促していくスタイルを取っていた。そういうあり方が、教養教育のひとつのモデルケースとして適切なものであると私は考えている。

付言したいことの二つ目は、菅原氏の冒頭の記述の検証である。

小論では、「学部自治」破壊に対する抵抗と、「教養教育を守る」こととが不可分の課題であることを主張したい。

と、菅原氏は述べていた。一体この記事がこの「主張」を根拠付けるものであるといいうるのだろうか。「ことの本質は、人事権をめぐる総長と人環との権力闘争でしょう。『教養教育を守れ』という美辞麗句を隠れ蓑に使ってほしくない」と批判した学部学生に、この文章は受け入れられるのだろうか。残念ながら私は否と言わざるを得ない。この文章で述べられていることは、どうしても「私の日常を輝かせる意味を奪うな」ということでしかない。「国際高等教育院」構想が実現して「学部自治」が失われると、「私の日常の輝き」が失われる。そうすると「私が教養教育を提供する誇りをもてない」と言っているようにしか見えないのである。

率直に言って、私には、「国際高等教育院」構想によって、京大生の知性や行動力に出会えなくなるという議論は理解できないし、したがって「日常の輝きの一部が破壊される」という議論にもついていけない。菅原氏が教養教育を提供する誇りを失うかどうかにも興味はない。私は、参考資料1から参考資料4で提示された問題意識と改善案を実現する組織としての「国際高等教育院」なるものが、研究者としての教員の誇りや輝きを失わせることなく、学生にとって有意味な教養教育を提供することは可能であるように見える。あるいは、そのような方向で運営することが可能であるように現時点では見えるというべきかもしれない。

*1:これは菅原氏の文章の後半に出てくる英語教育に関する記述「そのことへの苦々しさを含まぬ英語崇拝は世界秩序への過剰順応に過ぎない。」とパラレルになることを意識した皮肉である。

京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その5)

 前回まで、いわゆる総長メールに添付された参考資料1から参考資料4の内容を具体的に概観し、「国際高等教育院」構想に反対する側がこれらの資料についてどのようなコメントを行っているか批判的に検討するとともに、反対側が公開している具体的な文書として、「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」と題された文書と、「基幹ユニット構想」についての文書を批判的に検討してきた。

 今回は、「国際高等教育院」構想に反対する側の具体的な発言の内容について、前回までの分析に引き続いてさらなる検討を加えたいと思う。
 反対側の具体的な発言にはいくつかのものがある。総人・人環有志のページで公開されているメッセージ、総長への抗議文、説明会などでの講演、ツイッターなどでのつぶやきなどである。
 ここでは次の4つの文書や発言を取り上げて、その内容について検討してみたい。
(1)総人・人環有志のページにあるメッセージ

(2)人間・環境学研究科 石原昭彦教授から総長への手紙
(3)youtube上で公開されている動画『「国際高等教育院」構想と総人・人環の再編案を問う(2012.11.15)』
(4)ツイッターアカウント「自由の学風@orita_hikoichi」のつぶやき

(1)総人・人環有志のページにあるメッセージ

まず最初に検討したいのは、総人・人環有志が「国際高等教育院」に反対するために出した初期のメッセージである。それぞれ具体的な記述を見てみよう。

京都大学の教養教育(専門基礎・外国語教育を含む)は、人間・環境学研究科と理学研究科が多くの授業科目を提供することによって行われてきました。優れた教養教育の基盤として必須な幅広い分野の教員が、第一線の研究と大学院・学部教育を担いつつ、教養科目を担当しています。高度な研究能力をもつ多くの教員が一丸となって、研究・教育を一体化させて推進することで、京都大学にふさわしい創意と多様性に溢れた教養教育を実現しているのです。

参考資料1から参考資料4の検討の中でも具体的に見てきたように、これらの参考資料では、教養科目と専門基礎科目とのすみわけの問題が議論されていた。教養科目は専門予備教育ではないことが強調されていた。しかし、このメッセージの冒頭から、教養教育の中に「専門基礎」教育が含まれるかのように記述している。このような記述は、反対側が参考資料1から参考資料4で提示された問題意識や改善策について十分検討していないことの証左であるように見える。


また、教養科目の内容が、研究の具体的な内容と強く結びつきその内容的難易度が少し高く設定されすぎているのではないかとの指摘もなされていた。より基礎的な内容の科目を設けて、教養教育に関しては、「本学の目指す卓越した知の継承に必要な基礎的(ファンダメンタル)な内容の授業展開に配慮」することや、理系のための文系科目や文系のための理系科目などの配慮も求めていた。専門教育と教養教育とをいったん切り離して、


「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得すること」


と規定していたのである。私がここであえて指摘したいのは、「研究・教育を一体化させて推進する」ということの意味である。

教員自身が研究していることと、教養教育の中身を研究の具体的な内容と直接関連付けることとは別の問題であるということだ。私は、自身が研究活動に参画していない教育専従の教員が行う大学教養教育が中身の薄いものになるという危惧に指しあたっては同意する。しかしそのことと教養教育の具体的な中身をどうするかということとは違う。その教員が単に教えることに特化した教育専従教員なのか、自身もオリジナルな研究成果を出している研究者であるのかという違いは、扱っている話題がその人の研究の具体的な内容と直接関係しているかどうかということにはよらず、講義で話す中身の深みや学生からの質問への回答の的確性や指導の中身に自ずからにじみ出て来るものだと私は考える。

つまり、教養教育を担当する教員であっても、自らオリジナルな研究成果を出すために日々最先端の話題について思考する研究者であるべきだという主張と、教養教育の中身をより基礎的なものから階層的に再編成し、テーマごとに分けて学生の体系的な履修を促すべきだという主張は、矛盾しないと考える。教養教育で提供される具体的な個々の科目の内容が、教員の研究内容と「一体化」していなければならないとは私は思わない。

しかし、現在、松本紘総長が尋常ではない速さで実現を急いでいる「国際高等教育院」構想では、各部局から配置転換される200名近くの教員が教養教育に専念することを義務づけられます。暫定的には、研究と学部・大学院教育を続ける可能性をかろうじて担保されるとしても、近い将来、この組織が、最先端の研究に裏づけられた広い視野をもたない、ありきたりの教養教育しか提供できなくなることは明らかです。この認識に立ち、人間・環境学研究科/総合人間学部教授会は、同構想の決定に反対することを9月27日に決議しております。

「教養教育に専念することを義務付けられる」ということの根拠が不明確である。担当する科目が教養教育の科目だけであることや教養教育の企画に関与することが中心的な業務になることと、その教員が研究できなくなることとは別であると前回指摘した。教養教育に専念することと研究できなくなることとは同値ではない。


「ありきたりの教養教育」というのも何を意味しているのかはっきりしない。「最先端の研究に裏付けられた」という考え方は、反対側の文書で頻繁に登場するが、第一に、参考資料1から参考資料4の中で、教養教育の中身について、必ずしも研究の最先端の状況とリンクさせるのではなく、むしろ分野や時代によって変わることのない共通した基礎的内容の習得に重点をおくべきだとの指摘がなされていたことを忘れるべきではない。とかく「最先端」と言いがちであるが、最先端の研究の内容そのものを教養教育の具体的な中身に反映させなければならないとは限らない。反対側にはそのことを検討した形跡は見当たらない。


そして第二に、上で指摘したことの繰り返しだが、研究者として最先端の研究に従事していることと、科目の内容が最先端の研究内容とリンクしているかどうかとは別の問題だということだ。私は、「国際高等教育院」に所属する教員自身が研究活動もする一方で、担当している科目は教養教育の科目だけであるという状況になっていれば、「最先端の研究に裏づけられた広い視野」が損なわれることはないと考える。


反対側の主張の中には、「国際高等教育院」構想によって、教養教育が「ビジネススクール」化するとか「専門学校」化するというものがある。
しかし、例えば自然科学系の基礎として想定されている科目群を具体的に教えている「ビジネススクール」や「専門学校」は想定しづらい。あるいは例えば、人文・社会科学の基本的な書物を複数読ませることが参考資料1などで推奨されているが、それらも「ビジネススクール」や「専門学校」とは違うだろう。つまり科目の中身が、「ビジネススクール」や「専門学校」のものと同列になることは想定できない。またもう一度強調しておきたいのだが、科目の中身をより基礎的な内容にシフトさせることと、それを教える教員が最先端の研究に従事していることとは独立の話であり、科目の内容が直接最先端の内容とリンクしていなければ、「ビジネススクール」や「専門学校」と同列だというは乱暴すぎる。どうしてもこれらの批判は扇情的に見えて、中身がないと私には思えてならない。

京都大学「自由の学風」を謳い文句とし、学生のみなさんもそのことに大きな誇りをもって、この大学で学ばれていることでしょう。わたしたちは、いかにも京都大学らしい柔軟な発想に溢れた高度な教養教育を崩壊させる「国際高等教育院」構想に反対します。このわたしたちの活動に、ぜひともご理解とご協力をお願いします。

この記述は言葉だけが先行していて中身が不明確だといわざるを得ない。「自由の学風」とは何か。「いかにも京大らしい柔軟な発想に溢れた高度な教養教育」とはどういう意味なのか。残念ながら私には内容的な面も根拠の面も理解できない。

私は組織論については検討しないと(その1)で述べていた。このメッセージの中には組織論が多く提示されている。それを除くと、この文章の中にある教養教育に関する指摘はつぎのものだけである。

1.「国際高等教育院」構想は、教養教育の破壊です。
 私たちは、全学共通科目の教育と、専門科目の教育を序列化すべきではないと考えます。すなわち、全学共通科目を教える教員は研究をせずにたくさんの授業を担当させればよいとか、全学共通科目は有期雇用の教員に担当させればよいといった考え方は拒否します。同時に、専門教育担当者は全学共通科目を持つ必要はないという考え方にも与しません。たとえば、優秀な数学者が1年生の一般教育を教えたことで、お互いにその面白さに目覚めた例が、日本でも、また欧米の大学でもあるからです。研究はもちろん、大学院・学部の教育にも携わる教員が、その経験とセンスをベースに行う教養教育にこそ、学生は魅力を感じるはずです。とくに、本学の優秀な学生が、教養教育「専従」教員の授業に満足するとは到底思えません。

前回述べたように、京都大学の研究者には2つのレベルがある。文字通り最先端で分野を切り開いている研究者と、最先端の成果を追いかけつつオリジナルな研究成果を出しているがその成果の内容は、先達たちが切り開いた分野をより詳細に精密に理解するためだったり先達たちの結果を拡張したり補強したりするようなものであるような研究者である。私はこのレベルに応じて、教養教育の担当義務について緩やかなすみわけがあってもよいし、むしろそれは推奨されるべきだと考えている。


文字通り最先端で分野を切り開いている研究者には、その分野の開拓とその分野を志す専門課程の学生を指導してもらうことに重点をおき、後者のレベルの研究者は教養科目とそれに接続する専門基礎科目などを中心に担当するというすみわけである。学士課程の学生に最先端の研究の成果を周知したいということはあったとしても、そのことと半期ないし通年の義務としての教養教育を担当することとは負担の度合いが違いすぎる。分野を切り開いている最先端の研究者には、そのための十分な時間と彼らが薫陶を授けることが有益な専門課程の学生を中心に見てもらうほうが学問分野そのものにとってより有益だ。


私が「緩やかな」と書いているのは、2つの意味がある。ひとつは、最先端で文字通り分野を切り開いている研究者の話を学士課程の学生に聴いてもらう機会は確保されていてしかるべきだということである。しかしそれは半期や通年の教養教育というよりは、オプショナルなオムニバス形式の講義の形や短期集中の講義でやればよいし、「国際高等教育院」構想とは独立に考えればよい。もうひとつの意味は、「国際高等教育院」に所属している教員は専門教育や大学院生の指導を禁止するというような固定的な運用は避けたほうがよいということだ。何年かに一度、いくつかの専門科目を担当したり、大学院生と教員の両者が配属を希望すればそうした大学院の指導もできる柔軟な運用をすればよい。もちろん文字通りの意味で分野を切り開いている研究者であっても、半期や通年の教養科目を担当したいという希望があるのなら受け入れてもよいだろう。「国際高等教育院」に所属する教員が大筋で教養科目の企画・運営に参画することを中心としつつ、個々の教員については、学部専門教育や大学院教育に関して柔軟な対応をとればよいと考える。


こうしたことを前提にもう少し細かく記述を見てみたい。

  • 「研究をせずにたくさんの授業を担当させればよい」

たくさんといってもどれだけの講義を担当することが想定されているのか、推進・反対のどちらの側の議論からも見えてこない。既に書いたように、週5コマの講義というのはむしろ妥当なレベルであり、それによって研究活動が遂行できないとするのには無理があると考える。それよりも多くなるとすると、そもそも内容充実の観点から言って問題が出てくるが、それは「国際高等教育院」構想には依存しない問題である。誰であれ、週5コマを超えるような講義の質・双方向性を維持するのは難しい。

  • 「全学共通科目は有期雇用の教員に担当させればよい」

これも具体的にどういうことが想定されているのか見えてこない。現状、若手研究者が就職するポストの中に任期付きのものが増加している。任期付きの教員だと全学共通科目は担当するべきではないのだろうか。しかし任期が付いていても、最先端の研究を追いかけている研究者はたくさんいるし、その意味で、反対側が主張しているような、教育と研究が一体になった教養教育が阻害されるとも思えない。私が上で述べたように、研究者でありつつ科目の内容はより基礎的な内容のものを講義するというシステムであっても、実際に研究を遂行している有期雇用教員ならば十分に担当できるだろう。確かにこうした有期雇用の仕組みは、若手研究者の就職問題とあいまって、重要な問題のひとつにはなっているが、それと「国際高等教育院」構想とは議論の筋が別である。

  • 「研究はもちろん、大学院・学部の教育にも携わる教員が、その経験とセンスをベースに行う教養教育にこそ、学生は魅力を感じるはずです。とくに、本学の優秀な学生が、教養教育「専従」教員の授業に満足するとは到底思えません。」

既に述べていたように、私は、オリジナルな研究成果を上げている研究者が学士課程における教養教育を担当するべきであるということに同意する。しかしこの文章には、新しい観点が追加されている。「大学院・学部の教育にも携わる」ことだ。私は、そのことは必須の要件であるとは思わない。もちろん大学院や学部での教育の経験やセンスが、その教員の教養教育に何らかの良い影響を与えることはありうるだろう。しかし、それがないからといって魅力が減じられるとも思えない。その点では、私はオリジナルな研究成果を上げていること、そしてそのために最先端の研究内容をフォローしていることのほうがよほど重要であると考える。あえて学部や大学院の教育を必須とする積極的な理由が見出せない。

既に述べたように、「国際高等教育院」所属の教員が研究できなくなるというのは杞憂だと私は考える。ここで言う研究というのは言うまでもなく、「先達たちが切り開いた分野をより詳細に精密に理解するためだったり先達たちの結果を拡張したり補強したりするようなもの」という意味だ。私は文字通りの意味で分野を開拓している研究者を「国際高等教育院」に配属させることには反対である。その前提で、「研究できなくなる」は杞憂だといいたいのである。そしてその意味で「研究できる」以上、京都大学の優秀な学生を満足させる教養教育を行うことは可能であると考える。

  • 「優秀な数学者が1年生の一般教育を教えたことで、お互いにその面白さに目覚めた例が、日本でも、また欧米の大学でもあるからです。」

このような書きぶりをすることに私は否定的だ。
そもそもこの文章には「例がある」とほのめかしつつ、どのような例なのか根拠や具体の明示しないというトリックがある。こうした書き方はアカデミックな立場にある研究者の書きぶりとしては適切でないと考える。
この文章の中身をよく見てみよう。「その面白さ」とは何の面白さであろうか。「数学の面白さ」であろうか?しかし、1年生が数学の面白さに目覚めることをはあっても、「優秀な数学者」がいまさら「数学の面白さ」に目覚めるというのは考えにくい。では「一般教育の面白さ」であろうか?「優秀な数学者」が「一般教育の面白さ」に開眼することはあるだろう。しかし1年生が「一般教育の面白さ」に目覚めるというのは意味不明だ。「優秀な数学者は一般教育の面白さに目覚め、1年生は数学の面白さに目覚めた」ということなのであろうか。しかし、「お互いにその面白さに目覚めた」というときには、「優秀な数学者」も「1年生」も同じ面白さに目覚めていると理解しないと言葉が合致しないと私は感じる。そもそも教養教育で教員の方が何かに目覚める必要はなく、学生を目覚めさせることが教育の本分なのだから、この文章にはいまいち説得力を感じない。また、「優秀な数学者」という言い回しも気にかかる。これが一流の研究成果を上げているという意味なのだと私は推測するが、それは、専門教育を担当しているか否かとは別の問題だ。あくまでその人個人の成果の問題なのである。教養教育に携わるものが研究を遂行していることは大切だと何度も繰り返してきた。しかしそれは専門教育を担当していることを義務付けることとはまったく別の問題だと考える。

4.私たちは、決して現状維持を主張しているのではありません。
 人間・環境学研究科教授会では、9月の段階で、総長の提示する「国際高等教育院」構想の対案として「CU(Core Unit)21」構想を提案し、総長はじめ、各部局長に送付しています。これは、総長指名の責任者、および、10学部から各2名の出向教員によって構成される常駐組織であり、高等教育研究開発推進機構の弱点とされる「企画力」を強化する組織です。ここでは、「人文・社会科学系科目群」「自然・応用科学系科目群」「外国語系科目群」「現代社会適応科目群」「拡大科目群」それぞれに4名ずつの企画・調整担当の教員を配置し、各学部の意見を集約して適切な改革を行います。これによって、従来の弱点は克服できるにもかかわらず、総長は真摯に検討していません。

という記述についても一言触れておこう。
 既に繰り返してきたように、参考資料1から参考資料4は、単に組織上の問題や「企画力」の有無だけを問題にしているのではなく、広く学生の状況に対する危機意識から教養科目の内容上の問題点までを取り上げ、そのための改善策のひとつを提示していた。にも関わらず「現状維持を主張しているのではありません」の中身は、基幹ユニット構想という組織論に終始し、「4名ずつの企画・調整担当の教員を配置し、各学部の意見を集約して適切な改革を行います。」というような改革の中身が全く不透明で、しかも問題意識の向きが変容してしまったような書き方をしたり、「これによって、従来の弱点は克服できる」などという安易な断定を行ってしまっている。こうした記述は、やはり「国際高等教育院」構想に反対する側が、参考資料1から参考資料4で提示された論点を十分に把握できないまま、自らの組織を変更されることや人事権を奪われることだけに執拗に反対していると見られても仕方なく、それは「現状維持」の「抵抗勢力」に過ぎないと断ぜられても文句は言えないとさえ私には思えるのだ。

(2)石原昭彦教授から総長への手紙

人間環境学研究科の教授が総長へ出した手紙が公開されている。人間・環境学研究科 石原昭彦教授から総長への手紙

この手紙の内容について検討しようと思う。

現在、人間・環境学研究科 (総合人間学部) の縮小・廃止で研究科は大きく揺れ動いています。私自身はこのような状況ではとても研究・教育に集中することができず、毎日が非常に苦しく辛いです。

現在多くの若手研究者が任期付きの職のもとで研究と教育活動に従事している。来年度以降の就職先を探して公募書類を出している若手のポスドクも多いだろう。そういう人たちがこの記述を見てどう思うか、果たして石原氏は考えたのだろうか。終身の雇用が約束されている教授が、組織改編があるので、研究・教育に集中することができないとか非常に苦しく辛いというのなら、任期付きの職にある若手研究者はどうすればいいというのだろうか。非常に荒っぽく言うが、組織が変わっても、雇用が約束されているなら、研究も教育も出来るはずだ。

共通教育 (全学共通科目) の充実を図ることは重要であり、現状で問題ないと結論できるものではありません。しかしながら、人間・環境学研究科 (総合人間学部) の多くの教員を国際高等教育院 (仮称) に移籍させたとしてもそれで解決できる問題ではありません。その理由は、共通教育を専任とする教員が、それを理解してモチベーションを維持して授業を続けることができないからです。私たちは、毎日、学部学生や大学院生と一緒に研究に対して全力で挑戦を続けています。そこから生まれる独創性、斬新性、新規性は、研究を進める活力になるだけでなく、講義、演習、ゼミ、実験で大きく活用されています。全学共通科目の授業では、単に基礎知識だけを教えるのではなく、社会の動向に素早く反応して常に新しい情報や話題を提供する必要があります。これについては、日本の将来を支えていく京都大学の学生・院生に対して特に強く主張できることです。

前段の主張は意味が良く分からない。「それを理解してモチベーションを維持して授業を続けることができない」というのはどういう意味だろう。「それ」とは何をさしているのか。「共通教育専任であること」だろうか。共通教育専任にされると、モチベーションが低下するというのだろうか。どうもその理由がよくわからない。誰しも意に染まない形で何かを行わなければならないことはあるが、それでモチベーションが下がるなどというのは言い訳のようにしか聞こえない。「学部学生や大学院生と一緒に」というのも不可解だ。一緒でなければ、独創性も斬新性も新規性も得られないのだろうか。研究に挑戦していれば、その組織はどうであれ、独創性、斬新性、新規性が生まれるし、それを講義に活用できるだろう。

後段の主張は、少し慎重に検討しなければならない観点を含んでいる。石原氏の手紙にはこの「社会的有用性」の観点がかなり頻出するので、あとでまとめてもう少し詳しく議論するが、いまここで一言で問題点を述べるなら、「社会的有用性」をあまり安易に主張することは、反対側の中でさえコンセンサスにはなっていないのではないかということである。

私がこれまでに行ってきました全学共通科目の授業では、基礎知識に加えて私自身が積み重ねてきました研究成果を国内外の最新の研究と比較しながら説明しています。その説明には、常に自信と誇りと学生の将来への期待が込められています。授業に出席する学生の眼は間違いなく輝いています。授業後には、期待通りの展開を終えた充実感と、その反面、学生の勉強心を十分に引き出せなかった悔しさが混じり、いつも反省を繰り返しています。それができるのも研究を継続してきた自身の軌跡があるからです。

ここにも2つの問題点がある。

既に何度も繰り返しているが、研究成果や最新の研究を述べることが教養教育の役割であるとは限らないし、またあまりそうしたことを追求しすぎて、教養教育が専門基礎教育となってしまっていないかという指摘が参考資料1から参考資料4の中で述べられているのであった。この記述にはそうしたことを踏まえた形跡が見当たらない。

もうひとつの問題点も繰り返し指摘していることだが、研究ができているのならば組織の問題は二義的だ。担当する科目が教養教育に限定されていることと研究が出来ないこととは別の問題である。

研究を背景に持たない授業がいかにつまらなく、学生の学習意欲を損ねるかは、京都大学での教養部、総合人間学部、人間・環境学研究科を通しての20年以上に及ぶ教育から十分に理解しています。学生がワクワクと胸を躍らせて勉強したり、多くの疑問や質問を投げかけてくれたり、さらに授業時間を超えて自主勉強したいと思う気持ちを持つことができる授業を企画するためには何が必要でしょうか。共通教育 (全学共通科目) の役割は、幅広く基礎知識を身につけることだけではなく、社会に出て生かされるもの、役立つものでなくてはなりません。

これも上と同様だ。自身の研究ができているのなら、研究に背景を持たない授業にはなりえない。「国際高等教育院」所属の教員が研究できないという指摘は的を得ているとは言いがたい。

私たちが、共通教育を通してどのようなことで学生を育てることができるのでしょうか。共通教育の目的は、既存の知識を詰め込むこと、知識の幅を広めることなのでしょうか。それならば、大学で授業を受けなくてもインターネットや書籍で身につけることができます。通信教育でも問題なく行えると思います。しかし、京都大学の全学共通科目の授業はそれでは成り立たないのです。
共通教育 (全学共通科目) を通して、授業内容に対して感動や強い印象を持ってもらうことが大切だと思います。学生に授業を行う先生の熱意や素晴らしさを感じて欲しいと思います。それが学生の心を豊かに、そして暖かくして、社会に役立つ京都大学出身の社会人を育てることになります。そのためには、授業を行う教員が、プライドと自信を持って学生に接することが不可欠です。そのためには、教員が学生に誇れる研究を進めていることが大前提になります。

共通教育の目的が「既存の知識を詰め込むこと」であるとは「知識の幅を広めること」だとは、少なくとも参考資料1から参考資料4の中では主張されていない。何度も取り上げた記述「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」のどこが、「既存の知識を詰め込むこと」とか「知識の幅を広げること」なのだろうか。こういう要約の仕方はあきらかに教養教育というものの価値に対する問題意識を低下させてしまうものであり看過できない。

おまけに提示される共通教育の価値が、「感動」とか「強い印象」とか「熱意」とか「素晴らしさ」といった感覚的なものに過ぎないことや、「学生の心を豊かに、そして暖かく」などという情操的な記述に終始している。参考資料1から参考資料4は、教養教育の理念やその実現について踏み込んだ提案をしている。具体的にどのようなことを習得してもらうことを目標にするか、そのための改善案はどういうものかということが、提示されていたはずである。それに対する応答がこれほどまでに感覚的なものになってしまうのは、やはり問題意識を十分に把握しきれていないのではないかと疑わせる。

そして組織改編が行われると、自信やプライドがもてなくなるとか、誇れる研究が出来なくなるなどという批判も非常に感覚的で受け入れがたい。

現状で人間・環境学研究科 (総合人間学部) の教員を共通教育の専任教員に移籍させたとしても、それで解決できるものではないと思います。共通教育の改革に向けては、これまでにアンケートや委員会で討論が繰り返されてきました。しかし、それが実を結んで現在の改革に至ったとは考えられません。それは、全学共通科目の授業を受講する学生や授業を行う教員の目線に合わせて、どこに問題があるのかを真に見極めていないことによると思います。学生が全学共通科目に何を期待しているのかを理解していないことによると思います。すなわち、現状では、「全学共通科目は卒業するために必要な単位を揃えるためにある」という学生の意識が前提にあるからです。学生には、「全学共通科目は重要であり、社会で必要になり、役立つものであることを理解してもらう」こと、教員には、「それを学生に理解してもらうにはどのような授業を企画しなければならないかを検討する」ことが大切と思います。

それは参考資料1の段階で提起されている問題意識をなぞったに過ぎない。この石原氏の手紙は、結局ようやく最後になって、参考資料1から参考資料4の問題意識にたどりついただけであり、むしろ議論の主要なポイントはその先にあるということに無自覚であるといわざるを得ない。

人間・環境学研究科 (総合人間学部) の縮小・廃止で不安・心配なことがあります。これまでに学部を卒業した学生、大学院を修了した院生、さらに、就業中の学生・院生の気持ちを考えたことはありますでしょうか。社会に巣立った多くの学生・院生が出身学部・研究科が縮小・廃止することに対してどれほど悲しんで落胆することでしょうか。学生・院生は、総合人間学部を卒業、人間・環境学研究科を修了したことを誇りに思い、それを心に刻んで社会で活躍しています。その足場を失うことは非常に辛く寂しいことになります。どこの学部や研究科の出身者も同じ気持ちではないかと思います。これまでに築き上げた伝統や歴史を当事者の意見や気持ちを考慮せずに失くしても良いのでしょうか。共通教育 (全学共通科目) を推進するシステムを再構築することは必要ですが、学部・研究科の構成員の個々の気持ちを確かめたり、理解せずに縮小・廃止することには無理があると思います。

このようなことを言っていたら組織の改編は決して出来ないことになってしまう。このような議論は、現状維持を望んでいるだけだとみなされるだけでなんら建設的とは言えないと思う。

総合人間学部・人間環境学研究科の発足以降に採用された教員は、今回の件をどのような気持ちで捉えているとお考えでしょうか。公募で厳しい審査を受けて採用された教員は、研究に対する夢と期待を持って本研究科に赴任されたことと思います。研究を生きがいとし、学生・院生を育てることに全力を捧げてきた教員の気持ちをどのようにお考えでしょうか。これは、どこの学部・研究科の教員も同じではないでしょうか。研究分野にかかわらず、研究指導を行うことによって学生・院生が育ち、学生や院生の気持ちが理解できるようになります。そのような教育・研究環境を持たない教員が授業を展開しても、どれだけ充実した授業ができるのでしょうか。

私は、京都大学の教員であることを誇りに思います。さらに、人間・環境学研究科の教員であることを誇りに思い、研究と教育に邁進してきました。研究を基盤として、学生・院生を指導できることに生きがいと熱意を感じています。それが、学部専門科目、大学院の授業だけではなく、全学共科目の授業に大きく反映されていることは間違いありません。研究を基盤として授業が成り立っています。

「学生や院生の気持ち」を「理解する」という感覚的な記述が再び登場している。そもそもそれは講義をする上で必須の要件なのだろうか。
研究できないという指摘が一方的過ぎるのではないかということは既に述べたので繰り返さない。

《社会的有用性》

石原氏の文章には、「社会的有用性」についての記述が登場している。改めて抜き出してみると次の3箇所になる。

  • 全学共通科目の授業では、単に基礎知識だけを教えるのではなく、社会の動向に素早く反応して常に新しい情報や話題を提供する必要があります。これについては、日本の将来を支えていく京都大学の学生・院生に対して特に強く主張できることです。
  • 学生には、「全学共通科目は重要であり、社会で必要になり、役立つものであることを理解してもらう」こと、教員には、「それを学生に理解してもらうにはどのような授業を企画しなければならないかを検討する」ことが大切と思います。
  • 共通教育 (全学共通科目) の役割は、幅広く基礎知識を身につけることだけではなく、社会に出て生かされるもの、役立つものでなくてはなりません。

このような記述は、非常に注意深く扱わなければならない。
これまでに検討してきた参考資料1から参考資料4の中では、

  • 教養・共通教育の重要性が再認識されるに至った背景には、学問研究の高度化・精緻化に伴い、専門教育の細分化が進展する一方で、環境や生命をはじめ、現代社会が直面する重要な課題が、より複合的で深刻な価値観の対立を含むものになって来ている状況がある。このような課題に対応するためには、多様な専門分野間での共同が必要であり、異なる価値観や視点の共存を図るとともに、現在の世代だけではなく、将来の世代に対する配慮をも欠くことができない。
  • 我が国や国際社会において指導的な役割を果たす人材を輩出していくためには、自らが専攻する分野について高度な専門的知識・能力を確実に修得させるとともに、共時的にも通時的にも多元的な視点で考察することができる知識や能力を身につけさせることを通じて、開かれた知的姿勢をもって、自ら課題を設定し探求していく創造的な能力を育成していく必要がある。もちろん、各人が専攻する分野における専門的知識・能力の修得が、これからも大学教育の最も重要な目的であることは言うまでもない。しかし、これからの社会において、そうした専門的知識・能力が十全に発揮されていくためには、自らの専門性を全体の中に的確に位置づけるとともに、異なる分野や異なる見方・考え方と対話し、多元的な視点で考察する能力が益々重要になるであろう。
  • 本学の卒業生は、研究者あるいは高度専門職業人として、様々な領域で知識基盤型社会を牽引していくことが期待されるだけではなく、健全な良識と深い人間的洞察力、そして高い責任感・倫理感をもって、自由で公正な民主社会の担い手となることも求められている。そのために必要な基本的知識・資質を身につけさせることも求められる。

といった記述の中に、社会の動向や要請、社会で役に立つことなどの観点が盛り込まれてる。

 さらには、学際科目について述べた中で、

  • 学際的な科目を提供する場合には、現代社会の抱える包括的課題や新しい研究分野等の中から、京都大学における教育にふさわしい一定のテーマを精選し、学際的な科目群を設定した上で、授業科目を適切に編成して、学生に履修をさせることが望ましいと考えられる。 どのような科目群が適切かは、今後の検討が必要であるが、例えば、「生命」、「心と意識」、「都市と生活」、「科学史・科学哲学」などが考えられ、人文学系、社会科学系、自然科学系の教員が共通のテーマの下に集まり、リレー講義やワークショップ形式の講義を行うことも考えられる。

のように述べることで、現代社会の動向に直結した問題意識に関する講義の開講も検討されている。

その一方で、

  • 文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である。
  • 自然科学系科目群の設定に当たっては、研究の流行を反映したトピックス的なものではなく、通時的な価値観の変化にも耐えうるような基本的、基盤的なテーマを設定し、長い学問的営為から自然に生じた分野により科目群を編成する。
  • 教養教育に関しては、本学の目指す卓越した知の継承に必要な基礎的(ファンダメンタル)な内容の授業展開に配慮する。

といった観点からは、必ずしも流動する社会の動向に囚われず、より基礎的でしかも価値観の変化に影響を受けにくい部分を重点的に教えるべきだという観点も盛り込まれている。
 また、文系にとっての理系科目、理系にとっての文系科目の重要性が強調されていた点においても、専門教育の内容と同レベルでその学生が社会に出た場合に役に立つスキルといういうよりは、まさに基礎的教養としての内容に重点をおいた科目の必要性が示されていた。

 語学科目については、少し赴きが違っている。

  • グローバル化の進展の中で、様々な分野で指導的な役割を果たす人材は、人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できることが期待される。そこで、「一般学術目的の英語」においては、ディスカッションやライティングなどの、言語技能的な側面をより重視する教育を行う方向性で検討する必要がある。
  • プレゼンテーションやディベートといった場面でのより実践的な英語力に対するニーズが、社会的にも、また、学生の側からも指摘されているところである。今後、このようなニーズの更なる高まりが予想されるところであり、このような点にも配慮して教育内容の充実を図る必要がある。
  • 英語部会はリーディング/ライティングを中心とする学術目的の英語教育を重視しているが、学生はオーラル・コミュニケーション等のより実践的能力の向上も求めており、学生の希望と科目提供の間に齟齬があるのではないかとの指摘がある一方、大学は海外旅行に必要な程度の英会話を教える場ではないとの意見も出された。

といった記述の中には、学生の要望のみならずグローバル化の進展というような社会状況に応じて内容を変えていくべきではないかという指摘がある。
 語学科目において、学生のニーズや社会的要請ということがやや強く押し出されているのは、やはり、1授業で1,2ページしか進まない熟読型の講義というものが重視されすぎてきたのではないかという問題意識があるのだと考えられる。この点には賛否両論があるだろうことは想像に難くないが、しかしその問題意識そのものは理解できる。

 こうした記述から私は次のように述べたい。

 参考資料1から参考資料4の中で検討されてきた教養・共通教育に対する問題意識や改善のための提案の中では、社会の動向や社会において役立つことに対する配慮を一定程度示す一方で、どのように社会が変化しようとも教養としてみなされるべき内容を精選して、教養・共通教育の中で提供しようとする意識が明確に表明されていると考える。そのバランスはかなり絶妙に調節されているように見えた。


 その点で石原氏が指摘しているような「単に基礎知識だけを教える」とか「幅広く基礎知識を身につけることだけ」を意識しているわけではないし、石原氏が述べているような「社会の動向に素早く反応して常に新しい情報や話題を提供する」ことや「社会に出て生かされるもの、役立つもの」という観点にも一定の配慮を示している。この点で、私は石原氏の指摘は、参考資料1から参考資料4の中で示された論点の中に既に含まれているものだといわざるを得ない。


 そしてもうひとつの問題点は、「社会の動向に素早く反応して常に新しい情報や話題を提供する」ことや「社会に出て生かされるもの、役立つもの」という観点は、そもそも、今回の「国際高等教育院」構想に対して、反対側が賛成側の底意であるとして批判していた論点なのではないかということである。


 大学における教育において、社会に出て直接的に、そして即座に役に立つような内容が提供されるべきだという議論は、むしろ今日非常に根強いものがあるといってよいと思う。「国際高等教育院」構想がこのような社会的要請に即応する形で「ビジネススクール・専門学校化」することへの危惧は、むしろ従来から反対側が提示している論点のひとつであったはずである。石原氏の手紙は、この点で、反対側の議論と方向性が異なっているように明らかに見えてしまう。「社会」という言葉を使う議論は、非常に慎重でなければならない。その慎重さが石原氏の手紙には見受けられないことが問題なのである。
 しかも私は、反対側が「国際高等教育院=社会的要請に応えるビジネススクール」であると断定する議論には無理があるということを参考資料1から参考資料4を検討する中で示してきたつもりでいる。石原氏の手紙は、率直に言って、教養・共通教育に関する議論をかみ合ったものにさせるどころか、かえって混乱させてしまう内容を含んでいるといわざるを得ないのである。

(3)動画『「国際高等教育院」構想と総人・人環の再編案を問う(2012.11.15)』

 「国際高等教育院」構想と総人・人環の再編案を問う(2012.11.15) と題された動画がyoutubeで閲覧できる。この動画の中では何人かの教員が意見を述べている。ここでは、岡真理氏の発言を取り上げて検討してみたいと思う。岡氏の発言は動画の19:10あたりから始まる。岡氏の発言を文章に起こしているが、一部正確に聞き取れない箇所もあるので、完全に正確なものではないことをあらかじめお断りしておく。

わたしたち教員だけではなく、教わっている学生さんたちを含めて、人間を愚弄している。

というかなりどぎつい発言が冒頭から行われている。しかし、そのあとに続く発言が、

大学という制度が人間を愚弄しているのは、今に始まったことではなく、例えば、非常勤職員の方の5年雇い止めとか、そういうのは除々にあった。
人間を労働力としてしか見ていない、代替可能なものというような。

というのはいささかいただけない。これは「国際高等教育院」構想とはまったく別の論点だ。「国際高等教育院」構想の何が「人間を労働力、代替可能なものとしてしか見ていない」というのだろうか。問題意識が全く理解できないのである。非常勤職員の5年雇い止めの問題が軽い問題だといっているわけではない。この問題は、正規雇用と非正規雇用という日本の雇用問題のひとつの中心的なテーマを深く関係している重要なトピックであろう。しかしそれと「国際高等教育院」問題を関係付けようとするのは暴論だ。

次の発言は

総人・人環の解体ということになれば、この10年間自分がしてきたこと、あるいはこの10年、11年の間、学生さんたちが私あるいは私たちのもとで学んできたこと、そうしたことが否定されている。そういう人材はいらないんだということ。

というものだ。
 これも暴論である。教育というものには、そもそも完全な正解などというものが存在するわけではない。であれば教育という営みそれ自体が、未完の試行錯誤の繰り返しということにならざるをえず、その中で、教育のシステムやその内容というものを見直すということは必要な作業なのである。かつて「ゆとり教育」というものが導入され、その結果を様々な観点から検討した結果、これは見直すべきだという方向性が打ち出された。その方向性の是非は今後様々な形で議論されていくだろう。しかし、そのことと、「ゆとり教育」を受けた人材が不要だとか、その人材を否定しているとか、愚弄しているとか、そういうことには全く当たらない。そういうことを言い出したら教育制度やその内容の見直しはすべてそれ以前の人材の否定になってしまう。そういう暴論は慎むべきだ。

続いて、現在進行していることの問題点として、

  • 教養教育の全否定
  • トップダウン式の強権政治
  • 「自由の校風」の否定
  • 総人・人環の実質解体

があげられている。
 しかしいったい誰が教養教育を全否定したというのだろうか。そういうスローガンをいくら並べても建設的な議論にならない。唯一これが正しい教養教育のあり方だという正解があるわけではない状況なのだから、自分たちの目指す教養教育のあり方はどういうものなのかを述べ、相手がどのような教養教育像を提示しているかを曇りのない目で把握し、必要なら問題点を具体的に指摘してよりbetterな形になるように、かみ合った議論をするべきだ。

 岡氏は、大川勇氏の議論を引用して、次のように述べている。

 大学における教養教育というものがいつどこでどのようにして始まったのか、それは普仏戦争のとき、19世紀のプロシア、今のドイツ。普通に考えれば、国が戦争しているときになんでシェークスピアなんだ、とかね。なんで敵国のフランス文学を学ばなければいけないのか、そんな時じゃないだろうというような話になるわけですが、そうじゃないと。国がナショナリズムを、ことあげして(ママ)戦っているときだからこそ、普遍的な世界的な教養というものが必要なんだという、まさにそういう視点なんだと思います。そしてそういう理念のもと、たとえば日本では旧制高校ではドイツ語やフランス語を教え、さらに漢文も教え、そしてその伝統の上に京都大学の教養部というものがある。そして教養部時代から教養課程を担ってきた多数の先生方による教養の教育というものがある。その伝統の上にある。言ってみればそういう伝統が全部否定されているんだ、ということです。

再び全否定されているという議論が出てくる。しかしそういう問題の立て方自体に無理がある。参考資料1から参考資料4の中で示された様々な論点は、教養部以来の伝統を否定するものではなく、それらを踏まえつつ、現在の学生の状況に鑑みて、どのような改善をしていくべきかということの一案を提示しているのである。


しかも、上の岡氏の議論では、教養教育というものの起源は語られていても「普遍的で世界的な教養」とはどういうものなのか何も語られていないし、そもそも普仏戦争のときの大学と今の大学とでは、入学してくる学生の数やレベルひとつとっても、置かれている状況が全く違うのではないだろうか。そういう状況を捨象して、今日の教養教育と比較してしまうのは暴論であると思う。ナショナリズム云々などと言い出す前に、もっと整理しておかなければならない論点があるはずだ。


岡氏の議論は次のように続いている。

 教養ってなんでしょうか。松本総長は、グローバルな人材を育てたいとおっしゃっている。グローバルな人材ってなんなのか。松本総長によれば、それは大学1回生からネイティブスピーカーの授業に出て英語がぺらぺらしゃべれるような人のようです。そしてたぶんビジネスで英語を活かしてお金をいっぱい稼ぐということなんだと思いますけれど、グローバル、グローブって惑星のことです。惑星規模的な人間ってなんでしょうか。惑星規模で歴史を考える、人間を考える、世界を考える、45億年、地球の45億年の歴史、あるいはもっと言えば、宇宙創成の時からの、そういう規模で、人間を世界を歴史を考える、まさにそれを総合人間学部、人間・環境学研究科がやっているわけです。

「大学1回生からネイティブスピーカーの授業に出て英語がぺらぺらしゃべれるような人」などという話が、参考資料1から参考資料4のいったいどこに出てきたというのだろうか。既に見ていたように、例えば参考資料1では、

  • グローバル化の進展の中で、様々な分野で指導的な役割を果たす人材は、人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できることが期待される。そこで、「一般学術目的の英語」においては、ディスカッションやライティングなどの、言語技能的な側面をより重視する教育を行う方向性で検討する必要がある。

と述べられていた。これを「大学1回生からネイティブスピーカーの授業に出て英語がぺらぺらしゃべれるような人のようです。そしてたぶんビジネスで英語を活かしてお金をいっぱい稼ぐということなんだ」というように要約しているのだとしたら、むしろその読解の方にこそ問題があるといわざるを得ない。しかも、参考資料1から参考資料4は単に語学だけではなく、教養・共通科目全体が検討されているのであり、こういう議論のまとめ方をするのは問題を矮小化している。


後段にも問題がある。ここで問題になっているのは、教養・共通教育であって、総合人間学部や人間・環境学研究科の教員が具体的にどのような研究をしているか、「惑星規模」の研究をしているかということではない。教養・共通教育の中で、学生にどのような科目を提供し、それによって何を習得してもらうのか、という点である。そういうことに対する具体的な議論はなおざりにされた挙句、岡氏の発言は次のように続く。

惑星規模で考えるというのは、ドイツ語やフランス語だけ学んでヨーロッパのことだけ学んで西洋のことだけやればいいのか、なぜアラビア語を教養課程で教えるのか、なぜ中東のことを学ぶのか、そうじゃない視点がある、そうじゃない世界の見方、歴史の考え方があるんだということを学ぶ。そういう人材はいらないということなんです。いま進んでいるものというのは。そんなことやんなくっていい、学部1回生から専門の基礎をやって、必要最小限の英語が活用できるようになるような、それをやればいいんだ。


これを進めている人たちにとっては、なんでアラビア語なんかやるんだ、なんで別に中東いったら英語でやればいいのに、なぜ中東のことなんかやるんだ、という話になるわけです。

ここに至って、岡氏の発言は、参考資料1から参考資料4で述べられていた観点をすべて無視して、安易な断定へと流れてしまっている。
 参考資料1の冒頭で、

  • 教養・共通教育の重要性が再認識されるに至った背景には、学問研究の高度化・精緻化に伴い、専門教育の細分化が進展する一方で、環境や生命をはじめ、現代社会が直面する重要な課題が、より複合的で深刻な価値観の対立を含むものになって来ている状況がある。このような課題に対応するためには、多様な専門分野間での共同が必要であり、異なる価値観や視点の共存を図るとともに、現在の世代だけではなく、将来の世代に対する配慮をも欠くことができない。
  • 青年期後期にある学生の人間形成の観点からは、「未知なるもの」あるいは「自分とは異なるもの」と接触し対話を図ることによって、より広い世界の中で、自己とは何かを考え、自らの現在の位置を見極めると同時に、新たな自己の可能性を切り拓いていくことが、重要であると考えられる。こうした経験を積み重ねることにより、異なる考え方や価値観を有する人々との共生を図りつつ、社会における自らの役割と責任を自覚し、より高い次元において自己を実現していくことが可能となる。

と述べられていること、そして語学科目の箇所でも

  • 言語は思考・文化の結晶であることから、母国語と異なる言語を学ぶことによって、異なる見方・考え方あるいは価値観を学び、多文化理解を図ること

があげられ、初修外国語に対しても

  • 限られた時間での初修外国語教育の効果を考えたとき、そこで獲得された知識が多文化理解に十分活かされているとは言えない場合もあることから、それぞれの学士課程教育の中において、多文化理解を目的とするA群科目を初修外国語と関連付けたり、あるいは、それに代えるなどの方策も考え得る

という具体的な方策があげられているということを無視しているのだ。
 問題になっているのは、「異なる価値観」に触れるか否かではない。「触れる」ことは教養・共通科目の目的の中に組み込まれているのである。西洋のことだけでいいとか、アラビア語を学ぶ必要はないなどというような断定はどこでも行われていない。むしろ問題なのは、「どのようにして」異なる価値観に触れさせるか、また「どのような科目で」提供するかという点なのである。この点で岡氏の発言は問題意識を低下させているに過ぎない。


 さらに、岡氏の発言は、既に何度か触れてきた反対側の典型的な言い分と誤解が端的に示されている。「国際高等教育院」構想では、「学部1回生から専門の基礎をやって、必要最小限の英語が活用できるようになる」ことを目的としているというのは、少なくとも参考資料1から参考資料4で示された問題意識やその改善ための提案とは、まったく乖離しているといわざるを得ない。
 第一に、参考資料1から参考資料4の中では、「学部1回生から専門の基礎をやれ」などという方向性は全く示されていない。むしろ逆である。高校での履修内容の多様化などを背景に、専門教育の基礎を低回生から行わなければならないことによって、教養・共通教育の体系的履修が阻害されているという問題意識が提示されているのである。その状況を改善するために、過度に専門基礎科目を低回生から配当することを避けつつ、グループ化と階層化によって、専門教育とは一線を画した形で、体系的な教養・共通科目の履修を促進させるべきであると提言しているのである。岡氏の指摘は完全に的を外している。
 第二に、参考資料1から参考資料4が提示している語学、とくに英語教育のあり方について、「必要最小限の英語の活用」などというまとめ方をするのは一方的過ぎる。繰り返し引用してきたが、

  • 人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題について、英語で実際に議論できること

という目的が、「必要最小限の英語の活用」であるはずがない。まず「人間や社会あるいは自然や科学に関する基本的な問題」について論じた英語の文章が読めなければならないし、それについて語学とは別に思考することが必要であり、そしてその思考を英語の形で表現し、発表できなければならない。このような目的は容易なことでは達成できない困難な課題であると思うし、ひとつの目的として十分検討に値するのはもちろん、それをどのような科目と内容の形で提供するかということ自体、教養・共通教育における語学科目の位置づけを考えるための適切な問題意識であると私は考える。この点でも岡氏の発言は問題を矮小化させているといわざるを得ない。

 岡氏の発言はこのあと組織論や手続き論に移っていく。それについてはこの文章で検討するつもりはない。
 岡氏の最後の発言だけ取り上げよう。

 数の上だけ見ると、総人・人環の教員という既得権益集団が既得権を守るために、異を唱えているかのような印象を与えるかもしれません、内情を良く知らないと。でもそうではないということ。確かにいまの教養・教育課程、全学共通教育、いろんな問題点があると思います。改善すべき点はたくさんあると思います。でもそれは改善すればいいんです。いまのシステムのままでもいくらでも改善できます。

 要するに、いまやろとしていることは、全学共通科目を良くする、改革するといいながら、そうではない。それだったらこんなことをしなくても改善できるのに。要するに改革のための改革だということ。私たちが守ろうとしているのは決して自分たちの既得権というようなものではなくて、でももし既得権という言い方をするのであれば、さきほど申し上げたような普遍的理念に照らした教養教育をすることができるという、これはものすごく大きな特権だと思います。


 そして本当に未来を、この地球の未来を担う人材を育成しているんだというそういう誇りをもって教育に携われるという。本当にそれはこういうことが起こってから私も認識しました、すごい特権だと思います。この権利だけは手放したくない。そして是非みなさんも、こういう教育を受けることによって全人的な人間としてつくられていく、それを特権として手放して欲しくない。いま起きている改革案というのは、大学の主役である学生さんにとって何にもいいところがひとつもない、そういう改革だから反対しています。

 単に既得権を守るために反対しているというわけではないと主張したいなら、何が問題でどう改善できるのかを明確に語らなければならない。
 「いろいろ問題がある」とか「改善すべきところはたくさんある」といいながら、どのような問題があるのか、どのような点を改善しなければならないのか、という具体的な指摘が皆無である。にも関わらず「いまのシステムのままでもいくらでも改善できます」などという断定が行われている。こういう議論の仕方に問題がある。

 もうひとつ問題点を指摘するとすれば、「普遍的理念に照らした教養教育」なるものが全く不明確だということだ。何が普遍的理念なのか何も説明されていない。そもそも異なる価値観へ目を向けることを説く者が、安易に「普遍的理念」などと口にしてもよいのだろうか。私はあえて、岡氏のそのようなスタンスに疑問を呈したい。

 さらにもうひとつ「大学の主役である学生さんにとって何にもいいところがひとつもない」などという断定も行き過ぎだ。「教養・共通教育の体系的履修」は十分に学生にとっても有意義なことであろう。今よりもその方向性を強く打ち出していくことに何のいいこもないなどと断定するべきではない。こういう何もかも全否定の態度の方にこそ問題があるのではなかろうか。

 
 この動画の岡氏の発言のあとに、伊勢田哲治氏が話している。その中で、次のような発言がある。

  • 本人たちが納得していないのに、異動させるというのは、どう考えてもそう簡単に認めていい話ではないわけです。 
  • 労働条件が悪くなればなるほど、働く人間にとって魅力的ではない大学ということになります。その結果どういうことになるかというと、結局面白い授業をする先生というのはこの大学からいなくなります。学生の皆さんも是非面白い授業が聞きたいと思ったら、面白い授業をする先生をサポートしてあげて欲しいと思います。

 この構想と教員の労働条件や環境に関する話はあまり深入りするつもりはない。しかし、今回の教養・共通科目の再編成という論点を、「面白い授業」などという安直な言葉で括って欲しくはない。確かに「面白さ」はひとつの尺度ではあるだろうが、参考資料1から参考資料4の中で提示されているさまざまな問題意識や改善のための提案は、単に「面白い教養・教育」などというレベルの低いものではない。今日の教養・共通教育とはどうあるべきか、その理念と学生の現状とがどのような乖離を示しているかを提示し、その上で、具体的にどのように改善していくべきか、という一案を提言しているのだった。それを単に「面白いか面白くないか」などという論点でまとめること自体問題意識の低下である。このような議論をしているだけでは、建設的な議論にならないし、そもそも議論がかみ合わないだろう。

(4)ツイッターアカウント「自由の学風@orita_hikoichi」のつぶやき

「国際高等教育院」構想に反対する側が、ツイッターなどの媒体を使って発信している意見もある。ツイッターアカウント「自由の学風@orita_hikoichi」もそのひとつである。

 しかしあえて率直に言うと、このアカウントで主張されていることをまともに取り上げようという気にはなれない。高々140字のつぶやきを積み重ねたり、先達の発言をいくら引用してみたところで、「国際高等教育院」構想それ自体や教養・共通教育のあり方について具体的な議論をするためには曖昧すぎる部分があまりにも大きく、どのような問題意識と射程で具体的にどのような意図があるのか判然としないものばかりだからである。それでは議論が深まらないし、応答のしようがない。

例えば

  • 「理念なきトップダウン改革」から「自由の学風」は生まれない。三高の時代より、「自由の学風」は京大の憲法である。
  • 中教審のまとめは「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」である。それに対する答えが、なぜ、ビジネススクールのような国際高等教育院なのだ?予測困難だからこそ、「ムダ」知識が必要なのだ。
  • 京大生に期待されているのは「レールの上を走ること」ではありません。京大生に期待されているのは「新たなレールを敷くこと」です。未開の土地に地図はありません。いくら成績が良くても、教科書だけの知識は役に立ちません。
  • 役に立つことがわかっている知識は「基礎知識」である。教養とは「アホ」な知識である。教養とは評価不可能な知識である。評価の軸は、価値観によって、正負が逆転し得る。価値観が決まらなければ、評価はできない。教養とは、価値観を構成する素となる知識である。
  • 教養とは、すぐに役に立たない、漠然とした知識の集合である。世の中、すべてが予測可能であれば、教養はいらない。将来が予測不可能だからこそ、教養が必要になる。教養がなければ、場当たり的行動はできない。カオスの世の中を生き抜くためにこそ、教養は必要である。
  • 京大の自由さ、いい加減さが、世間の尺度に合わないのは事実。しかし、真面目だけでは通用しない場面があることも、直感的、経験的に多くの人が知っている。それを正々堂々と主張してこそ、京大の価値がある。
  • 「教養」の中身はいろいろある。「基礎知識」だったり「豊かな人間性」だったり。でも、一番大事なのは、自分自身の価値観で自分自身の行動が決められること。大学の成績はあくまで他人の評価。これに振り回されない人間であることが、最も重要な「教養」である。
  • 世界情勢が流動化し、将来予測が困難な現代こそ、「いい加減さ」が本質的に重要になる。真面目なだけでは、絶対に乗り切れない。真面目に勉強しさえすれば、明るい将来が待っている、なんて言えるほど、世の中、甘くはない。もちろん、真面目に勉強することも必要だけど。
  • 「いい加減さ」が重要なのは、世の中カオスだから。カオスの世界では、未来の予測が不可能である。したがって、あらかじめ計画をたてたり、準備したりすることが意味をなさない。いきあたりばったりに、テキトーに対処する能力が重要。正攻法も奇策もない。
  • 教養を理解する上で重要なのは、論理的思考を止めること。これは、論理的思考を叩き込まれた人間にとって、極めて困難な作業である。まずは、自分の中に「天才バカポン」を一匹飼っておいて「これで〜いいのだ〜」と歌ってみよう。
  • 教養が論理的に表現不可能なのは、それが論理的な「樹形図構造」ではなく、無節操な「スケールフリー構造」を持っているから。理性は前者の上に成り立っているのに対して、生物は後者の上に生きている。人間は理性を持つ生物として、この両方の上に立っている。
  • 教養とは、普遍的な「真」でありながら、論理的言語で表現不可能な「真」である。具体的言語で表現した瞬間に、実に薄っぺらくつまらないものになってしまう。まるでシュレディンガーの猫のような存在である。
  • 大学は教育機関である。S&Pのような格付け機関ではない。大学が厳密な評価に拘るのはナンセンス。学生が将来解決しなければならない難問は、大学教員だって知らないんだから。
  • 学生の評価は社会がする。大学は、社会に評価される人材を育てるのが仕事。彼らにAAAやB+みないなラベルを付けるのが仕事ではない。
  • 大学の「成績」は、あくまでその「瞬間」の旧世代(教員)による評価。将来にわたって、それを「保証」するものではない。iPS の山中先生だって、昔は「ジャマ中」だったんだから。

というつぶやきから、いったい何を読み取ればよいのだろうか。このつぶやきには、確かにそれなりに一貫した考え方の背景はあるのだろう。しかし、レトリックが多すぎて具体的な内容が明確とは言いがたい。例えば、『「ムダ」な知識』『「アホ」な知識』『いい加減さ』『論理的思考を止めること』『いきあたりばったりに、テキトーに対処する能力』とは具体的にどういう意味あるいはどういう内容のことなのか。「新たなレールを引くこと」に「教科書だけの知識」は全く役に立たないというのだろうか。「厳密な評価に拘るのはナンセンス」というのであれば、数学や物理の科目でも成績評価をつけることに反対するのか、あるいは単位認定そのものを否定するのか。漠然とした考え方の枠組みは理解できても、具体的な内容や根拠は不透明だ。

 私が考える最大の問題は、これらのつぶやきをどう寄せ集めても、教養・共通教育をどのように設計し、そのような科目を提供することによって学生に何を習得してもらうか、という具体的な問題を議論するのに資する提言が見当たらないということである。これでは議論にならない。参考資料1から参考資料4は、教養・共通教育のあり方について理念的なことから具体的な設計まで、ひとまず提示しているのである。中身に踏み込んだ具体的なかみあった議論こそ必要なのであって、いかようにも解釈できるような抽象的なつぶやきを積み重ねることでは建設的な議論とはならない、というのが私の考えである。

 もう1点指摘しておきたいのは、このつぶやきの「研究」に関する記述にいささかの違和感を禁じえないことである。一例をあげると、

一流の研究こそ、激しい競争は、ない。だって、誰もいないんだもん。あるのは、自分との闘いである。

というつぶやきへの違和感である。この論理に従うと、激しい競争のある研究は決して一流ではないことになってしまう。もちろん激しい競争とは無縁の中ですばらしい成果が得られたこともあるだろう。そのことは否定しない。しかし、すくなくとも自然科学における多くのすばらしい成果が激しい競争の中でもたらされたことを疑う余地は、少なくとも私にはない。ある程度認知された形の到達目標や望まれる成果、良い理論といったものがある程度はっきりしていて、それに向かって多くの研究者がしのぎを削っている状況というのは決して珍しいものではない。その結果、誰かが成果を挙げたとき、それは一流の成果ではないなどというのは暴論でしかない。激しい競争の中で最後に独創的なアイデアを出して成果をものにする研究者がいる。そのような一流の成果も星の数ほどあるだろう。このつぶやきではどうもそうした「独創性」と「一流の研究」ということを混同しているのではないかという雰囲気さえ漂っている。一流かどうかはその成果の中身で決まるのであり、競争の有無で決まるものではない。

 このアカウントのつぶやきに見られる問題点は、例外や多くの実例を無視して「すべて」を主張するような、非常に乱暴な断定が随所に行われていることであるといってもよいと思う。

 次回は、私が「国際高等教育院」構想に期待すること、また危惧していることについてまとめてみたいと思う。

京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その4)

前回・前々回と、いわゆる総長メールに添付された参考資料1から参考資料4の内容を具体的に取り上げつつ、それらに対する反対側のコメントの内容について批判的に検討してきた。

簡単にまとめるなら、全学共通科目に関する現状に対し、大学入学時の学生の習得状況の変化などを背景として様々な問題意識を表明し、それらへの具体的な改善策を提言している参考資料1から参考資料4に対し、反対側のコメントの大半は「手続き論」や「組織論」に終始するばかりで、全く応答しようとする気配が見受けられない。それは、「国際高等教育院」構想をつぶすという「学内政治的運動」として一定の成果を挙げたとしても、結局のところ教養・共通教育に対して掲げられた問題意識や改善策に対してはなんの建設的な成果もあげられないものでしかないと私は考える。仮にも学問を嗜む大学人ならば、「手続き論」や「組織論」とあわせて、これらの点についても誠実に応答する態度を見せるべきであると考える。

今回は、まず、反対側のページの学内資料一覧に掲げられている「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」を取り上げてその中身を検討してみたいと思う。特にこの文章で述べられていることが参考資料1から参考資料4までで問題となっていた点や改善案などとどうかみ合っているかを中心に検討したい。

次に、反対側が、「国際高等教育院」構想に対して提示した対案である「基幹ユニット構想」について検討する。特に、この構想が参考資料1から参考資料4で提示されていた問題意識や改善案とどうかみあっているかという点に加えて、教養・共通教育の担い手が行う「研究」に対する見方についての議論も検討したいと思う。

「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」の内容概観

この文章は、2004年6月にまとめられたものである。その経緯の中で次のように述べられている。

(教養教育に関する文系群会全体としての考えの提示)については、まとまった成果は出されないまま一年半あまりの時間が経過してしまったが、今回ようやく文書の成立を見た。なぜこれほどの時間がかかったのか。京都大学における教養教育は、授業担当者の自由を最大限生かす方向で行われている。こうした方式は、人文・社会系の学問の特徴に即したものであり、旧教養部以来の長い歴史を経て選び取られてきたものだ。この「自由放任」とも「個人商店方式」ともよびうるような方式は、質の高い授業を提供する上では最善の方式なのだが、授業担当者の集団(文系群会)が集団としての意志を形成しようとするにあたっては、逆にネックになってしまう。教養教育とは何かについて統一見解を出そうとしても、それぞれの教養教育観に基づくいろいろな意見が出て、なかなかまとまらないのだ。というわけで、教養教育についてまとまった考えを提示するには時間がかかった。しかしそうした地道な議論の場を経て、ともかくここに「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」をまとめるに至ったのである。

そこでこの文章の内容を具体的に見ていくことにしよう。いろいろ意見したい部分はあるが、それは次節でまとめて行う形を取る。

 1章は「教養教育における講義の特質」と題されている。
 冒頭で講義形式の授業について

人文・社会系の全学共通科目という言葉から連想されるごく一般的なイメージは、大教室にさまざまな学部の(つまり雑多な、均質的でない)学生が集まり、教師が一方的に講義するのを聴いている、というものだろう。(中略)
定員数百人の教室で教師が語るのを聴くだけ、という授業は実際かなりあるのだ。そしてこの種の授業形態は、通常ネガティヴな評価の対象となる。たとえば安易な単位認定の温床になっている、あるいは双方向性を欠いた授業が学生の興味を減殺している、といったように。

と述べた上で、この否定的評価は、「教員と学生の関係の希薄さについての認識」が背景にあるとしている。その特徴は、
「匿名性」=教員が学生個々人を識別することは物理的に難しいこと
「一回性」=関係は半期限りであり、単位が認定されれば関係は途絶すること

にあると述べる。そこで

匿名性や一回性という特徴の認識は、無責任や怠惰という大人数授業への否定的評価と容易に結びつく。だがこれらの特徴についてはまったく別の見方をすることも可能である。

という言明があり、この論証がこの文章の中心的な話題のひとつになっているといってよい。

 そのための鍵になるのが、「教養教育における講義の特質」、教員と学生の間の独特なつながりにあるという。

そのつながりの核にあるものは何か。それはひと言でいえば、その授業で語られる事柄への興味・関心の共有である。教員はそれぞれの専門分野で研究を進める研究者である。その立場から、学生にとって有意味と思われるテーマを講義の主題に設定するだろう。「有意味と思われる」ということは、その教員がそのテーマを端的に「面白い」と思っているということだ。この感情は敏感な学生にすぐ伝染する。講義を聴き続けている学生は、教師の興味・関心に共鳴している者たちであるにちがいない。語る事柄への教師自身の興味・関心が学生の興味・関心を喚起するのである。

続けて、「興味・関心の中身」について、教養教育と専門教育では、「差異の発見」の程度が異なると述べられている。

学問上の興味・関心を引き起こす契機となるのは、さまざまな意味での差異の発見である。これまで当然とされてきた事柄に反する何かが見つかった。あらゆる学的探求はここから開始される。この差異に言及しなければ、講義は面白いものとなるはずがない。この点に関しては教養教育であろうが専門教育であろうが、異なるところはない。問題は言及される差異の中味である。
 一般に専門教育においては相対的に小さな差異を問題とせざるをえないのに対し、教養教育において問題となるのは、相対的に大きな差異である。

その理由は、専門科目の場合、研究者は「専門分化の当然の帰結としての小さな差異」、「研究の前線にいる者にしかわからない微小な差異」をめぐってしのぎを削っているのであり、それを専門課程の学生に伝えなければならないのに対し、教養科目の場合は、「研究者次元での差異ではなく、研究者と世の常識との差異ということにならざるをえない」からだという。

 ごく一般的に考えるなら、小さな差異についての話より、大きな差異についての話の方が面白い。話す方もそうであるし、聴く方もそうだ。細々した話より「目からウロコ」の話の方が面白いに決まっている。教員は研究者の一人として小さな差異にこだわる日々を送っているはずだが、教員個々人の学問的営為をその基底において支えているのは、まちがいなくここでいう大きな差異の方である。大きな差異に言及することは、教員の研究の根本動機に直接ふれることにほかならない。したがってこの種の話は、小さな差異についての話とは別の意味で個々の教員にとって切実な話であり、その限りで小さな差異についての話とはまったく別のルートで学生たちに研究現場の香気を伝えることになる。つまりA群科目における「大きな差異」をめぐる講義は、聴く側の条件(非専門課程の学生)によって規定されるだけではなく、教員の側の内発的な動機づけから発している側面もあるということである。

このような議論のうえで、2節「匿名性と一回性の意義」へ続く。

匿名性と一回性という「教員―学生関係」の特徴は、この種の講義の遂行にとってきわめて有利な条件として働く。

その理由は

匿名性という条件下で講義を聴こうとする学生というのは、語られる主題によほど興味・関心をそそられている学生ということになるだろう。加えて一回性という条件がある。大多数の学生にとって、この科目・教員と付き合うのは、これ一回限りである。これからなされる卒論の指導のことを考えて教員に愛想よくしておこうとか、これから学ぼうとする専門科目の基礎としてこの科目を取っておこうとかいった配慮は、ここではあまり意味がない。

と述べられており、

匿名性と一回性という条件によって事柄への興味・関心を強くもった学生がふるい分けられてくる。匿名性と一回性は、「語られる事柄への興味・関心」が純粋なかたちで析出してくるために欠くことのできない条件であるとさえいえるかもしれない。ともかくこの条件の下で事柄への興味・関心を第一義とする空間が成立してくる。そこには(やや大仰に言えば)語られる事柄への興味・関心の共有という事実しか存在しない。その空間内の教員と学生は、ただその一点だけでつながっている。学問的主題への興味・関心以外のものが排除されているという意味で、そこはきわめてアカデミックな空間である。A群科目の大人数の授業というのは、その外観とは異なり、知的な興味・関心が全面的に展開される類まれな空間なのである。

とされている。

 他方、どうしてもA群科目の現実とは違うとか「単位目的」の学生がいるといった批判があることを想定して次のように述べている。

これまで提示してきたのは、京都大学における教養教育の本質と私たちが考える内容であり、A群科目の「現実」についての情報では必ずしもない。A群科目の授業が、すべて実際にこのようなものとして行われていると主張しているわけではないのだ。実際には「事柄への興味・関心」を前面に出さない授業もあるだろうし、「事柄への興味・関心」より「単位取得についての心配」によって授業に出てくる学生もいるかもしれない。

 だが他面、上に論じたことは、現実から完全に遊離した単なる理想論でもない。2003年夏に実施した「A群科目に関する<学生による授業評価>」において、回答者の一人(理学部学生)が歴史学関連のある授業を評して「教官が<オレは歴史が好きなんだー>という熱意をふりまいていつもおもしろくきいている。ひきつけられる」と書いてきた(『A群科目に関する「学生による授業評価」・報告書』2004年2月、53ページ)。同種の回答はほかにもいくつかあった。主題に対する教員の側の興味・関心が、学生の中に潜在していた興味・関心に火をつけるのである。このような事実がある限り、これまで述べてきたことは、多少とも現実的な根拠のある議論ということになるのではなかろうか。

この2節の最後の脚注はあとでも議論したいので、長いがそのまま引用しておく。

 なお付言すれば、教養教育における講義形式の授業の本質を以上のように捉えてみると、1で言及したような、講義形式の授業へのネガティヴな評価の理由――安易な単位認定の温床、双方向性の欠如など――は、いずれも講義形式に内在する本質的な問題ではなく、技術的に解決可能な問題であることがわかる。たとえば、双方向性の確保については、授業後の小レポートやウェブ掲示板によって学生との対話を試みるなど(前掲報告書、55-56ページ)、個々の教員の工夫によって対処がおこなわれている。

 またA群科目に関しては、履修登録者が著しく多い授業(いわゆる「大規模クラス」)の存在が以前から問題として指摘されてきた。これに関しても、履修登録者数が376名(最大教室の定員)を超える科目については、平成15年度からそれらの科目の開講コマ数を増やすことによってクラス規模を適正化するという対策が講じられ、すでに一定の成果があがっている。具体的には、履修登録者数376名以上の授業は、平成13年度には28、平成14年度前期には24あったのに対し、平成15年度前期には16と減少している。さらにそのうちでも、履修登録者数1000名以上の超大規模クラスは、平成13年度には8、平成14年度前期には7あったのに対し、平成15年度前期には1と激減している。

 さらに付け加えれば、講義形式の授業、とりわけ上記のような大規模クラスに顕著な問題として、履修登録のみおこなって実際には授業に出席しない学生が多数おり、そうした学生(特に二回生以上)の中には、学部専門科目と全学共通科目との重複登録をおこなっている学生が一定数存在することが指摘されてきた。この点を考慮し、各学部が実効性のある制度として重複登録の禁止を実現することにより、授業への学生の実質的参加を促進し、また大規模クラスの解消に資するべきであることを提言しておきたい。

 3節では、「放置の問題」と題して、「放置容認ではないか」との批判に答えようとしている。

語られる事柄に対する興味・関心に力点を置いて教養教育を論じると、必ず「興味のわかない学生はどうするのか、放っておいてかまわないというのか」といった反論が返ってくる。興味・関心のない学生に興味・関心をもたせようとするのが教育ではないか、という主張である。

という批判を想定して、次のように答えている。

しかしよく考えてみよう。その放置は、当該科目に関してだけのことなのである。A群科目全体がシステムとして放置を容認しているわけではない。A群科目には実に多彩な授業科目が含まれており、そのどれかにこの学生の興味をひくものがあるかもしれないからだ。個々の学生の知的興味・関心の内容は多様である。この多様な興味・関心に対応するためには、A群科目の科目設定は必然的に多様とならざるをえない。多様であればあるほど、「放置」の現実は回避されることになる。A群科目全体は、「放置」の可能性に対して科目の多様性によって対応しようとしているわけだ。

さらに、

A群科目の全体を見回してみても、自分の興味をひきそうなものは一つもない、実際にたくさんのA群科目の授業を受けてみたが、どれもこれもつまらなかった、という感想を抱く学生についてはどうか。このような学生は、A群科目の全体から放置されることになるのではないか。こうした学生をどうするのか。

という批判を想定して

この問題を解く鍵は各学部で設定されている「卒業に必要な単位」にあるというのが、現在のところの私たちの考えである。無反応学生は、各学部で設定された「卒業に必要な単位」に押し出されてA群科目を受講しようとしているにちがいない。A群科目の受講を決めているのは、当人ではなく学部なのだ。となると、そもそもこの押し出す側の論理は何か、が問われることになるだろう。各学部は教養教育に何を期待し、どのような基準で「卒業に必要な単位」を算定しているのだろう。理系学部に関してすでに指摘しておいたように(前掲報告書、45−46ページ)、無反応学生という問題に関してはこのことこそがまず第一に考えられねばならない事柄なのではあるまいか。

と述べている。

 4節は「基礎ゼミナール」という形式の授業について述べている。

基礎ゼミナールという授業形式の特徴は、受講学生が自ら読み、考え、書くという作業を授業参加の必須の条件にするという点にある。

とし、

  • 学生たちの中に、聴くだけでは飽き足らない、自らの「事柄に対する興味・関心」を自らの手で展開したい、と考える者は一定程度必ずいる。
  • 2004年1月に基礎ゼミナール受講者を対象にした調査(「基礎ゼミナールに関する<学生による授業評価>」)を実施したが、寄せられた回答を読んで驚かされるのは、学生の間にあるこうした類の願望の根強さだ。
  • 自分で読み、考え、書くという作業は、それ自体で彼らにとって大変魅力的であるようなのだ。

と述べた上で

むろんすべての学生がこの作業を望むわけではない。それはその通りなのだが、その一方で「事柄に対する興味・関心」を焦点とする講義が活発に行われれば行われるほど、それに刺激された能動的精神が胚胎してくるというのも事実だろう。「事柄に対する興味・関心」を焦点とする講義が、その当然の帰結として、自ら読み、考え、書くことを願望する学生を生んでいく。「自学自習」を教育上の基本理念とする京都大学にとって(「京都大学の基本理念」参照)、このことはきわめて好ましい事態であるにちがいない。このような精神を自ら生み出しつつ、それに対し何の対応もしないのは、教育を旨とする組織として不誠実というものだろう。ここに基礎ゼミナールという授業形式が存在する必然性がある。教養教育をここで論じているような姿勢で実施していく限り、基礎ゼミナールという授業形式は必要不可欠の意味をもつ。教養教育においては、講義と基礎ゼミナールという二つの授業形式は、いわば車の両輪のようなものなのだ。

基礎ゼミナールにおいては、一年間ほぼ固定したメンバーが同じ主題について議論をし合う。そしてそこには一回生だけでなく、上回生も参加している。関心の持続という意味でも、あるいは参加者の広がりという意味でも、そこにあるのは、単なる「導入」ではなく、教養教育の本質すなわち「事柄に対する興味・関心」に基づいたきわめて知的、学問的な空間だといえそうである。

としている。

 5節は提言であり、

  • A群科目の多様性は、学生たちの興味・関心の多様性に対応するものだという趣旨のことを述べた。興味・関心が教養教育にとって本質的な要素であるとするなら、そして学生の知的関心に応えることが大学の責務であるとするなら、A群科目の多様性は今後もできるだけ保持されていかねばならないだろう。多様性は、A群科目という科目群にとっていわば本質にかかわることなのだ。よりよき教養教育を実現していくためには、A群科目の科目設定は今後もできるだけ多様であることをめざすべきである。
  • 基礎ゼミナールは教養教育の推進にとって不可欠の意味をもつ。ところがこの授業形式に関しては、1コマあたりの履修者数の少なさゆえにしばしば批判が投げかけられてきた。全学共通科目の第一の責務は、大量の学生に単位を供給することであり、少人数の学生にしか単位を与えない授業などは不要なのではないか、というわけである。私たちはむろん教養教育をこのように量的にながめる観点はとらない。先に述べたように、基礎ゼミナールは、講義とは異なった教育の質を提供できるがゆえに、教養教育にとってなくてはならぬものなのだ。この講義と基礎ゼミナールの並存という事態は、今後も維持されねばならないと考える。つまり、望ましい教養教育を実現していくために、A群科目においては講義と基礎ゼミナール(実習、講読などを含む)という二つの授業形式を今後も保持すべきである。

と述べられている。

「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」」に対する違和感

この文章では、主として、A群科目に対する否定的な評価の代表的なものとして「安易な単位認定の温床、双方向性の欠如」といった点を挙げ、それに反駁すること、より具体的には、匿名性と一回性によってこそ「知的な興味・関心が全面的に展開される類まれな空間」が出現するのだと主張し、さらに学生を放置することを肯定しているのではないかとの批判には、「科目の多様性」によっていずれかの講義への興味・関心は引き出せると論じている。

しかし、これまでに検討してきた参考資料1から参考資料4までの内容と比較して、この文章で語られている内容を見てみると、やはりA群科目の現状を正当化しようという目的が先行していたり、そもそも問題意識がかみ合っていない面も散見される。以下具体的にいくつか指摘したいと思う。

 この文章では「興味・関心の共有」ということが重要な鍵として提示されている。しかしそのことからしてすでに複数の問題点がある。

《単位認定》

「興味・関心の共有」と「単位認定」は話が別である。確かに興味を持って毎週授業を聞いてくれる人はいるだろう。しかし、「単位認定」というのは、そもそも「興味・関心を共有して聞いてくれたこと」に対する対価なのであろうか。ここに大きな認識の乖離があるように思われる。その講義で何らかの実質的な習得内容を確認できた場合にのみ「単位認定」を行うべきだという指摘に対し、この文章は何も応えていない。参考資料1から参考資料4で示された問題意識の源泉には、こうした「習得内容」を具体的な基準で「評価」することによって「単位認定」を行うべきではないかというものが色濃く反映されていると見るべきであり、そのことに対する異論があるのならばまずそこから始めなければならない。

《学生の実態》

「興味・関心の共有」は、現実の学生の対応と適合していない可能性がある。この文書自体が認めているように、この文書で提示されている議論は、必ずしもA群科目の「現実」に対応しているわけではない。しかし、この文書はそのことに対し、「多少とも現実的な根拠のある議論」とか「現実から完全に遊離した単なる理想論でもない」という結論を、たったひとつのアンケート結果『「教官が<オレは歴史が好きなんだー>という熱意をふりまいていつもおもしろくきいている。ひきつけられる」と書いてきた』と「同種の回答はほかにもいくつかあった」ということだけを根拠に導いている。特段興味のあるA群科目があるわけではないが、卒業認定に必要なのでとりあえず単位がとりやすそうなものを受けておくという姿勢が「楽勝科目」への集中を招いているのだとする問題意識に対して、上のような議論が応答として適切だとは言えないし、そもそも「教官が<オレは歴史が好きなんだー>という熱意をふりまいていつもおもしろくきいている。ひきつけられる」というのはそもそも感想に過ぎず、この感想を書いた学生は、その結果この講義でどういう内容を習得できたのかまったくわからないし、ひきつけられたのは歴史学の中身というより教員のキャラクターだっただけかもしれない。その後歴史学の中身について自学自習してみようという気分になったわけではないかもしれない。このようなアンケート結果を持ち出すこと自体、問題意識が低いレベルで留まっているといわざるを得ない。

《双方向性》

「双方向性」が確保されていることの担保が薄弱である。この文書では、安易な単位認定の温床や双方向性の欠如は「講義形式に内在する本質的な問題ではなく、技術的に解決可能な問題であることがわかる。たとえば、双方向性の確保については、授業後の小レポートやウェブ掲示板によって学生との対話を試みるなど(前掲報告書、55-56ページ)、個々の教員の工夫によって対処がおこなわれている。」としている。しかし、レポートを書いてもらうだけでは「双方向」とは言えない。ウェブ掲示板で対話する学生は講義を受けている学生のごく一部である可能性もある。何らかの具体的な内容の習得を問うたり、何らかの具体的なテーマについて思考することを求めるのであれば、学生の提出したものに対するフィードバックを何回も繰り返すことが不可欠である。そのレベルでの「双方向性」が確保されているのか疑問だし、そもそもそのレベルの「双方向性」が可能な講義の人数は自ずから限定されてくるはずだ。受講者が三桁を超えるような講義で、そうした「双方向性」を保つ講義をすることはかなり難しいといわざるを得ない。

《多様性》

多様性があることによってこそ、いずれかのA群科目には興味・関心を示す蓋然性を担保できるのだという議論、これこそが「放置」への対抗策なのであるとする議論には、参考資料1から参考資料4の中で提起されていた次のような反論が考えられる。つまり多様になればなるほど、学生の体系的な履修やそのための計画の作成が妨げられてしまうということである。その点についての具体的な応答と見ることができる部分は、この文書には乏しい。学問分野に十分見通しを持っているわけではない大学入学時点での学生たちがいずれかの分野やテーマを体系的に履修することを目的とするならば、単に多様なだけではなく、テーマ設定や難易度階層別に科目を再編成したほうが良いし、高等学校段階までで十分に内容習得が出来ていない学生への対応も考えて、より基本的で平易な内容からなる初習科目も必要だというわけだった。つまり、多様性にはこの文書が言うようなメリットもあるかもしれないが、参考資料1から参考資料4が示していた問題意識や改善案は、まさに多様性のみが押し出される状況からくるデメリットを提示したものであり、それらを克服しようとするための一案であったことを忘れるべきではない。

《無反応な学生への対応》

無反応な学生への対処をどうするかという点についてこの文書が主張していることは明らかに学部への丸投げである。この文書では、特にA群科目のどれにも興味がないという学生について、非常に曖昧な答えしか提示していない。「無反応学生は、各学部で設定された「卒業に必要な単位」に押し出されてA群科目を受講しようとしているにちがいない。A群科目の受講を決めているのは、当人ではなく学部なのだ。となると、そもそもこの押し出す側の論理は何か、が問われることになるだろう。」と述べているだけである。これは、事実上各学部に丸投げしているだけである。

《教養教育の意義》

 ここまで「興味・関心」ということに力点が置かれすぎているのではないかという観点で検討してきた。
 この点は教養教育というものをどう位置づけるかという点に強く関係している。この文書では、教養教育は、学生の興味・関心に依拠している。「語る事柄への教師自身の興味・関心が学生の興味・関心を喚起する」とか、「匿名性と一回性は、「語られる事柄への興味・関心」が純粋なかたちで析出してくるために欠くことのできない条件であるとさえいえるかもしれない。ともかくこの条件の下で事柄への興味・関心を第一義とする空間が成立してくる。そこには(やや大仰に言えば)語られる事柄への興味・関心の共有という事実しか存在しない。その空間内の教員と学生は、ただその一点だけでつながっている。」といった記述にそのことが象徴されている。

 しかし、私はこの認識にこそ、参考資料1から参考資料4で表明されている問題意識や改善案の趣旨、また少し荒っぽく言えば社会的な要請との乖離があると見る。念のために注意しておくが、私は社会的要請なるものが全面的に正しいと主張するつもりはない。私が強調したいことは、投げかけられた批判や要請に対する応答として、この文書で述べられているようなことだけでは、十分に応えたことにならないし、応え方もいささかずれているということである。その意図をもう少し突っ込んで明確化しよう。

 参考資料1の冒頭にあったように、教養教育の意義や内容について、

「文系、理系を問わずそれぞれの立場から、哲学、倫理学等をはじめとする人文・社会諸科学の基礎的概念、数学、物理学、生物学等の自然科学の基礎的知識と方法論、さらには、学問研究の各時代における消長とそれを支えた時代固有の価値観の変遷をたどる思想史、科学史等を修得することは、教養教育の中心的な部分である」

という規定が紹介されていた。とするならば、それは個々の学生の「興味・関心」だけを尺度とするのではなく、たとえ「興味・関心」がなくても身につけておくべき事項を整理して、まさにひとつの強制力を持って学生に学んでもらうべきだと考えることもできる。もちろん、興味・関心がある分野について学んでもらうのは構わない。しかし、学生がこの時代を生きるための最低限の基礎的な素養は、必ずしも学生たちが今興味や関心を引かれるものではないかもしれない。しかもこれは、単に人として生きるための教養ではなく、学士課程を修了した人材として生きるための教養でなければならず、それはもちろん高等学校教科書レベルであっていいはずがない。だからこそ上の記述はかなり踏み込んで具体的な例示をしているのだろう。その意味で、高等学校教科書レベルよりもより深化した内容について、理解し思考し、そして論理的に表現できること、これがいわば学士課程を卒業する学生の「教養」として要請されるべき事柄なのではないだろうか。

 もうひとつ着目しておかなければならないことは、参考資料1から参考資料4の中で繰り返し指摘されていた点、つまり、教養教育は、必ずしも「専門予備教育」ではないということだ。この点はA群科目のテーマ分けや階層化について述べた箇所で強調されていたし、積み上げが重要な自然科学系科目においてもなお、第二階層は、特定の分野ではなく広く自然科学を学ぶ上で共通する内容を扱うこととされていた点に現れている。理系のための文系科目や文系のための理系科目の設定が取り上げられていたことも忘れてはならない。これらのことは、教養教育では、専門教育とは別の形で、広く学士課程修了者全般にとって必要とされる教養を体系的に身につけてもらうことを意識しているためだろう。その意味からいっても、教養教育は単なる「興味・関心の共有」だけで語るべきではないと私は考える。

 ここまでが主要な論点だが、ほかにもいくつか気になる記述があるので、取り上げておこう。

《有意味と面白さ》

 「学生にとって有意味と思われるテーマを講義の主題に設定するだろう。「有意味と思われる」ということは、その教員がそのテーマを端的に「面白い」と思っているということだ。」という記述にも疑問が出てくる。教員が「面白い」と思うことと学生にとって「有意味」であることとは必ずしも合致しないかもしれない。今後のために身につけておいて欲しいこと、思考しておいてほしいことというのは、学生にとって「有意味」ではあっても、教員にとっては基本的すぎて「面白い」かどうかはわからない。このあたりも「良い講義」が学生にとって何らかの意味で「面白い」講義であることが暗黙のうちに仮定されているように見える。学生にとって面白くない、興味や関心が湧きにくい内容であったとしても、これからの時代を生きる学士課程修了者が身につけるべき素養というのはありうる。もちろんまったく面白くない講義を受けるのは苦痛かもしれないが、しかし、一定の内容を習得してもらうために数多くのフィードバックを繰り返す講義が学生にとって常に「面白い」ものであるとは限らない。

《大きな差異と研究の根本動機》

「教養科目の場合は、「研究者次元での差異ではなく、研究者と世の常識との差異ということにならざるをえない」」とか、「研究の根本動機」を語るという記述が出てきていた。しかし、A群教養科目や基礎ゼミナールについて提示されていた疑問点には、多様性以外にも難易度についての観点があったことを忘れてはならない。「世の常識との差異」とか「研究の根本動機」といっても、現状のA群科目や基礎ゼミナールで取り扱われている題材が、専門科目レベルの内容になりすぎているのではないかという指摘である。この種の懸念に対する応答はこの文書では読み取れない。

《アカデミックな空間》

 このような用語の意味はよくわからない。興味と関心が共有されていて、学問的主題への興味・関心以外のものが排除されている空間がなぜ「アカデミックな空間」なのだろうか。例えば基礎ゼミナールに関する記述でも、
「関心の持続という意味でも、あるいは参加者の広がりという意味でも、そこにあるのは、単なる「導入」ではなく、教養教育の本質すなわち「事柄に対する興味・関心」に基づいたきわめて知的、学問的な空間だといえそうである。」
という記述がある。いったいこの文書でいう「学問的な空間」とは何であろうか。
 
 例えば、教員と学生の間で興味・関心が共有されているということだけで、何らかの新しい成果が生み出されるわけではないし、おそらく新しい成果や新しい概念が生まれることは皆無だろう。仮に教員が「研究の根本動機」を語って学生側がそれに対して様々な応答とすることにより、教員の側の思考にブレイクスルーが起きたというのなら、その教員は率直に言って思考不足だといわざるを得ない。もちろん講義の準備をしながら学生との応答とは別に教員自身が思考したけっか何か新しい着想を得ることはあるかもしれない。しかしそれは学生と興味・関心が共有されていることとは別の問題だ。だから教養科目が「新しいものを生み出す」という意味でのアカデミック・学問的空間ということはありえない。

 他方、例えば、学生にとっては、新しい内容に触れたり考えることを通して、知的作業を行う空間となりうるだろう。しかし、それは、必ずしも興味や関心が共有されていなくても、「有意味」なことを強制力を持って思考させるという場であっても為しうることだ。

《世俗的な配慮》

「これからなされる卒論の指導のことを考えて教員に愛想よくしておこうとか、これから学ぼうとする専門科目の基礎としてこの科目を取っておこうとかいった配慮は、ここではあまり意味がない。ここでは「これから」よりは「いま」を優越させて構わないし、「世俗的ないし目的合理的な判断」よりは自分自身の「興味・関心」に優先権を与えて一向に差し支えない。」
「専門教育の授業においては、「これから」のことをはじめとするもろもろの世俗的な配慮がどうしても侵入してきてしまうからだ。学生たちはさまざまな配慮から完全には自由にはなれない」
といった記述が出てくる。A群の専門科目では、「卒論指導のことを考えて教員に愛想よくしておこう」というような世俗的配慮が働いているというのだろうか。こういう一方的な記述をもって教養科目の正当性を主張するやり方には賛成できない。

 ここまでが「教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え」についての検討である。あえて率直に言えば、この文書は、「匿名性」と「一回性」という否定的評価の根拠とされる事柄を、なんとかうまく現状肯定の立場から読みかえられないかという動機に強く依存しているように見える。見方によっては弱点こそ強みですよという形の反論をすることも重要だが、もう少し正面から応えることもあってしかるべきだと考える。

「基幹ユニット構想」の内容とその違和感

「基幹ユニット構想」は、「国際高等教育院」構想に反対する総合人間学部・人間環境学研究科有志が提案している代案である。これは、組織論に関する部分も多いので、あまり積極的に中身を検討したくはないのだが、それでも今回の「教養教育」に関する問題意識に照らして、関連する部分を概観し、いくつかの疑問点を述べたいと思う。

《基本的な問題の大半が解決の方向へ向かう?》

 「構想の基本方針」の中で、

全学共通教育に関するいくつかの全学的委員会がこれまで提示してきた結論の主要部分は、(1)一元的企画部門の強化と、(2)科目の検討・再編の促進にある。

と述べた上で、

(2)については、全学共通教育システム委員会共通・教養教育企画・改善小委員会の平成24年6月8日付報告「平成25年度以降の全学共通科目の科目設計等について」[引用者注=参考資料4]に沿って、全学的に調整が進められており、これによって基本的な問題の大半が解決の方向に向かうと考えられている

と述べている。率直に言って、このような曖昧な言明は非常に不誠実で、外部から憲章の仕様がないものになっているといわざるを得ない。既に見たように、参考資料1から参考資料4までの中では、教養教育に対する理念、学生の現状に対する危機意識、そして全学共通科目全般の再編のための幅広い改善案が提示されていた。そもそもここでいう「基本的な問題」とはどこからどこまでのことなのか、具体的説明が全くなく、反対側が何を基本的問題と了解したのか何もわからない。それらのすべてが解決に向かうということは、そこで提示された問題意識すべてに同意し、改善の方向性も共有しているということなのか。反対側は、教養教育に対してどのような構想を持ち、現状をどう考え、何をどのように改善していこうとしているのか、全く不十分な記述しか行っていないのである。私はそこにこそ反対側の問題点であると思っている。そうしたことこそもっとも基本的部分であり、そこを議論しないまま、組織論に反対することは建設的ではないと考える。

《研究できなくなる?》

 「国際高等教育院」構想に反対している有志の主張の中で、教育専従にさせられた教員が研究できなくなるという観点が再三強調されている。基幹ユニット構想の中でも次のように述べられている。まず、

2)当該案[引用者注=「国際高等教育院」構想]の説明では、その根底に、全学共通教育を行う教員は研究ができなくてよいという考えがあり、これは、京都大学の教員の資質についてこれまで繰り返し確認されてきた全学的基本合意に反している。

とある。しかし、そもそも「国際高等教育院」構想において、そこに所属する教員が「研究ができなくてよい」とされているのかどうか自体はっきりしないし、しかもそれは「研究を本務としない」なのか「研究しなくてもよい」なのか「研究させない」なのかは曖昧だ。具体的に「国際高等教育院」に所属することになる教員がどのような研究活動にどのような形で従事することになるのかがはっきりしない段階で断定的な記述をするのは避けるべきだし、この文書を書いた側に都合の良いようにバイアスがかかっている可能性も否定できない。これについてはあとでも論じる。次に、

当該案は、そうした「教育専用教員」がいずれかの研究科と関わることを認めてはいる。それは、かつての教養部教員の多くが他の学部・大学院教育と関わっていたことと相似であり、このことはむしろ、旧教養部の問題の一つを十二分に想起させる。研究に関わることを本務とせず、専ら教養教育のみを担当しているかのように「見え」てしまう教員による初年次からの教育が、若い学生に(それとともに当の教員にも)どのような悪影響を及ぼすかは、上記2)に言うように全学的に意識されてきたところである。本学においては、良き研究者であることは、良き全学共通教育の担い手であることの必要条件である。したがって、科目提供者は大学院・研究所等に本籍を有することを基本とすべきである。

この記述は非常に不明確で含みを持たせた記述になっている。例えばそれは、『「見え」てしまう』というようなカギカッコの使い方にも現れている。旧教養部の問題点としてどのようなことが話し合われたのかつまびらかに知らない人間には、「どのような悪影響を及ぼすか」ということの具体的内容を推測できないし、その検証もできない。私には良くわからない。もしその教員が「国際高等教育院」に所属していつつ、(学部や大学院と兼担という形であれなんであれ)実際にオリジナルな研究成果を出している人物であれば、もちろんその人の講義の端々にそこのこが現れるであろうし、当人は研究しているのだから何も恥じることはない。本務がどうとか、学生からどう「見え」るかということは二義的な問題で、自分が研究さえしていれば、そのことを学生に納得させ、自らも納得させることはできるはずだ。

 少しこの「研究」の意味について考えてみたい。
 研究の遂行には、大きく分けて3つの観点が考えられると思う。

 第一に、研究のためにかけられる時間という側面である。
 時間的制約としては、もちろん講義があげられるが、それ以外にもゼミ学生の指導や会議の時間などが考えられる。例えば、「国際高等教育院」に所属する教員には、毎週10コマ(平日1日2コマ180分)といったレベルの講義の義務が課せられるのだろうか。現状よりも科目数を絞り階層化するのだから、各教員にそこまでの負担が貸されるとは少し想像しにくい。せいぜい週5コマ(平日毎日1コマ90分)がいいところではないだろうか。学部や大学院との兼担なら学生の指導もあるだろうが、それは義務とはされないのだろう。教授会なども軽減されるとの報道もある(京都大学新聞)。このレベルの時間的制約で研究に支障が出るというのは少し不思議な気がする。そもそも研究は9時-5時というような定時で行えるようなものではないし、考えることそのものが日常化しているはずなのだ。上で書いたような時間的制約ならば、「研究できない」などというデメリットを指摘するにはあたらないと思う。もちろん講義の内容充実のために必要な時間もあるから、そもそもそうした講義の内容向上のためにも、私は週10コマのような義務を課すのは行き過ぎであると考えている。

 第二に、研究のための資金という側面がある。
 通常研究者は、大学の運営費交付金や大学への寄付金などからなる大学の予算の中からいくらかの研究費を得る部分と、科学研究費補助金などの形で直接国から個人ないしグループ単位で資金を得る部分との2つの方法で研究資金を確保している。私は京大の教員が前者の形でどの程度資金を得ているかはわからない。しかし、後者の科学研究費補助金は、本人の研究業績に応じて国から直接研究資金を得るシステムであるから、京大の教員である以上、どのような組織にいても応募できるはずである。もし「国際高等教育院」に所属している教員には科研費に応募させないということになれば問題だが、そのような措置を講じるとは考えにくい。科学研究費補助金には、間接経費として大学自体に入る部分が確保されており、それは大学にとってのメリットのひとつであるからだ。つまり、「国際高等教育院」に所属しているという理由で研究のための資金が得られなくなるということは考えにくいのである。

 第三に、研究のための人材や設備という側面がある。
 これは分野にもよるが、研究の遂行のために大型の設備が必要な分野や、研究の遂行のために学部4年生や大学院生、ポスドク研究員などの手を必要としている分野もある。「国際高等教育院」に所属する教員には、自前で大型の設備を購入したり、学部4年生や大学院生、ポスドクなどを受け入れることが難しくなるかもしれない。そのような可能性は確かにある。しかし、これはやや私の独断だが、そのようなことが研究の遂行に影響する分野は、教養教育を担当することが想定されている部局や分野から見るとかなり限定的であるように思われる。そのような分野こそ、兼担の形にするとか、場合によってはそのような分野に限って学部から出向してもらう形にするなどの柔軟な対応を取れば十分に対処できるように見える。

この3つの観点から見る限り、私には、教養教育を推進するために「国際高等教育院」に所属する教員が、実質的に研究できない状態に置かれるというのはかなり無理がある議論であると思われる。研究は、確かに食い扶持を稼ぐための仕事であろうが、研究者として生きていく以上、それは、個人の内発的な動機によって「面白さ」という形で息づいているものであり、このレベルの組織改変で研究そのものができなくなるなどとは到底思えない。そして実質的に研究が出来るのであれば、上でも述べたように、本務や「見え」方などは二義的問題に過ぎないと思う。

《各学部のニーズ?》

基幹ユニット構想の中には、学部のニーズや最先端の話題といった単語が何度か現れる。

4)課題(1)[引用者注=一元的企画部門の強化]についてとりわけ重要なのは、「学士教育における全学共通教育の位置づけ」に基づく各学部のニーズを、いかにして企画に取り込んでいくかである。これを行うのに必要なのは、各学部に足場を持つ委員からなるしっかりとした企画・調整組織であって、大量の「教育専用教員」ではない。

5)当該案では、そうした「教育専用教員」が、いずれの学部の専任教員でもない以上、各学部のニーズを自ら十全に把握し企画に生かすという課題に応えることはできない。

新たな機構の核となる基幹ユニット(CU 21)においては、各学部から出向する計20名のHP(Headquarter Professors)が、統括者である総長指名のHPC(Headquarter Professor in Chief)のもと、各学部のニーズを全HPに責任をもって伝達することによって学部の意思の反映を図るとともに、自らチーム(CU 4)を組んで、「教養教育」(広義における。従来の「全学共通教育」に替えて、以下ではこの名称を用いる)の企画・調整を責任を持って進めることとなる。これにより、「教養教育は自分たちの問題である」という方向への意識改革が、なお一層進むであろう。特定の教員が長期にわたって任にあたることを避け、2年任期で1年ごとに半数交替するというシステムも、この意識改革を進める上で重要な役割を果たすであろう。これによって、京都大学の多くの教員が教養教育の企画・調整を経験することになり、こうした経験の広範な共有が、制度のよりよい運用に繋がるはずである。

HPが科目提供者を兼ねることがあっても、あくまでもHPとしての任務は、出向元の研究科の教養教育に対する要望をCU21の全HPに責任を持って伝達し、かつ、教教育全体および担当する科目群の企画・調整を、責任を持って遂行することにある。

いったいどの段階から、教養教育の課題が「各学部のニーズ」との連結だということになってしまったのだろうか。この点は既に何度か指摘してきたが、教養教育は、少なくとも学部で提供される専門教育とは一線を画し、人文・社会科学や自然科学における最も基本的な考え方やその成果を文理を問わず身につけてもらうことだと規定し、そのための基礎的な科目の充実と体系的履修が提言されていたのである。そうした観点から教養教育で提供するべき科目群や内容、およびその難易度や単位認定の方法の設計を、「国際高等教育院」に所属する教員たちの手で行おうというのが「国際高等教育院」の言う「一元的企画部門の強化」ということの趣旨ではなかったのか。それはそもそも専門教育とは一線を画す全人的教育である以上「各学部のニーズ」こそ二義的な観点であるといわざるを得ない。

 HPの任期が2年というのも、「意識改革」としての重要性が強調されているが、私はむしろ、教養教育の再編や設計を担うのならば、その役割が1年や2年で変わっていくようなHPを置くよりも、むしろ5年程度のスパンでその企画や調整を行う者を選ぶべきだという気がしてならない。教育の結果は1年や2年では出ない。数年の継続的な実施とその成果の調査によってはじめて再編の果実がはっきりするのであり、その段階で問題があれば再設計するなどの見直しを行う必要がある。そうしたことを可能にするべく、一定の長期にわたって教養教育の企画に携わる組織や教員があってよいと思うし、それが「国際高等教育院」構想の目的の一つなのではなかろうか。

《全学的関与と学士教育の向上》
基幹ユニット構想では、「全学的関与」といった視点が強調されている。

科目提供は、「主要科目提供部局」たる人間・環境学研究科と理学研究科が中心となってこれを行い、独立大学院はもとより、広く研究所・センターからも、「最先端の話題を教養教育に」をモットーに、多様な科目提供を募る。

学生を一から育てることに関わる可能性が、学部・大学院教員のみならず、京都大学の全教員に保証されることになれば、そのことによって、教育に対する全学的意識の更なる高揚とともに、京都大学が擁する先端研究者の全学的関与による学士教育の更なる向上が期待される。大学院重点化によって危ぶまれてきた学士教育の弱体化の懸念に抗して、京都大学らしい学士教育重視型教育システムへの移行が、その先に望見されるところである。

京都大学は、大綱化に伴う教養部廃止において、教養学部体制を取る東京大学とも、教養科目担当教員の大幅な分散化を選んだ他の多くの大学とも異なる道を歩んできた。人間・環境学研究科および理学研究科において、全学共通教育を担うハイレベルの教員集団を大規模に維持してきたこと、そして、企画・調整を図る全学的組織として「高等教育研究開発推進機構」を置き、円滑な企画運営を進めるべく鋭意努力してきたことは、京大型教養教育を進める上で、決してゆるがせにしてはならない重要な面である。新たな機構とその核となる基幹ユニットが構成する教育体制は、学部・大学院において教育・研究を進めながら全学の教養教育を担う教員集団──京都大学の教員としての資質を十全に保持した教養教育担当教員集団──による主要な科目の提供を保証するとともに、独立大学院、研究所、センター等の学士教育全体への積極的関与を促す形で、全学のパワーとニーズの積極的活用を担保する。これによって、京都大学の教養教育システムは、大綱化と大学院重点化を経た今、全国の教養教育のモデルケースとなるはずである。

私は、あえてこのことに疑問を呈したい。

 一口に研究者と言っても、実際には少なくとも2つのレベルがあると言って良い。

 最近話題になった2つのある意味で極端な例を引こう。iPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中伸弥教授と整数論の大きな予想の一つであるABC予想についての論文を公表した望月新一教授である。彼らは、彼らの独創的なアイデアでもって、まさに文字通りの意味で、その分野を開拓し前進させている。まさに文字通りの意味で、研究の最先端で人類の未踏の大地を押し広げている研究者が現に京大には居る。そんな彼らを前期と半期を通して拘束して教養教育を担当してもらうべきなのだろうか。「最先端の話題を教養教育に」「先端研究者の全学的関与による学士教育」といくら言ったところで、このレベルの研究者、つまりその分野を今まさに自らのアイデアで押し広げている文字通りの最先端にいる研究者たちに、学部の教養教育を担ってもらう義務を課す必要はないとあえて断言したいのである。もちろん本人がそれを望む場合は別だし、半期や通年単位ではなく、例えば半年に1回何らかの形で講演してもらうという仕組みはあってもよいと思う。しかし半期や通年の教養教育の講義を義務付ける必要はない。

 理由は簡単だ。そういうまさに最先端にいる研究者には、その分野を開拓していくための時間こそ重要であり、そのために彼らの時間を活用してもらう方が分野の発展を望める。文系とも理系とも限らず将来その分野を専門にする可能性が低い学生たちの集団よりも、その分野を専門として志す学生や大学院生に薫陶を授けてもらうほうがより有益だからであるということに尽きる。そうした最先端の研究者にとっては時間と相手は重要なポイントなのだ。

 研究者の第二のレベルは、真に新しい結果を継続的に発表しているとは言っても、その結果自体は、先達たちが切り開いた分野をより詳細に精密に理解するためだったり先達たちの結果を拡張したり補強したりするようなものであるような研究者たちだ。率直に言って研究者の少なくとも半分はちらに属すると言って良いと思う。これらの研究者は自らオリジナルな成果を得るために研究を進めているからこそ最先端の研究成果を自ら調査し造詣を持っているし、そして研究のための思索も深く行っている。このレベルの研究者が学部の専門教育や教養教育にあたればよいと私は考える。

 これはむしろ上の機関ユニット構想が考えている教育の分担と比べると、むしろ逆説的に次にように言いたい。東大や京大のように、まさに最先端で分野を開拓している研究者とそのレベルの研究者を追いかけながら研究している研究者とが無視できない比率で在籍している大学でこそ、私は、学部低回生の専門基礎教育や教養教育を担当する教員とそうでない教員とを分けたほうが良いと思う。

 《語学教育とくに英語教育》
 最後の節で、「学士教育の更なる国際化のために」と題された語学特に英語教育に関する記述があるが、これについてはコメントは割愛する。

次回は、反対側のより具体的な人々の意見についていくつか検討を加えた上で、私が国際高等教育院に期待することや危惧することなどを述べたいと思う。