日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その10)─雑誌「数学文化」第18号の竹山論文をめぐってI─

雑誌「数学文化」第18号に、『問題提起としての「大学生数学基本調査」』と題する竹山美宏氏の論説が掲載された。
これまで、大学生数学基本調査に関してまとまった形で公表されているものは、日本数学会公式のものか、新井紀子氏単独に依るものか、新井氏と尾崎幸謙氏による雑誌「世界」の記事などのみであったので、今回、実施に関わった委員の中の新たな執筆者による記事が出たことになる。何回かに分けて、この竹山氏による記事を検討したいと思う。

はじめに簡単に感想を述べておくと、今回、いくつかの観点で、竹山氏の私見という断りはあるものの、今までの文章の中でははっきり述べられていなかった点が明確にされた。そのことは評価したいと思う。しかし、その反面で、実施側の意図やその具体的な実施内容、結果の評価に関する部分では、実施方法や書きぶりに問題があったかもしれない可能性について何も自己評価がないものであった。また、価値判断が必要な局面で、根拠を十分に論じることなく、判断基準を外部に委ねてしまう部分が散見されたことも残念であった。以下、これらの点について、具体的な記述に触れながら指摘していきたいと思う。

調査の意図について

1.2節の最後で竹山氏は次のように述べている。

実施にあたった日本数学会教育委員会の委員の一人である私の理解では、今回の調査は学力低下を立証して若い世代を叩くことを意図したものではない。調査結果を社会と共有することで、数学に対する社会的風潮も含めた広い意味での数学教育のあり方について、社会を形成する大人全体で考えようというメッセージなのである。

私のこの記述に対する違和感は相当なものがある。

第一に、「若い世代を叩くことを意図したものではない」と言うのなら、もう少し評価の方法やその評価を発信する言葉を慎重に選ぶべきだったし、そのことについて十分な説明や自己評価をするべきだ。今回の調査結果に関する報告やそれに基づく提言の中で、「論理を正確に解釈する能力に問題がある」とか「論理を整理された形で記述する力が不足している」とか、あるいは「重篤な誤答」とか「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」とか「あいまいな言説への逃避」とか、そういう言葉で学生の答案や調査結果を評価していることは、決して無視できない。そういう言葉を投げつけたことに対する自己評価がまるでないのに、「叩くことを意図したものではない」と述べるのは受け入れがたい。


 実は2012年6月25日に、報告書概要版などの記述が「重篤な誤答」から「深刻な誤答」に改められた。しかし、なぜそのような修正をおこなったのかという理由の説明はない。しかも、報告書概要版にある「深刻な誤答」の定義は、相変わらず「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」であって何も変わっていない。FAQにはいまだに「重篤な誤答」という表現が1枚目から「論理的に意味の通らないタイプの誤答」として1ページ目の記述に残っている。確かに「重篤」という表現はまずい。しかし言葉の定義が変わらないのなら=調査側の意識が変わらないなら、表面上の表現を和らげたところで本質的な変化はないと言わざるを得ない。


 答案の内容を批評することと、その答案を書いた学生の能力を批評することとは、確かに別の側面もある。学生を叩くことが目的ではなく、答案の内容を評価したまでだという言い方も可能かもしれない。しかし、「論理を正確に解釈する能力に問題がある」とか「論理を整理された形で記述する力が不足している」という表現は、やはり学生の能力を論難していると受け取られても仕方ないものだ。「論理的に意味が通らないタイプの誤答」なら内容と能力を分けるという言い訳がかろうじてできたとしても、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」では、私は無理だと思う。ある答案が誤りだからといって、その人が書いた別の答案も誤りかどうかはわからない。ある答案が論理的に意味が通っていなくても、その人の書くものすべてが論理的に意味が通らないとは限らない。しかし、ある答案で「論理的コミュニケーションの前提が崩壊」していたら、もはやその人が書くどんな答案でも「論理的な答案」は期待できないのではないか、と私には思える。それくらい強い言葉で答案の内容を評価したということに対する自覚と反省なくして、「学生を叩くことを意図したものではない」と述べるだけであることが甚だ疑問なのである。


第二に、「調査結果を社会と共有することで、数学に対する社会的風潮も含めた広い意味での数学教育のあり方について、社会を形成する大人全体で考えようというメッセージ」という意図が不可解である。今回の調査結果を受けて日本数学会の名前で、調査結果について「論理を正確に解釈する能力に問題かる」「論理を整理された形で記述する力が不足している」と大学生の能力についての評価を下している。そして「充実した数学教育を通じ論理性を育む」「証明問題を解かせるなどの方法により、論理の通った文章を書く訓練を行う」「数学の入試問題はできるかぎり記述式にする」「1年次2年次の数学教育において、思考整理と論理的記述を学生に体得させる」などと提言をしているのである。さらに言えば、「資源に恵まれず災害の多い日本は、国民一人一人の知的水準を上げなければ生き残ることができません。数学は科学・技術を支える基盤です。また数学が育む論理力は、国際交渉の中で不可欠です。」と断定しているのである。それが「社会を形成する大人全体で考えようというメッセージ」であるというのは理解しがたい。これは明確な立場の表明であって、議論しようというスタンスには感じられない。


 「数学教育」が「論理性」と密接不可分であること、数学教育を通じて論理性を育むことができること、またそれが社会的に適用可能でかつ有用であることなどが既に前提とされ、今回の調査に使われた問題がその論理性を見る問題であったことなどについて何も疑いの余地を差し挟むことはできない構成になってしまっている。もともと、日常生活で必要とされる論理性や現実社会の具体的な問題に対する対処法や政策を考える局面、あるいは国際交渉で必要とされる「論理性」が「数学教育において育まれる論理性」とが直接的に結びつきうるかどうかさえ、議論の余地があるはずだし、その直接性に躊躇なく同意する人は決して多くないのではなかろうか。数学が科学・技術を支えていることは事実としても、数学の内容のどの部分をどのような形でどの段階の教育に分担させるかということについても議論の余地があるはずだ。そういう「数学教育のあり方」についての議論をしようという意図には見えない。とにかく「大学生の論理的思考力に問題があることがわかりました!数学教育を充実させてください!」といっているようにしか見えないのである。


 もし「数学教育のあり方」について議論しようというのなら、単に数学教育は論理性を育みます、論理性は社会においても有用ですなどというナイーブな断定をするのではなく、今回の調査に用いた出題がどのような内容を問おうとしたものであり、その内容は「論理性の社会的有用性」に照らしてどのような意味を持つものなのか、という点を丁寧に説明することからはじめなければならない。例えば、「偶数たす奇数が常に奇数であることの証明」に文字式を使った論証を行うこと、またそれ以外の論証は認めないという措置、二次関数の重要な特徴を問うこと、線分の三等分という作図問題を問うこと、これらと「論理性」の関係、「社会的有用性」の観点に照らした意義をはっきり示すべきだ。少なくともこれらの問題が、日常生活や現実の諸問題に役立つということに躊躇なく同意する人も決して多くはないはずだからである。その上で、われわれはこのような社会的に有用な論理性を、このような数学教育を行うことによって習得させたいと考えているのだが、広く社会の大人の皆様のご意見を求めたいとするべきだろう。


 出題の意図については、今回の竹山氏の記事によって少し補足的な説明がなされたと思っている。それについては次回に検討するが、これだけ時間が経過した後にようやくそうした補足説明が出てくることに違和感があるのである。まず真っ先に竹山氏が述べているような観点が提示されるべきであった。


第三に、そもそも「若い世代を叩くことを意図したものではない」とか「広い意味での数学教育のあり方について、社会を形成する大人全体で考えようというメッセージ」ということを言うだけなのに、「委員の一人である私の理解では」などという枕を置かなければならない書きぶりである。そういう点についてさえ、実施側の委員会のコンセンサスが取れていないのではないか、と疑わせる。なぜ、「「今回の調査は学力低下を立証して若い世代を叩くことを意図したものではない。調査結果を社会と共有することで、数学に対する社会的風潮も含めた広い意味での数学教育のあり方について、社会を形成する大人全体で考えようというメッセージ」を出すことが、日本数学会教育委員会が本調査を実施した目的である。」とはっきり書けないのだろうか。率直に言って、今回の調査に関し、日本数学会やその下部組織であるところの教育委員会なるものの中で、どのような話し合いがもたれ、どのような点についてコンセンサスが得られているのかまったく判然としない。報告書の概要版やシンポジウムで配布された抜粋などがどのような経過を経て公表されたのかも定かではない。

出題内容についてのコメント─典型的な誤答と深刻な誤答に関して─

2.「調査問題の解答と結果」の節の中で、問2-1に関する記述、特に、典型的な誤答と深刻な誤答に関する記述を取り上げる。
竹山氏は

易しい題材によって証明を正確に書く力を見る問題である。

と述べた上で、準正答・典型的な誤答・深刻な誤答について次のように述べている。

準正答とみなされたのは、正答例の冒頭が「m,nを整数とすると、2mは偶数、2n+1は奇数になる」となっている答案、正答例の「m+nが整数なので」に対応する部分がない答案など、論理的にやや瑕のあるものである。
典型的な誤答として、「偶数は2m、奇数は2m+1と表せる」のように連続する整数についてのみ示している答案、整数と書くべき箇所で「実数」となっている答案、m,nという文字が何を表しているのか書いていない答案などがあった。
深刻な誤答は、「6+1=7、4+5=9などとなるから」のように例示のみで済ませている答案や、「偶数を奇数にするためには、偶数を足しても駄目だが、奇数を足せばよい」のように論理の記述として大きく問題があると見なされる答案である。

「正答例の冒頭が「m,nを整数とすると、2mは偶数、2n+1は奇数になる」となっている答案」を準正答としたことは、報告書概要版には書かれておらず、報告書抜粋と本記事で触れられているものである。この答案を「論理的にやや瑕がある」と評する場合、報告書抜粋で「典型的な誤答」の中に「論理的な誤りはないが何を証明すべきかが理解できていない答案や、厳密な証明ではなく大雑把な説明になっている答案」の例として取り上げられている
例1:「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
例2:「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
例3:「偶数と奇数は、『偶数、奇数、偶数、奇数、偶数、奇数、・・・』と交互に並んでいる。したがって、奇数を偶数の分だけずらしても奇数のままである。」
という3つの例や、報告書概要版で「重篤な誤答」とされた
「偶数は2で割り切れて、奇数は2で割ると1余るということから。」
「偶数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから。」
という答案との違いをどう見るのか、という問題がある。「正答例の冒頭が「m,nを整数とすると、2mは偶数、2n+1は奇数になる」となっている答案」の論理に瑕があるとする理由は、すべての偶数が2mと表されること、すべての奇数が2n+1と表されることを述べなければならないからである。2mという偶数と2n+1という奇数以外の候補が何もないことがポイントだからである。だからこのような書き方をする答案の場合、むしろ例1、2、3よりも命題論理的には瑕があると言うべきかもしれないのだ。次回に検討するが、このような答案を書いてしまうことこそ、「自分の頭の中にあるイメージが正確に言語化されていない」と言うべきなのかもしれないのである。もちろん2mという偶数と2n+1という奇数以外の候補が何もないことは偶数と奇数の定義から当たり前のことだが、それを当たり前というのなら、上で取り上げた典型的な誤答や重篤な誤答の例の中にも、論理的にやや瑕はあるが準正答としてよいと思えるものが含まれているのである。


深刻な誤答についても、
「偶数を奇数にするためには、偶数を足しても駄目だが、奇数を足せばよい」
「偶数は2で割り切れて、奇数は2で割ると1余るということから。」
「偶数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから。」
といった答案例に対して、「論理の記述として大きく問題がある」と評するのもいささかバランスを失しているように思う。これらの記述に「論理の記述として大きく問題がある」のであれば、「m,nを整数とすると、2mは偶数、2n+1は奇数になる」となっている答案にも、やはり論理の記述として大きく問題があると、少なくとも私は考えざるを得ない。これもこの問題があまりにも当たり前すぎるという点に原因があるように思う。


今回、実施側は文字式を用いていないものは決して準正答以上にはしないという方針のようである。しかし文字式を用いたものであっても、上のように準正答と言ってよいか微妙なものもあるし、文字式を用いなくてもほぼそれと同等と見なせるものもあったはずだ。これはやはり採点基準の客観性に疑義を抱かせるものである。このようなことが起きるのは、やはりこの問題があまりにも当たり前で、「易しい題材」過ぎるからである。問題を易しくすればするほど、何が当たり前なのかがぼやけてしまうのだ。そういうことへの配慮が今回の実施側の頭の中にはなかったように思われるし、文字式を使うということにいささか教条的に拘りすぎていると感じられる。


また、「論理の記述として大きく問題がある」ということと「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」とか「そもそも論理的に説明するための前提に立っていない」では、言葉のニュアンスに随分違いがある。こういく記述の揺れは決して好ましいものではないと考える。これは、「重篤な誤答=深刻な誤答」の定義に関わる問題である。そういうものが明示的に腑分けできるためにも、筆者や媒体によってその定義がふらつくべきではないと思う。


次回は、竹山氏の記事の「3.出題意図」の内容を検討したいと思う。