白熱教室JAPAN大阪大学小林傳司教授への疑問(その1)

話題になった「ハーバード白熱教室」にあやかって「白熱教室JAPAN」なる番組が製作されている。
科学技術社会論の立場から、大阪大学の小林傳司教授の講義が取り上げられた。
私はこの講義の内容/見方には大いに疑問があるので、数回に分けてその内容について述べてみたい。

現時点での疑問点は次のような感じである。

  • 単に議論することだけに重点が置かれ、その内容は具体性を伴わない一般論的/観念論的な発言の応酬になってしまっているのではないか。
  • 理系と文系の間のコミュニケーション不全と対話の必要性ばかりが強調され、科学と社会の関わりの具体的な事例を詳細に検証するという方向へ関心を向けられない形式になっているのではないか。
  • 結局のところ小林の見方や考え方が披瀝され過ぎていないか。

私は「ハーバード白熱教室」を興味深く見た一人である。
しかし、少なくともこの小林の講義は、もともとの「ハーバード白熱教室」にあった良いポイントを完全に喪失してしまっているのではないかと思えてならない。なお、ここで述べる観点は、何かを論証しようとするものであるというより、多分に私の主観的な見解の表明であることをお断りしておく。

(この記事は必要に応じて追記する可能性がある。)

片瀬久美子氏の付録への疑問-epilogue

 片瀬久美子氏が『もうダマされないための「科学」講義』という本の付録に書いた「放射性物質をめぐるあやしい情報と不安に付け込む人たち」という文章とそれに関連した片瀬氏の発言や記述に対する疑問点や批判を述べてきた。

 私が書いた(その6)「議論の姿勢について」がいくつかの場所で取り上げられて、片瀬氏への批判も多くなされた。
私は一貫して片瀬氏の提示した「論証/論理の質」を問題にし、疑問点や批判を述べたつもりであるが、(その6)が注目されて、他の部分への検証が進まなかった印象があるのは残念な感がある。しかしそれは私の記事の書き方にも問題があったということなのだろう。

 私の記事に対して、ツイッターでの発言が気に入らないのだろうという推測も頂いた。
確かに私は片瀬氏のツイッターにおける発言の仕方にはかなり拙さがあると感じていた。また「放射性物質をめぐるあやしい情報と不安に付け込む人たち」という文章の書きぶりにも問題があると感じていた。
しかし、もしそうした記述や発言が、研究者としての確かな分析力に裏打ちされているのであれば、こうした記事にまでしようと思わなかったかもしれない。
 私がこれらの記事を書こうと思った直接のきっかけは、片瀬氏のアップルペクチンに関する論文検証記事であった。
 私はこの検証記事で取り上げられている論文を見て、片瀬氏の論証の質にかなり問題があるのではないかという疑念を抱いた。こうした疑念は、「研究報告を一通り調べてみたが、いずれにも重要な不備があり、きちんとした証明には至っておらず」と片瀬氏が書いたとき、その記述を信頼できるかという点に直結していると私は考える。
 また片瀬氏が「研究者」あるいは「理学博士」としての立場で発言しているのではないかと推測される発言をしていたことも重要視した。

 interludeでも書いたが、「片瀬氏が多くの資料とデータを調べてそれらを提供していること」自体には評価に値すると考えている。しかしそうしたデータや記事に対して、片瀬氏自身が自身の言葉で記述したり発言したと思われる箇所に、拙い論証やエスカレートさせてしまっている部分が見受けられた。片瀬氏は今まで何人かの人と論争したり批判されたりしているようだが、私には、その一因として、片瀬氏自身の書きぶりの中に、適用範囲を拡大して断定してしまったが故にほころびが出ている箇所が様々に含まれているということがあるのではないかと考えている。そして片瀬氏はそのほころびに対して少なくとも私の目から見ると十分に自覚的ではないように思われた。

 あえて感情的に言うならば、私のような専門家ではない人間が少し検討しただけで、取り上げられている事柄の蓋然性について疑問を抱いたり、問題点をいくつか指摘できるような論文検証記事を書くということは、私にとって片瀬氏の「研究者」としての「論証の質」に疑念を抱かせるには十分すぎるほどだといわざるを得ないと考える。

 だから私は片瀬氏の発言を元に研究内容や学位論文について調べた。ここまでの記事にはあえて書かなかったが、私は片瀬氏がどのような研究を行って学位論文を書いたかということもおおよそ見当をつけているつもりである。例えば片瀬氏が「形を変えやすい植物」としてモヤシの例を引き合いに出したのは、片瀬氏の研究と関連があったからではないかと推測している。私の見当が正しければ、片瀬氏の学位論文は十分に評価の高い雑誌に掲載されており、私が批判的にコメントしても十分に応対可能な研究者であると私は認識した。だからこそ今回の記事を書いた。
 加えて私のような専門家ではない人間の言うことなのだから的を得ていない指摘も当然あるだろうし、内容の妥当性をレビューしてもらうことや可能ならば片瀬氏自身からのコメントも期待してこの記事を書いたというのが実情である。

 10本の記事を書いてきたので、とりあえずepilogueと打ってきりをつけたいと思う。

 このブログの匿名性や他の記事がないことに対する批判もあった。私は、少なくとも片瀬氏とこのブログ以外での繋がりは何もないし、このブログで書いたことは、発言者の実名や所属とはあまり関係ないレベルで妥当性があるかないかが検証できる程度の内容であると考えているために、あまりそうした批判が大切だとは思わないが、他の記事もおいおい追加していこうと思う。

片瀬久美子氏の付録への疑問-片瀬氏のコメントに対する詳細な応答と補足

(その2)から(その6)までの記事に片瀬氏からのコメントを振り返りながら、私が問題だと考えている点をさらに敷衍して述べたい。

O157の問題(その2)について

片瀬氏からのコメントは次のようなものだった。

ドイツでの食中毒騒動はご存知ですか?スプラウトの栽培中に紛れ込んだ腸管出血性大腸菌O104が原因でした。( http://www.foocom.net/column/editor/4356/ ) 大腸菌O157も同様です。最新の情報をちゃんと調べましょう。この様に大腸菌であっても、どこから紛れ込むか分かりません。「O157が米のとぎ汁乳酸菌に混入する可能性はきわめて低いように思えるのだ」と、思うだけで決めつけてしまうのはとても危ういです。食中毒に関わる菌は、常にそこら辺に潜んでいてもおかしくないのです。

私の応答は次のようなものだった。

コメントを頂きありがとうございます。一般的に大腸菌が様々な過程で紛れ込む可能性があること、またその結果が時として重大であることは理解できます。しかし、頂いたコメントを呼んでもなお私には次のことがよくわかりません。片瀬さんは、「ノロウイルスカンピロバクターサルモネラ属菌」というような食中毒の3大原因となっているものよりもO157が紛れ込む可能性の方がより大きいと考えておられるのでしょうか?それとも蓋然性は低いが結果が重大だから特別に挙げる意味があるというお考えなのでしょうか?

私が第一に問題としているのは「蓋然性」である。「米のとぎ汁乳酸菌」を飲用して不幸にも食中毒に感染する事例がおきたとしよう。それが腸管出血性大腸菌O157である可能性がどの程度なのかという点だ。
片瀬氏は11/28のツイートで、

[参考] 厚生労働省腸管出血性大腸菌Q&A http://bit.ly/ts23ID  (ドイツでスプラウトに発生した腸管出血性大腸菌によるケース http://bit.ly/w4yPr7ツイログ

なども挙げているし、上の返信などからも、やはりかなり蓋然性があると考えているようだと判断せざるを得ない。しかし、感染経路が様々であることと蓋然性とは別の問題である。「食中毒に関わる菌は、常にそこら辺に潜んでいてもおかしくないのです。」と言っても、「O157」は家庭の台所の片隅に潜んでいる可能性は非常に低いと考えざるを得ず、それが「米のとぎ汁乳酸菌」に混入して食中毒が発生する可能性はさらに低いと考えざるを得ない。非常に少数で発症するということが重要なポイントだと考えている。

片瀬氏はマウスによる実験結果に関する(その3)への応答で、動物試験を一通りパスしたものが人の臨床試験でも成功する確率は18%であったことを挙げている。18%という数字をとらえて、例えば「マウスでもある程度普遍的なことを言えるのではないか?というのは、甘いですねぇ。実際を知らないからなんでしょう。」という発言をしているとするなら、O157が「米のとぎ汁乳酸菌」に混入して食中毒が発生する可能性は一体何%だと考えているのであろうか。また、片瀬氏のもとの記事で「その危険性は低線量被爆よりもずっと高い」とある。食中毒一般の危険性ならそうかもしれないが、「O157が混入して食中毒に感染する可能性」と比較するなら、私はそれさえ「ずっと」というほど有意な差はないのではないかとあえて疑問を呈したいくらいなのである*1


片瀬氏は別の件で11/29と11/30に次のようにツイートしている。

私はこの発言に同意する。私が問題にしているのは、「O157が米のとぎ汁乳酸菌に混入して食中毒が発生する可能性」は「ゼロではない」が、蓋然性はないという点である。もし片瀬氏がこの可能性が大きいと考えているとしたら、それは正しくないと考える。もし逆に、この場合は可能性がゼロではないという理由で例示することが正当化されるというのなら、そこにはそれなりの理由付けが必要である。その理由付けがなければ二重基準ということになってしまう。

私は、「O157が「米のとぎ汁乳酸菌」に混入して食中毒が発生する可能性」が低いことには同意が得られると思っていた。残念ながらそのようにはならなかったが、先に取り上げたほかの方々からのコメントの中にも、「米のとぎ汁乳酸菌」に全く効果がない以上、危険性の中で可能性が低くともインパクトが大きなものを提示する手法が正当化されるのではないかというものがあった。この点が何の留保もなく同意できるかどうかは微妙な問題であると私は考える。

いささか乱暴だが、例えば反原発を標榜する人にとって、原子力発電には何のメリットもないかもしれない。だから非常に可能性が低いがインパクトは甚大な原発事故の例示を使って原発を止めさせようと考えるかもしれない。しかしこのような議論は原子力発電にもそれなりのメリットがある人からしてみれば受け入れられない議論だし、そうした議論の仕方に反対するだろう。今回問題になっている「米のとぎ汁乳酸菌」に放射能を低減させる効果がなさそうなことは私も同意する。しかし効果があるかもしれないと思って実践しようとしている人に、可能性の低い「O157混入による食中毒の可能性」を説いても、おそらく伝わらないだろう。実際『「米のとぎ汁乳酸菌」信奉者を説得するのは糠に釘である。』というまとめを見ると、むしろO157の例を出すことよりも、家庭で作るぬか床との違いを丁寧に説明するといった方法の方が適切であったと言わざるを得ないのが実情なのではなかろうか*2

「全く効果がない」という結論や「害が出そうだから止めさせたい」という目的が仮に正しくても、議論の方法は慎重に検討する必要があると私は考えているし、そのことは本文や他の方へのコメントにも書いたので繰り返さない。

マウスにおける実験結果(その3)について

片瀬氏のコメントは次のようなものだった。

マウスなどの動物実験で効果が認められ、さらに一通りの毒性試験が動物レベルで行われ、問題が無いとされたものが、人での臨床試験に移行します。動物実験レベルで効果があったとされていても、人ではその8割以上が通用しません。(2000〜2008年の調査では、動物試験を一通りパスしたものが人の臨床試験でも成功する確率は18%でした)
◇医薬品開発の期間と費用:JPMA News Letter No.136(2010/03)
http://www.jpma-newsletter.net/PDF/2010_136_12.pdf
人で効果が確認されていることが必要です。また、人で調べられていないものは思わぬ副作用がでる可能性もあります。

私の返信は次のようなものだった。

コメントありがうございます。私が問題にしているのは、片瀬さんの「全面性・包括性」です。確かに製薬という点ではマウスによる効果だけでヒトでも必ず効果があるとかヒト用の薬が実用化できるとは限らないでしょう。しかしマウスによる実験結果というのは例えば片瀬さん自身が取り上げられている放射線の影響に関する評価書の中でも随所で取り上げられています。それがなぜかと言えば、(ヒトに影響があるということを確実に断定することが難しいとしても、)影響が出る可能性があると推定されるからではありませんか?またマウスで影響が出るメカニズムが解明されそれがヒトでも共通している系であれば、ヒトでも同じような影響が出る可能性は高くなるでしょう。片瀬さんの主張では、マウスによる実験結果からヒトに関して何かを推測する行為すべてが否定されてしまっているということを問題にしているのです。

片瀬氏のコメントは「製薬」という視点からのものであるように見える。しかし、私が指摘しているのは、片瀬氏の議論の中には必ずしも「製薬」だけにとどまらない全面的・包括的主張が含まれているのではないかということだった。「マウスでもある程度普遍的なことを言えるのではないか?というのは、甘いですねぇ。実際を知らないからなんでしょう。」という発言を私はかなり問題視している。あえて言えば、18%という数字はこうした全面的・包括的主張をするための数字としてはかなり高すぎると感じる。


(その3)で取り上げたNearMetterにあるMicheletto_Dさんとのやり取りを見ると、Micheletto_D氏の発言には、

「癌幹細胞は低線量放射線によりAkt→CHK1/2経路で修復系が活性化されて放射線耐性が亢進しますよね?これをホルミシスの本体とは考えませんけど、同様な修復系の活性化はホルミシスの説明の一つかもしれません」
「僕は、マウスでもある程度普遍的なことを言えるのではないか?と思っています。できないこともありますけど。老化とか他沢山。で、低線量のしきい値を示すのにある遺伝子の機能に注目してその存在を示すことは有用だと思います。」

というようなものがある。これは、メカニズムベースの議論で、「マウスとヒトに共通する系」を取り上げて議論しようという試みであるように私には思われた。私はMicheletto_D氏の議論が正しいかどうかを判断できるだけの知見をもっているわけではない。しかし、共通性で議論しようとする相手に対して、

「マウスでの研究がそのまま人に応用できないのは周知の事実です。放射線の低線量被曝で問題になるのは、被曝後10年とかのオーダーでの発癌だったりするので、寿命が3年くらいしかないネズミではそこまでの検討は無理ですよ。」
「あくまでもマウスの結果ですよね。意味は無いとは思いませんが、実際の人での放射線防御に適用するのは一足飛びですし、プリミティブ過ぎます。学問的な興味とは別の話ですよ。」
「マウスでもある程度普遍的なことを言えるのではないか?というのは、甘いですねぇ。実際を知らないからなんでしょう。」

といった概括的な議論をするのは不適切だと考える。少なくともそのような議論の仕方が「研究者」目線の議論であるとは思えない。

福岡伸一プリオン説はほんとうか─たんぱく質病原体説をめぐるミステリー─』*3のp.47-49にかけて羊のスクレイピー病の研究における実験用マウスの活用に関する記述がある。

1960年代の初めにディック・チャンドラーという研究者がスクレイピーにかかった羊の脳をマウスに注射する実験を行った。マウスは数ヶ月後痙攣や歩行困難などの症状を呈した。またそのマウスの脳を健康なマウスに注射すると病気が移ることがわかった。その後、キンバリーとディキンソンという研究者が、スクレイピーにかかった羊の脳をたくさん集めてきてマウスに注射してみた結果、潜伏期間が5ヶ月から1年と様々で、冒される脳の部位や沈着物が異なっていることを発見し、スクレイピー病にも多様な変異株があることを突き止めた。

というくだりである。ヒトの場合の潜伏期間は数年から十数年と長い。ここでマウスの寿命は3年で、ヒトでの発症は数年から十数年のオーダーなのでマウスによる実験結果でそこまでの検討は無理だと断定してよいだろうか。マウスとヒトでは生体維持機構や代謝機構が違っている部分もあるのでヒトにも影響があるとはいえないと断定できるだろうか。この実験を健康なヒトに対して行うということは許されない以上、マウスでpositiveな結果が出ているのならばヒトにおいてもpositiveな結果が出る可能性をそれなりに疑ってみる必要はあるはずだ*4

マウスによる実験結果は必ずしも製薬だけに利用されるのではない。自然科学の様々な局面でマウスにおける実験結果は重要な役割を果たしている。片瀬氏の主張は、何か具体的な事例についてのみ述べられているものなのか、一般的なマウスによる実験に対して述べられているのか判然としない部分が多く、「マウスで効果が確かめられたある具体的な健康食品がヒトにとっても有益かどうかはわからない」というレベルのものから、「低線量被爆に関するヒトへの影響はマウスでは調べられない」とか「マウスでは、『ある程度普遍的なことを言う』ことさえ無理だ」というようなレベルの主張まで見受けられる。

マウスによる効果を宣伝する商品に対して、「マウスはマウス、ヒトはヒト。マウスとヒトは違うからヒトでの効果なんてわからない」と批判することは非常に容易い。しかしマウスによる知見はヒトに対する知見を予測するために幅広く用いられている以上、その健康食品に対して、マウスとヒトの相違性だけを持ち出して否定しようとしてもそれには無理があると私は考える。むしろマウスにおける効果をうたっている論文の内容を検証することによって、ヒトへの効果を棄却する方が決定的ではなかろうか。マウスではないが、例えばアップルペクチンの論文では、何がセシウムの排泄を促進したのかということに対して有力な仮説が立てられ、アップルペクチンの効果によるものではないことやそれを利用した製薬が難しいことがかなりの確証をもって明言できるのではないかと私は考える。そうした事実を積み上げる方が、片瀬氏のしている雑駁で全面的・包括的な断定よりも余程決定的であると私には感じられる。

植物における環境適応(その4)について

片瀬氏からのコメントは次のようなものだった。

色々と反論を書かれていますが、私のいくつかの解説は植物を観察する時の注意点です。
原発事故の影響により、奇形の動植物が増えたかどうかの判断は、事故前と事故後で、観察される動植物の奇形が「実際に増えたかどうか」の比較が必要です。
当然、事故前後での状況の比較をして、それが確認されてから主張できることです。この事が最も大切であり、これについてもきちんと書いてあります。

私の返信は次のようなものだった。

コメントありがとうございます。この記事で述べていることは、厳密には片瀬さんの書かれたことに対する「反論」ではありません。
そもそも今目の前に「異常な状態であるかのように見える植物」があるとき、以前の様子を思い出せといってもそもそも思い出せないかもしれないし具体的に観察もしていないかもしれないわけです。すると以前の様子を思い出そうにもそうはいかないことの方が多いと感じます。そうした状況のとき、目の前のその「異常な状態にある植物」の形を良く観察してみた上で、その原因を推察するとき、その中で最も「蓋然性の高い原因」は何かと考えてみると、それは片瀬さんのおっしゃるような「環境適応」や「先祖返り」ではないのではないかということが私の主張していることです。もっとも蓋然性が高いと推定されることについて何も書かないのがバランスを失しているのではないかというわけです。

私は「実際に増えたかどうか」の比較は意味がないと主張しているわけではない。私がもとの記事で指摘したのは、目の前にある「異常な状態にあるように見える植物」を観察した場合、考えられる可能性の高い要因が十分に列挙されていない/誤解を与えるのではないかということだった。片瀬氏が挙げている「環境適応」は、目の前にある「異常な状態にあるように見える植物」として考えられる原因の一部に過ぎず、「先祖返り」は放射線による遺伝的変異の可能性もあり、そうでない可能性もある。目の前に「異常な状態にあるように見える植物」が現にある人に対して、「植物は形を変えやすいですから、頻度を比較しましょう」と主張した場合、仮に「頻度を比較しましょう」という主張が正しくても、「植物は形を変えやすいですから」という理由に蓋然性がなければその推論は不適切だと言わざるを得ない。放射線による遺伝的変異を疑う前に他に疑うべき可能性がたくさんありますよというのなら、可能性の高い要因を落としてしまった形の例示は適切ではないのではないかと疑問を呈しているのである。

2011.12.15追記:例えば、「それは奇形じゃなく病気です」にあるような指摘やこの記事にリンクされている「診断に役立つ 埼玉の農作物病害写真集」浜口農園さんの「病虫害」のページといった情報源を押さえておくことで、病害虫が原因になっている可能性も指摘できたのではないかと考えるが、片瀬氏の文章にそうした記述はない。


片瀬氏は、11/28に

植物が形を変えるのは放射線の影響だけではない可能性を指摘して、実際に原発事故の前後である事象の発生頻度に変化があるかどうかを確認するのが大事という話の流れでの説明なのに。本質的なものではない所で難癖つけられても、困りますよね。

と述べている。これはO157のところでも述べた観点だが、「可能性の指摘」に蓋然性という基準が伴っていることが大切だと私は考える。可能性がゼロではないという理由だけで例示として取り上げることが不適切であることは片瀬氏も述べていたのではなかっただろうか。「金魚椿」については「先祖返り」である可能性が強く疑われるので「先祖返り」という可能性を指摘することは正当だと考える。しかし、「異常な状態にあるように見える植物」を観察するという一般的な視点で議論する場合には、もっと蓋然性を検討しなければならないと私は考える。

そして片瀬氏の応答にから生じた第二の問題点は、「発生頻度を比較する」という行動が可能かどうかという点だ。あえて言えば「過去のデータ」を持っていない人に、「過去のデータと発生頻度を比較しましょう」と主張して一体どいういう意味があるだろうか。その主張は「過去のデータ」を持っている人にしか有効ではないのは自明である。「発生頻度」の比較は大切だが、それが常に可能というわけではないし、またかなり難しい可能性がすぐに想定される以上、片瀬氏の議論はかなり不十分であり、誤解を招くのではないかというのが私の考えである。

リンゴペクチンに関する論文検証(その5)について

片瀬氏のコメントは次のようなものだった。

論文は「第三者が検証できる」様に、必要な情報が漏れなく記載されていることが必要です。これは、論文を書く時に必ず学ぶ基本的なことです。必要な情報が漏れているという時点で、その研究者の科学的な修行が足りないor態度がいい加減だと見なされ、その論文の質というものはほぼ決まったようなものです。
三者の検証を阻むような情報隠しがあれば、さらに悪質です。私が結果についても一応吟味したのは、親切からです。この論文がまともに専門家の間で扱われないのは、当然であり、この点が改善され無い限り基本的な問題は解消しません。

私の返信は次のようなものだった。

コメントありがとうございます。この論文がまともに扱われないのは、「必要な情報が漏れなく記載」されていないからではなく、Vitapectに混ざっているアップルペクチン以外成分についての考察が欠けているために、アップルペクチンの効果が証明できていないからではないでしょうか?
私は専門家ではないので上で私が書いたコメントのすべてが正しいかどうかはわかりませんが、結局片瀬さんは「Vitapectに含まれるカリウムの効果」についての検証については何もコメントして頂けないのでしょうか。少なくとも私が上で書いたことの方が片瀬さんが指摘した問題点よりよほどメジャーなコメントなのではないかと考えます。

片瀬氏のコメントは片瀬氏の記事の内容を踏襲したものだったように思う。単に論文の不備を指摘するというだけなら片瀬氏の指摘が間違っているわけではない。しかし、私はそれらの根拠だけで論文で指摘されている有意な差を棄却できないのではないかと述べたが、そうした疑問に関する応答はない。

あえて率直に言えば、この論文に書かれたデータを見て、どうせアップルペクチンに効果があるはずがないのだから、執筆者が意図的にデータを隠しているのではないかとか、記載しているデータに不備があるじゃないかとか批判することしかできないとしたら、それは目が曇っているとさえ思う。もう自然科学者としてのもっともプリミティブな好奇心を失ってしまっているのではないかとさえ思う。それほどにこのデータで出ている差は決定的であるように見える。

そういうとき、そもそも研究者が論文を検証する際に取るべき態度としては、瑣末な記載の不備をあげつらうのではなく、可能な限り問題点を洗い出し、執筆者が立てた仮説や推論が適切かどうかを吟味するべきだろう。しかも片瀬氏の発言は、もとの記事よりもエスカレートして、論文執筆者が「科学的な修行が足りないor態度がいい加減だ」と批判しているのである。その論文の信頼性はもとより論文執筆者の資質を議論するならなおさら精密に内容を分析しなくてはならないと考える。

「あの論文は、どうせやるのでしたらもっと上手い方法も選択できたのにと思います。ブラッシュアップするにはどうしたら良いのかという提案も解決法として付けました。もうちょっと工夫すれば、きちんと効果が証明できて信頼性も上がった可能性があると思います。」

というコメントを問題視していることも強調した。片瀬氏は「基本的な問題は解消しません」とコメントしているが、片瀬氏は上のコメントで、「効果が証明できて信頼性も上がった可能性」に言及してしまっている。

私が指摘しているのは、片瀬氏が指摘した問題点を修正しても、「この論文がアップルペクチンの効果を証明しているか」という本質的な問題は解消しないということである。片瀬氏が付録で書いていたのは「重大な不備がある」ということであった。論文で述べられている中心的仮説を棄却するのに、データ記載の不備や従来の知見との整合性だけでは不十分だというのが私の疑問だった。もしそれらだけが問題なら、私はとても「重大な不備」とは書けないし、そのことだけで論文執筆者が「科学的な修行が足りないor態度がいい加減だ」と批判することはできない。

片瀬氏の論文検証について、あえていくつか改善点を指摘するとすれば次のようなものは直ちに考えられる。

  • アップルペクチンの効果を証明するためには、アップルペクチンが含まれているか否かしか違いのない食事を与えるという対照実験をデザインしなければならない。この実験で与えられたVitapectにはアップルペクチン以外の成分が含まれているので、対照実験の取り方が十分だとはいえないと指摘する*5
  • セシウムの排出に関する「従来の知見」を形成するに至った論文をいくつか取り上げて、片瀬氏の指摘する視点(実験年月日・計測手法・統計手法・体重データ)が十分に記述されていることを明示する。
  • セシウムは尿と便を通じて排泄されるので、21日間の排泄物の重量などのデータやセシウムが含まれている量などのデータを取る方が、被験者の健康状態やセシウム排泄の正確な値が得られる可能性を指摘する。

もうひとつ片瀬氏のコメントに対する問題点を指摘したい。それは、「第三者の検証を阻むような情報隠しがあれば、さらに悪質です。」というコメントだ。片瀬氏は結局のところこの論文に「情報隠し」があると疑っているのだろうか。私は、疫学調査における「従来の知見との整合性」は、例えば物理学における理論との整合性などとはその厳密性に違いがあるのではないかと述べていた。単に従来の知見と差異があるというだけで、「情報隠し」を疑うのは行き過ぎであると私は考える。「科学的な修行が足りないor態度がいい加減だ」と糾弾し、「悪質な情報隠し」を疑うような底意を持ちながら、この論文検証記事を「一般に向けた論文の読み方のポイントの解説です」と述べてしまうのでは、私は公平性や誠実さについて疑念を抱かざるを得ないのである。

この論文は専門家の間でまともに扱われないのは、「Vitapectがセシウムの排出を促進した理由はカリウムである可能性が強く疑われる一方、ヒトにはカリウムを過剰に投与することは難しいために放射線防護には役に立たない可能性が高いから」だと言う以外にない。またそう指摘すれば、条件記載の不備を指摘したり、「情報隠し」を疑うまでもなくこの論文の価値は自ずから明らかになるはずであろう。

議論の姿勢(その6)について

内田氏に対する発言についてはいろいろな取り上げ方をされたし、片瀬氏から謝罪の意思が示されているのでここでは取り上げない*6。それ以外の部分に対するコメントは次のようなものだった。

その他、こちらで挙げられていることは、一方的な視点からの私への偏見とも感じます。人格への攻撃に対しては、応じる気はありません。私への評価は、世間一般の方々がどう見て下さるか、それによると思います。

私は次のように返信した。

私は片瀬さんの「人格」を攻撃したつもりはありません。片瀬さんのなさった発言をなるべく正確に引用したつもりですし、片瀬さんの議論に問題があると感じた点は、その1からその5でも丁寧に述べたつもりです。

私は片瀬氏の議論の仕方や発言がエスカレートしている点を批判した。その論点に問題があるのなら反論すればよいだけだと私は考える。また、論文検証に対する姿勢や論証の質の問題は、「世間一般」の評価とはかなり独立なものである側面が強いと私は考えている。どれだけ世間が評価しても拙い論証は拙い論証であり、少なくとも自然科学はそうした「多数決」ではないことに片瀬氏も同意するだろう。

ここまでで取り上げてきた片瀬氏のコメントの中にも、私はいささか議論の姿勢に問題があると感じられる点がある。

  • O157に関する点では、「大腸菌O157も同様です。」とか「食中毒に関わる菌は、常にそこら辺に潜んでいてもおかしくないのです。」というコメントがあった。私はO157という具体例を論じている。それ以外の大腸菌を挙げたり、食中毒菌一般について述べるような書き方では論旨がずれていると考える。
  • 論文検証では「第三者の検証を阻むような情報隠し」に言及している。しかしこの論文についてそのような情報隠しがある可能性については片瀬氏の検証記事でも述べられていなかった。当該論文とは別の倫理的問題を取り上げるのは論旨がずれていると考える。

上でいくつか指摘したように「可能性の大小」の問題もある。可能性がゼロではないというだけで例示することが問題であるかのうような発言をしているにも関わらず、片瀬氏の議論には、「可能性がある」というレベルにとどまっている指摘が非常に多い。

  • 「寿命が約3年しかないマウスと寿命が80年以上の人では生体維持機構が異なっている可能性がある」
  • 「先の金魚椿は、以前も同じように変形した葉が現れていたのだが、気象条件の違いなどにより、その頻度が今年(2011年)のほうが多めで目についたという可能性もある。」
  • 「論文には記載されていないセシウム代謝に関わる様な何か別の要因が関与している可能性もあります。」
  • 「もうちょっと工夫すれば、きちんと効果が証明できて信頼性も上がった可能性がある」
  • 「食中毒に関わる菌は、常にそこら辺に潜んでいてもおかしくないのです。」
  • 「植物が形を変えるのは放射線の影響だけではない可能性」

といった記述や発言である。これらの記述や発言にどれだけ蓋然性の検討がされているのかを私は問題視しているわけである。

*1:この片瀬氏の記述は具体的な数値を伴わない極めて形容詞的な書きぶりであることも問題であると考える。

*2:私は、腐敗と発酵の違いを自分の言葉で明確に説明する能力はないので、ぬか床とおんなじで別に危険はないでしょうと言われたときに、適切な反論はできないだろう。私は発酵食品の仕組みを簡単に解説してもらう中で単なる腐敗菌の増殖と発酵食品の違いを明確化してくれるほうがよほど役に立つと考える。

*3:私は福岡氏には生物学に関する話題を読ませる文体で書くという優れた能力があると感じている。しかし、福岡氏の主張や学問的な立場についてはいささか留保を付けざるを得ないとも考えている。それらを言語化する能力は今のところ私にはないが、ここで引用しているのは過去のBSE研究史の福岡氏によるまとめの部分である。

*4:しかし実際にはこうした観点はうまくすくいあげられずにヒトへの感染という事態に進行してしまった。マウスでpositiveでもヒトではnegativeな場合もあるだろうし、狂牛病のヒトへの感染のようにヒトでもpositiveな場合もある。自然科学における研究やその社会的な影響は非常に難しい問題を孕んでいる。だからこそ私は個々で取り上げているマウスに関する片瀬氏の議論はいささかナイーブ過ぎると感じており、いたずらに振りかざすべきではないと考える。もっと論証は個別的であるべきで、全面的・包括的記述には相当の慎重さを持ってのぞむべきだと考えている。

*5:片瀬氏の論文検証記事は前半で対照実験の取り方についてかなり字数を割いて述べているのである。この指摘は欠かせないと私は考える。

*6:しかし一言述べておきたいのは、fab4wings氏のように「年齢他により面接さえも受けれない差別的状況」とか「実質差別を受けてるのは片瀬氏の方」とか「社会構造的な実質的差別は片瀬氏が受けていて」などと、あの記述だけから断定することには無理があると考えるし、またそこのことだけを根拠に片瀬氏の発言をたまたま行過ぎた愚痴であったと擁護することはできないと私は考えている。

片瀬久美子氏の付録への疑問-いくつかのコメントへの御礼と応答-

ツイッターはてなダイアリーなどでいくつか今回の記事に対するコメントをいただいたので、目に付いた範囲でいくつかの記事やコメントに御礼を述べ、私の視点についてさらに補足する形で応答させていただきたい。「である調」で記事を書いてきたので、ここでもそれで統一することをご容赦いただきたい。

椿の奇形と不安の種とを執筆したアサイ@poplacia氏がツイッター上でコメントしてくださった。

アサイ@poplacia氏に感謝したい。
アサイ@poplacia氏のコメントには、いくつかの観点があると思うが、ここでは、このツイート
「例として挙げている(挙げていない)ことに対して「わずかな助けにしかならない」とまで読み取るのは大仰ではないかな、とは感じました。」
について弁明しておきたい。私の書き方が大仰であると感じられる向きは確かにあるかもしれない。
しかし、私が「わずかな助けにしかならない」と書いたのは主として次の2つの観点からのものだった。


ひとつは、蓋然性の問題である。もちろん私は専門家ではないので確実なことは言えないが、その前提で言うと、目の前にある「異常な状態であるように見える植物」の原因として考えられる可能性の中で最も可能性が高いものは何かということである。私は「環境適応」や「先祖返り」といった可能性がないと主張しているわけではないし、金魚椿の場合には「先祖返り」が疑われるということであろう。しかし、「これは放射線によって引き起こされた奇形植物ではないか」として報告されているいろいろな事例を見てみると、実際に疑われる要因としてまず第一に掲げるべきなのは、病害虫やウィルス・細菌の感染・薬剤などではないかということである。私は、片瀬氏の文章の中に、最も蓋然性が高いと想定される原因が挙げられていないために、目の前の「異常な状態であるように見える植物」の形態を理解するための手がかりとして重要な事例が欠けていると考えた。


もうひとつは、「過去との比較」が有用であると考えにくいと感じているということである。確かに、「異常な状態であるように見える植物」がこれまでにもあったのか、それとも最近おきた出来事なのかということを把握することは、その植物の状態を理解する上で大切である。しかし、そもそも目の前に「異常な状態であるように見える植物」を発見してしまった普通の人は、以前から植物を良く観察していた人ではないことのほうが多いように思う。福島の事故後に注意を向けた人がほとんどだと思えるのだ。だとすると、そもそも過去のデータと比較しようとしても、もともとそういうデータがその人に蓄積されていないことになってしまう。そうであるとすると、いくら「過去と比較しなければわかりません。こういう可能性もありますよ。」と言われても、その人にとって目の前の「異常な状態にあるように見える植物」を理解する手助けにはならないのではないかと考えた。(この視点は、本文にはあまり正確に述べなかったが、片瀬氏の応答に対して返信した。)だとすれば、むしろ目の前にある植物の形態を良く観察してみることから始めるしかないと考える。


念のため誤解されないようにしたいのだが、私は放射線による遺伝子変異を取り上げていないことを批判しているのではない。まず目の前の「異常な状態にあるような植物」を理解するために、蓋然性のある原因を列挙し、その原因を推定するためのいくつかの判断材料を提供することの方が、「過去と比較せよ」ということよりもよほど有用であると私は考えている。仮にそこまではスペースがないとしても、最も可能性が高いと考えられる原因への言及は不可欠だと考える。片瀬氏の議論で「放射線による変異」が触れられていないことを問題視しているのではなく、「病害虫やウィルス・細菌の感染・薬剤」といった蓋然性のある原因が取り上げられていないことを問題視しているのである。また放射線で起きている可能性がある現象とそうでない現象が混在しているという書き方に問題があると考えていることも付け加えておきたい。


私は「為にする議論」をしているという認識はないが、書きぶりがいささか執拗すぎるというご指摘は他の方からも頂いている。アサイ@poplacia氏からもそのようなご指摘があるとすれば、それは甘受しなければならないことだと考えている。



next49さんがコメント記事を書いてくださった。

丁寧に読んでいただいたことにまず感謝したい。またnext49さんのまとめ方は(私のようにややもすると冗長になる書き方と比べて)端的に私の議論を要約しnext49さんの問題だと感じる点が列挙されていた。その労に感謝したい。


ただ、私としては、私が最も述べたかった趣旨であるところの「蓋然性」「重要性」そして「全面性」という3つの論点について、
十分に伝わっていないのではないかと感じた。next49さんの記事に即して私の論点を補足させていただきたい。

O157に関する記述(その2)

私が第一に問題にしているのは、「米のとぎ汁乳酸菌」に混入する可能性の高い食中毒菌は何かという「蓋然性」だった。
googleでの検索結果はO157の引き起こす食中毒のインパクトの大きさであって、蓋然性とは別の観点であると考える。
私は、「米のとぎ汁乳酸菌」にO157が混入する可能性もかなり低いと思うが、それを飲用したりする際にO157による食中毒を発症するというのはさらに可能性が低いと考えている。100個程度では発症しない菌やウィルスが混入し、それが増殖して発症するのに十分な個数になってしまうということは考えられる。しかし、100個程度で発症してしまうようなO157の場合には、それが家庭の台所に入り込んでしまうと、米のとぎ汁乳酸菌に混入して増殖してしまう前に、その家庭で感染がおきてしまうと考えるからだ。


しかし、片瀬氏はどうやらかなり蓋然性があると考えているように見えたので、それに疑問を呈した。
その応答としては、「蓋然性は低いが、万一のときのリスクは大きい」という返答がありえたと思うし、
next49氏も推測している通り、私もその答えになるのだろうと予想していた。
そういう場合を想定して、最後に第二の問題提起を書いた。
その趣旨は、「極めてありそうもないことでもその結果が重大だというだけで例示する方法」が正当化されうるかというものだった。
この手法は場合によっては片瀬氏が批判している人たちと同じ論法に陥る危険性もあるので、私は非常に慎重にしなければならないと考える。
しかし、もし片瀬氏が「極めてありそうもないことでもその結果が重大だというだけで例示する方法」を取ったと宣言し、
またそれで正しいと主張するのなら、私はそこはより慎重を期すべきだと述べつつも主観的判断の違いとして認めることもやぶさかではなかった。
しかし、片瀬氏がこの記事に対して寄せたコメントは、そうした私の問題提起には何ひとつ答えてくれなかったように思う。

マウスに関する記述(その3)

この記事で私が問題にしているのは、「マウスによる結果からヒトに関する効果について推測する」という行為に対する片瀬氏の「全面的・包括的」否定と受け取れる書き方だった。


next49氏の2つ目の論点の要約では、「マウスにおけるnegativeな結果だ出たとき、ヒトでもpositiveな結果が出るかもしれない」と考えることが効率などの観点で非現実的だと述べられている。その点はある程度私も同意する。ただ、片瀬氏の議論通りに考えると、「低線量被爆」に関しては、「マウスでnegativeでもヒトではpositiveになる可能性がある」と主張しているようにも読めることは指摘しておくべきかもしれない。


しかし他方、私の書き方がまずかったのかもしれない。私は、片瀬氏が次のような主張もしていると考えている。つまり「マウスにおけるpositiveな結果が出ているとき、ヒトでもpositiveな結果が出る可能性があると推論するのは間違っている」と。マウスとヒトとの差異が強調されすぎているために、私には片瀬氏がこの主張をかなり全面的に支持しているように私には見えた。私はそのことがかなり信じがたいと感じた。後のアップルペクチンの場合とも関係しているが、例えばマウスにカリウムの添加された食物を与えるとセシウムの排出が促進されるという結果が報告されている。私はこのことからヒトでもカリウムを摂取させることによりセシウムの排出を促進させる効果が期待されると結論することに問題があるとは思わない。他にも、放射線防御という観点に限ってみても、生態半減期の長い放射性物質をヒトに直接投与することにはかなり危険が伴うので、マウスによるpositiveな実験結果がいろいろ報告され、ヒトの場合の効果について参考にされているのだと考えられる。マウスによる実験結果については、必ずしも製薬に関する視点だけではないはずだが、私には片瀬氏の主張が、全面的かつ包括的であるように感じられたので疑問を呈したのである。


なお、「相対時間」による比較に関しては、そもそも片瀬氏自身にそのような視点はないように思われた。単なるスペース上の問題や文献を示すべきというレベルではないというのが私の意見である判断である。

環境適応について(その4)

上のアサイ@poplacia氏への応答の中でも述べたが、私は単なる可能性をいくつか列挙するだけではなく、もう少し普遍的に通用しうるレシピを書くほうが役立つと考えているが、少なくとも蓋然性のある要因は落とさずに書くべきだと考えている。私は放射線による変異の可能性が書かれていないことを問題視しているのではなく、片瀬氏の議論において、「病害虫やウィルス・細菌の感染・薬剤」といった蓋然性のある原因が取り上げられていないことを問題視している。

next49氏が最後に指摘している放射線に関する部分は、私の書き方がよくなかったかもしれない。私は、「目の前の異常な状態であるように見える植物」が放射線にある遺伝子変異であると決め付けないためにも、より蓋然性のある原因を落とすべきではないということを述べたかった。

論文検証について(その5)

これに関しては、next49氏の「論文に書いていないことを好意的に読んであげてはいけない」や「批判的に読む」ということに関する見解には異論がある。
いくつかの視点があると思う。


私はこの論文を見たとき、これだけの有意な差が出ていることに驚いた。そしてそれはなぜなのか考えた。確かに片瀬氏の指摘するような不備はある。しかし私が記事の中で考察したように、そのどの観点もこの「有意な差が出た」という事実を覆す根拠にはならないと考えた。それではこの論文は「アップルペクチンの効果を立証していることになるのか」と考えた。結論は本文中で述べたようにNoだった。カリウムが含まれていることが原因であるという蓋然性があり、しかもそれが論文中に記載されていないことが最も本質的であると考えた。


この論文を「批判的に読む」という場合には、「有意な差が出た」という「事実」が「アップルペクチンの効果である」ということを立証しているかという最も本質的な部分を吟味しなければならない。いろいろな問題点の中でこの論文の最も中心的な主張が、どの程度立証されているかを問うことこそが、研究者としての「批判的に論文を読む」ということだと私は考える。片瀬氏が一人の研究者として発言していると考えられる以上、この着眼がなければそれは「論文を検証した」とは言えないと私は考える。


そして同時に私は片瀬氏がこの実験において氏のあげた5つの観点をクリアすれば、効果が証明できると考えているという発言にも注目した。氏が「ビタペクト」の効果が証明できると言いたかったのか、それとも「アップルペクチン」の効果が証明できると言いたかったのか、私には判断がつかなかったが、こうした曖昧な言い方は、論文を批判的に読むこと、中心的主張がどのレベルで立証されているか、何が不足しているかを問う上で、片瀬氏にはかなり重要な見落としがあるのではないかという示唆であり、そこが問題だと考えた。


追記:next49氏が記事についてのコメント中のごんべえ氏とのやり取りで述べておられる「トリビアル」という用語の使い方が私にはよくわからなかったが、私の主張は、「片瀬氏の挙げた根拠で実験の信頼性を覆すのは困難である」という主張から始まっている。それは言い換えれば、片瀬氏の指摘した不備だけでは実験結果の信頼性には影響しないということに他ならない。

anond:20111128221627氏がコメント記事を書いてくださった。

コメントを頂いたことに感謝したい。


私は、片瀬氏が一人の研究者の立場から発言していると考えていたために、その発言の正確性や厳密性に問題があると感じてこれらの記事を書いた。
しかし、私の書き方がいささか執拗に過ぎるとのご指摘や、もう少し建設的なコメントの提示の仕方があったはずだとのご指摘は甘受させて頂きたいと思う。

片瀬久美子氏の付録への疑問-interlude-

ツイッター上でsalmo@invasivespeacie氏からツイッターでの発言にURLがないこと、時間的なことが不明であるという批判があったので、(その2)から(その6)までの中で片瀬氏の発言に関する部分を片瀬氏のツイログにリンクしてみた。buvery氏のツイートもリンクを張った。既にこれらには片瀬氏からのコメントをいただいているので、記事の編集はこうしたリンクの付加などの作業に留め、内容的な部分の変更はしないことにする。
追記:片瀬氏の対応を受け、(その6)の内田氏に対する部分は削除した。(2011.11.29.)


salmo@invasivespeacie氏からは「牽強付会」とのご批判もいただいた。そうした見方もあるのだろうとは思う。例えば片瀬氏自身の行動や片瀬氏の書いた付録には私が批判した点以外により多くの評価するべき点があると考える方からすれば、私の批判が本質的ではないと映るかもしれない。(その1)でも述べているように、私は片瀬氏のすべての言動が誤りであると主張したいわけではないし、すべての言動が批判されるべきものであると主張しているのでもない。


私自身さえ、片瀬氏が多くの資料とデータを調べてそれらを提供していること自体には評価に値すると考えている。


しかし、私が問題にしているのは、片瀬氏が提供しているデータそのものやデータを提供する行動自体ではなく、片瀬氏自身の言葉で語られた分析や論証において、「蓋然性」や「重要性」の判断が私とあまりにも大きくかけ離れていることだ。最も重要な点は漏らさずに書く。最も蓋然性のあることを漏らさずに書く。その観点から見ると、私が取り上げた片瀬氏の議論は、「蓋然性」を無視した単なる「可能性の列挙」であったり、最も重大であると考えるべきポイントに一切の言及がないというものである。私はそのことを問題にしている。
時間ができたときに、片瀬氏からのコメントを引用しながら各記事についてもう少し私の考え方を説明し、疑問点を明確にしたいと思っている。


(なおこの記事は随時加筆する可能性がある。)

片瀬久美子氏の付録への疑問(その6)-議論の姿勢について

4つの視点(O157・マウス・環境適応・アップルペクチンの論文検証)で片瀬氏の書いたものへの疑問点を列挙してきた。
今回は片瀬氏の議論の進め方や記述の仕方に関わる問題点について挙げてみたい。

内田麻理香氏に対する評価

ここでは片瀬氏のあるブログにおける発言を取り上げた。しかし、片瀬氏自身がこの発言について謝罪する意向を示しておられるようなので、この部分は削除することにした。(2011.11.29.変更)
しかしその後の片瀬氏のつぶやきなどを見ていると十分に問題点が認識されていないように感じられたので、再掲しておきたいと思う。(2012.1.30)
「片瀬久美子氏の付録への疑問─番外編&備忘録─」(2)も参照されたい。

まず片瀬氏には、悪質な代替療法のためになくなられた知人がいらっしゃるとのことだ。それが片瀬氏の行動の原点となっているとの発言がある。例えばこのツイート。
私はその想いを否定するつもりはない。しかし、そうだからといって次のような発言が看過されるとは思えない。

次の発言は、Chromeplated Rat2011.1.19の記事に対して片瀬氏が書いたコメントである。(色付け強調は私。)
同業のサイエンスライターであるところの内田麻理香氏を批判している*1

kasokenさんこと、内田麻理香さんのWEBRONZAの2月2日掲載の記事も読みました。
・「科学リテラシー」って本当にいるの? 
http://astand.asahi.com/magazine/wrscience/2011012800009.html 

この文章もとても歯切れが悪くて、
>「一般人にとって、科学リテラシーは必要か?」と改めて問われると、「無理してまで身につけることはないよね」とついつい思ってしまう。科学リテラシーを「責任ある市民としての必須事項」などとされてしまうことには、どうにも違和感を感じてしまう。

サイエンスコミュニケーターとしての悩みを書いているのだと思うのですが、どうも 「科学リテラシー」についての認識が甘い様に思えてしまいます。ニセ科学に基づいたホメオパシーなどのニセ療法に嵌ってしまわない様にするためにも、一般の人達だって「身を守る為に」科学リテラシーをある程度は身につけた方が良いと思うのですが、こういった視点に欠けているのではないかと危惧します。

ご自分の周囲に、ニセ科学・ニセ療法などの詐欺にあった被害者などがおらず、 そういった悲劇を実際に見聞きした事が無いが故の、人生の明るい面しかまだ知らない無邪気なお嬢さんという印象が、(辛口ですが)どうしても拭えません。

実は私、ポスドクを続けるか少し迷った時に(36歳で大学院に修士から進学したので、 博士を取得したのは41歳の時でした)、サイエンスコミュニケーターの募集に何件か応募してみましたが、いずれも書類選考で「40歳以上だと年齢が高すぎる。 新しい事を覚えるには大変だろうし、イベントで立ち仕事が多いし体力的に大変ではないか」というのが主な理由で立て続けに落とされました。面接すらして貰えずさっさと門前払いされちゃいました。

まあ、おばちゃん博士よりも若くて大衆受けが良さそうな女性の方が「サイエンスコミュニケーター」の適格者なのでしょうねぇ。しくしく。(笑)

冗談はさておき、現在の日本でのサイエンスコミュニケーターの仕事は、採用する人事側としては、「科学についての造詣が深くて」きちんと理解した上で分かり易く正しく一般の人達に科学を伝えて啓蒙する能力が高い人かどうかよりも、まだ未熟でも仕事をさせていくうちに覚えていくだろうしそれよりも「イベントを盛り上げられる華やかさ」のある人を中心に考えられているのかなぁとも思います。

私の方は、華やかではないけれど、地道にブログなどで科学に関する誤解を解いて正しく伝えたり、健康に悪影響を及ぼしそうなニセ情報(ニセ科学)を批判していくことを通して、彼女達とは別途、社会に貢献していきたいと思っています。

人それぞれに事情はあり、行動の原点はあるだろう。だからといってそれがすべて文章の表に出てくるわけではない。内田氏にも氏なりの想いや動機や主張はあるだろう。それが自分の想いや動機、主張と合わないからといって、相手を誹謗してよいわけではない。直前の「〜危惧します」で止めておくべきなのは明らかだと思う。
後段では、「「科学についての造詣が深くて」きちんと理解した上で分かり易く正しく一般の人達に科学を伝えて啓蒙する能力が高い人=片瀬氏」、「まだ未熟でも仕事をさせていくうちに覚えていくだろうしそれよりも「イベントを盛り上げられる華やかさ」のある人=内田氏」という対比に結びついていると読むのはごく自然な文脈であると感じられる。そうすると前段の発言が、単に主張の内容だけではなく、片瀬氏自身の就職活動に関係しており、能力があるはずの自分が採用されなかったことに対する妬みであると受け取られてしまう。実際の気持ちがどうであれ、そのような書きぶりはなおさら論外だといわざるを得ない。

自分の主張が正しいと思うならば、その為に他人をわざわざ誹謗中傷して貶めなくても、普通にちゃんと主張できるはずですよね。

述べる方の発言とは到底思えない。私は片瀬氏の発言には時としてこうした感情的な側面がほとばしる時があり、それは時として極めて不適切な物言いになっていると感じる。

アップルペクチンに関する論文検証の趣旨

片瀬氏の書いたアップルペクチンに関する論文検証に関して、片瀬氏とbuvery氏の間でやりとりがあった。
buvery氏が

「このペクチン論文は、この雑誌なら載せてよい論文です。引用ブログ記事みたいなことは、本質的でなく、マイナーコメントでしかない。」
「だから、これはマイナーコメントだと言っています。こんなことをメジャーコメントとして出してきたら、レビューアーの頭を疑って、エディターに文句をいいます。」

と述べている最中に、

「buveryさんはその論文をちゃんとしたものだと評価しておられますので、私の検証内容について同意できないのではないでしょうか?」
「Buveryさんが私の論文検証の意味を勘違いしているのでしょう。私は、ブログにも説明して書いてある様に、査読されて掲載された論文の中にもピンからキリまであり、その質の検証は必要だということの例として出したものです。論文を読む側の心得としてのものです。」
「まあ、何かおっしゃりたかったのでしょうね。」

などというコメントを別の人に対してしている。片瀬氏とbuvery氏の間には過去にもいろいろなやりとりがあったのだろうが、こういう形で批判を切り捨てるのは非常に問題があると思う。これはbuvery氏の方が(自分の極めて正当な論文評価を目にしてもなお)結論ありきで不当に駄々をこねているのだと誤解させかねない印象操作であると言われても仕方がないとさえ思える発言だ。もし私が、「片瀬氏は、アップルペクチンの効果を否定したいと考えているので、論文のマイナーな部分をあたかもそれが致命的な問題点であるかのように批判したいのでしょう。」などと書いたら、それは不当な印象操作になるはずなのと同様に。

私はbuvery氏の議論にも問題があると考えるが、少なくとも氏が片瀬氏のコメントをマイナーであると指摘している以上、マイナーではないという議論をしなければならないことは明白だ。ツイッター上では別の方(shanghai_ii氏)がbuvery氏と対話している。
記事を書いた当人であるところの片瀬氏自身がしなければならなかったコメントであり、指摘の内容も傾聴に値する。私自身が片瀬氏の批判がポイントを外していると考える根拠は(その5)で詳しく述べた。


ここでは上の発言の中の、「読む側の心得としてのもの」という部分について検討したい。
片瀬氏は

「私のブログであの検証例を出した目的は、論文を読んだ際に、出されている結論がどの程度信頼できるかということを、その記載内容から読者が見定めるポイントの解説です。最初からきちんと読んで頂けたらなと思います。」
「buveryさんの批判は、元々私が論文を読む際の一般的ポイントの具体例として出した検証についてです。私が書いているのは、論文として世に出されたものでも質はピンからキリまであり、その結論がどの程度信頼できるかをチェックする必要があるというものです。」
「私の検証例はリジェクトされるべきとの主張ではなく、一般に向けた論文の読み方のポイントの解説です。査読された論文でもピンからキリまであり、結論をそのまま信じるには注意が要るものがあるということ。」

ツイッターでコメントしている。
私は率直に言ってこのコメントを見て非常に驚いた。片瀬氏は論文検証記事の中で、当該論文を

「具体的な検証例を示します。」

と述べた上で、

「[不完全な論文]−例:アップルペクチン(ビタペクト)」

として紹介しているのだ。片瀬氏は、この論文を例にして何を「検証」したかったのだろうか。
「査読された論文にもピンからキリまである」ということだと主張したいのかもしれない。
しかし普通の読み方としては、「再現性が毀損されているために信頼性がない論文であること」ということではなかろうか。少なくとも私はそう感じた*2
それは「論文としての価値がないこと」に直結し、筆者達の誤りを指摘することに他ならない。
論文に信頼性がないと断定する以上、それは単に一般読者向けの解説には留まらず、片瀬氏自身が当該論文に対してnegativeな立場に立つということに他ならない。
(その立場を極論すれば、「自分がレフェリーならrejectするという意思表明である」と理解されてしまうのは致し方ないと私は考える。)

片瀬氏の論文検証記事の最初には「対照実験」の方法が書かれている。結果として当該論文は対照実験の方法に問題がなかったと片瀬氏自身が述べている以上、この対照実験に関する記述は論文の検証とは無関係だ*3
その後、かなり唐突に

さらに、その研究の検証のポイントとしては、他の従来の知見との整合性がとれるかという事も挙げられます。従来の知見と大きく異なる結果や結論が出された場合は、特に慎重に検討する必要があります。

という「整合性」の問題が取り上げられ、(太字強調は片瀬氏。青字強調は私。)

科学研究を行った後は論文などの形にして報告をしますが、別の人がそれを読んで、その実験などをきちんと再現して確認できるように、どの様に条件を整えて、どの様な方法でデータをとり、どの様にして解析したかなどについて詳しく書くことが求められます。これがきちんと書けているものほど信頼性が高くなります。他の人達がその論文を読んで再現実験を行い、同じ結果が出て再現性が確かめられたらその研究の信頼性はさらに上がります。

という「再現性」の話が出てくる。(太字および赤字強調は片瀬氏。)
そしてそのあとに

査読された論文の中にもピンからキリまである

という話が出てくる構成になっている。
この議論の進め方を見て、検証したかったのは「査読された論文の中にもピンからキリまである」ということだったと主張するのは無理があるのではなかろうか。
片瀬氏自身が「その研究の検証のポイント」として「従来の知見との整合性」を挙げているように、また、当該記事のタイトルも「科学研究の組み立て方─アップルペクチン(ビタペクト)論文の検証付き」であることから考えても、片瀬氏が検証しようとしているのは、当該論文が拙い「組み立て方」をした科学研究であることだと読むのは当然ではなかろうか。「一般に向けた論文の読み方のポイントの解説」と読むのは難しい。

おまけに「一般に向けた論文の読み方のポイントの解説」であるという趣旨の文章が果たしてあの記事の中に書かれていたのだろうか。
「最初からきちんと読んで頂けたらなと思います。」と言われても、残念ながら私にはそのような文章を見つけることが出来なかった。私にはこの書き方は後出しであるように思えてしまった。
もしそういう趣旨で書きたいと考えるなら明確にそのことを宣言する文章を入れておくべきだったと考える。

「もうダマされないための...」における書きぶり(これはある意味マイナーコメントである。)

  • 「耳なしウサギは世界各国で生まれていることが報告されている。」
  • (その4)で指摘した先祖返りに関する記述
  • 「実際に広島・長崎の被曝二世、三世でも先天性障害を持つ子供の割合は被爆しなかった人たちの子孫に比べて増えていない。」
  • 成人T細胞白血病ウィルスの偏在

といった部分には文献を本文の中に示す必要があると感じられた。

  • 「寿命が約3年しかないマウスと寿命が80年以上の人では生体維持機構が異なっている可能性があるし、実際に人とは代謝機構などが少し違っていたりする」
  • (その4)で指摘した植物の奇形に関する議論

などの部分では、提示されている別の可能性が非常に大雑把過ぎると思う。
こうした記述以外にも、単に雑駁な可能性の提示に留まらない、ありうる可能性をもっと緻密に列挙するべきだと考える。またそうした方が感情的な反発に晒されることも減るのではないかと思えてならない。

  • 「この人物の来歴もかなり怪しい」

という部分には他に何も根拠が示されていない。匿名だからこのような書きぶりが許されるというわけではないと思う。批判したければ本文の中にもっと正確な記述を入れるべきだし、それを避けるなら対照実験が行われていないことを指摘するのにとどめるべきだ。

  • 「ところで、1200℃でも死なない脅威の生命力というのが本当ならば、EM菌をどうやって殺菌しているのであろうか?」

仮に1200℃でも死なない細菌がいると仮定すると*4、製造方法に現れる「殺菌」とは、その菌以外の雑菌を殺害することに他ならず合理的であると考えられる。片瀬氏のこの記述は本来不要ではないか。

そのほかに目に付いた議論の姿勢に関すること

「科学は信仰するもの」という科学者って、いったい誰のことなのかしら?の中で、aohmusi氏と「科学」のもつ性質について議論になっている。

「科学は信仰するもの」という科学者って、いったい誰のことなのかしら?

という片瀬氏のツイートに対して、
「「世界は唯物論的である」と信じているという意味では進行とも言えるのでは?」
というaohmus氏のコメントが入る。そこから「科学の定義」に関して議論が紛糾するのだが、
あとになって片瀬氏は、

唯物論」は価値観であって、科学的手法とは別問題です。

と述べ、「では唯物論を用いずに科学を論じてください」というaohmus氏の返答に対し、

「「唯物論」を出されたのはそちらです。私としては、それを持ち出された時点で「?」でした。」

と返答したり

「たぶん「科学」という名の「別の物」を見ておられるのだろう。」
「 あなたとは、「科学」として捉えているものが異なる様ですね。前提が異なっているので議論が成立しそうにありません。私の実践している「科学」は、あのTogetterで解説されている「科学」であり、あなたの想定する何か別の科学ではないと思います。」
「「唯物論」と「科学的再現性」は別物だと捉えていますが、あなたのお考えでは同一視できる概念なのですね。視点が全く異なっているのでやはり議論として噛み合わないのは無理はないと思います。」
「「科学の現場」をよく知らずに、「想像」だけから論じられる「科学」はどうしても実像とズレていてピンとこない。」
「あなたとは議論が成立する見込みがないので、これ以上続ける気はありません。あまりに「科学」に関する認識が解離しておりますので。現場の科学者の感覚とは全く違う「科学?」を論じられてもそのお考えにはついて行けません。」

と批判している。
この議論で問題提起されているのは、「『自然科学という営み』が、ある程度無条件で前提としているような考え方があるのではないか」というものだったはずである。例えば非常に素朴な意味での帰納的推論の妥当性は、自然科学者誰しも疑わないだろう。「あるとき例外が現れる可能性があるかもしれないが、これだけ多くの事例で観察されている現象ならおおむね普遍的に正しそうだろう」というような感覚である。もう少しそういった素朴な感覚の話をしてもよかったはずだ。「唯物論」を出された意味がわからないなら最初にそう返答するべきだった。片瀬氏は「科学の現場」から乖離した「科学哲学」というものに不信感があるのではないかと推測する。議論の相手であるaohmus氏がそうした立場であると解釈した(穿った見方をすると決め付けた)ために、相手を現場を知らない人間と断定して議論することをそのものを放棄しているように見える*5

Micheletto_D氏とのやりとりの最後に、「学生君から、あなたは不勉強だと言われた。ああ、そうですか。」などと吐き捨てるのも頂けない。

「直感」や「感情」だけに頼るのも危険だと思うけれど…。

とツイートしておきながら、時として感情がほとばしって不適切な言い方になってしまうところに問題があると思う。

片瀬氏はおそらく自分の「科学についての造詣」や「研究者としての業績*6」、「分かり易く正しく一般の人達に科学を伝えて啓蒙する能力」を自負しておられるのだと感じる。そのこと自体を批判したいわけではない。
しかし、私が片瀬氏の書いた記事や本、ネット上での発言を読んで感じた印象のひとつは、「議論や批判のポイントが時としてズレていたり、ゆるかったりするのではないか」ということだった。
片瀬氏がどういう出自や経歴や業績をもっているかとか、どれだけ文献や知識に精通しているかはともかくとして、そのアウトプットが精密さを欠いていたら元も子もない。残念ながら私は片瀬氏の学問的な部分の議論にいまいち信用が置けないと感じている。もう少し緻密な議論を期待したいとあえて述べさせていただきたい。

(とりあえず6回分書いたので、さしあたってはここで幕ということにしたいと思う。)

*1:ちなみに私は内田氏の著書を1冊だけ読んだことがあるが、決して好感できる内容ではなかった。しかしここではそれについて書くつもりはない。

*2:直前に一流誌でも「捏造論文」があるという記述もあり、こうした書き方をすると当該論文の不完全なデータは捏造の可能性があると主張しているのではないか、とさえ誤解されそうだと考える。

*3:こういう書き方では何がポイントなのか不明瞭になる危険性が高くなると考えられるため、私はあまり賛同できない。

*4:この仮定は正しくなさそうだが、そのことと上の記述が合理的かどうかとは別の問題だ。

*5:「前提が異なっている」「視点が全く異なっている」「「科学」に関する認識が乖離している」ということは議論を避ける理由にはならない。そもそも認識の同じ人とは議論にならない。相違があるからこそ議論によって何かを得られる可能性があるのだ。(何も得られない可能性ももちろんある。しかしそういう徒労感を避けたいならはじめからやり取りに参加しなければいいだけのことだ。既に十分やりとりをしてしまっているのに上にあるような言い方をするのは相手にも失礼だろう。)

*6:「同業者(理学系生物分野の研究者)」と書くということは、片瀬氏自身は自分は研究者であるという認識なのだと推測している。

片瀬久美子氏の付録への疑問(その5)-リンゴペクチンに関する論文検証について

リンゴペクチンに関する論文の「重大な不備」とは何か?

リンゴペクチンについて片瀬氏は、シノドスの記事の中で次のように批判している。

林檎ペクチン放射性物質を排出させるとして宣伝されているが、それに関する効果を確認したという研究報告を調べてみると、いずれにも重要な不備があり、実際にはその効果は期待薄である。

◇IRSN(フランス放射線防護原子力安全研究所)−Evaluation of the use of pectin in children living in regions contaminated by caesium 
http://www.irsn.fr/EN/news/Documents/pectin_report.pdf

本「もうダマされない....」の中では

林檎ペクチン放射性物質を排出させるとして宣伝されている。しかし、それに関して効果があったとする研究報告を一通り調べてみたが、いずれにも重要な不備があり、きちんとした証明には至っておらず、効果はあまり期待できないのが実情である。
参考
IRSN(フランス放射線防護原子力安全研究所)−Evaluation of the use of pectin in children living in regions contaminated by caesium 
http://www.irsn.fr/EN/news/Documents/pectin_report.pdf

としている。

この記述でよくわからないのは、「重要な不備」がどういうものなのかという点である。「重要な不備」というなら端的に指摘できるのではないかと思った。とりあえずすぐにIRSNの英文を読むのはつらいので、
松永氏の記事を見てみると、IRSNの報告書で「実験設計がおかしく、説明されるべきことが説明されていない、被験者の数に矛盾がある」等の指摘があること、
セシウムが消化管内に分泌してくるので、食べたペクチンセシウムと化学的に結合して排出される、という“仮説”」の根拠が示されていないこと、またその仮説に無理がありそうなことが述べられている。
こちらの方が余程説得力があり、しかもそれほど字数もかからない。このくらいの記述は当然あって然るべきだと思う。
それからもうひとつ、これは片瀬氏自身が原典の論文にあたった結果なのかどうかがよくわからない点も疑問だ。IRSNが指摘しているだけなのか、自分で論文を読んだ上で「重要な不備がある」と指摘しているのかが判別できないと、片瀬氏自身の記述の信頼性にかかわると感じた。

リンゴペクチンの効果に関する論文検証記事

そうこうしているうちに、片瀬氏がブログで、「科学研究の組み立て方−アップルペクチン(ビタペクト)論文の検証付き」という記事を書き、具体的な論文の問題点を指摘した。
次にこの記事を検討してみたい。

片瀬氏はこの論文について「信頼性は低いだろう」と結論している。その根拠は大きく分けて2点ある。
1.記載するべきデータの不足。(実験年月日、計測方法、統計手法、体重データなど)
2.セシウム137の生物学的半減期に関する従来の知見との整合性。

しかしこの批判には次のような疑問が当然残る。

片瀬氏はペクチン群とプラセボ群との間に現れた有意な差について一切言及せず、単にプラセボ群のデータに問題があることと記載データの不備だけから信頼性を断定している。片瀬氏はなぜ有意な差、特にペクチン群でセシウム137の排出効果が明らかに通常の排出効果よりも高くなっているという事実について何も述べないのか?

率直に言って非常に不可解であるとしか言いようがない。

  • 実験年月日はもちろん記載したほうがよいだろう。しかし年齢に対する相関があるというのなら、生まれた年が同じグループで比べればよいだけで、生年が明示してあればそうした比較は可能だ。
  • 計測手法も記載した方が良いだろう。しかし60名の計測手法がそれぞれ違っていたとはあまり想定できないから、全員が同じ手法で計測されたのだろう。やはりこれがないからといってペクチン群とプラセボ群の比較の信頼性を覆すのは無理があると思う。
  • 統計手法も記載しておけば良いだろう。しかし実測値のデータを見れば、そもそも統計などを持ち出さなくても、ペクチン群とプラセボ群の減少率に有意な差があることは明白だ。統計手法の記載の有無でこの数値の比較の信頼性を覆すことはやはりできないと考える。
  • 体重データの不記載はさしあたって傾聴に値する。片瀬氏の挙げている文献Melo DR, Lipsztein JL, Oliveira CAN, et al. A 137Cs age-dependent biokinetic study. Health Phys 1994; 66(6): S25-S26はいろいろなところで引用されていることは確認できたが、私はHealth Phy誌の原論文をonlineでは見られなかった。少し調べてみるとIAEAの論文誌に掲載されている類似論文に次のような表があった。*1


このデータによれば、例えば30kgの人と70kgの大人を比較する場合、半減期には1.5-2倍程度の違いが出るということがわかる。体重に対する相関関係はあることがわかるので、体重のデータを記載しておくことは他の3つに比べるとより重要な指摘であるように見える。しかし、常識的な感覚で言えば、60人の子供達の体重がそれほどばらついていたと考えるのは無理があるように思う。私はこの不備だけで、ペクチン群とプラセボ群との間に出た有意な差を棄却できるとはちょっと思えない。

私は片瀬氏がこの論文の信頼性を棄却する根拠として掲げた第1の論点は、上記のように、体重に関する点は若干問題があるものの、論文筆者たちが意図的に何かを捏造しているというのでもない限り、マイナーなコメントであると考えざるを得ず、この有意な差を棄却する根拠にはなっていないと考える。

片瀬氏の批判の第2の点である「従来の知見との整合性」について検討してみる。
確かに片瀬氏が挙げている文献による値とこの論文の結果には乖離があり、片瀬氏の掲げている文献の中でも
評価書(案)食品中に含まれる放射性物質2011年7月食品安全委員会放射性物質の食品健康影響評価に関するワーキンググループ
には相当詳細にわたって様々な核種のデータが掲げられていて興味深い*2セシウム137は1960年代ごろからヒトへの経口摂取によるデータが取られていて、生物学的半減期に関するデータの蓄積はかなりあるようだ。しかしそうは言ってももともとそう簡単にデータが取れるわけではないので、ボランティアに経口投与した例は被験者の数が少ないので除くとすると、110人の不特定集団に対するデータやブラジルのゴイアニアの事故後の調査などが注目するべきものなのだろう。それらについておそらく個体差がかなりあるのだろうから「従来の知見」といっているものがかなり幅のある中での平均値であると考えるほうが自然だと思う。確かにその値に比べると減少の速度が遅いのは事実だ。片瀬氏の指摘するような「セシウム代謝に関わる様な何か別の要因が関与して」生物学的半減期が長くなっている可能性はある。

しかし仮にそうだとしても、それはペクチン群とプラセボ群との有意な差が現れているという事実の信用性を棄却するだけの根拠とは言えないと思う。プラセボ群だけが「セシウム代謝に関わる様な何か別の要因」に影響されたとするのは無理があると考える方が自然だからだ。実験に関わった60人の子供達全員にひとしく「セシウム代謝に関わる様な何か別の要因」がある可能性はある。その要因が全員に働いていた以上「有意な差」を棄却することはできないわけだ。

というわけで、私は片瀬氏が挙げた第2の批判も、指摘の有効性はあるにせよ、本論文の主要な結果であるところの「ペクチン群とプラセボ群の間に出た有意な差」という主結果の信頼性を覆す根拠としては甚だ不十分であると結論せざるをえない。

片瀬氏はここにあるコメントの中
「肝心なデータの確からしさの範囲が示されていないと、比較も満足にできません。とても基本的な科学データのお作法としての重要なポイントです。」
と述べて本論文を批判している。「お作法」を守らない悪い子がいても、言っていることがある程度信頼できるならその点は相応の評価を与えなければならないだろう。条件記述の不備だけを掲げても主結果の信頼性を否定するだけの根拠にはならないと思う。やはり冒頭に掲げた疑問、「なぜ有意な差が出たということに対するコメントが何もないのか?」という点に戻ってしまうのだ。

「有意な差」を生んだ原因は何か?

さて「有意な差」についてもう少し検討を進めてみたい。
これに関してはshanghai_ii氏がツイッターの中で興味深い指摘をしている。それは「カリウムの効果」である。
カリウムが摂取されることによりセシウムの排出速度が増加することは、先ほど掲げた評価書(案)食品中に含まれる放射性物質の中のp.76(排泄項の最後)に、ラットの実験結果(1961)が報告されている。
また、片瀬氏が掲げているChernobyl Consequences of the Catastrophe for People and the Environmentの中に、与えられたアップルペクチン粉末というのは、ビタペクトと呼ばれる製品で、
"Vitapect powder, made up of pectin (concentration 18–20%) supplemented with vitamins B1, B2, B6, B12, C, E, beta-carotene, folic acid; the trace elements K, Zn, Fe, and Ca; and flavoring."
と明確に記述されている。特にカリウムが含まれていることは注目に値する。
私の見た限りでは、片瀬氏の検討しているReducing the 137Cs-load in the organism of “Chernobyl” children with apple-pectinという論文の中には、

"The study was a randomised, double blind placebo-controlled trial comparing the efficacy of a dry and milled apple-extract containing 15–16% pectin with a similar placebo-powder, in 64 children originating from the same group of contaminated villages of the Gomel oblast."

とあるだけで、ビタペクトを与えたとは書いていないようだ。これは重大な点であると思う。

カリウムの効果に関するマウスの実験結果が比較的古くて先行研究として認識できていれば、当然投与したものの中にカリウムが含まれているかどうかを明らかにするべきだとコメントするだろう。つまり、この論文の重大な問題点は、与えた粉末がアップルペクチン以外の成分を含んでおり、その成分によってセシウムの排泄が促進された可能性があること、より具体的にカリウムの効果である可能性が予想されることを無視している点にある。従って、この論文は、アップルペクチンによってセシウムの排泄が促進されたという因果関係の証明はできていない。証明できたことは、ビタペクトを与えることでセシウムの排泄が促進されているということに他ならないと考える*3。もし私がこの論文のレフェリーでそうした先行研究に造詣があったとしたら、"with apple-pectin"というタイトルは、アップルペクチンそのものがセシウムの排出を促進しているという証明できていない事実を想起させるので適切ではない。"with Vitapect"と書き直すべきだとコメントするだろう*4

片瀬氏がどんなに記載情報の不備を批判しても、「ビタペクトを投与したら、セシウムの排出時間が早まるという有意な差が現れた」という「事実」は覆せない。その原因がアップルペクチンであることは証明できていないし、カリウムの効果である蓋然性の方が高いというべきなのだ。片瀬氏の批判のポイントはずれているといわざるを得ない。

片瀬氏の記事にはカリウムのカの字もなければ、投与したアップルペクチン粉末の成分に関する疑問もかかれていない。
私には片瀬氏が「アップルペクチンの効果=Vitapectの効果」であると思っているとは信じられない。
片瀬氏が評価書(案)食品中に含まれる放射性物質にあるカリウムに関する記述を見落としたとも思えないし、Chernobyl Consequences of the Catastrophe for People and the Environmentの中のVitapectに関する記述を見落としたとも思えない。
あえて穿った推測をするなら、片瀬氏は、マウスによる実験結果をヒトに適用することに疑義を呈してきたために、カリウムの効果がマウスによる結果であることを根拠にしてその知見を軽視してしまったのではないか。
もしそうだとすれば、片瀬氏の批判は二重の意味でポイントを失しているといわなければならないだろう。

補足

いくつか補足しておく。

第1に、片瀬氏の指摘する「ビタミンやミネラル類のペクチンによる吸収阻害」も副作用として考えられるのかもしれないが、カリウムの効果という点では、「高カリウム血症」に関する注意喚起が必要かもしれない。アップルペクチンによる効果を期待してVitapectを過剰に摂取することでカリウムの摂取過剰になる可能性である。

第2に、片瀬氏はこの実験に関してデータの記載不足が「再現性」を毀損しているかのように批判しているが、もともとこの種の実験は、再現性を担保することがかなり難しい部類に属していると思われる。厳密に同じ子供達で実験することは不可能だし、セシウムに曝露した時期をこの実験と同じ状況にして追試するということも不可能だ。この実験は、セシウムの排泄に関わる多くの治験のうちのひとつとして扱われていくだけで、この実験のデータが十分に記述されていたからといって再現性が担保されるわけではないと考える。この実験結果は、「ビタペクトを与えるとセシウムの排泄が促進される」ということであり、「そのメカニズムについてはまだ何もわかっていません」という以上のものではない。「再現性」を毀損している実験はもちろんいろいろあるだろうが、少なくともこの実験に関してそのような批判を浴びせても仕方がない。

第3に、IRSNのペクチンに関する報告書にあるこの実験への批判はよくわからない*5
今まで述べてきたように、この論文の問題点は、データの不備や対照実験の不備などではなく、立証できてない因果関係があたかも立証できたかのように書いてしまっている点にある。それは片瀬氏のいうようにデータを十分に記述してみたり、過去の治験のズレの説明を考えてみたりしても解消されないし、IRSNの報告書にあるような実験をしてみても解消されない性質のものではなかろうか。

片瀬氏はツイッター

「あの論文は、どうせやるのでしたらもっと上手い方法も選択できたのにと思います。ブラッシュアップするにはどうしたら良いのかという提案も解決法として付けました。もうちょっと工夫すれば、きちんと効果が証明できて信頼性も上がった可能性があると思います。」(発言ログ

と述べている(色付け強調は私)。ここでいう「証明できた可能性」のある「効果」とは何の効果だと片瀬氏は言いたいのだろうか。片瀬氏の提出した問題点がVitapectの効果を否定するだけの論拠にはならないことを上で述べてきた。仮に片瀬氏の考える問題点が改善されたとしても、Vitapectを使う以上、カリウムの効果である可能性を否定することはできないため、アップルペクチンの効果を証明することもできないし、これ以上信頼性を向上させることは難しいと私は考える。「もうちょっと工夫」するだけでアップルペクチンの「効果が証明できて信頼性も上がった可能性」はないと私は考えざるを得ない。

「私なんかは、同業者(理学系生物分野の研究者)の中ではマイルドな方ですよ。(^^;) ブログでは解決法も付けてフォローもしていますし。研究者同士の批評はお互いにもっと容赦なかったりしますよ。研究レベルを向上する上で、なあなあで甘くするのは良くないので。」
私は、論文の批判に関しては周囲の同業者の中ではマイルドな方ですよ。(解決法としてフォローも入れましたし) その論文を雑誌会に出そうものなら、もっとこっぴどくコテンパンでしょうね。(^^; プロの目は甘くないです。」

と片瀬氏は述べている。片瀬氏の提案した解決法は、Vitapectの効果に関する信頼性の向上には若干なりとも寄与するかもしれないが、Vitapectの効果がカリウムによるものであるという可能性を否定することはできないし、それはつまりアップルペクチンの効果を証明することになんら寄与しない。片瀬氏は、自分はもっと容赦なく批評する能力も持っているが、あえてマイルドにしているとでも言いたいのだろうか。マイルドか否かが問題なのではない。批判のポイントがずれていることが問題なのだ。
もちろん私はプロではない。

第4に、「従来の知見との整合性」について。もちろん自然科学の営みの中で得られた成果が従来の知見と一致しているかどうかは重要な点であることは疑いの余地がない。例えば最近話題になっている「光速を越えるニュートリノ」という特殊相対性理論に合致しない結果というのは、当然慎重に吟味されるだろう。
 他方で、片瀬氏が批判している「ニセ科学」の側に、そうした「従来の知見との整合性」に関して十分ではないものが多くあるのだろうということは想像に難くない。
 しかしそうは言っても、「整合性」についてどれだけシビアに見る必要があるかは、対象となる成果の射程によって様々ではなかろうか。少し荒っぽく言えば、物理学における理論との整合性と生物学・医学に関する疫学調査における従来の知見との整合性というのには、どの程度厳格に見なければならないかという点に自ずから差があると思う。
 今回対象となっているような疫学的調査における従来の知見との整合性は、極めて厳格に見なければならないというものではないと私には思える。「セシウムの排出速度」に関して言うならば、従来の知見とされるものでさえ、プロットした点をうまく通るような曲線を取ったということに過ぎないし、データそのものもそうした意味で平均値に過ぎない。その理論値や平均値から外れたデータが出たところで、直ちに従来の知見を見直さなければならないというものでもないし、数ある疫学調査の端っこに置かれるというだけのことだ。それだけを取り出してこの論文の主結果の信用性を問うのは一面的過ぎると考える。

第5に、私は片瀬氏の「論文検証」記事の内容以外にも、書き方やその意図に問題があると考えている。それは節を改めて書くことにしたい。→(その6)

*1:おそらくHealth Phyの論文は一般の人は簡単に見れそうにないし、片瀬氏があげているほかの文献でも「高い相関性」という以上の具体的な数値が書いてあるものがなかった。片瀬氏自身はおそらくもとのHealth Phy誌の論文をチェックしているのだろうが、こうした記事にする以上、何かもう少し数値データを記載するべきだと考える。

*2:例えばストロンチウムプルトニウムでも排泄に関する実験結果が述べられている。プルトニウムではPuを含んだ軟体動物や堆積物を摂取したヒトのデータやヒヒ・げっ歯類に対するデータがあるようだし、ストロンチウムでも事故やラジウム塗装工の調査、経口投与なども行われている。

*3:私は、shanghai_ii氏が指摘しているような「貧カリウム食が与えられていた可能性」についてまでは当否を判断することはできない。

*4:私はカリウムによる効果ではないと証明できなければ論文として認めないといっている訳ではない。そのことを証明するには別の実験が必要だから、この論文ではそこまで断定するのは避けるべきだと主張したいのだ。

*5:片瀬氏の訳したものがここにある。