日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その11)─雑誌「数学文化」第18号の竹山論文をめぐってII─

雑誌「数学文化」第18号に、『問題提起としての「大学生数学基本調査」』と題する竹山美宏氏の論説についての検討を行っていた。
今回は、その中の「3.出題意図」を取り上げたい。

大学入試問題の相対化について

3.1節「設計方針と本調査が対象とする『学力』」の中にある次の記述から取り上げたい。

問題の形式としては、現在の大学入試の問題の形式からなるべく外れたものとする。我々がいま問題としているのは大学新入生の学力である。合格発表から入学まで多少の空白期間があるとは言え、新入生は大学入試を通過できる程度の学力を持っていると想定してよいだろう。その学力に問題があるのだとすれば、高等教育を受ける準備ができているかどうかを試しているはずの大学入試問題のあり方を相対化して考えなければならない。学生が見慣れた入試問題とは異なる形式の問題に対する正答状況および誤答の傾向を通じて、現在の大学入試問題が何を測れているのかを逆に浮かび上がらせようという狙いが、本調査にはある。

高校修了段階は、すでに各自の志望に応じて様々な進路に分かれて、多様な入試システムによって選抜されている。国立と私立では、どのような選抜方法を行っているかは全く異なっている。理系と文系でも選択している科目の相違は大きい。しかも、仮に同じ選抜方法で合格した生徒に限定しても、数学はあまり得点できなかったが他の科目で十分に得点を稼いだという人もいるだろう。そういう多様な状況を捨象して、「新入生は大学入試を通過できる程度の学力を持っていると想定してよいだろう」とか「大学入試のあり方を相対化して考え」るとか、「現在の大学入試問題が何を測れているのかを逆に浮かび上がらせよう」というような目標を設定することに、かなりのナイーブさを感じる。


例えば、入試科目の点を考えてみる。慶応大学は私立S群に入るレベルなのではないかと思うが、文学部・法学部にはそもそも数学の入試科目がなく、経済学部や商学部でも数学を選択しなくて済む選抜科目群が設定されている。早稲田大学の私立S群に入るレベルなのではないかと思うが、法学部・文学部・文化構想学部には数学の入試科目はなく、政治経済学部・社会科学部・国際教養学部といった学部でも数学を選択せずに済む選抜科目群が設定されている。つまり、実際に数学を選択していない学生は私立S群レベルでもかなりいることが容易に想像できる。数学を入試の選択科目にしていない学生に、「線分の3等分を作図する方法」を問うたところで、大学入試問題の何を相対化できるというのだろうか。文字式の利用以外正当とは認めないとか、放物線の重要な特徴を問うことも同様だ。数学を選択していない学生がこうした問題で満足のいく答えを書けないのは当然で、ならば数学の試験を課すべきなのかというとそう簡単に断言できるものでもないだろう。


対象となっている大学群で考えてみる。例えば、国立S群を見ると、問1-1,問1-2,問2-1,問2-3の正答+準正答率は94.8%、86.5%、76.6%、75.3%である。この数字から国立S群の大学入試問題の何を相対化できるというのだろう。問3は22.6%だが、それは高校で作図が扱われていないから忘れてしまったというだけだろう。正答率が低いから、作図問題を大学入試問題で出すべきだということになるだろうか。私は懐疑的である。作図以外に出題するべき内容はもっと他にあるだろうし、この作図問題ができるかどうかは大学以降の学習内容と余り関係ないと考えるからだ。



試験の形式の点で考えてみよう。例えば、マークシートと記述式の区別をどうつけているだろうか。例えば慶応義塾大学理工学部の数学の試験では、穴埋め式だがマークシート形式ではない問題が複数出題されると同時に、解答の過程を書かせる記述式問題も出題されている。(穴埋め式の方が分量が多い。*1)この場合、形式は記述式であり、過程を書く問題も出題されていることもあわせれば、「記述式試験」ということになるだろう。単に答えだけを問うという意味では、穴埋め式はマークシート式に近い部分もあるわけだ。試験の形式と今回の調査の出来の相関を調べる部分でもかなり不定性が残っている。


こうした観点からも、今回の調査の結果から大学入試問題の中身や入試システムの中身について具体的に論じることに、私は少々無理がありすぎるのではないかと思う。竹山氏のナイーブな書き方や日本数学会の提言の書き方もそうである。


さらに言えば、上のような記述が出てくる背景には、高校修了段階(あるいは大学入学段階)のすべての学生にとって共通に前提と出来るような学力あるいは数学力が設定できるはずだという考え方があるように思われる。しかし既に述べたように、高校修了段階はすでに進路の希望に応じて、履修内容に相当の幅が出てきて分化が進んでいる状態である。そのような状況の学生すべてが習得していなければならないと考えることのできる学力は、単に読み書きそろばん程度で十分だと主張する人さえいるかもしれない。私はそこまでは言わないが、作図の問題や文字式の利用、放物線の重要な特徴といった出題が、そうしたすべての高校修了者に要求できる内容なのかについては相当慎重に吟味する必要があると思うし、私はかなり懐疑的である。というより、調査側はむしろ、これらの問題が、すべての高校修了段階の学生すべてが習得していなければならないと考えることのできる学力を測るものであるということを明確に根拠付ける議論を提示しなければならないのではないか。報告書概要版や報告書抜粋、「世界」誌に掲載された新井-尾崎論文はもちろんのこと、今回の竹山氏の文章でさえその点について、十分明示的に述べているとは到底言えないと考える。

学力に関する3つの観点について

3.1節の最後で、竹山氏は、今回の調査で測ることを意図した学力として、

A)論理的な読み書き
B)「わかる」と「できる」の違い
C)学習指導要領が設定する「数学のよさ」

の3点を提示し、順次説明を加えている。おそらくこの部分が今回の記事の中で真に新しい部分であり、今回、竹山氏によって多くの点が新たに説明されたことを評価したい。しかし、その内容や書きぶりにはなお疑問も残る。これらの点について検討してみたい。今回はまず第一の点「論理的な読み書き」の部分を検討する。

「論理的な読み書き」について

竹山氏は、「数学を学習する場面において論理的な読み書きは欠かせない」と述べた上で、「論理的な読み」の具体例として、

「教科書の文章の論理構造を把握して理解できること」

を挙げ、「論理的な書き」の具体例として

「論理を組み上げる文章を書けること。特に、自分で書いた文章の論理構造を批判的に検証できること」

を挙げている。その上で、

これらは「論理的なコミュニケーションの能力」と呼ぶこともできよう。大人の間で交わされる日常会話のように、論理的であることが必ずしも求められない場合には、論理的なコミュニケーションなど必要ではない。しかし、数学の学習の場面においてそれは避けられない。

と述べている。これは後半で問1-2と問2-1を具体的な問題として想定した上での一般的な議論になっている。
私は、今回の竹山氏の記事によって初めて「論理的コミュニケーション」という単語の定義/意味/具体例が示されたことを評価したい。しかし、この記述に次の3つの観点で違和感がある。
第一に、「前提」というものとの関係、第二に、内実、そして第三に、日常会話、あるいは数学との関係、という3点である。

第一の点から検討してみる。今回、調査側は、報告書概要版の中で、「重篤な誤答」あるいは「深刻な誤答」という単語を、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」と定義していた。「論理的コミュニケーションに失敗した」ではないし、「論理的コミュニケーションが崩壊している」でもない。「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」と定義したのである。一体ここで言うところの「論理的コミュニケーションの前提」とは何だろうか。報告書抜粋や新井-尾崎論文では、「論理的に説明するための前提に立っていない答案」を深刻な誤答と定義していた。ここでも「論理的に説明するための前提」という似た語が使われている。一方で竹山氏の記事では、「論理の記述として大きく問題があると見なされる答案」と表現されている。前回も指摘したように、これらの記述のニュアンスはかなり異なっているように私には感じられるし、その一貫性のなさは決して看過できるものではないと考えている。

それにしても「前提」とは何だろうか。「論理的コミュニケーションの前提」とは、そもそも「論理的にコミュニケーションしようとする意思」であろうか。しかし、たとえ論理的に瑕のある答案を書いたからといって、そもそも「論理的にコミュニケーションする意思がない」と判断されてはたまらない。

上で竹山氏は2つの具体例を「論理的コミュニケーションの能力」と述べている。だとすれば「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」とは、「論理的コミュニケーションの能力がない」ということであろうか。上の具体例で書かれているような内容が実践できないこと、つまり、教科書の文章の論理的構造が把握できないとか、論理を組み上げる文章がかけないとか、自分で書いた文章の論理構造を批判的に検証できないというような場合、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」と言うのであろうか。しかし、今回は単なる誤答ではなく、「重篤な誤答」「深刻な誤答」と「典型的な誤答」という2つのカテゴリを設けて、答案の内容を分類しているのである。「深刻な誤答」が「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」のであって、「典型的な誤答」はそうではない。この後で竹山氏は、「問2-1は『論理的な書き』の能力を見ようとするものである」と述べた上で、「典型的誤答」に分類されている答案例「偶数を2m、奇数を2m+1とおくと、で始まる答案」を例に、「自分の頭の中にあるイメージが正確に言語化されていないというギャップが生じているのだ。数学の答案を書く際には、このギャップが生じていないかどうかを常に確認する必要がある。」と述べている。これは明らかに、上の具体例の2番目の能力がこの問題において発揮できなかったことを述べている。だとすれば、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」とは、単に、「論理を組み上げる文章がかけない」とか、「自分で書いた文章の論理構造を批判的に検証できない」というだけではないということになってしまう。例示により論証が終わったとした答案や、「偶数に奇数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になる」とした答案には、上で述べている「論理的コミュニケーションの能力」だけではない、さらに何かが欠けているということだ。そのことに対する明確な説明はない。やはり、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」とか「論理的に説明するための前提に立っていない」という表現と、上で竹山氏が述べている「論理的コミュニケーションの能力」ということの関係が不明だ。報告書抜粋で「典型的な誤答」に分類されている「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数」という答案例に対して、「自分の頭の中にあるイメージが正確に言語化されていないというギャップが生じている」という批判を行うのは難しいと思う。この答案を書いた人はこのレベルの厳密さで十分解答となるだろうと判断しているのだろう。この答案に対して、「論理的コミュニケーションの能力」に問題があると断定するのは無理がある。そうである以上、「典型的な誤答」においてさえ、竹山氏の言う「論理的コミュニケーションの能力」との関係は極めて曖昧だといわざるを得ない。

そもそも、ある問に対して論理的に瑕のある答案を書いた場合、それだけを根拠に、「論理的コミュニケーションの能力がない」と判断されるのは酷だと思う。「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している答案」=「論理的コミュニケーションの能力がないと判断せざるを得ない答案」だというのは言いすぎだと思う。

第二の点について検討してみよう。それは「論理的コミュニケーションの内実」についてである。少し抽象的になるが、通常われわれの行う「論理的コミュニケーション」には2つの側面があると考えられる。一つは内的他者とのものであり、もう一つは外的他者とのものだ。「内的な他者との論理的コミュニケーション」とは、自分の答案・証明・議論といったものを自分の眼でチェックすることだ。いま自分が行ったこの議論は大丈夫かな、自分の理解は間違っていないかなと常に自分を他者の目で検討することである。他方、「外的な他者との論理的コミュニケーション」とは、まさに自分以外の他人との間で議論し、他人からの指摘を理解しその指摘に応えること、また他人の議論をチェックし判断しそれを伝えることだ。

竹山氏の議論に即してみてみると、第二の点「論理を組み上げる文章を書けること。特に、自分で書いた文章の論理構造を批判的に検証できること」は、「内的他者との論理的コミュニケーション」にあたる。問題は第一の点「教科書の文章の論理構造を把握して理解できること」をどう見るかである。これは「教科書」という「他人の書いたもの」を論理的に読むことだから、ある意味では「外的他者との論理的コミュニケーション」である。しかし、他人からの指摘に応答するという部分はなく、もっぱら教科書を読む作業は自分ひとりで行うものだ。この第一の点は、半分以上は「内的他者との論理的コミュニケーション」に属しているのではないかと思う。

私がこの内的他者と外的他者の区別に拘る理由は、そもそも「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」という表現の意図しているものが、一体どのようなコミュニケーションなのかという点にある。

もしそれが「内的他者との論理的コミュニケーション」という意味だったとしよう。例えば、例示のみで論証できていると考えた答案は、内的他者との論理的コミュニケーションを行わなかったのだろうか。「偶数に奇数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になる」とした答案でも内的他者との論理的コミュニケーションが行われていないのだろうか。竹山氏は「偶数を2m、奇数を2m+1とおくと、で始まる答案」を例に、「自分の頭の中にあるイメージが正確に言語化されていないというギャップが生じているのだ。数学の答案を書く際には、このギャップが生じていないかどうかを常に確認する必要がある。」と述べている。しかしこれは「偶数を2m、奇数を2m+1とおくと、で始まる答案」において、内的他者との論理的コミュニケーションが行われていないことを意味するのだろうか。

私はそれはわからないと思う。もしろん「内的他者との論理的コミュニケーション」は行われていない可能性はある。しかし、それはその答案を書いた人の頭の中、心の内のことであって、外からはわからない。わかるのは、「内的他者との論理的コミュニケーション」が行われたか否かではなく、いずれにせよ「調査側の要求する厳密性の基準に満たなかった」ことや「論理的に瑕のある答案を書いてしまった」というアウトプットの問題点でしかありえないのだ。アウトプットという結果が仮に不十分であったり間違っていたからといって、その答案を書いた人が、自分の答案を批判的に検証していないのだと断定するのは間違っている。

竹山氏の言う「論理的な読み」が出来ているかどうかをある程度客観的に判断することは可能だと私も思う。私は平均に関する今回の出題はある程度その主旨に合致していると思っている。しかし、「論理的な書き」を試す場面において、その答案の内容だけから、その人が「自分で書いた文章の論理構造を批判的に検証でき」たのかどうかを判断することは難しい。「論理を組み上げる文章を書けること。」は、答案というアウトプットでもある程度客観的に判断できる部分はあるだろう。例示だけしかしなかった答案は、やはり数学の答案としては「論理的な説明にはなっていない」と判断せざるをえない。しかし、それは「自分で書いた文章の論理構造を批判的に検証したかどうか」を判断できる材料とはならない。批判的に検証してみたが間違いに気づかなかったのかもしれないのである。だから、私は、今回のような調査の内容をみて、「内的他者との論理的コミュニケーションの能力」が調査できるなどというのは無理だと言わざるを得ない。

他方、「外的他者との論理的コミュニケーション」という側面とややもすれば混同しているのではないかという疑義もある。そもそも、「論理的コミュニケーション」といった場合に想定されているものは、特に注釈をつけないとどうしても「外的他者との論理的コミュニケーション」であると思われがちなのではないだろうか。日本数学会の提言の中にある「数学教育が育む論理力は、国際交渉の中で不可欠です」という表現と「論理的コミュニケーション」という表現を並べるとどうしてもそのように見えてしまう。竹山氏の記述「大人の間で交わされる日常会話のように、論理的であることが必ずしも求められない場合には、論理的なコミュニケーションなど必要ではない。しかし、数学の学習の場面においてそれは避けられない。」からも、「外的他者との論理的コミュニケーション」のことなのかと錯覚させるかのような比較が行われている。

しかし、そもそも今回の調査で、「外的他者との論理的コミュニケーション」について何らかの判断が下せるということに無理がある。出題者が何か問題を出し、それに回答者が応えただけである。この時点では、まだ論理的かどうかではなく、そもそもコミュニケーション以前の段階だ。例えば、例示をして論証したと考える人に、「それで全ての偶数と奇数の組について論証したことになっていますか?」と問いかけること。「偶数に奇数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になる」と書いた人に、「もう少し厳密に論証するにはどうすればいいですか?」と問うこと、あるいは、「文字式を使って証明を書くことはできますか?やってみてくれませんか?」と問うこと。それをして初めて「外的他者とのコミュニケーション」になる。その応答の中で、「論理的なコミュニケーション」を行えるかどうかが「外的な他者との論理的コミュニケーション能力」に他ならない。そういう能力は、ペーパーテストの答案だけで判断することは難しい。だから大学の演習では、ゼミや演習の中で外的他者と対話することが求められているのだ。論理的に厳密ではないあるいは間違った答案を書いてしまったことと、それを「外的他者との論理的コミュニケーション」の中で修正していくことができるかどうかとはまた別の問題である。

こうした点からも、竹山氏の次の記述は混同を招きかねない記述だと考える。

五感を通じて直接的に与えられる情報に対して、いかなる論理的な判断も放棄し、思考停止して完全に身をまかせてしまっても、人は生きていけるかも知れない。また、自分の考えを他者に正確に伝える努力を軽視し、自分を理解しない他者を断罪し続けることも可能である。しかし、このような論理的コミュニケーションの欠如が人にもたらすものは、主体性の喪失や独善的な孤独であろう。それを選ぶことは、ある意味で楽な選択かもしれないが、個人や社会を幸福に導くものではない。数学を学ぶことの意義を、このような観点から考えるのも意味があろうかと思う。

「個人や社会の幸福」について「論理」との関係をあまりに断定的に述べている点に私は同意できないが*2、その点についてはおいておく。ここで問題としたいのは赤字で強調した2つの部分である。
 前者はある意味で「論理的な読み」や「内的他者との論理的コミュニケーション」にあたる部分であるように見える。しかし、この部分が非常に不穏当に見えるのは、これが今回の数学力調査の分析として登場するというまさにその点にあると思う。例えば、「偶数と奇数の和はいつでも奇数になること」の証明に対し、例示だけしかしなかった答案が、「五感を通じて直接的に与えられる情報に対して、いかなる論理的な判断も放棄し、思考停止して完全に身をまかせて」いると批判するのは行き過ぎである。そもそも、この問に対して、何らかの説明を試みようとした答案に対して、「五感を通じて直接的に与えられる情報に対して、いかなる論理的な判断も放棄し、思考停止して完全に身をまかせて」いるなどと言うのは不適切だ。
 後者はある意味で「論理的な書き」や「外的他者との論理的コミュニケーション」にあたる部分であるように見える。特に、「自分の考えを他者に正確に伝える努力」には「外的他者との論理的コミュニケーション」が含まれる。しかしこれも、今回の数学力調査に関する分析としては不穏当だ。そもそも、今回の調査でたとえ間違ったにせよ、それなりの説明を試みた答案に対し、「自分の考えを他者に正確に伝える努力を軽視し、自分を理解しない他者を断罪し続ける」などと批判することは不適切だ。そもそも、「自分の考えを他者に正確に伝える努力」というのは、出題+解答という1回きりのやりとりで達成されるものではなく、自己と他者の複数回のやり取りの中でこそ生きるものであろう。今回の調査結果の分析という記事において「論理的コミュニケーションの欠如」という文脈でコメントすること自体が不適切だし的外れだといわざるを得ない。

そもそも、数学以外の社会的な場面においては、完全に正しい答というものが与えられていない状態がほとんどであり、そういう場面では、まず「内的他者との論理的コミュニケーション」の中で自分のコミットする言説が正しいと考えられる根拠を整備し、その上で「外的他者との論理的コミュニケーション」を通じて、他者からの批判や指摘に応答し、必要ならば立場を修正したり、妥協したりするものだ。「外的他者との論理的コミュニケーション」を行うことで、自分の「内的他者との論理的コミュニケーション」に不備があったことにも気づかされる場合があるだろう。われわれの行う「論理的コミュニケーション」とはそういうものではなかったのか。そういう状況を考えたとき、単に文字式を使えないとか例示と論証の区別がつかないということを殊更重大視して、こういう答案を書く人は、「論理的コミュニケーションの能力」に問題があるのですなどと評価するべきではないと思う。数学というのはあくまで何が正しいかが相当精密に判定できる稀有な学問なのであるから、むしろその稀有な性質を利用して、「内的/外的他者との論理的コミュニケーション」のどちらも鍛えていける非常により練習問題になるのだと考える。「主体性の喪失」とか「独善的な孤独」などという扇情的な言葉を選ばず、もっと穏当な言い方を選ぶというのがなぜ出来ないのか不思議なのである。そういう過激な言葉が出てくる背景に、やはり「数学教育において育まれる論理性」が数学を離れた社会的側面において行われる「論理的コミュニケーション」と等価だ/等価であるべきだといった価値観があるのではないかと見える。

そこで第三の観点が問題になる。そもそもここで言う「論理的コミュニケーション」と「社会」の関係である。あえて言えば、竹山氏は巧妙に数学の問題を限定しつつ、その裏で社会的/一般的な判断を述べている。

上で引用した「これらは『論理的なコミュニケーションの能力』と呼ぶこともできよう。大人の間で交わされる日常会話のように、論理的であることが必ずしも求められない場合には、論理的なコミュニケーションなど必要ではない。しかし、数学の学習の場面においてそれは避けられない。」という記述では、「論理的コミュニケーションの能力」というものが、「数学の学習」という場面においては避けられないと述べている。問題が数学の学習という点に限定されている。しかし、その一方で、「論理的コミュニケーションの欠如が人にもたらすものは、主体性の喪失や独善的な孤独であろう。それを選ぶことは、ある意味で楽な選択かもしれないが、個人や社会を幸福に導くものではない。数学を学ぶことの意義を、このような観点から考えるのも意味があろうかと思う。」という記述は、明らかに「論理的コミュニケーション」の社会的役割について述べている。日本数学会の提言にある「数学教育において育まれる論理性は国際交渉の中で不可欠です」という表現もそうだ。

問題は「数学教育において育まれる論理性」と「社会において行われている論理的コミュニケーション」とが本当に直接的に結びつくのかどうか、という点である。ここに新井氏や竹山氏、あるいは日本数学会の提言の論理的飛躍がある。むしろその点こそ詳細に論じられるべきテーマなのではないか。そこを詰めずにナイーブな議論で「数学学習における論理性」と「社会における論理的コミュニケーション」を結び付けてしまうと非常に不穏当な表現が出てきてしまうのではないか。そもそもこれは数学力調査の分析なのだから、今回の調査の問題が「社会における論理的コミュニケーション」とどう関連付けられているのかということこそ紙数を尽くして論じられるべき観点であろう。例えば「例示と論証の区別」とか「作図」とか「放物線の重要な特徴」といったことを殊更強調して「論理的コミュニケーション」の問題を論じることには「社会」とのかかわりという観点でこそ問題があるのではないか。そうした分析が全く感じられないことに違和感があるのである。

次回、「わかるとできるの違い」、「学習指導要領が設定する数学のよさ」についての部分を検討しようと思う。

*1:2012年度は大問5題中、穴埋め式でない設問を含むのは1題のみ。

*2:竹山氏のよう「論理的な判断」とか「他者に正確に伝える」の意味しているものが何かにもよるが、われわれの社会やある民族や部族の人々や社会が、竹山氏の言うような意味での「論理的コミュニケーション」をおこなってきた/おこなっているかどうか疑問だからであり、それでも人は幸福を感じられるかもしれないし、その社会は幸福かもしれない。幸福かどうかを問題の尺度として使うこと自体が独善的なものになりがちだと思う。

日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その10)─雑誌「数学文化」第18号の竹山論文をめぐってI─

雑誌「数学文化」第18号に、『問題提起としての「大学生数学基本調査」』と題する竹山美宏氏の論説が掲載された。
これまで、大学生数学基本調査に関してまとまった形で公表されているものは、日本数学会公式のものか、新井紀子氏単独に依るものか、新井氏と尾崎幸謙氏による雑誌「世界」の記事などのみであったので、今回、実施に関わった委員の中の新たな執筆者による記事が出たことになる。何回かに分けて、この竹山氏による記事を検討したいと思う。

はじめに簡単に感想を述べておくと、今回、いくつかの観点で、竹山氏の私見という断りはあるものの、今までの文章の中でははっきり述べられていなかった点が明確にされた。そのことは評価したいと思う。しかし、その反面で、実施側の意図やその具体的な実施内容、結果の評価に関する部分では、実施方法や書きぶりに問題があったかもしれない可能性について何も自己評価がないものであった。また、価値判断が必要な局面で、根拠を十分に論じることなく、判断基準を外部に委ねてしまう部分が散見されたことも残念であった。以下、これらの点について、具体的な記述に触れながら指摘していきたいと思う。

調査の意図について

1.2節の最後で竹山氏は次のように述べている。

実施にあたった日本数学会教育委員会の委員の一人である私の理解では、今回の調査は学力低下を立証して若い世代を叩くことを意図したものではない。調査結果を社会と共有することで、数学に対する社会的風潮も含めた広い意味での数学教育のあり方について、社会を形成する大人全体で考えようというメッセージなのである。

私のこの記述に対する違和感は相当なものがある。

第一に、「若い世代を叩くことを意図したものではない」と言うのなら、もう少し評価の方法やその評価を発信する言葉を慎重に選ぶべきだったし、そのことについて十分な説明や自己評価をするべきだ。今回の調査結果に関する報告やそれに基づく提言の中で、「論理を正確に解釈する能力に問題がある」とか「論理を整理された形で記述する力が不足している」とか、あるいは「重篤な誤答」とか「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」とか「あいまいな言説への逃避」とか、そういう言葉で学生の答案や調査結果を評価していることは、決して無視できない。そういう言葉を投げつけたことに対する自己評価がまるでないのに、「叩くことを意図したものではない」と述べるのは受け入れがたい。


 実は2012年6月25日に、報告書概要版などの記述が「重篤な誤答」から「深刻な誤答」に改められた。しかし、なぜそのような修正をおこなったのかという理由の説明はない。しかも、報告書概要版にある「深刻な誤答」の定義は、相変わらず「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」であって何も変わっていない。FAQにはいまだに「重篤な誤答」という表現が1枚目から「論理的に意味の通らないタイプの誤答」として1ページ目の記述に残っている。確かに「重篤」という表現はまずい。しかし言葉の定義が変わらないのなら=調査側の意識が変わらないなら、表面上の表現を和らげたところで本質的な変化はないと言わざるを得ない。


 答案の内容を批評することと、その答案を書いた学生の能力を批評することとは、確かに別の側面もある。学生を叩くことが目的ではなく、答案の内容を評価したまでだという言い方も可能かもしれない。しかし、「論理を正確に解釈する能力に問題がある」とか「論理を整理された形で記述する力が不足している」という表現は、やはり学生の能力を論難していると受け取られても仕方ないものだ。「論理的に意味が通らないタイプの誤答」なら内容と能力を分けるという言い訳がかろうじてできたとしても、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」では、私は無理だと思う。ある答案が誤りだからといって、その人が書いた別の答案も誤りかどうかはわからない。ある答案が論理的に意味が通っていなくても、その人の書くものすべてが論理的に意味が通らないとは限らない。しかし、ある答案で「論理的コミュニケーションの前提が崩壊」していたら、もはやその人が書くどんな答案でも「論理的な答案」は期待できないのではないか、と私には思える。それくらい強い言葉で答案の内容を評価したということに対する自覚と反省なくして、「学生を叩くことを意図したものではない」と述べるだけであることが甚だ疑問なのである。


第二に、「調査結果を社会と共有することで、数学に対する社会的風潮も含めた広い意味での数学教育のあり方について、社会を形成する大人全体で考えようというメッセージ」という意図が不可解である。今回の調査結果を受けて日本数学会の名前で、調査結果について「論理を正確に解釈する能力に問題かる」「論理を整理された形で記述する力が不足している」と大学生の能力についての評価を下している。そして「充実した数学教育を通じ論理性を育む」「証明問題を解かせるなどの方法により、論理の通った文章を書く訓練を行う」「数学の入試問題はできるかぎり記述式にする」「1年次2年次の数学教育において、思考整理と論理的記述を学生に体得させる」などと提言をしているのである。さらに言えば、「資源に恵まれず災害の多い日本は、国民一人一人の知的水準を上げなければ生き残ることができません。数学は科学・技術を支える基盤です。また数学が育む論理力は、国際交渉の中で不可欠です。」と断定しているのである。それが「社会を形成する大人全体で考えようというメッセージ」であるというのは理解しがたい。これは明確な立場の表明であって、議論しようというスタンスには感じられない。


 「数学教育」が「論理性」と密接不可分であること、数学教育を通じて論理性を育むことができること、またそれが社会的に適用可能でかつ有用であることなどが既に前提とされ、今回の調査に使われた問題がその論理性を見る問題であったことなどについて何も疑いの余地を差し挟むことはできない構成になってしまっている。もともと、日常生活で必要とされる論理性や現実社会の具体的な問題に対する対処法や政策を考える局面、あるいは国際交渉で必要とされる「論理性」が「数学教育において育まれる論理性」とが直接的に結びつきうるかどうかさえ、議論の余地があるはずだし、その直接性に躊躇なく同意する人は決して多くないのではなかろうか。数学が科学・技術を支えていることは事実としても、数学の内容のどの部分をどのような形でどの段階の教育に分担させるかということについても議論の余地があるはずだ。そういう「数学教育のあり方」についての議論をしようという意図には見えない。とにかく「大学生の論理的思考力に問題があることがわかりました!数学教育を充実させてください!」といっているようにしか見えないのである。


 もし「数学教育のあり方」について議論しようというのなら、単に数学教育は論理性を育みます、論理性は社会においても有用ですなどというナイーブな断定をするのではなく、今回の調査に用いた出題がどのような内容を問おうとしたものであり、その内容は「論理性の社会的有用性」に照らしてどのような意味を持つものなのか、という点を丁寧に説明することからはじめなければならない。例えば、「偶数たす奇数が常に奇数であることの証明」に文字式を使った論証を行うこと、またそれ以外の論証は認めないという措置、二次関数の重要な特徴を問うこと、線分の三等分という作図問題を問うこと、これらと「論理性」の関係、「社会的有用性」の観点に照らした意義をはっきり示すべきだ。少なくともこれらの問題が、日常生活や現実の諸問題に役立つということに躊躇なく同意する人も決して多くはないはずだからである。その上で、われわれはこのような社会的に有用な論理性を、このような数学教育を行うことによって習得させたいと考えているのだが、広く社会の大人の皆様のご意見を求めたいとするべきだろう。


 出題の意図については、今回の竹山氏の記事によって少し補足的な説明がなされたと思っている。それについては次回に検討するが、これだけ時間が経過した後にようやくそうした補足説明が出てくることに違和感があるのである。まず真っ先に竹山氏が述べているような観点が提示されるべきであった。


第三に、そもそも「若い世代を叩くことを意図したものではない」とか「広い意味での数学教育のあり方について、社会を形成する大人全体で考えようというメッセージ」ということを言うだけなのに、「委員の一人である私の理解では」などという枕を置かなければならない書きぶりである。そういう点についてさえ、実施側の委員会のコンセンサスが取れていないのではないか、と疑わせる。なぜ、「「今回の調査は学力低下を立証して若い世代を叩くことを意図したものではない。調査結果を社会と共有することで、数学に対する社会的風潮も含めた広い意味での数学教育のあり方について、社会を形成する大人全体で考えようというメッセージ」を出すことが、日本数学会教育委員会が本調査を実施した目的である。」とはっきり書けないのだろうか。率直に言って、今回の調査に関し、日本数学会やその下部組織であるところの教育委員会なるものの中で、どのような話し合いがもたれ、どのような点についてコンセンサスが得られているのかまったく判然としない。報告書の概要版やシンポジウムで配布された抜粋などがどのような経過を経て公表されたのかも定かではない。

出題内容についてのコメント─典型的な誤答と深刻な誤答に関して─

2.「調査問題の解答と結果」の節の中で、問2-1に関する記述、特に、典型的な誤答と深刻な誤答に関する記述を取り上げる。
竹山氏は

易しい題材によって証明を正確に書く力を見る問題である。

と述べた上で、準正答・典型的な誤答・深刻な誤答について次のように述べている。

準正答とみなされたのは、正答例の冒頭が「m,nを整数とすると、2mは偶数、2n+1は奇数になる」となっている答案、正答例の「m+nが整数なので」に対応する部分がない答案など、論理的にやや瑕のあるものである。
典型的な誤答として、「偶数は2m、奇数は2m+1と表せる」のように連続する整数についてのみ示している答案、整数と書くべき箇所で「実数」となっている答案、m,nという文字が何を表しているのか書いていない答案などがあった。
深刻な誤答は、「6+1=7、4+5=9などとなるから」のように例示のみで済ませている答案や、「偶数を奇数にするためには、偶数を足しても駄目だが、奇数を足せばよい」のように論理の記述として大きく問題があると見なされる答案である。

「正答例の冒頭が「m,nを整数とすると、2mは偶数、2n+1は奇数になる」となっている答案」を準正答としたことは、報告書概要版には書かれておらず、報告書抜粋と本記事で触れられているものである。この答案を「論理的にやや瑕がある」と評する場合、報告書抜粋で「典型的な誤答」の中に「論理的な誤りはないが何を証明すべきかが理解できていない答案や、厳密な証明ではなく大雑把な説明になっている答案」の例として取り上げられている
例1:「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
例2:「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
例3:「偶数と奇数は、『偶数、奇数、偶数、奇数、偶数、奇数、・・・』と交互に並んでいる。したがって、奇数を偶数の分だけずらしても奇数のままである。」
という3つの例や、報告書概要版で「重篤な誤答」とされた
「偶数は2で割り切れて、奇数は2で割ると1余るということから。」
「偶数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから。」
という答案との違いをどう見るのか、という問題がある。「正答例の冒頭が「m,nを整数とすると、2mは偶数、2n+1は奇数になる」となっている答案」の論理に瑕があるとする理由は、すべての偶数が2mと表されること、すべての奇数が2n+1と表されることを述べなければならないからである。2mという偶数と2n+1という奇数以外の候補が何もないことがポイントだからである。だからこのような書き方をする答案の場合、むしろ例1、2、3よりも命題論理的には瑕があると言うべきかもしれないのだ。次回に検討するが、このような答案を書いてしまうことこそ、「自分の頭の中にあるイメージが正確に言語化されていない」と言うべきなのかもしれないのである。もちろん2mという偶数と2n+1という奇数以外の候補が何もないことは偶数と奇数の定義から当たり前のことだが、それを当たり前というのなら、上で取り上げた典型的な誤答や重篤な誤答の例の中にも、論理的にやや瑕はあるが準正答としてよいと思えるものが含まれているのである。


深刻な誤答についても、
「偶数を奇数にするためには、偶数を足しても駄目だが、奇数を足せばよい」
「偶数は2で割り切れて、奇数は2で割ると1余るということから。」
「偶数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから。」
といった答案例に対して、「論理の記述として大きく問題がある」と評するのもいささかバランスを失しているように思う。これらの記述に「論理の記述として大きく問題がある」のであれば、「m,nを整数とすると、2mは偶数、2n+1は奇数になる」となっている答案にも、やはり論理の記述として大きく問題があると、少なくとも私は考えざるを得ない。これもこの問題があまりにも当たり前すぎるという点に原因があるように思う。


今回、実施側は文字式を用いていないものは決して準正答以上にはしないという方針のようである。しかし文字式を用いたものであっても、上のように準正答と言ってよいか微妙なものもあるし、文字式を用いなくてもほぼそれと同等と見なせるものもあったはずだ。これはやはり採点基準の客観性に疑義を抱かせるものである。このようなことが起きるのは、やはりこの問題があまりにも当たり前で、「易しい題材」過ぎるからである。問題を易しくすればするほど、何が当たり前なのかがぼやけてしまうのだ。そういうことへの配慮が今回の実施側の頭の中にはなかったように思われるし、文字式を使うということにいささか教条的に拘りすぎていると感じられる。


また、「論理の記述として大きく問題がある」ということと「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」とか「そもそも論理的に説明するための前提に立っていない」では、言葉のニュアンスに随分違いがある。こういく記述の揺れは決して好ましいものではないと考える。これは、「重篤な誤答=深刻な誤答」の定義に関わる問題である。そういうものが明示的に腑分けできるためにも、筆者や媒体によってその定義がふらつくべきではないと思う。


次回は、竹山氏の記事の「3.出題意図」の内容を検討したいと思う。

日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その9)─雑誌「世界」の新井・尾崎論文をめぐって─

 雑誌「世界」5月号(岩波書店)に、「『空想主義的』教育改革がもたらしたもの─大学数学基本調査の結果から」(新井紀子・尾崎幸謙)が掲載された。今回はこの記事を取り上げて、ここまでに指摘してきた論点に即して問題点を列挙してみたい。
  あえて冒頭に結論的な私の感想を述べておくと、率直に言って、報告書概要版から報告書抜粋、そして今回の「世界」記事へといたる一連の流れで見ると、もはや筆者たちは、分析の内容や言葉の選び方/定義を一貫したものとする努力を端から放棄して、その場の場当たり的な感覚で文章を書いているのではないかという疑念が生じる。それは、統計的分析とその信頼性を錦の御旗のごとく振りかざし、調査の内容やその分析の整合性や厳密性をないがしろにしているという以外にないとさえ思える。


(1)知識の問題

「大学生の数学力を広範囲に調査する」という前例のない試みである。「数学力」ろはいったい何か。それは、どのようにすれば測ることができるのか。
近年、研究者や評論家が語る「学力観」は多様化の一途をたどり、混沌ともいえる様相を呈している。その一方で、受験生や高校・受験産業の行動は、有名大学への進学実績という一点に向かって収束しているように見える。私自身、その引き裂かれた状況を見れば見るほど、何を調査すればよいかについて迷いが生じた。
しかし、約一年に及ぶ議論の末、教育委員会が出した結論はシンプルなものだった。まず、特別な知識を仮定せず、平易な日本語で書かれているふつうの教科書を読み解くことができること。特に、条件文を正しく読み取り、それを満たす具体例をいくつか思い浮かべられること。そして他の人と論理的なコミュニケーションが成立している状態とそうでない状態の区別がつき、自分が書いた答案の妥当性を批判的に吟味し修正する力を持つこと。このような力が完璧に備わっていることを求めるわけではないが、せめてそのことの必要性を認識しつつ小中高で学んでいてほしい。それは数学者の都合でも理想でもない。そのような力を軽視しては、人文科学か自然科学かなどによらず、大学でより発展的な学問を学ぶことが困難だと思えるからである。また生涯にわたって学び続けることなどできようはずがないからである。

問題は、小学校から高校一年の教科書に掲載されるもっとも基礎的・基本的内容のうち、数学固有の知識や計算力をなるべく問わないものから選んだ。

結論が「シンプル」かどうかはさておくとしても、この文章で述べられている「結論」と調査の実態とがお世辞にも符合していると言えないところが問題なのである。

第一に、「数学の知識」や「数学固有の知識」をさも求めていないかのような書きぶりは実態を反映していないと考える。
  例えば、問3において、「定規とコンパスのみを用いて」という場合、定規には目盛りはないとするのは「特別な知識」「数学固有の知識」ではないのか?そもそも「作図」の問題は、「数学固有の知識や計算力をなるべく問わないもの」に該当するのだろうか。あえて言えば、「小学校から高校一年の教科書に掲載されるもっとも基礎的・基本的内容」と言えるのだろうか。少なくとも私はそうは思わない。問3はそもそもここで掲げられている結論の一部と齟齬をきたしていると考える。例えば、「平均の定義」や「偶数と奇数の定義」あるいは「放物線の性質を調べる操作」も、数学固有の知識であろう。しかし、少なくとも、「平均の定義」や「偶数・奇数の定義」に比べたら、「定規には目盛りはない」ということや「作図」問題そのものが、より極端に「数学固有」の知識や内容に偏りすぎているのではないだろうか。あえて言えば「放物線の特徴」さえ、前者2つに比べるとかなり「数学固有」であると感じられる。数学を選択していない私立文系の学生にとって、「放物線」というものは使わなくなって久しいものである可能性が高い。使わなければそれを忘れてしまうということは起こりうる。それはまさにもう何年も触れていなかった「数学固有の知識」ではないのだろうか。
  問3は新井氏の発言も問題である。(その8)でも触れたように、新井氏は報告会において、「教科書には全部載っている。載っているのに学生が覚えていない。」と発言している。まさにこれは「知識」を問うたと表明していることに他ならないのではないか。
  問2-1においても、報告書抜粋では、具体例を示して証明終了としている答案に対して「定義に基づく演繹的な議論により現象を説明できることが数学の良さであるとの観点から、この群の答案も深刻な誤答とした」と述べている。「定義に基づく演繹的な議論」が可能な土俵のもっとも極端な分野こそ数学であり、他の分野では、こうした議論を数学的に厳密な意味で行うことはかなり困難であると私には思える。その意味で、こうした「数学の良さ」こそ「数学固有」の観点ではなかろうか。
  また、問2-2について、報告会や報告書抜粋では、「数学の価値観を伝えること」が強調されていた。それこそまさに「数学固有」の内容ではないのだろうか。

第二に、今回の調査で問うことができていない部分が含まれている。
  「具体例をいくつか思い浮かべられること」はこの調査では何も問うていない。問1-1や問1-2は確かに反例を考える必要はあるが、それがわかって選択肢を選んだかどうかはこの調査では判定できない。そういう設問形式になっていないのだから。偶然3つすべてに正解してしまうという誤差を除いた正答者が、反例まで正しく思い浮かべられていたかは不明だし、またその反例を言語化できたかどうかも不明である。
  「自分が書いた答案の妥当性を批判的に吟味し修正する力を持つこと」も今回の調査で問うことができているとは思えない。端的に言って、そこまでの時間はないし、そのようなことをするには問題の内容が基本的過ぎる。

第三に、文意に不明な箇所がある。
  「平易な日本語で書かれているふつうの教科書」とは何か。それは数学の教科書のことなのかそれ以外のものも含んでいるのか。問1-2の問題文のように、「公園に子供達が集まっています。男の子も女の子もいます。よく観察すると、帽子をかぶっていない子供は、みんな女の子です。そして、スニーカーを履いている男の子は一人もいません。」というような文章を読ませることや、そこから「男の子はみんな帽子をかぶっている」「帽子をかぶっている女の子はいない」「帽子をかぶっていて、しかもスニーカーを履いている子供は、一人もいない」という選択肢の正誤を判定させることが、「平易な日本語で書かれているふつうの教科書を読み解くこと」ができるかどうかを確かめることになるのだろうか。私にはこの問2-2のような文章は、あえてわかりにくく書いた問題のための文章という気がしてならない。
  「他の人と論理的なコミュニケーションが成立している状態とそうでない状態の区別がつ」くというのも意味不明だ。「コミュニケーション」とは、「与えられた問題に対する答案を書く」というようなこととは全く違う。例えば、質問者と回答者が向かい合っていて、「この答案のここがよくわからないんですが?」といわれて、「それはこういう意味です。」というような「相互のやりとり」があってこその「コミュニケーション」であろう。そういうやりとりの中で、自分の書いた答案や説明が相手に伝わっていないと感じたら、さらに詳細に説明したり例を挙げたりすること、それが「論理的コミュニケーション」であろう。そういうことをこの調査に求めるのは無理だ。また問2-1で、「1+2=3だから」と答えた学生に「それだと具体例で確かめたことにしかなっていないのですべての場合を尽くすにはどうすればいいですか」と質問したり、「偶数をたすことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数を足すと、いつも必ず奇数になるから。」と書いた学生に、「もう少し説明してください。文字式は使えますか?」と質問したりした場合、それには的確な応答が得られる可能性は否定できない。そういうやりとりを経て、「論理的コミュニケーションが成立しているかどうかを区別」することができているのかがわかるのではないだろうか。新井-尾崎両氏を含め、調査側は、こうした答案に、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」という烙印を押したのである。もはやそういう行為自体、「論理的コミュニケーションが成立している状態とそうでない状態の区別」がついていないのではないかと皮肉のひとつも言いたくなるのである。

第四に、「このような力が完璧に備わっていることを求めるわけではないが、せめてそのことの必要性を認識しつつ小中高で学んでいてほしい。」という記述と、調査側が設定した期待正答率には齟齬があると考える。
  報告会で明らかになったことであるが、調査側は、問1-1および問1-2に対して「90%」という期待正答率を設定していた。問2-1および問2-2に対してさえ「75%」という期待正答率を設定していたのである。数学選択者ではない学生が存在する状況で「75%」の期待正答率を設定することさえ私にはかなり高いと感じられるのだが、それをはるかに上回る「90%」の期待正答率を設定し、その上で、問1では「誤答率が高い」(提言p.2)などと述べる調査側の書きぶりは、「このような力が完璧に備わっていることを求めるわけではない」という記述と符合しないと私には感じられる。

第五に、「それは数学者の都合でも理想でもない。そのような力を軽視しては、人文科学か自然科学かなどによらず、大学でより発展的な学問を学ぶことが困難だと思えるからである。また生涯にわたって学び続けることなどできようはずがないからである。」という部分が独善的過ぎると感じられる。
  「まず、特別な知識を仮定せず、平易な日本語で書かれているふつうの教科書を読み解くことができること。特に、条件文を正しく読み取り、それを満たす具体例をいくつか思い浮かべられること。そして他の人と論理的なコミュニケーションが成立している状態とそうでない状態の区別がつき、自分が書いた答案の妥当性を批判的に吟味し修正する力を持つこと。」という「シンプル」な「結論」は、ひとつの理想としては結構なことだ。それを「そのような力を軽視しては、人文科学か自然科学かなどによらず、大学でより発展的な学問を学ぶことが困難だと思えるからである。また生涯にわたって学び続けることなどできようはずがないからである。」と述べるのは、ひとつの理想を述べているという評価は可能だと思う。しかし、実際の調査で出題された問題に今回調査側が求めた満足な回答をかけないからといって、それが即座に「人文科学か自然科学かなどによらず、大学でより発展的な学問を学ぶことが困難だと思える」とか「生涯にわたって学び続けることなどできようはずがない」と断定するのは行き過ぎだと感じる。
  例えば、問3の「作図」問題ができないと、「発展的な学問を学ぶことが困難」なのだろうか。「偶数と奇数の和が常に奇数となること」に「2n+2m+1=・・・」という文字式を用いた証明を付けられないと「発展的な学問を学ぶことは困難」なのだろうか。あえてもっと言ってしまえば、「例示と論証」の区別が付いていなかったり、「偶数と奇数の和が常に奇数であること」の「理由説明」としていくつかの具体例を挙げてみせるだけしかしなかったりすると「人文科学か自然科学かなどによらず、大学で発展的な学問を学ぶことは困難」なのだろうか。放物線の重要な特徴を3つ文章化できなかった人は、「人文科学か自然科学かなどによらず、大学で発展的な学問を学ぶことは困難」なのだろうか。そういう答案を書いた人の中には、「単に放物線の概形を書け」なら十分な回答ができた人がいた可能性も大いにあると私は思う。そういう答案たちをひとくくりにして、「人文科学か自然科学かなどによらず、大学で発展的な学問を学ぶことは困難」と断定できるのだろうか。
  確かに「大学数学」を学ぶ上では、「作図」はともかくとして、例示と論証の区別などは重要な観点であろう。そこを間違えたのなら大学一年の今からでも遅くないから修正すればよいと思う。しかし、大学で学ぶ学問というのは、教養知から専門知まで幅広い。例示と論証の区別がそもそもかなり難しい自然科学の分野もある。というより数学以外では、たとえそれが自然科学であったとしても、「例示と論証」が深刻にぶつかる場面はそう頻繁に起こるとは限らないと私は思う。例えば、「A⇒B」という合理的な説明がついていて、Bが確かめられたとき、「Aである」と結論することはできない。それはA以外の原因でBが起きたかもしれないからだ。そうした可能性を排除するために、A以外の条件をすべてそろえた対照群を用意して実験を行うということをよく自然科学では行う。その場合には、ごく簡単な意味での「命題論理」が使われている。そういう議論においては、「例示と論証」の齟齬ではなく、むしろ問1-2で使われている命題論理が大切になる。しかしその場合でも、問1-2のようなあえてわかりにくく書いた文章や自然言語で書かれた条件文の読解というよりは、もっとごく単純な「論理」が問われているのだろう。ましてや大学で学ぶ学問の中には、分野で言えば文学、方法論で言えば事例研究・地域研究のように、のような「数学的論理」とは相当距離があるものも数多く存在する。そういうことを考えても、当該記述は行過ぎていると私は思う。


(2)偏差値群との正の相関について

偏差値が上がると、正答率は顕著に高くなり、その順位が問題によって入れ替わることはない。その意味で、本調査の問題は数学力以上に「学力」を測るリトマス試験紙として機能したと言えよう。

「偏差値が高いほど正答率が高いのは当たり前」だと思われるかもしれない。しかし、それは、この調査で問われた内容が学力とイコールだと仮定したときに導かれる結論である。本調査が入試問題のように、知識を前提とした上で、応用力・発想力・思考力を問う調査であれば、その仮定は自然だろう。しかし、本調査の内容は先に例を挙げたように、どの子も等しくできなければ、それ以降の学びが困難になる等、彼ら自身が困ることがらばかりである。小中学校でつまずいたなら、それを修正する機会が十分に与えられるべき内容なのである。その正答率が入学しうる大学の偏差値に直結し、しかも全体の正答率が低いレベルに留まったということは、初等・中等教育の設計に何らかの欠陥があるといわざるを得ない。

「本調査の内容は先に例を挙げたように、どの子も等しくできなければ、それ以降の学びが困難になる等、彼ら自身が困ることがらばかりである。」という記述には無理があるのではないかということを再三指摘してきた。これ以上は繰り返さないが、このような独断こそがこの調査結果を解釈する記述として極めて不適切であると私は考えている。

他方、この記述からは、今回の調査結果と偏差値群とが正に相関していることををむしろ問題視していることが伺える。

しかし、そもそも、昨今は私立大学を中心として入試自体が複線化し、数学を試験科目として選択することなしに大学に入学している層がそれなりにいることはこの記事でも指摘されている。大学入試で数学を試験科目として使わなかった人が、偶数と奇数の和が常に奇数となることの説明に文字式を用いたり、放物線の重要な特徴とか線分の三等分点を作図する方法をものの数分で思い出せるだろうか。おそらくそれは難しいと思う。残念ながら人間は使わなければ忘れてしまう生き物なのだ。「小中学校でつまずいたなら、それを修正する機会が十分に与えられるべき内容なのである。」ということが仮に正しいとしても、学習した当時は理解していた可能性があるのである。「つまずきが放置」されていたのではないかもしれない。使わないから忘れてしまったのかもしれないのだ。そう考えると、偏差値群との正の相関は、数学を入試科目としてどの程度使用しているのかに当然リンクしていることが予想される以上、当然のことのように思う。それを「初等・中等教育の設計に何らかの欠陥があるといわざるを得ない。」と総括することに問題があるのである。使わないので忘れてしまったというのは、「初等・中等教育の設計」に欠陥があるのではなく、彼ら自身が指摘している「ゲーム理論的」あるいは「経済性」に従ってに行動した結果に過ぎない。「初等・中等教育の設計」と「入試システム」とは切り分けて議論するべきであろう。

教育に携わる人々がそれぞれに局所的な最適化を目指した結果、小中学校でのつまずきは発見されることなく放置され、中学校で最も重要な具体から抽象概念への接続や論証が軽視され、高校では入学早々に数学が不得意な生徒は私立文系クラスに組み入れられ、その中でマークシート方式の私見のみに特化したトレーニングを繰り返してしまったのではないだろうか。そのことによって、彼らは、本当は手に入れることができたはずの、つまずきを修正する機会を逸してしまったと考えられる。

という記述にも、「初等・中等教育の設計」と「入試システム」という2つの視点の混乱が顕著に見られる。小中学校段階で「つまづいていた」かどうかはわからない。もちろんそういう人もいるだろうが、それ以上に、相対的に他の科目の方が出来ていたという人もいるだろう。その結果、私立文系を選択すれば、理解していたことも忘れてしまうのである。大学生に今回のような調査をしたからといって、その大学生たちが小中時代に何をどのように理解していたかを推し量ることはかなり難しいと思う。これは「入試システム」にかなり大きな原因があると見る方が自然だと思う。

だとすると、それが問題であると考えるのならば、今回の調査に用いた問題が、文理を問わず大学生が身に付けていることが望ましい内容なのであるという積極的な根拠が必要になってくる。それが明示できてこそ「入試システム」に問題があると結論できるからである。
「論理的思考力」とか「論理を正確に解釈する能力」とか「論理を整理された形で記述する力」といったものを、文理を問わず大学生が身に付けていることが望ましいと述べるのは簡単だし、そういう総論は多くの賛同を得られるかもしれない。しかし問題なのは、そうした力を判定するために今回の調査に用いられている問題が適切だといえるかどうか、採点基準が適切だといえるかどうか、そこを明確に説明することが必要なのである。「文字式を使った論証」以外認めないことは適切なのか、「放物線の重要な特徴を3つ文章で述べること」や「線分の三等分を定規とコンパスで作図すること」が「文理を問わずすべての大学生が身に付けているべき力」といえるのか。そうした疑問に、明示的に言語化されたされた回答を提示できないのなら、「初等・中等教育の設計に何らかの欠陥がある」とか「入試システムに問題がある」などという前にまずその回答を練ることからはじめるべきではなかろうか。

今回の調査側の資料(報告書概要版、報告書抜粋、日本数学会からの提言)および今回の「世界」の記事を見ると、とにかく「数学は文理を問わずすべての人に必要であること」を完全に自明の前提としておいてしまい、上で述べたような観点やそしてそもそも「数学」という学問それ自体が、そうした力とどのような相関を持つのかといった点について、殆ど何の説明もない。これでは、反発を受けるのも致し方ないのではないかとさえ思う。

(3)「深刻な誤答」と「典型的な誤答」について

深刻な誤答とは、そもそも論理的に説明するための前提に立っていない答案である。たとえば、「2+1=3だから」のように例示と論証の区別がついていないものや、「三角と三角を足したら四角になるのと同じで四角と三角では四角にならないから」のように無関係な事柄からの類推は深刻な誤答と判定した。問2−2の深刻な誤答には、(二次関数のグラフの特徴として)「大きいグラフ」「狭いグラフ」など、主観的な印象と客観的な性質の区別がついていなかったり、「二つある」「右上」など、指示している対象が不明な答案が数多く含まれる。数学者が入試や期末試験の採点時に「まったく意味が通じない」と当惑していたのはこのような答案だったと思われる。

典型的な誤答とは、数学的に理解可能な何らかの操作を行ってはいるが、問題解決のための方略を間違えたために、誤答に至ってしまったものである。例えば、問2-1「偶数+奇数が奇数であること」を示そうとした際、「偶数と奇数は、整数nを用いてそれぞれ2n、2n+1と表すことができる」と書いたものが典型的な誤答の例である。問いでは、独立した偶数と奇数の和が奇数であることを示すことを求められているが、2n、2n+1では連続した二数以外の場合は証明できない。

問2−2において典型的な誤答と判断された答案は、(1)数学用語を正しく用いることができない、(2)論理的な文章が書けない、(3)重要な特徴が何かの判断ができない、の三種類に主として分類された。どれもが実はマークシートではスクリーニングが困難な観点である。

  私は調査側がどのような答案を「深刻な誤答」や「典型的な誤答」に分類したのかという分類の基準が明確とは言いがたいと感じている。この基準を何らかの形で明確に言語化できないのなら、「深刻な誤答へ至る背景の統計的な分析」に信頼をおくことは難しいと考える。であるからこそ、「深刻な誤答」と「典型的な誤答」の定義をはっきりさせること、個別の答案をどう評価するかという基準を言語化すること、そしてその上で、答案の内容を嘲笑しない言葉を選ぶこと、などが重要であると考える。私は以下の点を問題視している。

第一に、媒体によって「深刻な誤答」であるとか「重篤な誤答」であるというように表現が浮動しており、その定義には曖昧さが残っている上に、例えば「例示と論証の区別がついていない答案」をどう評価するかという観点が媒体によって異なるなど、一貫した説明になっていない点がある。
今回の「世界」記事において、「例示と論証の区別がついていない答案」は、深刻な誤答の中に入れられ、「そもそも論理的に説明するための前提に立っていない答案」とされた。これは、報告書概要版の記述とは一致しているが、日本数学会のシンポジウムで配布された報告書抜粋とは異なる。そこでは、「例示と論証の区別がついていない答案」は、深刻な誤答の中の[C-2]群に分類され、[C-5]群の「論理的に説明するための前提に立っていない答案」とは区別されている。こういう点で記述に揺れがあるのは、「そもそも論理的に説明するための前提に立っていない答案」ということの定義がはっきりしないことともあいまって、分析の正確さや出題意図そのものを曖昧なものにさせてしまうのではないか。

第二に、答案の例として掲げているものがどの程度の頻度をなしているものなのかが分からないことが挙げられる。
確かに例示と論証の区別が付いていない答案はかなりの数に上ったのだろう。しかし、「三角と三角を足したら四角になるのと同じで四角と三角では四角にならないから」という答案は同程度にたくさんあったとは、私には想像できない。これはかなりユニークな答えだと思われるからだ。ちなみにこの答案例は、報告書概要版には取り上げられているが、報告書抜粋では取り上げられていない。
「大きいグラフ」や「狭いグラフ」、「二つある」、「右上」などの答案例もどの程度の頻度なのかはっきりしない。報告書概要版の「深刻な誤答」の例には、「右下」「右上にある」「2本できる」「細い」はあるが、「大きいグラフ」「狭いグラフ」「2つある」「右上」というような答案例は挙げられていない。報告書抜粋では「2つできる」「広がっている。大きい」「小さい放物線になる」「細長い放物線」は挙げられているが、「大きいグラフ」「狭いグラフ」「2つある」「右上」というような答案例は挙げられていない。
これは第一の点とも関連するが、媒体によって取り上げられている例の書きぶりが変わってしまっているのである。少ない紙面であるから、もっとも頻度の多いものを重点的に取り上げるべきだと私は思うが、「主観と客観の区別が付いていない」とか「支持している対象が不明」とか「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」とか「そもそも論理的に説明するための前提にたっていない」というようなカテゴライズだけが突出していて、そのためのデータがどの程度把握されているのか疑問を感じる。

この2点はすでに前回以前にも指摘していた点がさらにはっきりした形だが、今回、「典型的な誤答」の説明についても、記述の揺れが見受けられたと思う。これが第三の問題点である。
「典型的な誤答」の定義は、もともと報告書概要版や報告書抜粋の中ではかなり曖昧で、具体的な答案例が示されているだけだった。今回、「数学的に理解可能な何らかの操作を行ってはいるが、問題解決のための方略を間違えたために、誤答に至ってしまったもの」との定義が与えられた。
報告書概要版では、問2-1について

典型的な誤答には、(1)独立な偶数と奇数を、同じ文字を用いて2n,2n+1と表す、(2)小学校の説明活動のように、文字を用いず碁石を用いて直感的に説明する、などがある。

と述べられていた。問2-2については

典型的な誤答には、間違った観点をあげる(例:原点を通る、頂点は(3,-17))、自己流の用語の導入(「上に凸」を「∩型」とかく、など)、挙げるべき3つの項目のうち空欄がある等がある。

と述べられていた。
また、報告書抜粋で「典型的な誤答」に分類された答案は次のように説明されていた。問2-1については、

[C-1]隣り合う偶数と奇数に対してのみ証明している答案
[C-3]C-1,C-2,C-4群以外で、論理的には大きな誤りがない答案
例1:偶数(ないしは奇数)を2個以上足す場合を考察している。(問題文を誤読している答案)
例2:正答例の冒頭や末尾の「整数」部分が「実数」となっている。(数学用語を誤用している答案)
例3:正当例の冒頭の「整数m,nを用いて」に対応する部分がない。
[C-4]論理的な誤りはないが何を証明すべきかが理解できていない答案や、厳密な証明ではなく大雑把な説明になっている答案
以下に答案の例を具体的に示す。
例1:「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
例2:「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
例3:「偶数と奇数は、『偶数、奇数、偶数、奇数、偶数、奇数、・・・』と交互に並んでいる。したがって、奇数を偶数の分だけずらしても奇数のままである。」

と書かれていた。問2-2については、

[C-1]採点者が想像力を若干働かせると解答者の意図が理解できる誤答
以下、カギカッコ内で該当する答案の例を示す。
例1:用語を混同して使っている。「y軸と(0,-8)で接する」「原点が(3,1)」「中心が(3,1)」「原点が(0,-8)」「y軸対称」「xは2,4を通る」「原点におけるyの値は-8」「軸がx=3を通る」「軸が正」
例2:グラフの特徴をつかむための過程で行う作業と、グラフの特徴を混同している。「実数解が2つある」「D>0」「実数解は2と4」「f(0)<0、f(0)=-8」
例3:数学的には正しいがグラフの特徴としてあげるには不十分。「原点を通らない」「定義域は実数全体」「いたるところ連続」「微分すると-2x+6」
なお2つ以下の特徴しか挙げていない答案でC-2群に分類されないものも、この群に含めた。

と述べられていた。

確かに問2-1では、「2n,2n+1」と隣接した偶数と奇数を設定してしまう答案がそれなりの数あったのであろうし、今回の調査に関して各所で掲げられた回答の中にもそうしたものが多く見受けられたようである。それを取り上げて「数学的に理解可能な何らかの操作を行ってはいるが、問題解決のための方略を間違えた」と評するのであれば、それはある程度理解できると考える。しかし、「問題解決のための方略」というのは、なお曖昧なままであると思う。問2-1で文字式を用いなかった答案は、大雑把であると判定されると典型的な誤答に分類されているが、それは「問題解決のための方略を間違えた」と評するべきなのだろうか。問2-1では「問題解決のための方略=文字式を用いること」だということなのかもしれない。しかし、「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」という答案例は殆ど文字式を用いているのと等価にも見える。これを「問題解決のための方略を間違えた」と総括するのには躊躇を覚える。そもそも、
例1:「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
例2:「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
という答案ならば、「問題解決のための方略を間違えた」と判定され、報告書概要版で「重篤な誤答」とされた
「偶数は2で割り切れて、奇数は2で割ると1余るということから。」
「偶数を足すことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから。」
という答案だと「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している答案」とか「そもそも論理的に説明するための前提に立っていない答案」と評されてしまうことになる。この区別の基準は、「問題解決の方略を間違えた」と「論理的に説明するのための前提に立っていない」というものだけではあまりに粗雑だと思われる。いささか穿った見方かもしれないが、とにかく分類することだけが先走っていて、その分類基準はあとから概括的な言葉だけを置いているというだけに見えるのである。典型的な誤答として取り上げた答案例を正確に特徴付けた記述にはなっていないように見えるのである。

問2-2の方では、典型的な誤答の中に、3つの分類が持ち込まれ、その後者2つが「論理的な文章が書けない」と「重要な特徴が何かの判断ができない。」である。これは、「問題解決の方略を間違えた」というカテゴリの中に入れるのが適切なのだろうか?私には疑問だ。
用語の混同や間違った観点は、単に間違っているということであり、「論理的な文章が書けない」というのはやや厳しすぎる。自己流の用語の導入や挙げるべき3つの項目のうち空欄があるというのも同様だ。
「グラフの特徴をつかむための過程で行う作業と、グラフの特徴を混同している。」や「数学的には正しいがグラフの特徴としてあげるには不十分。」というのも「論理的な文章が書けない」というべき観点ではないように思う。
この3つの分類の中でも「論理的文章が書けない」という観点の具体的な例が挙げられていないために、抽象的な記述に留まってしまっている。
そもそも「論理的な文章が書けない」と「論理的に説明するための前提に立っていない」とはどう違うのだろう。それはどのような基準で判定されたのだろう。
これは問2-1とも関係しているが、「論理的な文章が書けない」というのは問2-1で見ると、どちらかといえば「深刻な誤答」に分類されているように見えるのである。
「論理的な誤りはないが何を証明すべきかが理解できていない答案や、厳密な証明ではなく大雑把な説明になっている答案」を「論理的な文章が書けない」と評するのは行き過ぎだし、
例1:「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数。」
例2:「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
例3:「偶数と奇数は、『偶数、奇数、偶数、奇数、偶数、奇数、・・・』と交互に並んでいる。したがって、奇数を偶数の分だけずらしても奇数のままである。」
という答案も「論理的な文章が書けない」と評すべきではないと思う。
問2-2の場合だけに通用する言葉遣いを場当たり的に選択しているのではないかという疑いさえ抱く。

「重要な特徴が何かの判断ができない」の方は、報告書概要版で直接的に言及されていない。これも書きぶりの揺れの例であろうと思う。
報告書抜粋にある
例2:グラフの特徴をつかむための過程で行う作業と、グラフの特徴を混同している。
例3:数学的には正しいがグラフの特徴としてあげるには不十分。
という説明は確かに「重要な特徴が何かの判断が出来ない」と評価することは可能な内容であるが、しかしやはり「重要な特徴」とは何かという問題が残る。これはもちろん出題意図とも関係している。
例えば、報告書抜粋では「軸と頂点の座標を異なる二つの観点として挙げ、残る一つの観点を加えても二次関数が決定できない場合」は「準正答」としたと書いてある。
報告書概要版では、「重複する観点を挙げた」ものを準正解にしたと述べている。この「重複した観点」とは、「軸と頂点の座標を異なる二つの観点として挙げ」ていることを指すのだろう。
これは「重要な特徴が何かの判断」はできていると解釈するべきなのだろうか。
あえて言えば、「原点を通らない」「定義域は実数全体」「いたるところ連続」「微分すると-2x+6」というような答案例は「重要な特徴が何かの判断」ができていないとし、放物線を一意的に決定することのできない複数の観点をあげた答案であっても「重要な特徴が何かの判断」はできているとする基準の中身が理解できないのである。
「重要な特徴を3つ」と言われたら、「その3条件からもとの放物線が一意的に決定できるもの」が答えであるべきだと言うのなら、それはひとつの価値判断を提示していることになるのかもしれないが、それでは「準正答」の判定と齟齬があるし、そもそも3つである必要もないということになって設定に無理が生じる。残念ながら、「重要な特徴」ということの曖昧さと問題の設定がまずいのではないかといわざるを得ないのである。

この「世界」記事における「典型的な誤答」の説明は、具体的な答案例を包括する語彙の貧弱さからくる安易な断定と、「マークシート形式ではスクリーニングできない観点」ということを強調するあまり、整合性のない3つの分類を提示してしまうなど、やはり十分に検討して書かれているとは到底思えないものになってしまっていると感じられる。

(4)国語力との関係について

「得意・不得意」は成績とは異なり主観的なことである。また、数学などの理系科目と比較して相対的に国語が得意だったに過ぎない可能性も十分に考え得る。しかしながら、本来、論理的な読解や表現を学ぶはずの国語において、主観的な印象と客観的な性質の区別や、条件文の正確な読解に困難を覚える学生が「国語が相対的に得意」だと思い続けてしまったのは何故だろうか。
二〇一二年から本格的に実施される新指導要領ではすべての科目の基盤となる国語力の強化が叫ばれている。数学を学ぶ上でも国語力は重要であるが、「すべての科目の基盤としての国語力」と、実際に教えられている国語科の内容とは果たして合致しているのであろうか。

既に指摘してきたことだが、国語で求められる「論理性」や「主観と客観の区別」といったことと数学で要求されていることは、重なる部分もあるだろうけれど、質的に異なる部分も相当大きい。そのことに対する認識の低さに私は驚きを禁じえない。例えば、「すべての科目の基盤としての国語力」が想定する論理的思考力というのは、例えば、因果関係、順接や逆説、例示といった内容を表す接続詞の使い方というようなものであろう。それは「論証の中身」とは別のレベルである。すべての整数で成り立つことを証明するためには文字式を使うのが有効であるというレベルの「論理性」と国語力が想定する「論理的な文章を組み立てるための表現方法」とは別のものであるように思われる。主観と客観もそうだ。「すべての科目の基盤としての国語力」というのは、主観と客観という明確に峻別できるものがあって、それを区別しましょうというものであるというより、自分の見解はひとまず棚に上げて(=「主観」から離れて)文章の筆者が言いたいことを理解しましょうというレベルの話ではなかろうか。

数学的論理性と「すべての科目の基盤としての国語力」が想定する論理性とはそうとう隔たりがある部分も多く、またそれ自体が問題であるというよりも、数学という営みそのものがかなり極端な事例であると了解するべきなのではなかろうか。極端化した枠組みに適合できる人とそうでない人が出てくるのは仕方のないことで、適合しにくかった人がもう少しおおらかなレベルで「国語が得意」と感じることに私は何の不思議も感じない。

(5)第4節について
「現実主義的な教育改革の必要性」と題されたこの節は、おそらく新井・尾崎両氏の私見という扱いなのだろう。なぜこのような節を書かなければならなかったのか、今回の調査結果の説明という観点から見ると、あまりにも主観的な文章なのでどう評価するか正直悩ましい。少し記述を拾って問題点を指摘してみる。

今回の調査は、その「新しい学力観」が最も重視した判断力や論理的思考力を問う内容で、知識や技能を問う内容ではない。

このような記述に問題があると私が考える理由は再三述べてきた。問1-1の平均の意味や問1-2の「論理的」文章に対する設問はかろうじてこの文章に合致しているということを私は支持するが、問2-1、問2-2、問3は、やはり「数学固有の知識や技能」を問うていると考える。そのことの意図・意義・是非こそ議論されるべきで、「知識や技能を問う内容ではない」などという断定は間違っていると考える。

にもかかわらず、今回の調査の正答率が極めて低かったのはなぜなのだろう。また、そのもそも論理的コミュニケーションの前提に立っていないような深刻な誤答が続出したのはなぜなのだろう。

私は、こういう扇情的な書き方には反対だ。

問1-1の平均正答率を76.0%や問1-2の平均正答率64.5%を「極めて低い」などと形容することは疑問だ。問2-1の正答+準正答の平均33.9%は低いかもしれないが、これには採点基準の問題もあるだろう。問2-2の正答+準正答の平均53.0%も「極めて低い」というには無理がある。問3の正答+準正答の平均7.6%は確かに「極めて低い」が、これは問題の特性というべきだろう。また正答率自体、国公立から私立に至るまで相当の幅がある。そうした詳細があるにも関わらず、「今回の調査の正答率が極めて低かった」などという表現をするのは行き過ぎも甚だしい。深刻な誤答の方も同様である。「続出」などと形容するのは行き過ぎている。問2-1の「深刻な誤答」は全体で平均13.2%。問2-2はそれよりも低い。こういう値を「続出」などと言って欲しくない。

問3は与えられた線分(五センチメートル)を、コンパスと定規を使って正確に三等分する方法を箇条書きで書く、という問題である。この問題は、現在出回っているほぼすべての中学三年生の教科書の本文に図入りで掲載されている。しかし、私たちは、大学生の実態から実はこの問題は現場では教えられていないのではないかとの疑念を持っており、それを裏付けるためにあえて出題したのである。問3の全体の正答率は五問中最悪の七・六%であった。この問題は高校入試ではまず出題されない。高校入試に対する情報開示請求が認められるようになった結果、誰もが納得するような部分点の出し方を説明しづらい証明問題や作図問題を高校側は避けようとする傾向がある。高校入試で出題されない問題は、指導要領で教えるように求め、全ての教科書に掲載されたとしても現場では教えられないか軽視されてしまう。

ここでいう「高校入試ではまず出題されない」というのがどういう意味が曖昧である。作図の問題が出題されていないというのなら、それは誤りである。例えば、滋賀・大分・長野・東京・北海道・青森・群馬の平成24の公立高校入試問題には次のような作図の問題が出題されている。


(もちろん出題していないところもあるようで、例えば京都の平成24年の公立高校入試には出題されていないようである。このサイトで全国の問題にアクセスできる。
確かに線分の三等分は作図の問題としては少し手数が多いので、その問題自体が出題されることはないかもしれない。(すべての教科書に載っているのなら尚更入試では出しにくい。)しかし、学習指導要領で指定された作図の問題は全国で確かに出題されているのである。
この反例を見るだけで、もはやこの記述が何を言おうとしているのかも不明瞭になるし、なによりも根拠が薄弱であるということにならざるを得ない。
作図の問題の出来が悪いのは、教えられていないのではなく、単に高校入学後に扱われることがなかったために、忘れてしまったということなのだろう。その是非は議論の余地があるだろうが、この文章のような独断は間違っている。

八〇年代に入ると、新自由主義経済は子どもが消費者であることを発見し、その隅々まで触手を伸ばした。今や、子どもは教育も含めた生活の細部に至るまで「消費者」として経済に組み込まれてしまっている。現在の大学生は生まれたときから携帯ゲーム機やコンビニに囲まれ、小中学生時代から携帯電話に慣れ親しんできた若者たちでもある。当然のことながら、そのことは、彼らの価値観や行動様式を大きく変化させた。たとえば、今回の調査を実施した教員からは、「解答時間をもてあまして携帯電話をいじりたがる学生が多くて困った」という意見が寄せられた。たった数分の時間を、答案を見直すのではなく、形態につながっていないといられない学生の姿がそこに映る。

これが今回の調査といったいどういう関係にあるのか、どういう文脈で述べられているのか私には理解できなかった。しかし少なくともこの文章の後半は、今の大学生の行動様式を揶揄していると取られても仕方ない記述のように見える。こんな記述は不要だといわざるを得ない。

 教育という巨大産業に関わるプレイヤー(サービス提供者・消費者)の行動パターンを経済学的に分析することなく、教育理念や理想、あるいは単に思いつきのみにドライブされて「空想主義的」な教育改革を行えば、間違いなく失敗する。それは、ルソーの時代から変わらない。現在、認知科学や学習科学といった教育学の分野は、「科学」の手法を用いてはいるが、彼らの個別の研究対象は、幼児の言語獲得過程や計算中の脳の血流の様子など極めてミクロな現象に限定されている。そして、有識者の意見は、結局のところ個人的な体験談に過ぎない。どちらも産業化してしまった教育全体について科学的に分析する方法論は持っていないのである。にもかかわらず、本来プラグマティックであるべき官僚は、空想主義的教育改革を実行に移してしまった。
  教育に理想が不要だと言っているのではない。言うまでもなく、数学者は誰よりも理想を大切にする人々である。ただ、彼らは誰よりも真理を欲する人々でもある。真実を知るためには、まずはそこにある現象とその関係について数量的に徹底的に調べなければならない。そして、それは全数調査により競争を煽るというあざとい手法であってはならず、数理的な方法に基づいた公明正大な調査でなければならない。
  それは、やはりガリレオの時代から何も変わらないのである。

ルソーとかガリレオとか何を言いたいのか少なくとも私には理解できなかった。認知科学や学習科学を批判するのは自由だがむしろこの分野はミクロを見ることが一つの売りなのではなかろうか。マクロがないといってみても、それは分野の特性なのだから仕方がない。数学者は誰よりも理想を大切にするとか、誰よりも真理を欲するとか、そういう比較級に意味があるとも思えない。空想主義的とか現実主義的という言葉をもてあそんでも仕方がない。今回の調査側の問題点は、「数学の価値」を無前提に肯定し、今回出題した問題に込められた価値観を正当化するだけの明示的に言語化された根拠を語ろうとしなかったことにあると思う。にもかかわらず、大学生の能力を口を極めて論難してしまったのである。いずれにしても、今回提示された調査側の見解が、「教育全体について科学的に分析」した結果なのだとしたら、あまりにもお粗末だと言わざるを得ない。


(6)寄稿媒体について
  今回、新井−尾崎論文が掲載されたのは、雑誌「世界」5月号の特集「教育に政治が介入するとき大阪の「教育改革」批判─」の1編としてである。この特集のリード文は次のようにして始まっている。
「寒々とした光景が広がっている。
石原都政が10年以上にもわたって続き、教師の管理・統制強化と競争主義の導入が図られた結果、東京の学校現場から次第に教師同士の助け合い・協調性が失われ、教師は孤立し疲弊し、精神疾患が激増するようになった。
それまで教育に情熱を傾けてきた多くの教師が職場を去り、また新人教師たちには敬遠される職場となった。
それは東京だけの現象ではない。最近20年の間、政治家や政治集団が教育に強権的に介入することが多くなった。
教師たちはモノを言わなくなった。多様な考え方が認められず、自由に討論する場がなくなった。「日の丸・君が代」の強制、職員会議での挙手禁止などがその象徴だ。民主主義を教えるべき学校から、民主主義が失われつつある。
経済協力開発機構OECD)によると、2008年、日本の、学校など教育機関に対する公的支出の対GDP比は、比較可能な31カ国中最下位である。国が教育にお金を出さないにもかかわらず、日本の教育がこれまでそれなりに成果を挙げてきたのは、現場の教師と親たちの献身的な努力による。教師達は、教科や子どもの問題行動などについて、自主的な研究などを熱心に行い、実践を積み重ね、伝え合ってきた。
その姿が失われつつある。教師から情熱と士気が消えつつある。それは子どもにとって不幸なことであり、ひいては日本社会の将来を脅かすものである。
いま、その危険な政治介入が大阪で始まろうとしている。」
この特集に含まれるほかのタイトルを見てみよう。

  • 学校を死なせないために─子供を中心に再出発しよう!─(土肥信雄×尾木直樹
  • 政治は教育現場に何をもたらしたか─<未完のプロジェクト>としての教育の意義を(藤田英典
  • 収奪と排除の教育改革─大阪府における私立高校無償化の本質(中嶋哲彦)
  • 教育委員会は再生できるか─民主的システムを取り戻すために(小川正人
  • 最高裁君が代訴訟」処分違法判決をどうみるか─良心の事由によって得られたものと失われたもの(西原博史
  • 息苦しさと沈黙の学校現場─管理・統制に疲弊する教師たち(池添徳明)
  • 「空想主義的」教育改革がもたらしたもの─大学生数学基本調査の結果から(新井紀子・尾崎幸謙)
  • 市場化される子育て・保育─「子ども・子育て新システム」を問う(近藤幹生)

つまり、この特集は、教育への政治的介入、例えば石原都政や橋下府政市政に反対するという明確な政治性を帯びているのである。この特集が政治性を帯びていることが悪いといっているのではない。そうではなく、この明確な政治性を帯びた特集の中の一編として寄稿してしまうことは、この論文の意図も政治性を帯びていると理解されてしまうということを危惧しているのである。

それはタイトルや記事の内容とも関係している。「空想主義的」教育改革というタイトルの言葉を見れば、それが石原都政や橋下府政市政に象徴される「政治介入」のことだと誤解されかねない。また論文末尾から3-7行目にある

真実を知るためには、まずはそこにある現象とその関係について数量的に徹底的に調べなければならない。そして、それは全数調査により競争を煽るというあざとい手法であってはならず、数理的な方法に基づいた公明正大な調査でなければならない。

という文章は、それ単独では単に抽出調査を統計的に処理すれば十分だという主張をしたつもりなのであろうが、この特集の中で見れば、橋下府政市政に対する批判と理解されてしまうだろう。もし、新井−尾崎両氏がこの特集記事の政治性にコミットしているなら話は別だが、私は、日本数学会という組織が実施した調査の調査主体である二人がそうした政治性を強く帯びた雑誌で結果を公表し意見を述べるということには慎重であるべきだと考える。

例えば、日本数学会教育委員会からの報告(pdf)の項目8に

数学基本調査について.正解率の速報値が出ている.データをどう読むかの検討が必要.フォローアップ調査等も検討する必要がある.上記検討事項について理事会に諮り進める.最終結果については,報道発表,シンポジウム,一般書籍などでの情報発信を予定.(新井委員長)(注:11月初めに,「国立教育政策研究所が来年2月に五千人規模で論理と数学のテストを行う」との新聞報道あり.)

という記述がある。ここで言っている「一般書籍」なるものが、雑誌「世界」のようなものであるとしたら、私は両氏がこのような雑誌/特集を今回の調査結果について紹介する媒体として選んだその見識を疑わざるを得ない。

北川智子『ハーバード白熱日本史教室』への疑問(その1)

『ハーバード白熱日本史教室』(北川智子:新潮選書469)

ハーバード大学東アジア学部で日本史のクラスを担当するレクチャラーである北川氏の著作である。なるべく感情を抑えて客観的に書くと、ハーバード大学の風景、筆者北川氏の来歴や歴史観、北川氏の講義「Lady Samurai」と「KYOTO」の実況中継という3つの内容から構成されていると言ってよい。それを海外で活躍する日本人女性の紹介と好意的に見ることはもちろん可能だと思う。しかし、残念ながらこの内容では、筆者北川氏の自慢話しか書かれていないという反応が返ってくるのはやむをえないことのように思う。数学・生命科学・日本史どれにも造詣があり、ピアノ・お絵かき・スケートという趣味を講義に活かし、受講者は初年度の16人から、140人、251人と増え、スタンディング・オベーションが20秒も続き、学生からの講義の評価「キュー」ですばらしい点数を叩き出し、すべてのハウスに招待され、「ティーチング・アワード」、「ベスト・ドレッサー」賞や「思い出に残る教授」賞をもらった経歴。そういうことが本書のあらゆる部分にちりばめられている。こういう部分を読んで、「自慢話はいいかげんうんざりだから、内容的なものをもっと書いてよ」と思うのは、単に私が嫉妬深い性格だからだというだけではないと感じる。そう思うのも、講義の実況中継で語られる中身が驚くほど粗雑に映るからだ。

第5章には次のような記述がある。

「『Lady Samurai』のような大きな物語。」
「『KYOTO』のような、大きなプロジェクト。」
「歴史は、時代にあわせて書き換えられます。「ザ・サムライ」から「Lady Samurai」へ。何度も繰り返しますが、日本の独自性、そのなかでも特にサムライを前面に押し出す歴史叙述は、世界基準からして相当な時代遅れになっています。だからこそ今、新しい日本史を組み立てることが必要になっているのです。その使命の一端をになっているのが「Lady Samurai」のクラスなのです。
着任からわずか3年で、ハーバード大学で日本史を学びたいという人の数はぐんと増えました。私が提案する「Lady Samurai」という新しい日本史の語り方も、「KYOTO」という古都の勉強法も、どちらもサムライの魅力が届かないエリアにあって、かつ日本人以外の人に日本の良い面に新しく気づいてもらえる素敵なトピックです。ハーバード大学の学生たちがつくっているラジオ番組も、映画も、4D映画も、どれも新しい日本史です。コミュニケーション手段の変化に、歴史学もついていけるように進化をとげ、歴史の授業も変わっていかなくてはなりません。こうした手法がもっと急速に発展していくべきだとも思います。」


北川氏の鼻息は荒い。しかし、その内容には問題があると私は思う。本書で語られる北川氏の歴史観や講義の内容の問題点を、私の主観をこめて整理すると次のようになると思う。

1.「Lady Samurai」という概念を具体的な資料や人物に即して議論する部分でも、日本の女性の姿一般を論じる場合でも、根拠記述の薄弱さが付きまとうこと。(その2)

2.「KYOTO」という講義の設計が、率直に言って学問的なものであると見えないこと。(その3)

3.北川氏の言う「印象派歴史学」なるものの定式化が曖昧で、暴論にしか見えないこと。また、北川氏の言う「大きな物語」へのコミットの仕方があまりに無原則であること。(その4)

以下、これらの点について具体的な記述を見ながら述べたいと思う。

日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その8)─続・報告会に参加して─

  新井紀子氏の発言について、報告会における具体的な発言を取り上げてコメントしたいと思う。
  私は今回の報告会で表明された新井氏の見解を批判的に検討したい。新井氏の見解がどの程度まで日本数学会、あるいはその会員の間で共通認識化しているかという点は、より慎重な吟味が必要である。しかし、私はそのことには踏み込まない。あくまで遡上に載せるのは、公表された提言・報告書概要版・FAQおよび報告会で配布された報告書抜粋と報告会における新井氏の見解のみである。
  これは正式な議事録があるわけではないので、発言そのものを厳密に正確に書き起こしているわけではない。意味するところが変わらないように注意したつもりだが、もし新井氏の発言からズレてしまっているとすれば、その責任は筆者である私にある。また、発言順に振り返るのは避け、話題ごとに発言と私の意見を述べることにしたい。なお、発言の強調付けは私による。

調査結果について

この問題を見たとき、これで数学力の調査ができているのかということを疑問に思う方は少なくないと思う。
こんな簡単な問題で、あるいはこういう問題の形式で、問えるのかと。
もちろん「数学力」とはなんぞやという難しい問題はある。
しかし結果論から言うと、すべての設問において、偏差値ごとに右下がりの結果が出ている。
このことは、結果から言えば調査は、学力を図るという意味では、調査的には適切な問題だったというご評価を頂いている。

私は今回のことがあっていろいろな大学の入試問題を調べて見た。どの大学も難しい問題を出していて、偶数たす奇数が奇数になるというようなそんな問題は見たことがないけれど、
数字では十分スクリーニングができちゃう。これをどういうふうに受け止めればいいのかなと思っている。

多分数学の多くの先生は、あの問題〔問2-2〕を見て、異常に気持ち悪い問題だと、「重要な特徴」とは何ぞやと、こういうものを出すのは見識が疑われる、と思われたと思います。
これは入試ではなく調査で、どんなふうに書くかということを見たかったので、だったら正答率なんか出すなよというご意見も聞けそうですけど、
それは両面で見ていくということが必要なんじゃないでしょうか。
そして、スクリーニングができるということなんですね。
もちろん、あんな「重要な」なんて言い方をされて、混乱して、重要とはなんぞやと哲学的に考え込んで白紙になっちゃった子がいないとは限りません。
その子にはお気の毒だったと思いますが、これは試験ではないので、彼らの人生に何か悪影響を与えるわけではありません。
ご議論はいろいろあるかと思いますが、スクリーニングができたという問題だったということです。

「今回の学力調査の結果と偏差値群とが相関していること=スクリーニングできたこと」が強調されている。しかし、偏差値群と正に相関する結果が出たことと「問題が適切か」ということとは、少なくとも別の問題であろうと思う。それは、「適切」ということを判断するための基準の取り方に依存して決まるものだからだ。新井氏の発言は、「結果論としては」という言葉を免罪符に使って、問題の適切性を擁護しようという趣旨であり、「適切さ」の根拠を何も明示的に述べていない。「結果として偏差値群と正に相関する問題」を「適切」と定義しているのなら、それは単なるトートロジーに過ぎない。
  適切さの判断基準は様々に考えられる。
  ひとつの定義は、調査の目的を合致しているかどうかだ。今回の調査の目的として、

  • 「高等教育を受ける前提となる数学的素養と論理力を大学生がどの程度身につけているのか、その実態を把握」する(提言p.1)
  • 「大学新入生の数学的素養と論理力の実態を把握」すること。(報告書抜粋)
  • 「大学新入生の基礎的な数学力の実態について因子分析を行うこと、特に、数学の問題解決における言語表現に関しては誤答の具体的な内容を把握し、そのような答案に至る背景を明らかにすること」。(報告書抜粋)

という目的が掲げられている。統計的な分析は特に2番目と3番目に関係している。しかし、そもそもこの5問の適切性を「目的との合致」で判断するならばまず、それが、「高等教育を受ける前提となる数学的素養と論理力」を問うているかどうかの判断を行わなければならない。例えば問3の作図問題がそれに該当するのかどうかは当然議論の余地が残っているだろう。

   「実態を把握」するために適切であったかどうかも疑問がある。
  それはひとつには回答時間の短さである。慌てて間違えるということは問1-1,1-2では容易に起こりうる。そして問1-1,1-2では、「具体的な反例」を述べることは求められていない。正しく選べたが、根拠や反例を言葉で説明することができなかった学生も多くいたであろうことは想像に難くない。3つの小問をセットで正答できるかどうかが果たして「実態の把握」として適切なのかどうかが問題なのである。
  また、問題の問い方が回答の質に影響を与えてしまっているのではないかという点も指摘してきた。例えば問2-1で、「理由を説明してください」という問い方をしたために「文字式」を用いた説明を回避してしまい誤答と判定された答案の存在を否定できないのである。FAQp.2には、「式を用いず、言葉や図による説明を試みて不十分な解答にしか至らなかったのは全体の8.9%でした」と述べられている。この8.9%の答案が統計的に無視できるものなのか私にはなんとも言えないが、少なくともこのような回答を書いた学生が文字式による説明を求められれば少なくとも準正答レベルの回答を書いた可能性は決して否定できないと思う。問2-1で「文章で」と指定したことをにも問題があると指摘してきた。これによって、報告書抜粋で示されている5つの方法を遂行することのできる学生が、十分にその能力を回答に反映できなかった可能性を否定できないのである。

  そして、「誤答の具体的な内容を把握」という目的に照らせば、「どんな答案をどのような根拠でどういう誤答と分類したのか」ということが決定的に重要である。とすれば、当然、正答と誤答とを区別する基準が適切かどうかという問題になる。「深刻な誤答」と「典型的な誤答」とを峻別する基準が曖昧なら結果に信頼性は低下せざるをえない。特に問2-1でこれが著しいことを既に指摘してきた。

 もし問題としての適切性を「偏差値群と正に相関すること」と定義するのだとしても、次のような問題点はぬぐいきれないということも指摘しなければならない。

  • 学生の答案に対して、「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している」などなどの罵倒を浴びせる行為は正当化されないこと。
  • 今回の調査結果が、学生の「実態」を把握していると結論することはできないこと。「実態」を把握するには、「深刻な誤答」と「典型的な誤答」の腑分けのように、そもそも分類の基準が適切であるかどうかという問題点の検討が必要であることと同時に、そもそもたった5題しか判断材料がなく、しかもそのうちの1問は正答率が極めて低いという「事例の少なさ」もある。
  • 今回の調査で実際に答案として現れなかったとしても、日本数学会教育委員会)が、ある設問に対して「正答例」なるものを1つ設定し、そのほかの正答の「候補」について十分説明をしていないことは正当化されないということ。これは例えば問1-1の「有効数字」の考え方や問2-2の「重要な特徴」の基準が不明確であることに著しい。
  • たとえ偏差値群と正に相関しているといっても、現行の入試問題を今回の調査のような問題で代替できる/代替するべきという主張は正当化できないこと。少なくとも現行の入試制度がスクリーニングした偏差値群と正に相関しているというだけでは、現行の入試問題と今回の調査問題との間に「スクリーニング」という点では何の優劣も存在しないということである。(このことに関する錯誤は新井氏が入試問題のありようについて言及している点で著しい。)

などである。これらの観点はこのあとでも触れる。

深刻な誤答について

これでは「深刻な誤答でしょ」って私の方からいったわけではありません。
合議制で数学者が丸を付けたときに、「嫌だなぁ」と思ったものにはポストイットを付けて下さいとお願いしました。
それをデータに入れたところ、だいたいこういう傾向だなぁというものがでてきました。
ひとつは、主観的な印象と客観的な性質の区別がついていない誤答。
例えば、大きなグラフとか小さなグラフとか、右の方にあるグラフとか、下の方にあるグラフとか、何を基準にそう思っているのかがわからない。本人はそう思っているのかもしれないが、私達には伝わらない。
主観的な印象と客観的な性質の区別があまりついていらっしゃらないんじゃないかなぁと思う誤答がまずありました。
もうひとつは、指しているものがなんだかわからない誤答。
「2つある」とか、何が2つあるのか見てもちょっとよくわからない。
まぁそういうようなものがたくさんありまして。
それが先ほど宇野先生が話された、授業中にコミュニケーションがうまくはかれない学生がいるとか、ここ数年意味のわからない答案が増えたということの理由になっているのではないかと判断しました。

 私は、この問2-1は「深刻な誤答」と「典型的な誤答」と「正答」とを明確な根拠で区分けするにはグレーゾーンがかなり広くなりすぎているのではないかと考えており、その理由は、やはり設問が基本的過ぎるな部分を問うているからだと考える。これは問題の適切性と関係している。その点から見たとき、『「嫌だなぁ」と思ったもの』という極めて主観的な表現から何を読み取ればよいというのだろうか。これは採点した数学者に

  • 「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数」「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」という2つの答案例と「例3:偶数を奇数にするためには偶数を足しても駄目だが、奇数を足せばよい」「例4:偶数同士を足すか奇数同士を足さない限り、整数の和は偶数にはならない。したがって、偶数と奇数の和は奇数である。」という2つの答案例を明確に区別した根拠は何か?
  • 「割り切れないから」、「偶数をたすことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数を足すと、いつも必ず奇数になるから。」という答案を「重篤な誤答」と判断した根拠は何か?

などと問うても「嫌だなぁ」と思ったからだという答えしか期待できないということなのだろうか。学生の答案の「論理性」や「客観性」の欠如を指摘している当の調査側が、「典型的な誤答」と「深刻な誤答」とを区別する根拠を「嫌だなぁ」という感覚的なレベルでしか言語化できていないのだとしたら、その区別をもとにした統計的分析にどれだけの信頼性が期待できるのだろう。そして「嫌だなぁ」と思う回答を「重篤な誤答=採点者がかなり想像力を働かせても、回答者が何を意図しているかを理解が困難な、論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」とか「深刻な誤答」「論理的な説明の前提に立っていない答案」と言語化してしまうことで、さらに「主観性」に拍車がかかっている。「嫌だなぁ」では指しているものがどのような答案なのかがはっきりせず、合議した数学者はおのおのの主観に従って分類したにすぎないかもしれない。こんな説明しかできない人に「主観的な印象と客観的な性質」の区別ができていないなどと批判される謂れがあるのだろうか。
  また、y=-x2+6x-8を扱っている以上、原点や第1-第4象限をひとつの基準にして「右側」「右下」などという位置情報を述べる答案や実数解に着目して「2つある」と述べる答案が出てくるのは当然である。少し想像力を働かせてみれば、その答案が何を言おうとしているのかがある程度つかめる答案も散見されるのである。前者の「右側」とか「右下」という主張は放物線の全体を見ると実は正しくないが、y軸とは交わりますかと聞けばおそらく正しいy切片を答えるだろう。単に「2つある」では何を指示しているのかわからないとしても「この2つというのは実数解のことですか?」と聞けばYesと答えるだろう。確かにこれらの答えは説明としては著しく不十分である。しかしそれを「論理的説明の前提に立っていない」とか「採点者がかなり想像力を働かせても、回答者が何を意図しているかを理解が困難な、論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」と断定するとしたら、「コミュニケーション」を放棄しているのはむしろ調査側のほうではないかという皮肉の一つも言いたくなるというものだ。そうした「主観的な回答」が出てきてしまった理由として、「重要な特徴を3つ、文章で」と問うた設問の形式によるものかもしれないという可能性を一顧だにしない姿勢が疑問なのである。 「この放物線はどのような放物線ですか?放物線の特徴がわかるように概形を描いてください。」の方がまだ客観的設問になったのではないかということである。これもやはり問題の適切性とも関連している。

深刻な誤答については次のような例がありました。
例示と論証、類似性と論証の区別がつかない。
さきほど、2+3=5だからという例をいうと論証だと思う。「説明しろ」という言い方がわるいんじゃないかというご意見もありましたけど、中学校の教科書では「説明しなさい」というふうに書いてありますので。彼らはそれを見てないとは思えない。
例示と論証の区別がつかない。典型的な学生の答えにこんな答えがありました。10個やってみたら、10種類やってみたら、そうなったと。10個できると信頼できると。
そういう感覚があるのかもしれない、と。それは、もっと前の段階でそれとこれは違うんだよというふうに伝えてあげられたらよかったなぁって。
どうしてそういう気持ちのままきちゃったのかな、っていうか、来ちゃったのがいけないって言ってるんじゃないですよ、
そのことを直すためのチャンスがもっと前に、あったらよかった。その人もきっと幸せだった。
いや今が幸せじゃないって言っているんじゃないですよ、もっと幸せだったんじゃないかって思う。

主観的な印象と客観的な性質の区別がつかない。
これはたぶん、数学だけじゃなくて、ほとんど全てのところで、このあといろんな困難にぶつかってしまう。
これももうちょっと早い段階で、なんとかスクリーニングして修正する機会がもっとたくさんあったらよかったんじゃないかなと思いました。

典型的な誤答には、数学用語を正しく用いることができないとか
計算しなさいっていったら計算できるんだけど、そのことが重要なことなんだなぁってことは意識をしないで、やれといわれればやるというような感じの場合ですね。
そのことを見ても、数学の価値観っていうもの伝えていくっていうのも数学者の大きな仕事だと思うんですね。

あの、いや数学者は自由が好きなので、それぞれが何を大事だと思うかってのは大事だとお思いになる方がとても多いので、
それは枠にはめちゃいけないっておっしゃる気持ちはわかるんですけど、やっぱり私達は何かのコンセンサスでこういうものが大事だ、こういう特徴が大事だっていうふうに思っているわけですから、
そのことをもっと伝えたらいいんじゃないかな
というふうに思いました。

  学習段階の発達に応じて、どのような言葉がどのようなレベルの論証を求めているのかということは変わっていく。少なくとも「理由を説明せよ」と「証明」とでは、厳密さのレベルが全く異なるというのが高校終了時の認識だと考えるべきなのではないだろうか。中学生に対して使われている言葉遣いとその答えの形式から、大学新入生も同じように考えるべきだという断定こそが独善的なのだ。「彼らはそれを見てないとは思えない。」などというのは全く理由になっていないし、また「理由を説明せよ」と「証明」とで学生の回答がどの程度変わるかは今回の調査では検証できない。しかし、例えばFAQp.2で「『証明せよ』と書くとそれだけで無回答が増える可能性があるので避けた」という文章がある。「理由を説明せよ」と書くのと「証明せよ」で学生の行う回答に差があるとしたら、それは「理由を説明せよ」と「証明せよ」との間には求めている回答の質に違いがあると、少なくとも学生側が認識していることになる。証明せよと言われると何を書いてよいかわからないのだが「理由を説明せよ」なら「証明せよ」よりも少し厳密性に欠ける説明を述べてもよいだろうと考えて、、「偶数をたすことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数を足すと、いつも必ず奇数になるから。」と書いてみたら、あなたの回答は「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」であると断定されたのである。これは一種のハラスメントなのではないかと言ってしまうのは言いすぎであろうか。
  「証明せよ」と書くと白紙が増えるかもしれないから「理由を説明せよ」にしておこうなどという判断をするしかないような問題で、「高等教育を受ける前提となる数学的素養と論理力を大学生がどの程度身につけているのか、その実態を把握」するとか、-「大学新入生の数学的素養と論理力の実態を把握」するとか、「大学新入生の基礎的な数学力の実態について因子分析を行うこと、特に、数学の問題解決における言語表現に関しては誤答の具体的な内容を把握し、そのような答案に至る背景を明らかにする」ということに無理があるのではないだろうか。

  あえて少し過激な言い方をすれば、「例示だけで論証したことになる」と思っていることさえ、実態はもう少し正確に見る必要があり、しかもその分析を述べる際の表現は慎重にするべきだと思う。厳密な証明が思いつかないとき、具体的な例を使って検証してみることは大切だ。とりあえず厳密な証明として何をかけばよいかわからないから、いくつか例を書いておこうかもしれない。その学生は、もしかしたら、「例示」だけでは厳密な証明と言えないことは理解していたかもしれない。しかし設問で聞かれていることがあまりにも当たり前で証明できないので、仕方なく成り立つ例をいくつか書いたのかもしれないのだ。そういう学生に「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」という烙印を押したのだとしたら、やはりそれは一種のハラスメントなのではないかとさえ感じるのである。
  また結論がわからないとき具体的な例で実験してみることも大切だ。実際にはこうした態度を示さない学生は以外に多いのではないかと思う。つまり、「例を挙げただけ」の答案を「重篤な誤答」とか「深刻な誤答」と類型化して満足するべきではないと私は考える。結論のわからない問題に対して、適切な例を出して実験したり反証したりする能力をまずもっと明示的な形で問うべきだったのではないか。例示する能力はあるが証明する能力が十分でないといった詳細な分析が可能になったはずだ。結局のところ、私はこの問題は、いろいろな分析をするには内容・設問形式ともに適切ではなかったと考える。こういうことは問1-1でも言える。なんとなく正しい選択はできるが理由をうまく文章化できないとか反例の掲示が不十分だというような答案もあるだろう。そうした詳細な分析ができるはずなのに、それをせずに、問題は適切だったとか統計的に問題はないとか述べる一方で答案を罵倒するなど到底看過できるものではないだろう。

  中段の「幸せ」に関する発言が独善的なのは、広く合意が得られるのではないかと私は信じるが、あえて言語化してみると次のようになる。
  そもそも「幸せ」などというものは人によりそれぞれであって、新井氏が言うところの「例示と論証」の区別がつくからといって得られるものではない。それらはまったく別の概念だ。偏差値が高い大学にいようと、そもそも大学に通ってなかろうと、論理的思考ができようとできまいと、人は、幸せを感じることは出来るし、それが「論理的思考力」によってより強化されるわけではない。「偶数+奇数が常に奇数であること」の「理由説明」を「2n+2m+1=・・・」としなければ厳密とみなさないという「論理性」をもっているからといって幸せになれるなどというのは暴論であり傲慢だ。そうした「論理性」をもっていても、必ずしも幸せではない人はたくさんいるだろう。「幸せ」というのはそういうものではない。

 あえて揚げ足を取ることもできる。
 ひとつはこうだ。「例示と論証」とは確かに違う。しかし、われわれの日常では、演繹的議論を厳密な意味で適用することが困難であることが多く、本質的であると思われる例示を用いた帰納的議論が行われていることが多い。そのような議論に対して、あなたの議論は例示しているにすぎず厳密な証明ではないと噛み付くのはその人の自由だが、回りからは煙たがられるかもしれない。演繹的な議論をすることが難しいから帰納的な議論で合理性を裏付けようとしているのである。そういう議論の仕方を「非論理的」として受け入れるべきではないなどと考えたら、それは社会的生活を送る上で、幸せとは逆のリスクを負うかもしれない。
 もうひとつはこうだ。命題論理では、「AならばB」と「AでないならばBでない」は独立である。かりに「AならばB」が真でも「AでないならばBでない」は真とは限らない。だから、「例示と論証の区別を理解するともっと幸せになれますよ。」という新井氏の発言に、「区別できないと幸せになれないというのか!」と噛み付くのは間違っている。少なくとも命題論理的には。しかし、日常の論理では、「AならばB」と(執拗に)主張することは、「AでないならばBでない」を含意していると受け取られてしまう危険性が高い。論理的であることに忠実であろうとすればするほど、かえってその信頼性を錦の御旗のごとくに振りかざすことで、かえって周囲との溝は深まるかもしれない。
 さらにもうひとつ。「例示と論証の区別を理解するともっと幸せになれますよ。」が正しいとすると、「もし今あなたが幸せでないなら、それは例示と論証の区別が付いていないですよ。」という発言(対偶)は正当化されてしまいかねない。しかしこれは偽としかいいようがない。ある人が不幸せであるかどうかは、その人のおかれた様々な環境に依存しているのであり、「例示と論証の区別」なんかに還元されたらたまらない。

 新井氏が考えるところの「論理的思考力」を身に付けることで人は幸せになれるはずだという思い込みが暴論なのである。私は、報告書概要版にある「基本的論証力を身に着けているかどうかが、選択可能な進路の幅を大きく左右している可能性」(p.3)や「知識を総合する力の有無が、選択可能な進路の幅を左右する」(p.5)という書きぶりは乱暴だと思う。偏差値の高い大学に入ることが「選択可能な進路の幅を広げる」ことになるとは限らない。それはあくまでもひとつの尺度に過ぎない。これらの書きぶりでさえ、私は、「論理性」がだけが「選択可能な進路の幅」を決定するする尺度であると主張しているようで、いささか傲慢であると感じる。それが「幸せ」などというものに置き換えられたら、それはなおさら独善的であると言う他はない。

  後段の「数学の価値観」に関する記述も酷いと考える。
  その理由は、提言や報告書概要版や報告書抜粋のどこを見ても、「何が重要な性質か」という価値観について殆ど何も語られていないからである。
  あえてそれらしい部分を報告書抜粋から抜き出せば次のような部分だ。

本設問では、二次方程式の解の公式を使わずに因数分解でx軸との交点を求めることができる関数y=-x2+6x-8を題材にとり、その重要な特徴を文章で列挙することを求めた。「重要な特徴を挙げよ」という設問は、個人の価値観に関係するものであるため、このような設問を設定することについては内部でも異論があった。しかし、他の専門分野と同様に、「何が重要な特徴であるか」を判断し抽出することは、数学においても不可欠である。この観点において、論理的に正しいことは価値を持つための必要条件であるが十分条件ではない。若い世代に数学を伝える(教える)にあたっては、価値観も含めた数学の知恵を伝えることも必要であろう。
(中略)
与えられた放物線の特徴をつかむ方法として、中学3年および高校1,2年では次のような方法を学ぶ。
1.二次の係数から、上に凸(下に開いている)か、下に凸(上に開いている)かを決定する。
2.軸と頂点を求める。
3.x軸との交点があるかどうかを調べ、もしある場合にはその個数と座標を求める。
4.y軸との交点を求める。
5.導関数を求めて、その点で最大値(あるいは最小値)をとるか調べる。
さらに、高校3年では放物線の焦点と準線を求める方法を学ぶ。
以上のうちから適切に3つの観点を選び、数学的に正しいことを述べているものを典型的な正答例とする。

この記述のどこに「数学の価値観」や放物線のどのような特徴が「重要であるか」の判断基準が語られているだろうか。単に「価値観を伝える」と言ってみた所で、具体的なこの問題で何も語れないとしたら意味がない。一体放物線の特徴として何が重要な特徴なのか。「私達は何かのコンセンサスでこういうものが大事だ、こういう特徴が大事だっていうふうに思っている」というのだから、何か「コンセンサス」があるというのが前提なのだろう。しかしそれが何かはっきりしない。上で述べられている5個の観点は、みなそれぞれ単独では放物線の特徴の一つを述べただけだ。それでも「原点を通らない」とか、単に「実数解が2個ある」というよりはずっと具体的ではあるし数量的なものではある。しかし、単体で見れば、例えばy軸との交点(0,-8)と、別の通過点(1,-3)とに重要性の観点で優劣があるかという問題は当然出てくる。
 実は、報告書抜粋の「準正答」に関する部分で次のような記述がある。

軸と頂点の座標を異なる2つの観点として挙げ、残る一つの観点を加えても二次関数が決定できない場合、準正答に分類した。(軸がx=3であることは頂点が(3,1)であることに直接的に含まれる条件であり、異なる重要な観点として挙げるのは好ましいとはいえない。)

この説明を見ると、「3つの条件で二次関数が決定できること」というものを「重要な性質」として捉えているのだろうか。しかしそれでは、「(0,-8)を通る。(1,-3)を通る。(2,0)を通る。」でも「二次関数が決定できる」と既に指摘してきた。この3つの条件は「通過点を与える」という意味では全く同じ観点と言えるが、異なる通過点を挙げているという意味では異なる観点である。また逆に、「上に凸である。x=3に関して線対称である。y軸と(0,-8)で交わる。」という3つの観点はいずれも放物線の特徴について述べているが、これではもとの二次関数は決まらない。これは「重要な特徴を文章で3つ」という指示に該当しないのだろうかという疑問は解消されない。

  私は、二次関数を決定できる要件が「重要な特徴」という設問に適っているということには同意する。(他の観点もあるかもしれないが。)しかしそれが、「上に凸である。頂点の座標は(3,1)」である。y軸と点(0,-8)で交わる。」という3つに限られるとか、報告書抜粋にある%つないし6つの観点から異なるものを選ぶことに限定されるという意見には同意できない。、「(0,-8)を通る。(1,-3)を通る。(2,0)を通る。」は重要な3つの特徴である。「焦点が(3.3/4)で準線がy=5/4」というのは2つしかないが二次関数を決定する重要な観点である。「二次の係数が-1である。頂点が(3,1)である。」は二次関数を決定するのに十分な性質だが、放物線の特徴なのかと言われると少し疑問の余地はある。しかし、二次関数の重要な性質であることは間違いがない。
  
  私は、「価値観を伝えるべき」と言っておきながら、何が重要な特徴であるかを判断する基準なのかを明示せず、単に放物線から何か数量的なデータを読み取る操作だけを列挙するという態度はいささか納得できないし、また「正答例以外にも二次関数のグラフに関する観点は存在しうる。その場合には、複数の数学者による合議により正答かどうかを判定した。」などと述べておきながらどのような答案を正答と判断したのかを明示しないという態度にも納得できない。それ以上に納得できないのは、「3つ」という条件設定の拙さである。二次関数を決定するというだけなら2つで十分な場合もありえる。調査側が、様々な「重要な特徴」を列挙し、そのどれでも正答とする用意があることを表明しておかなければ、ここに挙げられた正答例やそれに準ずるものしか日本数学会は認めないのかと思われてしまう。そして私はまさに調査側がそういう答えしか端から想定していなかったし、実際に答案の中にそのようなものがなかったのを良いことに、「コンセンサス」だとか「価値観を伝える」と居直っているようにさえ見えてしまう。結局のところ、価値観を問う出題というのは非常に作成が難しく、何を正答とするかを限定することが難しい。それは仮に採点や統計上問題がなくても、それ以外の「価値観」には触れないという形でそうした異なる価値観を忘れさせてしまう危うさをはらんでいる。新井氏の発言は、そうした微妙な問題を置き去りにした極めて感覚的な議論であると言わざるを得ないのである。
 

問3について

この問題については、調査に協力してくださった方からも、何でこんな問題を聞いたんだというご意見がたくさんあった。
しかし、教科書には全部載っている。載っているのに学生が覚えていない。それはいったい何なんだろうということで調べたということです。
どこの偏差値群でもほとんど変わらない形になるということは、みんな知らない、みんなにとって非常に難しかったということですから、
いくつかの可能性があると思います。
教科書にはのっているんだけど、おしえられていない。さらっと教えられている。何につながるかわからなかったので教えられていない。
確かにこの問題って教えようとすると、定規とコンパスを取り出させて作図をさせなければならないので時間がかかる。
やるとなると三年生の二学期の後半くらいになることが多い。受験を考えると時間が惜しいと現場の方が考えられてやられていないのかもしれない。

「覚えていない」というコメントが出てくるということは、この問題は「その場で考えればできる」ということを意図したのではなく、単なる《暗記的知識》と問うたということになってしまう。
もともと10分という回答時間では、知らなかった学生はほとんど回答しようがなかっただろう。私は、他の問題にくらべてこの問題だけ、教科書の中でもかなり詳細な部分の「知識」を問うていることに違和感があったが、新井氏を含めた調査側はそれでも良いと判断したのだろうか。考える力と覚える力の間にそれ相応の関係があることは否定しないが、この問3ではあまりに「知識」「覚える力」に寄った問題になってしまっていることを、調査側が図らずも(?)露呈させてしまった。この問題が調査の目的に合致しているかどうかは、結果が非常に悪かったことも含め十分に検証するべきだ。

また、この発言の仕方だと、全ての教科書に載っていることは「覚えていなければならない」ということになってしまいかねない危うさがある。もしそのようなことを主張したいのなら、それだけの条件をまず自分(たち)が満たしていることを明らかにしなければフェアとは言えない。理科や社会でもそうなのだと身をもって証明できるのだろうか。英語や国語にしてもそうだ。全ての教科書に載っているのに覚えてないのがまずいという趣旨の議論に持ち込んではいけないと思う。

偏差値下位群では実測して3等分するという答えを書いた方が少なくなかった。
何がいけないんだっておっしゃる方もいらっしゃったんですけど、
実際は5cmなんです。測っていただいても、割り算をしても正確に三等分することはできない長さで出題しています。
私は大変印象深かった答案がありまして、
測ったところ4.8cmだったと。
3等分すると1.6cmになると書いてあって3等分してあった。
2mmって結構大きい。
たぶん測って5cmで困ったんだと思うんですね。4.8cmだって書いちゃった。
それって工学部的にも倫理的にもいけないんじゃないかって思いました。

 これは学生の答案からはわからないことを推測して、その学生を倫理的に批判している。こういう批判は、もともとあまりフェアなものではない。
単に学生が測り間違えただけかもしれないからだ。どうせ3で割り切れるに違いないという思い込みで4.8cmに見えたかもしれない。
それは確かに誤りだが、しかしそうだとしても「5cmで困った」から「4.8cm」とごまかしたわけではない。先入観で見誤ることと知っていてごまかすこととには雲泥の差がある。
新井氏の発言は明らかに学生が「知っていてごまかした」という学生の意図を断定するものであり、適切かどうかかなり怪しい。学生を嘲笑しないという趣旨から言って、このような倫理的批判を行うことは避けるべきだったと考える。しかももしそれが事実でなければ誹謗としか言い様がないものだ。

 実は、この問題で実際に4.8cmだった可能性があるのである。私は自分で印刷したpdfファイルの線分の長さを計測してみた。4.8cm弱だった。
なぜこのようなことが起きたのかというと、pdfファイルの印刷時に「用紙にあわせる」を選択しているとわずかに縮小されて印刷され、線分の長さが短くなるのである。
実際に「4.8cmだった」と書いた学生の答案に印刷されていた問題の線分が5cmであることを確認していることをまず明言してから話すのが最低限の責任だろう。
なお、今回の調査で実際には4.8cmだったということが広範に起きていないことを確かめるためには、調査に用いた問題用紙+解答用紙がどのような方法で作成されたかを明らかにする必要がある。
使用した問題用紙+解答用紙はすべて調査側が一括して印刷し、それが5cmであることを確認してあれば問題ない。逆に、調査に協力してもらった教員にpdfファイルだけをメールで送信し、教員側がpdfファイルを人数分印刷したというような場合には、上のような事情で実際の線分の長さが4.8cmだった可能性が出てくる。

国語が得意かどうかとの負の相関について

私はもともと文系で、もしかしたら国語が得意、数学が苦手という状態で中高を過ごしたんじゃないかと思うんですけれど・・・

国語っていうのは、主観的な印象と客観的な性質をきちんとわけたりだとか、論理的な判断力とかそういうことをきっとやっている科目のはずなので、
どうしてそこでちゃんとスクリーニングされないで、得意だと思っちゃったのかなぁと。

  国語が得意かどうかと今回の調査結果に負の相関が出ていることについて、新井氏のみならず会場からの質疑で話題になったことは既に(その7)で指摘した。
しかし、新井氏が行った第一の発言を見る限り、新井氏は上の第二の発言を自身に自問してみるべきなのではなかろうか。国語が得意かどうかと数学が得意かどうかということに負の相関があるかもしれない、その実例に新井氏自身が含まれていること、第一の発言が示しているのだから。新井氏の議論は、新井氏が考えるところの「論理的思考力」を持ち合わせてない学生が、国語を得意と思ってしまったことをありえないことだと考えているようだが、「どうしてそこでちゃんとスクリーニングされないで、得意だと思っちゃったのかなぁ」という発言は、第一の発言と合わせて、自分の場合さえ検証しきれていない独りよがりな発言としか思えないのである。

  あえて率直に言えば、国語で扱う論説文というものは、主観的文章に過ぎないことが多い。少なくとも簡単な命題論理さえ満足に証明したことになっていない場合もある。しかし、国語で論説文を読む場合は、その対象となっている文章を批判的に読んではいけない。どんなにその文章が論理的に破綻していても、その破綻している論理に寄り添って、筆者が何を言いたいのかという「設問」に答えなければならない。その設問に答えることは、回答者が自分の主観/批判的批評を入れてはいけないという意味では客観的な性質だけをもとに答える必要があるが、数学における客観性=「論証の正しさ」とは質的に異なっている。論説文の読解と数学における論証ではそうした頭の切り替えが必要になることは言うまでもない。
  国語が得意な側からすれば、やはり数学における論理/論証の厳密性、概念、言語いずれも日常体得しているものとは異なりすぎている。他方、数学が得意な側からすると、論説文で扱われている文章そのものが極めて主観的に見えがちであり、しかも選択肢を選ぶ場合であれ、記述式の場合であれ、何が正解かということの客観性に疑念を抱きがちであると思う。もちろん、国語も数学も得意だという人はいるだろう。しかし、普通は、国語と数学の間にはこうした論理の質的違いや互いの科目の性質の違いから来る困難などがあり、両者の得意さに正の相関があると考える方が非自明であると私は考える。
 

大学の講義や入試問題作成について

数学の知識を基本的には求めないような問題で、比較的容易な条件文の読解が難しかったということになりますと、
たぶん数学の抽象的な教科書の条件を読むのがとても難しいのだろうと思う。
だから覚えることでなんとかしようと思いがちになってしまわないかと心配している。

逆行列行列式の計算や初等関数の微積分の計算は、それほど困難を教えるときに感じていないとお答えでした。
それよりやや困難を感じているのは、部分集合と元を区別するというのが、意外に困難だった。
とっても困難だとおっしゃっているのは、写像の理解。全射とか単射とか、その区別ですね。それから存在命題が正しいことをどう証明するか。
これよりさらに難しいのが全称命題が正しいことをどう証明するか。
一番難しいとおっしゃったのが、同値関係、同値類、商、代表元。このあたりが一番困難だというふうにお答えされていました。

やはり定義とか、条件文からいくつかの例を思い描くことがとっても難しいというふうに皆さんおもってらっしゃって、
そのことっていうのは今回の調査結果と非常に符合する。
条件文が読めないとか、重要な特徴がつかめないとか、そのことからスタンダードな例と極端な例をいくつか思い浮かべられないとか、
そういうことが難しいという実態
が、大学でどういう単元を教えるのが難しいかというふうにみなさん思っているかということととても符合するなと思いました。

 ほんとうにそうだろうか。

 そもそも今回の調査は、ほんとうに「条件文が読めない」ということの証明になっているかどうかも怪しい。今回の問1-2の問題文「公園に子供達が集まっています。男の子も女の子もいます。よく観察すると、帽子をかぶっていない子供は、みんな女の子です。そして、スニーカーを履いている男の子は一人もいません。」はいかにも問題のための問題のようで、数学的な文章とは言いがたい。これは報告書抜粋の言うように「自然言語で書かれた文章から論理的な骨組みを正確に取り出す」ことを試している問題に過ぎない。数学の教科書にはもっとずっと厳密な書き方がしてあるはずだ。「重要な特徴がつかめない」というのも、今回の問2-2のような形で問うことは適切とは言いがたいし、これが数学の教科書を読むのにどの程度関連しているのか不明だ。「スタンダードな例と極端な例をいくつか思い浮かべられない」とか「定義とか、条件文からいくつかの例を思い描くことがとっても難しい」ということを今回の調査から結論するのも無理がある。今回はそうした「例を実際に作ってみせる」という設問は用意されていないのだ。例えば問1-1や問1-2は、回答者が自分で反例を考える必要があるが、それでも7割ないし6割の解答が完全に正解しているのである。もしこれらの学生がみな反例を適切に構成できているとすれば、このような批判はあたらない。しかし実際にそうであるかをこの調査結果から確かめる方法はないのである。

 そして私はこのような議論を目にするとき、論理的に考える能力があれば、数学的概念を必ず理解できるかのような決め付けが働いているのではないかと疑ってしまう。もちろんここでの主張を命題論理的に解釈すれば、「条件文が読めない、ならば、大学数学で登場する概念が理解できない」ということだろうから、かりに条件文が読めたとしても大学数学の概念が理解できるとは限らないということを含意している。しかし新井氏を含め、このような主張をする場合、「条件文が読めれば、大学数学で登場する概念は理解できる」と言っているように聞こえてしまうのである。大学数学で登場する概念は、例に挙がっている写像の性質や同値関係などにしても、もともとそれほど理解しやすい概念とは言えないと思う。概念それ自体が難しいのである。それをどう教えるかは、例えば動機付けの問題などとも絡んでいるし、そう簡単に断言できることではないと私は考える。単に論理的であればよいというものではないと思うのだ。

私見ですが、入試問題作成をするとき、数学的に厳密であるかってことを皆さんとても気にされていると思うんです。
でもそれを追い求めすぎると、出題範囲とか出題形式とかがものすごく限られてきちゃって、それはもう予備校側にも学校側にも読まれてしまうような気がするんですね。
その中でトレーニングをしがちになってしまうので、スクリーニングに失敗しやすいのかもしれない

できるとわかるの違いを見ようと思ったら、そこまでの厳密性ということじゃなくって、もう少しおおらかな問題というのもあっていいのかなぁと、今回調査をしてみて、あんな問題でスクリーニングできてしまうことにショックを受けつつですね、
そういうふうに思った次第でございます。

そして新井氏の報告を締めくくるこの発言は、いままでの議論の根底にあったものを打ち壊してしまう酷い議論だと思う。

  第一に、少なくとも新井氏は、今回の調査に関して寄せられたであろういろいろな疑問に対して、「これは試験ではない」ということを理由に自らの妥当性を主張していたのではなかったのか。試験ではないのだから、問題の設定や正答と判断する基準に少々の曖昧さがあっても統計的分析結果が妥当なら許容してくれと要求していたのではなかったのか。にもかかわらず今回の調査結果を根拠に、入試問題の作成について意見を述べるというのは完全に今までの態度を翻してしまっている。入学試験は当然受験生の一生を左右する可能性がある。だからこそ数学的に厳密であることは当然要求されるものだ。1点が合否を分ける以上、その基準はたとえ数学者たちの合議で決まるとしても答案を差別化する基準は明確でなければならない。今回の調査の問題、特に問2-1や問2-2はそれにはそぐわないと考える。また、現実問題として平均してみると6割以上の学生が正解してしまうような問1-1や問1-2も実質的に入試の合否判定においてはあまり役に立たない設問である。特に国公立Sでは9割から8割の学生が正解しているので尚更である。逆に問3は準正答まで入れても全体平均7.6%の受験生しか解答できないことになり、やはり合否の判断には役に立たない。国公立Sならば222.6%だからかろうじて判定の役には立つかもしれないが。結局、設問の適切性から言っても平均的な正答率から言っても、今回の5問いずれをとっても実際の入試問題に供するには不十分であるというのが私の考えである。

  第二に、いったいいついまの入学試験が「スクリーニングに失敗」したというのであろうか。実際には、今回の調査結果と大学の偏差値群というのは正の相関を持っているのであり、入学試験でのスクリーニングと今回の調査に使われた問題におけるスクリーニングでは、ことスクリーニングが可能であるという点でみる限り何の優劣もないし、入学試験がスクリーニングに失敗しているなどという結論は導かれえない。「出題範囲とか出題形式とかがものすごく限られてきちゃって、それはもう予備校側にも学校側にも読まれてしまうような気がするんですね。その中でトレーニングをしがちになってしまうので」というのは今回の調査結果とは何の関係もない、単なる新井氏の主観の表明に過ぎない。
  スクリーニングという観点では現在の入学試験のレベルと今回の調査に優劣がない以上、この観点ではどちらを採用することも一見可能である。しかし、私は、今回の調査のような問題を大学入試問題として利用することには反対だ。その理由は、大学入学試験で課される数学の内容は、結局のところ良かれ悪しかれ高校までの数学としてこなしておくべきゴール地点を明示するものだからである。今回の調査問題で使われた5題を高校までの数学でこなしておくべきゴールとはみなせないと考えるからだ。たとえ、「偶数+奇数が常に奇数であること」を「2n+2m+1=・・・」と厳密に論証できるようになったとしても、微積分に一度も触れたことがないような学生が大学4年間で微分積分の厳密な取り扱いを学べるはずがない。それには4年間という時間は短すぎる。今回の調査問題のような形の入試問題が増えればそこがゴールになってしまう。内容を少し削ってそれぞれの話題を確実に理解させようという考え方は一見すばらしいかに見えたが、結果的には学生が理解したり触れたりしたことのある分野の量も質も低下してしまってその先が積み上げられなくなってしまった。それが「ゆとり教育」に潜むひとつの陥穽であったはずだ。今回の調査問題のような問題を大学入試問題でも使うべきだとする新井氏の議論には、実は同じような陥穽が潜んでいると私は考える。
  確かに数学は積み上げ式の学問なので、以前までのことの理解がおろそかな場合、その次を積み上げることが難しい場合もある。しかし、それはただ徒に基礎基本にもどって一から論理的に組み立てましょうということではない。高校までの数学の理解において、少々理解の厳密さに怪しさがあったっていいじゃないか。意味はよくわからないけれど計算や操作はできるという部分があったっていいじゃないか。それはやがて大学でより体系的に整理された形で与えられ、そしてより進んだ内容がさらに積み上げられていくのだから。すべてを一から完璧に積み上げておかなければ先に進めない、次をつむことは決して出来ないという考え方に私は与しない。少し意味がわからなくても考え方や例や計算に触れておくことで、やがて別の視点や方法が与えられたときに理解できる可能性が増すのだ。


  以上、報告会の新井氏の発言を分析してみた。あえて率直に言えば、新井氏の発言には、新井氏自身の価値観が反映されているという意味で主観的な発言が非常に目立ち、議論としてはかなり丁寧さを欠いていると私には感じられた。

日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その7)─報告会に参加して─

日本数学会教育委員会主催のシンポジウム「第1回大学生数学基本調査の報告」に参加してきた。報告書の抜粋が資料として配布された*1

私は今回配布された報告書の抜粋やシンポジウムでの各氏の発言などについて、強い違和感を覚えているし、また少なからず憤っている。あえて過激に言えば、今回の調査で調査側に至らぬ点があったこと、まずい表現や記述があったということをどうしても認めたくない、そのための「言い訳」をしているように見えた。「結果的にスクリーニングできた。」とか「統計的には問題がなかった。」といった発言が複数あった。しかし、ある調査をして、その設問の正答と誤答とを区別する以上、その根拠が明白になるように設問を工夫し、また適切な説明を与えることは決定的に重要であり、また日本数学会という組織がそうした調査をする以上、単なる結果論だけではなく設計・結果・分析など調査全体あらゆる部分が問題になることは明らかである。そのことへの認識が低いことが、非常に不愉快だった。まずかったところはまずかったと率直に認めないと、調査そのものの意義が失われかねないと考える。私はいま、丁寧にまとめるだけの冷静さを失っているので、ひとまず疑問点や批判点を思いつくままに箇条書きにしてみたいと思う。

(1) 「重篤な誤答」という表現が「深刻な誤答」という表現に変化した。
ただし、「深刻な誤答」の多くは「論理的に説明するための前提に立っていない答案」とされているが、問2-1ではひとつ例外がある。問2-1が最も顕著な例となっているので、これを取り上げてみたい。

問2-1に関して、誤答群C中で「深刻な誤答」に分類されたものは、

[C-2](具体例を示して証明終了としている答案)
[C-5](論理的に説明するための前提に立っていない答案)
である。[C-2]では次のような補足説明がある。
「定義に基づく演繹的な議論により現象を説明できることが数学の良さであるとの観点から、この群の答案も深刻な誤答とした。なお、具体例の個数が極度に少ない答案はC-5群に含めた。」
[C-5]には次のような説明がある。
「極度に説明不足の答案や、論理的に大きな誤りがある答案など。時間切れで中途半端になった答案を含む。」
C-5には次の5つの具体例が掲げられている。
例1:1+2=3だから。
例2:偶数と奇数が「偶数、奇数、偶数、奇数、偶数、奇数、・・・」と交互に並んでいるから。
例3:偶数を奇数にするためには偶数を足しても駄目だが、奇数を足せばよい
例4:偶数同士を足すか奇数同士を足さない限り、整数の和は偶数にはならない。したがって、偶数と奇数の和は奇数である。
例5:学校で習ったのだから「偶数+奇数=奇数」が間違っているはずがない。

他方、例えば
「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数」
「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
という答案は、C-4群(論理的な誤りはないが何を証明すべきかが理解できていない答案や、厳密な証明ではなく大雑把な説明になっている答案)に分類され、「深刻な誤答」からは外されているようである。


しかし、報告書概要版p.3-4の記述をよく思い出してみるべきである。報告書概要版は次のように述べていたのであった。

重篤な誤答には、1.いくつかの例を示すことで論証したと考えるタイプ、2.奇数や偶数の定義が間違っているタイプ、3.トートロジーを繰り返す、4.あいまいな言説への逃避や無関係な事柄からの類推、などがある。以下が実際の答案の例。
「2+1=3、4+1=5だから」(タイプ1)
「思いつく奇数と偶数を足してみたらすべて奇数になったから」(タイプ1)
「偶数を2x、奇数を1とおくと、その和は2x+1」(タイプ2)
「割り切れないから」(タイプ3)
「奇数は奇数をたさないと偶数にはならないから。」(タイプ3)
「偶数は2で割り切れて、奇数は2で割ると1余るということから」(タイプ3)
「どんなに数が大きくなろうとも、1の位は同じ循環をし続けるから」(タイプ4)
「偶数をたすことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから」(タイプ3,4)
「三角と三角を足したら四角になるのと同じで、四角と三角では四角にならないから」(タイプ4)

そして報告書概要版p.5で「重篤な誤答」を「採点者がかなり想像力を働かせても、回答者が何を意図しているかを理解が困難な、論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」と定義していたのである。
明らかに概要版の書き方と報告書抜粋の書き方には相当に決定的な違いがある。そうした点も含めてたくさんの問題点があると考える。これらについて十分な説明がなかったし、またする意思があるのかどうかも不明であった。

  • 具体例を挙げただけで証明終了としている答案を「重篤な誤答」=「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」と断定したことは撤回するのか不明であること。
  • 例えば「割り切れないから」、「偶数をたすことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数を足すと、いつも必ず奇数になるから。」といった実際の答案の例が、報告書抜粋では取り上げられていない。これらの答案は誤答群Cの中にどれに分類されたのか全く不明である。
  • 「偶数は2で割り切れて、奇数は2で割ると1余るということから」を「トートロジーを繰り返す」と断定していたにも関わらず、「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」という答案を「論理的な誤りはないが何を証明すべきかが理解できていない答案や、厳密な証明ではなく大雑把な説明になっている答案」と分類することには雲泥の差がある。
  • 「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数」「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」という2つの答案例と「例3:偶数を奇数にするためには偶数を足しても駄目だが、奇数を足せばよい」「例4:偶数同士を足すか奇数同士を足さない限り、整数の和は偶数にはならない。したがって、偶数と奇数の和は奇数である。」という2つの答案例を明確に区別する根拠が不明瞭であること。後者は深刻な誤答に分類され、前者は典型的な誤答に分類することに不自然さを感じる。
  • 「論理的に説明するための前提に立っていない」という表現の意味が不明瞭であること。例えば、「時間切れで中途半端になった答案」がなぜ「前提に立っていない」とされるのだろうか。

重篤な誤答」=「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」という表現を「深刻な誤答」「論理的説明の前提に立っていない答案」とややマイルドにしたつもりなのだろうか。しかしいくら表現を変えてみたところで、調査側の真意に変化がないのだとしたら意味がない。覆水盆に返らずである。既に報告書概要版で、様々な答案を「重篤な誤答」=「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」と断定してしまったのである。もしそうした評価をしてしまったことを反省するなら、まずそのことを説明しなければならないはずだ。

(2) 問3の正答例について。
 シンポジウムでは、問3の解答例中で「平行な線分を定規とコンパスで作図すること」に対する説明が不足している点について説明があった。
実際、この説明を正答例に含めるべきであるという意見も相当あったようだ。しかし、そこまで入れてしまうとおそらく10分では難しいのではないかという意見や、これは中学校の教科書に基づいた正答例で、中学校の教科書では、平行な線分を作図することはすでに扱っており、それは前提とした上で「線分の三等分を作図すること」を問うているのだという。
 率直に言って私にはこの説明は意味不明であるとしか言いようがなく、一回聞いただけでは何を言っているのか理解することができなかった。何を正答と判断するかということと何が模範解答の例であるかを区別することは「きほんのき」であると私は考えている。つまりこの説明は、「正答例」というこの例は、ここまでかけていればOKであるということであって、完全な模範解答ではないということなのだろうか。そういう説明をする調査側が、報告書概要版p.6で「作図方法を過不足なく表現した回答はきわめて稀であった。」などと論評を加えることが信じがたい。このような調査で「正答例」と書けば、それは「模範解答」であると受け取られるのが当然であると私は考える。
 しかも中学生の教科書は一連の流れの中で「線分の三等分点の作図」を掲げているのに対し、今回は単体の問題として「線分の三等分点の作図」を出題しているのである。その正答例が教科書に書かれているものと同じでよい、「平行な直線の作図」はそれ以前の単元で学習しているから明示的に記述しなくてもよいという理屈が私には理解できない。単体の問題である以上、それだけで模範解答と呼べるものを提示するのが当然ではないだろうか。
 また、問2-1では、「m+nが整数だから」という根拠を明示ししていないものや冒頭の書き出しを「m,nを整数とすると、2mは偶数、2n+1は奇数になる」と始めた答案をいずれも「準正答」に分類して「正答」とは区別している。シンポジウムでも、そのあたりを譲ってしまうと「日本数学会もいいと言っている」ということになってしまうので、準正答と区別したというような趣旨の説明があった。これでは問2-1で求める厳密さと問3の正答例に関する説明と整合的ではなくなってしまっている。
 模範解答例を示し、「○○の部分は十分に説明できていなくても正答にします。」とだけ注釈を入れれば済む話なのである。どうしてそのようにしなかったのかわからないが、調査側の正答例を書くということに対する稚拙さ/意識の低さを感じた。それを意味不明な言い訳で取り繕っているとさえ感じられてしまう。

 実は別の箇所にも「正答例」と「模範解答」の区別がはっきりしていないことを示唆する箇所がある。報告書概要版p.1の下から6行目に

「調査票本体および模範解答は別紙として添付」

とある。この「模範解答」と「正答例」はどう違うのだろうか。「模範解答」というのは一点の曇りもない完全に満点の解答であるべきだ。正答例は、これでも満点を出しますよというレベルでも良い場合がありうる。それは私の考えだ。結局のところ、調査側は「模範解答」と「正答例」の区別に鈍感であったと言わざるを得ない。

(3) 「誤答」と断定することと「統計的に問題ない」と強弁することの傲慢さ─問1-1の平均に関する問題について─

問1-1の平均に関する問題では、「100人の身長を測り、その平均を計算すると、163.5cmになりました。」という記述が正確に163.5cmという意味なのか、有効数字小数点以下1ケタでの数値なのかが不明だという意見があり、仮に有効数字小数点以下1ケタであると考えると、選択肢の2番「100人の生徒全員の身長を足すと、163.5cm×100=16350cmになる。」という記述が「確実に正しい」とは言えないのではないかという批判があった。

この批判に対して、シンポジウムでは次のような2つの観点からの説明があった。

  • ひとつはデータの面からの説明で、問1-1の3つの選択肢に対して×××を回答した答案は164名で全体の2.8%であり、理工系に限ると1.8%であった。もしこれらの答案が(2)の選択肢で「有効数字」に基づいた考え方をしたのだとしたら、その方たちには気の毒かもしれないが、統計上は問題ない。
  • もうひとつはカリキュラムの面からの説明で、この設問は大学で統計を教えている先生を対象としているものではなく、あくまで対象が大学生である。いまの大学生は、統計の考え方について高校までの間に十分に学んできているわけではないということをまず理解して欲しい。その点から考えると、この選択肢(2)を有効数字の考え方を使って誤りであると判定してしまうということは、今の大学生を対象として考える限りあまり現実的な問題点であるとは考えにくい。

というものである。

私はこの説明に全く理がないとは思わないが、少なからぬ問題を孕んでいると思う。
第一に、今回の調査は、単に統計的処理をするというだけではなく、何が正答で何が誤答かをはっきりと選別してしまっているのである。選択肢(2)は○が正答であり、×は誤答だと判定してしまっている。×だと答えた人が気の毒だとか統計上問題ないという前に、×という答が間違っていると断定してしまったところに問題がある。有効数字に基づく考え方を「誤答」と断定したことは、高校までのカリキュラムに含まれているかどうかや対象が大学生かどうかに限らず、間違っていると考える。
第二に、3つとも×をつけた回答の数しかチェックしていないので、(2)の選択肢を吟味する上で、どれだけの人が実際に有効数字の考え方で議論したかは把握できない。これは根拠の記述を求めなかった設問の構成に問題があるのであり、そのことは「統計上問題ない」という議論で完全に払拭できる類のものではない。
第三に、カリキュラムといってもことは数学だけの問題ではない。理工系ならば、有効数字の考え方はすでに理科のカリキュラムの中でかなり扱われているのである。(高校)数学では「平均は163.5cm」と書かれたら「丁度163.5cm」の意味であり、(高校)理科では、小数点以下1ケタの有効数字を意味するという使い分けがなされており、その意味では、「平均は163.5cm」という記述でさえ、ある種のテクニカルタームなのである。そういうことを無視して、相手は大学生なのだから高校数学のカリキュラムだけ考えればよいという反論では不十分であろう。

(4) 「誤答」と断定することと「統計的に問題ない」と強弁することの傲慢さ─問2-2の放物線の重要な性質について─

与えられた放物線の重要な特徴を3つ文章で答えさせる問2-2においても、「重要な」という価値観を問う出題であることや「3つ」という制約について批判があったようだ。

今回のシンポジウムでは、例えば、放物線の重要な特徴として2つを挙げ、それによって唯一つに放物線を確定できるようなものであって、しかも第3の解答欄が空白であるような答案は、たった1枚しかなかったということが報告され、やはりその1名には気の毒であったかもしれないが、統計上問題はなかった、という説明が行われた。

しかしこれも前項と同様の問題を孕んでいる。たとえ1枚であったとしても、ある回答を誤答であると分類して、正答と区別してしまったのである。統計処理以前に、何を正答とし何を誤答とするかを区別し、そのことを公表する以上、その処置は適切な説明が不可欠である。日本数学会が何を重要な特徴とみなすかを表明してしまっていると受け取られてしまうのである。統計上問題がないこととはまったく別の問題であることを認識するべきである。どうしてそのような回答でも正答にしますといえないのだろうか。統計的議論に関する自信に固執するあまり、何を正答とし何を誤答とするかの判断がゆるいものになってしまっていることが問題なのである。

「重要な性質」という価値観を問うことには内部でも異論があったようだ。それについて、報告書抜粋では、

他の専門分野と同様に、「何が重要な特徴であるか」を判断し抽出することは数学においても不可欠である。この観点において、論理的に正しいことは価値をもつための必要条件であるが十分条件ではない。若い世代に数学を伝える(教える)にあたっては、価値観も含めた数学の知恵を伝えることも必要であろう。

と述べている。しかし、そもそも何に価値があるかは、それを何に用いるかによって大きく異なることがありうる。例えば、放物線の特徴として、通過点を3つ答えることは、3つの異なる観点を挙げているとは言えないが、放物線を唯一つに決めるという意味で重要である。また補間法の観点でも基本的なアイデアであるといえるだろう。他方でそれは放物線の概形を把握するために適切であるとは限らない。通過する3点を与えても放物線の頂点を求めるには多少の計算を要する。何が知りたいかによって何を重要と考えるかは変化しうる。にもかかわらず、
「上に凸か下に凸か」「軸と頂点」「x軸との交点の有無や交点の個数・座標」「y軸との交点」「導関数を求めて最大値や最小値を調べる」「焦点と準線」といった観点から「適切に3つの観点を選び、数学的に正しいことを述べているものを典型的な正答例とする」と言い切ってしまうことが問題なのである。
これは実際にどのような答案が現れどのように統計処理をされたかということとはまったく別の問題である。様々な価値観があり、様々な局面で何が重要かということが変わるのだ、たとえ数学においてさえ変わるのだ、ということに何も触れずに、3つという制約をかけて重要な特徴を挙げさせること、そしてその「典型的な正答例」を限定することに問題があるのである。実際にどのような答案があったのかということとは全く別だ。何かを典型的な正答例として掲げ、それ以外の説明を加えなければ、それ以外の観点は誤りであると考えているのだと判断するしかない。実際の答案に限定せず、複数の視点をあげその視点からの「重要性」についてついて説明し、そのどれでも正答にするのだということをどうして表明できないのであろうか。そう表明することは、今回の調査の統計的妥当性を決して損なわないし、日本数学会が「重要な特徴」ということを柔軟に判断する用意があることを明確にするものであるのに。

そして私はやはり「文章で」という設問の記述に疑問を感じるのである。報告書抜粋では、「二次関数に関して、重要だと大学新入生が受け止めている観点を文章として記述するように求めることで、数学の価値観が伝わっているかどうか、さらに伝わっていないとすると何が原因かを探る重要な手がかりとなると考え、このような設問形態をとった。」とある。しかし、もともとそれほど数学の知見が充実しているとは考えにくい大学新入生である。「概形を描け」ならば満足に回答できた学生でも「文章で」といわれると、主観的な書き方しかできなかった可能性は決して低くないと私は思う。報告書概要版や報告書抜粋が「重篤な誤答」や「深刻な誤答」と判定した答案を書いた学生でも、「この放物線の概形を描け」ならばそれなりの図が描けたかもしれないのだ。「文章で」という制約が、主観的な記述や誤った記述をかえって誘導してしまった可能性を私は完全に捨て去ることはできないのである。これは問2-1の「理由を説明してください」でも同じことで、そうしたゆるい設問の記述が、かえって数式による説明から遠ざけてしまった可能性もありえると考える。
 そして結果的に主観的な記述や曖昧な記述や厳密でない記述や誤った記述をしてしまった答案を前にして、これは「重篤な誤答」だとか「深刻な誤答」だとか、「数学の価値観が伝わっていない」と述べることに意義を見出せないのである。

(5) 国語が得意かどうかと今回の調査の出来に負の相関があることについて。

シンポジウムの中で、今回の調査結果と国語が得意かどうかということのあいだに負の相関があることがわかったと報告され、報告者の新井紀子氏や会場からの2件の質疑の中で話題となっていた。「数学力は国語力」という標語的言い回しはともかく、「数学力」のある程度大きな部分に「国語力」が含まれていると感じている人たちからすれば、この負の相関は信じられないことのようだ。新井氏もなんとかその理由を説明しようと苦心しているようで、「論説文の比率が少ないのではないか」などの意見を述べていた。

しかし、何が不思議だというのだろう。このことが意味していることはごく単純なことではないのだろうか。つまり、いわゆる「国語」という科目で求められている「論理的読解」と今回の調査で求められている「論理的議論」との間に乖離があるということだ。少し飛躍すれば、「国語」という科目と「算数・数学」という科目では、求められている「論理的議論」の質に違いがあるということなのではなかろうか。

例えば、論説文の読解において、Aという一般的な主張をする場合、その根拠として2つの例B,Cを挙げて済ませるということはきわめてありふれた議論である。あるいは、Aという一般的主張の根拠を、多くの人々の経験に求めることさえあるだろう。しかし、「偶数と奇数の和が常に奇数になること」の証明はそういうわけにはいかないし、また今回の調査でもそうした「例示のみ」による「説明」は「重篤な誤答」あるいは「深刻な誤答」と判定されているのである。少し荒っぽいがこうした点は今回の調査結果と「国語が得意かどうか」に負の相関が現われうるひとつの根拠だと考える。こうした表層的な観点で見ても、「国語」という科目と「数学・算数」という科目では、要求されている「論理」に質的違いがあることはすぐにわかる。むしろ共通のものさしではかれるということの方が、非自明な主張なのではないか。

数学力の中に国語力が含まれるというのは、例えば因果関係を示す接続詞の使い方とか、それらを用いて、(数式だけを書く答案ではなく)日本語を含んだ形で答案を書くということ、そういう言語能力のことをさしているのであろう。それは、「論理的思考力」とはまた少し違った側面であると私は考える。


(6) ゆとり教育に関すること
新井氏に限らず、今回の報告の中で、今回の調査は、大学生の出来を嘲笑したいわけでもないし大学生の90%が今回の5題すべてを正答するべきだというようなことを主張したいわけではないのだということが何度か繰り返された。新井氏は、「結局ゆとり世代の学生が馬鹿だということを言いたかっただけでしょう」と批判されることに心を痛めていると述べ、今回の調査結果を良い教育に結び付けていくことが大切だと述べていた。

しかし私は、このような議論には2つの意味で重大な問題があると考える。

第一に、既に提言や報告書概要版の形で、大学生の能力について、言及してしまったのである。「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」とか「論理を正確に解釈する能力に問題がある」とか「論理を整理された形で記述する力が不足しています」とかそういう表現を投げつけてしまったのである。そういう表現をしてしまったのに、「大学生の出来を嘲笑したいわけではない」と言ってみても、それはかなりむなしく響くのではないだろうか。しかも、出題した設問には、調査側の独特な価値観がかなり反映されていると見られるものなのである。確かに、設問の作り方、表現の仕方、あるいは調査結果の分析の仕方、その表現の仕方に関して、調査した側にそれなりの意図があったことは事実だろう。しかし、それを十分に説明することを怠ったり、あまりにも断定的過ぎたりしたことは明らかだ。またそうしたことは、少しでも報告書概要版を見れば容易に到達しうる意見であると私は思う。そうした拙さについて何も反省することなく、「嘲笑することが目的なのではありません。よい教育を作ることを前向きに考えることが目的です。」などということ自体、自らの失敗を糊塗しようとするだけの言い訳にしか見えない。

第二に、「ゆとり教育」との関係については、既に報道とのギャップを指摘した。報道側そしてその受け手側は、「ゆとり=学力低下」と報道しがちであり、またその構図は非常に理解しやすいために受け入れられやすいということは、容易に想像しうるはずだ。もし、調査側が、本当に「ゆとり教育世代」と今回の調査結果の関係について、何も言及したくないという心積もりなら、そのことは頻繁に注意しなければならないはずだ。そうしなければ、安易なステレオタイプに報道や受け手が流されてしまうことは到底避けられない。記者会見でも、提言でも、報告書概要版でも、報告書抜粋でも、われわれは「ゆとり教育世代」であるということが学力低下の原因であると断定したいわけでもないし、「ゆとり教育世代」の大学生の学力を酷評することを目的にしているのでもないと再三にわたって表明するべきだ。その努力を怠っておいて、「嘲笑することが目的なのではありません。よい教育を作ることを前向きに考えることが目的です。」などということ自体、独りよがりな言い訳としか見えないのである。

(7) 報告書に関すること
  今回配布された報告書抜粋と報告書概要版とを比較してみると、今回の調査に関して、問題の作成から結果の分析まで、極めて少数の人間だけで作成&分析されているのではないかという疑念を抱く。「重篤な誤答」と「深刻な誤答」の違いや「論理的コミュニケーションの前提が崩壊した誤答」と「論理的な説明の全体に立っていない答案」などの書きぶりを見ると、報告書概要版公開後に調査側にいくつかの意見が寄せられた結果書きぶりを少し修正したのではないかという懸念が生じる。しかしそのような観点は複数のレフェリーがチェックすれば誰かしら指摘するはずの点であり、そうした第三者的な人物が回覧する機会なしに報告書概要版が公開されたのではないかという疑念である。あるいは、報告書概要版は報道側への受けを狙っていささか過激な表現にしてみたとでも言うのであろうか。

  いずれにせよ、報告書本体が未公表の段階で「概要版」が先行して公開され、しかもその後に公表された「報告書抜粋」とは随分書きぶりが異なるというのは問題だ。もはやそれでは「概要版」ではなくなってしまう。今回の調査作成やその分析には、「数学こそが論理的に考える教育を施す場であり、論理的に考えることは全ての人々にとって直接的に役立つはずだ。」という考え方が強く反映され、「論理的に考えられない大学生の答案」を不当に嘲笑しているかのごとき表現が随所に見られる。それは十分に多くの人が公開前に検討した内容であるとは、私には思いにくいものであった。報告書本体では、もう少し丁寧な分析や自己批判、第三者による原稿のチェックがあってしかるべきであると私は考える。





(この記事は公開後も加筆する可能性がある。)

*1:この資料は無断転載不可とのことなので、ここで詳細に引用することは避け、適宜言及するにとどめる。もし関係者の方で、この記事で行ったような引用も不可であると考えられる場合には、その旨コメントいただきたい。

日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その6)─まとめ─

(その2)から(その5)にわたって、日本数学会が行った「大学生数学基本調査」とその結果分析に関する疑問点を述べ批判を書いてきた。全体を通してまとめておきたい。


 私は今回の調査を行ったことそれ自体は評価している。その労に敬意を表したい。というのは、「大学教員の体感」のような主観的印象に基づいた議論よりも、データに基づいた議論の方がより効果的だと考えるからである。


 しかし、今回の調査内容や結果分析には問題点が多いと考える。それを一言で言い表すなら、「もっと謙虚になって欲しい」ということである。端的に3点指摘したい。


1. 調査に使われた問題の内容と正答例に問題がある。
第一に、作図に関する問3の正答例には、「平行な直線の引き方の説明」に不足箇所があり十全なものとはいえない。
第二に、問1-1,1-2では正誤判定の根拠を求めるべきだった。定義から導くことや適切な反例を掲げることを通してでしか概念の理解を確かめることはできないからである。
第三に、問2-1,2-2の設問の仕方に問題があった。「理由を説明してください」と書かれたら「証明」や「論証」を書かなければならないとか、「重要な特徴を文章で3つ」と聞かれたら数量的な操作の意味が理解されているかどうかが判定できると考えるのには無理がある。


2. 結果の分析にいささか独善的に過ぎる表現が用いられている。
第一に、「重篤な誤答」、「採点者がかなり想像力を働かせても、回答者が何を意図しているのかを理解が困難な、論理的コミュニケーションの前提が崩壊している回答」などといった言葉遣いは不適切であり、また具体的な回答例の中にはそのように断定するのは酷すぎるものがある。
第二に、「論理を正確に解釈する」「論理を整理された形で記述する」「論理の通った文章」「基本的論証力」「知識を総合する力」「論理的コミュニケーション」「『できる』と『わかる』の乖離」といった表現は非常に抽象的でどのような内容をさしているのかがはっきりしない。また個々の設問とどう関係しているかも明確ではない。にも関わらず今回の調査の結果からこうした観点に問題があると断定するのは行き過ぎである。


3. ゆとり教育世代」との関係について報道や発言の間に重大な齟齬がある。
ゆとり教育世代」に属さないグループに同様の調査を実施するなどの対照群を設定していない以上、この調査だけで「ゆとり教育世代」と「大学生の学力低下」を結びつけることはできない。にも関わらず理事長の発言や報道側には、「ゆとり教育世代」と「大学生の学力低下」を結びつけるかのようなものが見られた。他方で新井紀子氏は、今回の調査における企画側の誰も「ゆとり」が原因にあるとは思っていないとの趣旨の発言をしている。こうした「ゆとり」との関係について、調査側の発言に齟齬がある。日本数学会が「ゆとり教育世代」と今回の調査結果についてどう考えているのかは、明示的な形で表明しておくべきである。