日本数学会による大学生数学基本調査への疑問(その7)─報告会に参加して─

日本数学会教育委員会主催のシンポジウム「第1回大学生数学基本調査の報告」に参加してきた。報告書の抜粋が資料として配布された*1

私は今回配布された報告書の抜粋やシンポジウムでの各氏の発言などについて、強い違和感を覚えているし、また少なからず憤っている。あえて過激に言えば、今回の調査で調査側に至らぬ点があったこと、まずい表現や記述があったということをどうしても認めたくない、そのための「言い訳」をしているように見えた。「結果的にスクリーニングできた。」とか「統計的には問題がなかった。」といった発言が複数あった。しかし、ある調査をして、その設問の正答と誤答とを区別する以上、その根拠が明白になるように設問を工夫し、また適切な説明を与えることは決定的に重要であり、また日本数学会という組織がそうした調査をする以上、単なる結果論だけではなく設計・結果・分析など調査全体あらゆる部分が問題になることは明らかである。そのことへの認識が低いことが、非常に不愉快だった。まずかったところはまずかったと率直に認めないと、調査そのものの意義が失われかねないと考える。私はいま、丁寧にまとめるだけの冷静さを失っているので、ひとまず疑問点や批判点を思いつくままに箇条書きにしてみたいと思う。

(1) 「重篤な誤答」という表現が「深刻な誤答」という表現に変化した。
ただし、「深刻な誤答」の多くは「論理的に説明するための前提に立っていない答案」とされているが、問2-1ではひとつ例外がある。問2-1が最も顕著な例となっているので、これを取り上げてみたい。

問2-1に関して、誤答群C中で「深刻な誤答」に分類されたものは、

[C-2](具体例を示して証明終了としている答案)
[C-5](論理的に説明するための前提に立っていない答案)
である。[C-2]では次のような補足説明がある。
「定義に基づく演繹的な議論により現象を説明できることが数学の良さであるとの観点から、この群の答案も深刻な誤答とした。なお、具体例の個数が極度に少ない答案はC-5群に含めた。」
[C-5]には次のような説明がある。
「極度に説明不足の答案や、論理的に大きな誤りがある答案など。時間切れで中途半端になった答案を含む。」
C-5には次の5つの具体例が掲げられている。
例1:1+2=3だから。
例2:偶数と奇数が「偶数、奇数、偶数、奇数、偶数、奇数、・・・」と交互に並んでいるから。
例3:偶数を奇数にするためには偶数を足しても駄目だが、奇数を足せばよい
例4:偶数同士を足すか奇数同士を足さない限り、整数の和は偶数にはならない。したがって、偶数と奇数の和は奇数である。
例5:学校で習ったのだから「偶数+奇数=奇数」が間違っているはずがない。

他方、例えば
「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数」
「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」
という答案は、C-4群(論理的な誤りはないが何を証明すべきかが理解できていない答案や、厳密な証明ではなく大雑把な説明になっている答案)に分類され、「深刻な誤答」からは外されているようである。


しかし、報告書概要版p.3-4の記述をよく思い出してみるべきである。報告書概要版は次のように述べていたのであった。

重篤な誤答には、1.いくつかの例を示すことで論証したと考えるタイプ、2.奇数や偶数の定義が間違っているタイプ、3.トートロジーを繰り返す、4.あいまいな言説への逃避や無関係な事柄からの類推、などがある。以下が実際の答案の例。
「2+1=3、4+1=5だから」(タイプ1)
「思いつく奇数と偶数を足してみたらすべて奇数になったから」(タイプ1)
「偶数を2x、奇数を1とおくと、その和は2x+1」(タイプ2)
「割り切れないから」(タイプ3)
「奇数は奇数をたさないと偶数にはならないから。」(タイプ3)
「偶数は2で割り切れて、奇数は2で割ると1余るということから」(タイプ3)
「どんなに数が大きくなろうとも、1の位は同じ循環をし続けるから」(タイプ4)
「偶数をたすことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数をたすと、いつも必ず奇数になるから」(タイプ3,4)
「三角と三角を足したら四角になるのと同じで、四角と三角では四角にならないから」(タイプ4)

そして報告書概要版p.5で「重篤な誤答」を「採点者がかなり想像力を働かせても、回答者が何を意図しているかを理解が困難な、論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」と定義していたのである。
明らかに概要版の書き方と報告書抜粋の書き方には相当に決定的な違いがある。そうした点も含めてたくさんの問題点があると考える。これらについて十分な説明がなかったし、またする意思があるのかどうかも不明であった。

  • 具体例を挙げただけで証明終了としている答案を「重篤な誤答」=「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」と断定したことは撤回するのか不明であること。
  • 例えば「割り切れないから」、「偶数をたすことは和の偶奇に影響を与えないため、奇数に偶数を足すと、いつも必ず奇数になるから。」といった実際の答案の例が、報告書抜粋では取り上げられていない。これらの答案は誤答群Cの中にどれに分類されたのか全く不明である。
  • 「偶数は2で割り切れて、奇数は2で割ると1余るということから」を「トートロジーを繰り返す」と断定していたにも関わらず、「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」という答案を「論理的な誤りはないが何を証明すべきかが理解できていない答案や、厳密な証明ではなく大雑把な説明になっている答案」と分類することには雲泥の差がある。
  • 「偶数+奇数=偶数+(偶数+1)=(偶数+偶数)+1=偶数+1=奇数」「偶数を2で割ると余りが0で、奇数を2で割ると余りが1である。したがって、偶数と奇数の和を2で割ると余りが1である。つまり、偶数と奇数の和は奇数である。」という2つの答案例と「例3:偶数を奇数にするためには偶数を足しても駄目だが、奇数を足せばよい」「例4:偶数同士を足すか奇数同士を足さない限り、整数の和は偶数にはならない。したがって、偶数と奇数の和は奇数である。」という2つの答案例を明確に区別する根拠が不明瞭であること。後者は深刻な誤答に分類され、前者は典型的な誤答に分類することに不自然さを感じる。
  • 「論理的に説明するための前提に立っていない」という表現の意味が不明瞭であること。例えば、「時間切れで中途半端になった答案」がなぜ「前提に立っていない」とされるのだろうか。

重篤な誤答」=「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」という表現を「深刻な誤答」「論理的説明の前提に立っていない答案」とややマイルドにしたつもりなのだろうか。しかしいくら表現を変えてみたところで、調査側の真意に変化がないのだとしたら意味がない。覆水盆に返らずである。既に報告書概要版で、様々な答案を「重篤な誤答」=「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」と断定してしまったのである。もしそうした評価をしてしまったことを反省するなら、まずそのことを説明しなければならないはずだ。

(2) 問3の正答例について。
 シンポジウムでは、問3の解答例中で「平行な線分を定規とコンパスで作図すること」に対する説明が不足している点について説明があった。
実際、この説明を正答例に含めるべきであるという意見も相当あったようだ。しかし、そこまで入れてしまうとおそらく10分では難しいのではないかという意見や、これは中学校の教科書に基づいた正答例で、中学校の教科書では、平行な線分を作図することはすでに扱っており、それは前提とした上で「線分の三等分を作図すること」を問うているのだという。
 率直に言って私にはこの説明は意味不明であるとしか言いようがなく、一回聞いただけでは何を言っているのか理解することができなかった。何を正答と判断するかということと何が模範解答の例であるかを区別することは「きほんのき」であると私は考えている。つまりこの説明は、「正答例」というこの例は、ここまでかけていればOKであるということであって、完全な模範解答ではないということなのだろうか。そういう説明をする調査側が、報告書概要版p.6で「作図方法を過不足なく表現した回答はきわめて稀であった。」などと論評を加えることが信じがたい。このような調査で「正答例」と書けば、それは「模範解答」であると受け取られるのが当然であると私は考える。
 しかも中学生の教科書は一連の流れの中で「線分の三等分点の作図」を掲げているのに対し、今回は単体の問題として「線分の三等分点の作図」を出題しているのである。その正答例が教科書に書かれているものと同じでよい、「平行な直線の作図」はそれ以前の単元で学習しているから明示的に記述しなくてもよいという理屈が私には理解できない。単体の問題である以上、それだけで模範解答と呼べるものを提示するのが当然ではないだろうか。
 また、問2-1では、「m+nが整数だから」という根拠を明示ししていないものや冒頭の書き出しを「m,nを整数とすると、2mは偶数、2n+1は奇数になる」と始めた答案をいずれも「準正答」に分類して「正答」とは区別している。シンポジウムでも、そのあたりを譲ってしまうと「日本数学会もいいと言っている」ということになってしまうので、準正答と区別したというような趣旨の説明があった。これでは問2-1で求める厳密さと問3の正答例に関する説明と整合的ではなくなってしまっている。
 模範解答例を示し、「○○の部分は十分に説明できていなくても正答にします。」とだけ注釈を入れれば済む話なのである。どうしてそのようにしなかったのかわからないが、調査側の正答例を書くということに対する稚拙さ/意識の低さを感じた。それを意味不明な言い訳で取り繕っているとさえ感じられてしまう。

 実は別の箇所にも「正答例」と「模範解答」の区別がはっきりしていないことを示唆する箇所がある。報告書概要版p.1の下から6行目に

「調査票本体および模範解答は別紙として添付」

とある。この「模範解答」と「正答例」はどう違うのだろうか。「模範解答」というのは一点の曇りもない完全に満点の解答であるべきだ。正答例は、これでも満点を出しますよというレベルでも良い場合がありうる。それは私の考えだ。結局のところ、調査側は「模範解答」と「正答例」の区別に鈍感であったと言わざるを得ない。

(3) 「誤答」と断定することと「統計的に問題ない」と強弁することの傲慢さ─問1-1の平均に関する問題について─

問1-1の平均に関する問題では、「100人の身長を測り、その平均を計算すると、163.5cmになりました。」という記述が正確に163.5cmという意味なのか、有効数字小数点以下1ケタでの数値なのかが不明だという意見があり、仮に有効数字小数点以下1ケタであると考えると、選択肢の2番「100人の生徒全員の身長を足すと、163.5cm×100=16350cmになる。」という記述が「確実に正しい」とは言えないのではないかという批判があった。

この批判に対して、シンポジウムでは次のような2つの観点からの説明があった。

  • ひとつはデータの面からの説明で、問1-1の3つの選択肢に対して×××を回答した答案は164名で全体の2.8%であり、理工系に限ると1.8%であった。もしこれらの答案が(2)の選択肢で「有効数字」に基づいた考え方をしたのだとしたら、その方たちには気の毒かもしれないが、統計上は問題ない。
  • もうひとつはカリキュラムの面からの説明で、この設問は大学で統計を教えている先生を対象としているものではなく、あくまで対象が大学生である。いまの大学生は、統計の考え方について高校までの間に十分に学んできているわけではないということをまず理解して欲しい。その点から考えると、この選択肢(2)を有効数字の考え方を使って誤りであると判定してしまうということは、今の大学生を対象として考える限りあまり現実的な問題点であるとは考えにくい。

というものである。

私はこの説明に全く理がないとは思わないが、少なからぬ問題を孕んでいると思う。
第一に、今回の調査は、単に統計的処理をするというだけではなく、何が正答で何が誤答かをはっきりと選別してしまっているのである。選択肢(2)は○が正答であり、×は誤答だと判定してしまっている。×だと答えた人が気の毒だとか統計上問題ないという前に、×という答が間違っていると断定してしまったところに問題がある。有効数字に基づく考え方を「誤答」と断定したことは、高校までのカリキュラムに含まれているかどうかや対象が大学生かどうかに限らず、間違っていると考える。
第二に、3つとも×をつけた回答の数しかチェックしていないので、(2)の選択肢を吟味する上で、どれだけの人が実際に有効数字の考え方で議論したかは把握できない。これは根拠の記述を求めなかった設問の構成に問題があるのであり、そのことは「統計上問題ない」という議論で完全に払拭できる類のものではない。
第三に、カリキュラムといってもことは数学だけの問題ではない。理工系ならば、有効数字の考え方はすでに理科のカリキュラムの中でかなり扱われているのである。(高校)数学では「平均は163.5cm」と書かれたら「丁度163.5cm」の意味であり、(高校)理科では、小数点以下1ケタの有効数字を意味するという使い分けがなされており、その意味では、「平均は163.5cm」という記述でさえ、ある種のテクニカルタームなのである。そういうことを無視して、相手は大学生なのだから高校数学のカリキュラムだけ考えればよいという反論では不十分であろう。

(4) 「誤答」と断定することと「統計的に問題ない」と強弁することの傲慢さ─問2-2の放物線の重要な性質について─

与えられた放物線の重要な特徴を3つ文章で答えさせる問2-2においても、「重要な」という価値観を問う出題であることや「3つ」という制約について批判があったようだ。

今回のシンポジウムでは、例えば、放物線の重要な特徴として2つを挙げ、それによって唯一つに放物線を確定できるようなものであって、しかも第3の解答欄が空白であるような答案は、たった1枚しかなかったということが報告され、やはりその1名には気の毒であったかもしれないが、統計上問題はなかった、という説明が行われた。

しかしこれも前項と同様の問題を孕んでいる。たとえ1枚であったとしても、ある回答を誤答であると分類して、正答と区別してしまったのである。統計処理以前に、何を正答とし何を誤答とするかを区別し、そのことを公表する以上、その処置は適切な説明が不可欠である。日本数学会が何を重要な特徴とみなすかを表明してしまっていると受け取られてしまうのである。統計上問題がないこととはまったく別の問題であることを認識するべきである。どうしてそのような回答でも正答にしますといえないのだろうか。統計的議論に関する自信に固執するあまり、何を正答とし何を誤答とするかの判断がゆるいものになってしまっていることが問題なのである。

「重要な性質」という価値観を問うことには内部でも異論があったようだ。それについて、報告書抜粋では、

他の専門分野と同様に、「何が重要な特徴であるか」を判断し抽出することは数学においても不可欠である。この観点において、論理的に正しいことは価値をもつための必要条件であるが十分条件ではない。若い世代に数学を伝える(教える)にあたっては、価値観も含めた数学の知恵を伝えることも必要であろう。

と述べている。しかし、そもそも何に価値があるかは、それを何に用いるかによって大きく異なることがありうる。例えば、放物線の特徴として、通過点を3つ答えることは、3つの異なる観点を挙げているとは言えないが、放物線を唯一つに決めるという意味で重要である。また補間法の観点でも基本的なアイデアであるといえるだろう。他方でそれは放物線の概形を把握するために適切であるとは限らない。通過する3点を与えても放物線の頂点を求めるには多少の計算を要する。何が知りたいかによって何を重要と考えるかは変化しうる。にもかかわらず、
「上に凸か下に凸か」「軸と頂点」「x軸との交点の有無や交点の個数・座標」「y軸との交点」「導関数を求めて最大値や最小値を調べる」「焦点と準線」といった観点から「適切に3つの観点を選び、数学的に正しいことを述べているものを典型的な正答例とする」と言い切ってしまうことが問題なのである。
これは実際にどのような答案が現れどのように統計処理をされたかということとはまったく別の問題である。様々な価値観があり、様々な局面で何が重要かということが変わるのだ、たとえ数学においてさえ変わるのだ、ということに何も触れずに、3つという制約をかけて重要な特徴を挙げさせること、そしてその「典型的な正答例」を限定することに問題があるのである。実際にどのような答案があったのかということとは全く別だ。何かを典型的な正答例として掲げ、それ以外の説明を加えなければ、それ以外の観点は誤りであると考えているのだと判断するしかない。実際の答案に限定せず、複数の視点をあげその視点からの「重要性」についてついて説明し、そのどれでも正答にするのだということをどうして表明できないのであろうか。そう表明することは、今回の調査の統計的妥当性を決して損なわないし、日本数学会が「重要な特徴」ということを柔軟に判断する用意があることを明確にするものであるのに。

そして私はやはり「文章で」という設問の記述に疑問を感じるのである。報告書抜粋では、「二次関数に関して、重要だと大学新入生が受け止めている観点を文章として記述するように求めることで、数学の価値観が伝わっているかどうか、さらに伝わっていないとすると何が原因かを探る重要な手がかりとなると考え、このような設問形態をとった。」とある。しかし、もともとそれほど数学の知見が充実しているとは考えにくい大学新入生である。「概形を描け」ならば満足に回答できた学生でも「文章で」といわれると、主観的な書き方しかできなかった可能性は決して低くないと私は思う。報告書概要版や報告書抜粋が「重篤な誤答」や「深刻な誤答」と判定した答案を書いた学生でも、「この放物線の概形を描け」ならばそれなりの図が描けたかもしれないのだ。「文章で」という制約が、主観的な記述や誤った記述をかえって誘導してしまった可能性を私は完全に捨て去ることはできないのである。これは問2-1の「理由を説明してください」でも同じことで、そうしたゆるい設問の記述が、かえって数式による説明から遠ざけてしまった可能性もありえると考える。
 そして結果的に主観的な記述や曖昧な記述や厳密でない記述や誤った記述をしてしまった答案を前にして、これは「重篤な誤答」だとか「深刻な誤答」だとか、「数学の価値観が伝わっていない」と述べることに意義を見出せないのである。

(5) 国語が得意かどうかと今回の調査の出来に負の相関があることについて。

シンポジウムの中で、今回の調査結果と国語が得意かどうかということのあいだに負の相関があることがわかったと報告され、報告者の新井紀子氏や会場からの2件の質疑の中で話題となっていた。「数学力は国語力」という標語的言い回しはともかく、「数学力」のある程度大きな部分に「国語力」が含まれていると感じている人たちからすれば、この負の相関は信じられないことのようだ。新井氏もなんとかその理由を説明しようと苦心しているようで、「論説文の比率が少ないのではないか」などの意見を述べていた。

しかし、何が不思議だというのだろう。このことが意味していることはごく単純なことではないのだろうか。つまり、いわゆる「国語」という科目で求められている「論理的読解」と今回の調査で求められている「論理的議論」との間に乖離があるということだ。少し飛躍すれば、「国語」という科目と「算数・数学」という科目では、求められている「論理的議論」の質に違いがあるということなのではなかろうか。

例えば、論説文の読解において、Aという一般的な主張をする場合、その根拠として2つの例B,Cを挙げて済ませるということはきわめてありふれた議論である。あるいは、Aという一般的主張の根拠を、多くの人々の経験に求めることさえあるだろう。しかし、「偶数と奇数の和が常に奇数になること」の証明はそういうわけにはいかないし、また今回の調査でもそうした「例示のみ」による「説明」は「重篤な誤答」あるいは「深刻な誤答」と判定されているのである。少し荒っぽいがこうした点は今回の調査結果と「国語が得意かどうか」に負の相関が現われうるひとつの根拠だと考える。こうした表層的な観点で見ても、「国語」という科目と「数学・算数」という科目では、要求されている「論理」に質的違いがあることはすぐにわかる。むしろ共通のものさしではかれるということの方が、非自明な主張なのではないか。

数学力の中に国語力が含まれるというのは、例えば因果関係を示す接続詞の使い方とか、それらを用いて、(数式だけを書く答案ではなく)日本語を含んだ形で答案を書くということ、そういう言語能力のことをさしているのであろう。それは、「論理的思考力」とはまた少し違った側面であると私は考える。


(6) ゆとり教育に関すること
新井氏に限らず、今回の報告の中で、今回の調査は、大学生の出来を嘲笑したいわけでもないし大学生の90%が今回の5題すべてを正答するべきだというようなことを主張したいわけではないのだということが何度か繰り返された。新井氏は、「結局ゆとり世代の学生が馬鹿だということを言いたかっただけでしょう」と批判されることに心を痛めていると述べ、今回の調査結果を良い教育に結び付けていくことが大切だと述べていた。

しかし私は、このような議論には2つの意味で重大な問題があると考える。

第一に、既に提言や報告書概要版の形で、大学生の能力について、言及してしまったのである。「論理的コミュニケーションの前提が崩壊している誤答」とか「論理を正確に解釈する能力に問題がある」とか「論理を整理された形で記述する力が不足しています」とかそういう表現を投げつけてしまったのである。そういう表現をしてしまったのに、「大学生の出来を嘲笑したいわけではない」と言ってみても、それはかなりむなしく響くのではないだろうか。しかも、出題した設問には、調査側の独特な価値観がかなり反映されていると見られるものなのである。確かに、設問の作り方、表現の仕方、あるいは調査結果の分析の仕方、その表現の仕方に関して、調査した側にそれなりの意図があったことは事実だろう。しかし、それを十分に説明することを怠ったり、あまりにも断定的過ぎたりしたことは明らかだ。またそうしたことは、少しでも報告書概要版を見れば容易に到達しうる意見であると私は思う。そうした拙さについて何も反省することなく、「嘲笑することが目的なのではありません。よい教育を作ることを前向きに考えることが目的です。」などということ自体、自らの失敗を糊塗しようとするだけの言い訳にしか見えない。

第二に、「ゆとり教育」との関係については、既に報道とのギャップを指摘した。報道側そしてその受け手側は、「ゆとり=学力低下」と報道しがちであり、またその構図は非常に理解しやすいために受け入れられやすいということは、容易に想像しうるはずだ。もし、調査側が、本当に「ゆとり教育世代」と今回の調査結果の関係について、何も言及したくないという心積もりなら、そのことは頻繁に注意しなければならないはずだ。そうしなければ、安易なステレオタイプに報道や受け手が流されてしまうことは到底避けられない。記者会見でも、提言でも、報告書概要版でも、報告書抜粋でも、われわれは「ゆとり教育世代」であるということが学力低下の原因であると断定したいわけでもないし、「ゆとり教育世代」の大学生の学力を酷評することを目的にしているのでもないと再三にわたって表明するべきだ。その努力を怠っておいて、「嘲笑することが目的なのではありません。よい教育を作ることを前向きに考えることが目的です。」などということ自体、独りよがりな言い訳としか見えないのである。

(7) 報告書に関すること
  今回配布された報告書抜粋と報告書概要版とを比較してみると、今回の調査に関して、問題の作成から結果の分析まで、極めて少数の人間だけで作成&分析されているのではないかという疑念を抱く。「重篤な誤答」と「深刻な誤答」の違いや「論理的コミュニケーションの前提が崩壊した誤答」と「論理的な説明の全体に立っていない答案」などの書きぶりを見ると、報告書概要版公開後に調査側にいくつかの意見が寄せられた結果書きぶりを少し修正したのではないかという懸念が生じる。しかしそのような観点は複数のレフェリーがチェックすれば誰かしら指摘するはずの点であり、そうした第三者的な人物が回覧する機会なしに報告書概要版が公開されたのではないかという疑念である。あるいは、報告書概要版は報道側への受けを狙っていささか過激な表現にしてみたとでも言うのであろうか。

  いずれにせよ、報告書本体が未公表の段階で「概要版」が先行して公開され、しかもその後に公表された「報告書抜粋」とは随分書きぶりが異なるというのは問題だ。もはやそれでは「概要版」ではなくなってしまう。今回の調査作成やその分析には、「数学こそが論理的に考える教育を施す場であり、論理的に考えることは全ての人々にとって直接的に役立つはずだ。」という考え方が強く反映され、「論理的に考えられない大学生の答案」を不当に嘲笑しているかのごとき表現が随所に見られる。それは十分に多くの人が公開前に検討した内容であるとは、私には思いにくいものであった。報告書本体では、もう少し丁寧な分析や自己批判、第三者による原稿のチェックがあってしかるべきであると私は考える。





(この記事は公開後も加筆する可能性がある。)

*1:この資料は無断転載不可とのことなので、ここで詳細に引用することは避け、適宜言及するにとどめる。もし関係者の方で、この記事で行ったような引用も不可であると考えられる場合には、その旨コメントいただきたい。